帰還名簿の空欄へ名前を書けば、話は終わるらしい。
簡単なので、私は石筆を取った。
ミナ・アルノ。
一文字目の途中で、影の契約印が焼けた。
右手が止まる。紙ではなく、胸の内側から指を引かれた。石筆が床へ落ちる。
「触るな」
ティアさんが手を押さえる。
影の銀文字が、計測環いっぱいに広がった。
『契約行動との矛盾』
『帰還意思の登録は途中離脱準備と判定』
『仮契約効力を一段階前倒し』
まだ発効していない契約が、私の帰る予定を拒んだ。
レオンは名簿を引き寄せる。
「俺が書く」
「待って」
セラさんが止めた。
「本人以外の代筆を、契約がどう判定するか不明」
「名前を書くだけだ」
「白麦院の保護責任者代筆と同じ構造になる」
レオンの手が止まる。
ロウさんは命令書を出した。
「隊長権限で仮契約を破棄する」
「できません」
エマ医師が影の文字を読む。
「本人の自由意思を要件にした契約です。上位者の破棄は、意思侵害として無効」
「自由意思で結んだ契約に、帰ると書く自由がないのか」
「署名後の行動制限です」
自由という品名で売り、開封後の返品は不可。よくある契約だ。
ダル医師が遠話器を持って入る。王都契約院の専門官につながっていた。机へ置くと、眠そうな男性の声が出る。
『朝の器仮契約、旧式の国家継続条項を含みます。原文を順に読んでください』
セラさんが影の文字を転記する。
第一条。大夜蝕七日前、分灯式の成功率が九十九・九パーセント未満の場合、朝の器計画を発効。
第二条。適合者は王都第一鐘へ入り、全国鐘路の夜滓を受容。
第三条。途中離脱不可。
第四条。適合者の死亡または受容不能時、計画は失効。
「死亡すれば終わるのか」
レオンの声が低い。
『契約が、です。大夜蝕は止まりません』
専門官は事務的に答える。
第五条。仮契約の任意解除には、同等以上の代替受容計画と王国契約院の承認が必要。
第六条。承認前の一方的解除は、国家継続の放棄と判定。
文字が続く。
『放棄時、予測された大夜蝕を猶予せず開始する』
部屋が静かになった。
『意味は』
私は二十三行目を使う。
専門官が咳払いする。
『本来、王家が戦時防壁の維持契約から逃亡するのを防ぐ条項です。蓄積した夜滓を契約期限まで抑える代わりに、放棄時は抑制を解除する』
「大夜蝕を人質にした?」
ティアさん。
『条項設計時は、契約者が王でした。個人一名へ適用した例は確認中です』
「確認じゃない。解除方法」
『代替計画の承認。分灯式が九十九・九パーセントに達すれば可能です』
結局、最初の条件と同じ。
共同式を完成させれば仮契約は不要。できなければ私が使われる。破棄だけ先にすれば、大夜蝕が今日始まる。
よくできている。
レオンが私の影へ手を伸ばす。
銀文字は触れられない。指が通るたび、契約印だけが胸の奥で熱を返す。
「署名するとき、この条項を読んだか」
『全文表示は第一条から第三条。国家継続条項は要約でした』
「何と」
『一方的解除時、王国機能へ重大な損害』
「大夜蝕即時開始とは書いてなかった?」
頷く。
「それで署名した?」
『一方的解除を予定していませんでした』
皆が止めるとは思っていた。だから見せなかった。見つからなければ解除の話にならず、重大な損害も起きない。
「読めない条項へ同意したことになる?」
ノルが専門官へ尋ねる。
『要約が実質を隠している場合、説明義務違反です』
「じゃあ無効」
『無効判定が破棄として術式へ伝わる可能性がある』
「ずるい」
『法的にも問題があります』
「問題があるのに、守るの?」
『守るのではなく、安全に無効化する方法を探します』
ノルは工具箱を開けるときの顔で影を見る。どこから外せば全体が壊れないか考えている。
エマ医師が長官専用回線を別経路で呼び出した。白丘療養院の医療緊急線。患者の契約が治療を妨げている場合に使える。
三度目で、エルネスト長官の声が出た。
『処置中ですか』
「あなたが隠した条項の確認中」
ティアさんが答える。
『隠していません。国家継続条項として参照番号を表示した』
「十七歳の患者が、夜中に影へ出た参照番号から百年前の王家契約を調べると思った?」
『彼女は条件の矛盾を自力で修正しました。理解能力を低く見積もるほうが侮辱でしょう』
『理解できることと、説明不要は別です』
私は書いた。
ティアさんが読み上げる。
遠話の向こうで、長官が一