セラさんが二冊の帳簿を開いた。
一冊は私の言葉。もう一冊は、身体と周囲が勝手に提出した事実。
同じ旅の記録なのに、厚さが違う。
本人説明のほうが薄い。簡潔に報告できていた証拠だと思う。
「全員へ開示する」
白丘療養院の病室。壁には昨日の共有札が七枚。窓際にティアさん、入口にレオン、机の向こうへロウさん、ノル、エマ医師。私は寝台。影は計測環の中へ座っている。
セラさんは私へ確認した。
「今までの公開範囲は、本人と医療者。一部を隊長。今回は全員」
『拒否できますか』
五十行の一行目。
「できる。ただし仮契約と命令違反について、隊が判断材料を失う」
『個人の医療情報です』
「医療情報を、任務可否を操作するため使った記録でもある」
『操作ではなく報告です』
「それを二冊で確認する」
拒否すれば、説明しないまま秘密契約を結んだ人になる。公開すれば、皆の仕事が半日止まる。どちらも損失だが、前者は今後の分灯式にも影響する。
『公開。白麦院以前の家族資料は除外』
「了解」
セラさんは条件を書き、二冊を並べた。
「症状隠し、十七件」
多い。
一件ずつは小さい。まとめて数えるから、帳簿が怖い顔になる。
「第一件。第3話。本人説明『三日寝れば戻る』。観察事実、三日目も体温低下、黒線残留、夜間覚醒」
レオンの手が膝で閉じる。
「第二件。第4話。本人説明『忙しい週と同じ』。観察事実、学校児童三名の影熱を無断で追加吸収」
ロウさんが日付を確認する。
「第三件。第7話。本人説明『札の誤作動』。観察事実、候補番号十九にのみ反応。白い値札を隠す」
「隠した?」
ノルが聞く。
『見せる必要が未確定でした』
「今の言葉を本人説明へ追記」
セラさんは止まらない。
「第四件。第10話。本人説明、帰還先は任務後決める。観察事実、緊急連絡先は店、本人帰還欄のみ空白」
レオンが視線を上げた。
「第五件。第11話。本人説明『味見係が増えて得』。観察事実、塩を倍量、濃度測定誤答」
ティアさんの薬瓶を持つ指が止まる。
「第六件。第12話。本人説明、眠れば夢泥は抜ける。観察事実、二日二十一時間後も幻聴」
「第七件。第13話。本人説明、危険手当を復旧配達費へ用途変更。観察事実、本人報酬ゼロ。入院費は修繕隊負担と誤認して借りへ計上」
「第八件。第15話。本人説明『手順通り』。観察事実、撤退命令違反、体温三十三度二分、影が水底へ三秒残留」
レオンの右腕の痣も、当時の記録へ残っている。私を止めたときについたものだ。
「第九件。第18話。本人説明、声の掠れは喋りすぎ。観察事実、両声帯へ夜晶」
「第十件。第19話。本人説明、一回だけなら患者七人を救える。観察事実、発声不能リスクを事前に医療者へ提示せず」
「提示したら止めた」
ティアさんが自分へ言うように呟く。
『患者七人の契約時刻に間に合いませんでした』
「十一件。第20話。本人説明『契約了解』。観察事実、『使わない』の文言後に胸痛増加。契約を治療ではなく役割停止と理解」
「第十二件。第21話。本人説明、王都面談後に帰還判断。観察事実、他五名の帰路のみ作成、本人の線は王都で終了」
「第十三件。第23話。本人説明、予定帳を配達メモに使用。観察事実、他者の一年後を記入し、本人欄だけ頁を飛ばす」
濃紺の帳面は赤い鞄にある。返却先はレオンと札へ書いた。
「第十四件。第26話。本人説明、声を失っても筆談をまねればよい。観察事実、セラの方法を喪失の即時代替として扱い、発声八回。夜晶定着」
セラさん自身の項目でも、声は同じだ。
「第十五件。第28話。本人説明、能力の由来は緊急対応へ影響しない。観察事実、強制導入映像後、脈拍百三十八、右手振戦、影分離」
「第十六件。第30話。本人説明、分灯式調査継続、朝の器は医療確認中。観察事実、同夜に秘密仮契約へ署名。帰還名簿から本人欄を削除」
部屋の空気が変わった。
帰還名簿の削除は、まだ全員には見せられていなかったらしい。ロウさんとレオンだけが知っている。
「第十七件。第31話から第34話。本人説明、影請けは意識的でない、自主対応、席取り。観察事実、北病棟七十八単位、第三鐘二千単位を吸収。黒線が心臓を半周。影完全分離」
十七。
セラさんは頁を閉じず、全員へ回した。
ノルが最初に受け取る。文字を追い、知らない単語で止まる。
「末梢壊死って」
「指先や足先に血が届かず、組織が死ぬこと」
ティアさんが答える。
「ミナになった?」
「今は右手の感覚低下。白い部分が広がれば可能性がある」
ノルは私の右手を見る。昨日、工具の全用途を教えた手だ。
「だから全部教えた?」
『使えるうちに伝えるのは普通です』
「普通かどうかを聞いてない」
『感覚が戻れば、また使います』
「戻らなかったら、僕が使う?」
頷く。
ノルは帳簿を閉じかけ、セラさんに止められた。
「最後まで読んで」
「読みたくない」
「拒否はできる」
「ミナは公開した」
「だから、あなたにも読む義務が生じるわけではない」
ノルは迷い、結局また開いた。拒否できると知ってから続ける。第三鐘の帽子の男性と同じだ。
ティアさんは医療項目だけを抜き出し、別の紙へ並べた。
味覚誤答、幻聴、低体温、声帯夜晶、黒線、導入路、右手感覚。薬と検査の横に、報告された時刻も書く。
「症状発生から報告まで。最短〇分、最長二日二十一時間」
『睡眠中でした』
「起きたあと三時間黙ってた」
『配達の引継ぎが』
「理由を一つ言うたび、誰かが助かった話になる」
『実際に助かっています』
「それを否定したら、私は患者を見捨てる薬師になる。だから止められなかった」
ティアさんは紙を押さえる指に力を入れる。薬瓶なら割らないよう整え直すところだが、紙は割れない。
「私が助けられた事実を、あなたが自分を使う許可証にしないで」
許可を出したのは治療契約で、患者の救助ではない。指摘しようとして、今は言葉の意味ではなく届き方を話していると気づく。
『今後は事前報告します』
「今後の手順へ逃げないで」
では過去へ戻るのか。戻れない。手順を変える以外に、改善方法はない。
ロウさんは帳簿の任務欄を読んだ。
「俺の命令違反は五件」
「記録上は」
セラさんが答える。
「見逃したのは」
「判断不能を含め十二件」
「隊長失格だな」
『違います』
すぐ書く。
『現場判断で第二鐘、患者七人、第三鐘参加者を救出。命令系統は機能しています』
ロウさんは私の板を見る。
「お前が命令を破って結果を出すたび、俺は止める権限を失った」
『結果が正しいなら』
「結果だけで命令を評価するな」
昨日も言われた。結果的に助かった、で白麦院の告白を閉じたとき。
「俺がお前を工具箱へ入れたことも、結果だけなら正しい。だから次も命令で運べばよいと思い始めた」
『危険から外す命令です』
「お前には、役割から外す命令になった」
『理解の違いは修正できます』
「修正した結果が、秘密の札か」
返す文がない。
エマ医師は二冊目の処置記録を見ていた。鐘守庁職員として閲覧権はあるが、白麦院の項目で何度も手を止める。
「医療者の署名が十二人あります。今も在職は四人」
「告発できる?」
ティアさん。
「記録原本と本人証言があれば。本人が証言を拒否しても、映像と処置痕で進められます」
私の言葉を使わなくても、告発できる。
よいことのはずだ。証言の負担が減る。
『私の出席不要なら資料使用に同意します』
エマ医師は返事をせず、私の板と処置痕の図を並べた。
「不要とは言っていません。選べるよう、ほかの証拠をそろえる」
『効率は書面のみです』
「あなたが効率を選ぶ前に、両方の費用を出します」
ダル医師と似た方法。選択肢を増やす人は、決めるまでの時間も増やす。
レオンは帳簿を最後に受け取った。
最初から読まず、頁の端へついた小さな印を探す。彼自身がいた場面だけにつけられた青点。
十七件中、十三。
「見ていた」
前にも聞いた言葉。
「十三回、近くにいた」
『見つけたから記録にあります』
「見つけたあと、説明を信じた」
『信頼してくれました』
「信頼じゃない。楽なほうを選んだ」
レオンは頁を閉じる。強くではなく、間へ指を挟み、紙を傷めないようゆっくり。
「お前が笑って、理由を出した。俺は怒るより、その理由を使ったほうが動けた」
『必要な場面でした』
「俺に必要だった。お前には違った」
彼が助けられた場面を、私を追い詰めた証拠へ変えている。帳簿は過去の意味まで書き換えるらしい。
それは不公平だ。
あのとき動かなければ、本当に困る人がいた。レオンが私の説明を採用したから、避難も修理も間に合った。
『判断は正しかったです』
「また結果か」
『ほかに評価基準がありません』
「ある」
レオンは答えなかった。私が無事だったか、と言いたいのだろう。でも、その基準を入れると成功した仕事の多くが不合格になる。
不合格の人を、いつまで席へ置くのか。
胸の契約印が熱くなった。
机に並べると多いが、旅は二十日。平均すれば一日一件未満だ。飲食店の伝票ミスより少ない。
『報告済みの事実も含まれます』
「事後報告、問いへの限定回答、別の意味で理解した契約を含む」
『嘘と断定できるのは』
セラさんは頁をめくる。
「直接の虚偽は三件。意図的省略が七。質問の範囲だけへ切った回答が四。本人が本当に軽いと評価していたものが三」
分類までされている。
『最後の三件は隠し事ではありません』
「本人がそう信じていたことと、周囲が判断材料を失ったことを分けて記録」
『では私の説明は何に使いますか』
十二行目。
セラさんの手が止まった。
『観察事実を優先し、本人説明を疑うなら、会話する意味がありません』
書き終えたあと、石筆の先が折れた。右手に感覚がないので、力をかけすぎたらしい。
ノルが替えの石筆を出そうとする。途中で止め、箱へ戻した。昨日、必要でなくても断ると言ったからかもしれない。
「疑うために分けたんじゃない」
セラさんが言う。
『結果として、私の言葉より測定器を採用しました』
「第三鐘では測定器が正しかった」
『今後も同じです』
「今後、あなたの言葉だけで危険を否定しない」
認めた。
胸の内側が冷たくなる。体温は三十五度八。測定済みなので、これは症状ではない。
言葉が使えないなら、できることで示すしかない。仕事を正確に終え、予定を集め、分灯式を成功させる。能力がなくても役に立てると分かれば、私の説明にも重さが戻る。
『承知しました。判断は記録と測定を優先してください』
文章を整える。
「傷ついた顔で、便利な規則にしないで」
セラさんが言った。
傷ついた顔?
頬へ手を当てる。表情は普通だ。口元も上がっていない。泣いてもいない。
『顔は本人に見えません。観察事実として記録してください』
セラさんは書かなかった。
「私の記録が、あなたから言葉を取っているなら、それも事実」
『すでに声は出ません』
「そういう意味じゃない」
言葉の意味が合わない。
昨日から、そればかりだ。
ティアさんが二冊を閉じようとした。セラさんは手で止める。
「まだある。死後指示札」
『紛失・長期療養時の処理です』
「『声帯夜晶の標本化は本人同意済み』。生きている患者の治療計画ではない」
『治療不能時に研究資料になります』
「『未記入頁は破棄』。予定帳の紛失対応でもない」
レオンが濃紺の帳面を鞄から出す。
「いつ書いた」
『第31話の引継書と同時期です』
「俺が折って預かった紙にはなかった」
『控えです』
「見つからないよう分けた?」
『用途別です』
また限定回答と数えられるのだろう。
ロウさんは、死後指示札を一枚ずつ裏返す。顔を上げずに聞いた。
「任務解除を、死ぬ準備の開始だと理解したのか」
『違います』
本当に違う。仮契約は第30話。解除命令は第31話。順番が逆だ。
『契約に備えた整理は前からです。任務解除後は時間ができたので具体化しました』
ロウさんの手が止まった。
説明は正確なのに、部屋の空気がもっと重くなる。
「命令で、時間を与えたのか」
彼は自分の命令書を見る。
私を任務の費用として扱わないため。その結果、私は費用の整理を進めた。ロウさんのやり方が悪かったのではない。仮契約が先にあっただけだ。
『隊長判断に問題はありません』
「評価するな」
「ロウ」
ティアさんが止める。
「命令を増やす前に、本人の理解を確認して」
「確認して、この答えだ」
「だから命令では変わらない」
二人がこちらを見ずに話す。
私の理解が会議の資料になっている。
『本人がいます』
十七行目。
二人とも黙る。
『説明は私へしてください』
セラさんがその文を記録する。
レオンが予定帳を開いた。
「なら説明する」
最初の頁。『来年、麦環市で朝飯』。
「これは退職祝いじゃない。返却する物でもない。お前と行く予定だ」
『理解しています』
「理解して、死後は俺へ返すと書いた?」
『契約不発効なら参加します』
「発効させないために分灯式をやってる」
『成功率は七割です』
「上げる」
『大夜蝕規模の必要値は九十九・九』
「上げる」
同じ言葉を、レオンは短く繰り返した。
『計画は最悪の場合も必要です』
「最悪を、お前だけで終わらせる計画は要らない」
『五百四十万人の期待死者』
「数字を盾にするな」
『事実です』
「お前が一人で死ぬのも事実だ」
死ぬとは契約に書いていない。生存率が空欄なだけだ。
『確定していません』
「帰還欄を消した」
レオンが別の紙を出した。
修繕隊の帰還名簿。
五人の名前と経路。六行目の消し跡。
「これを見ても、確定してないと言うのか」
私は紙を見る。
消したときは、待つ人を減らすためだった。契約発効時の連絡漏れを防ぐ。五人分なら数えやすい。
今、五人全員が空欄を見ている。
レオンは名簿を私の前へ置いた。
「お前の言葉を信じないんじゃない」
六行目を指す。
「お前が、自分を人数へ入れていない。それをもう信じない」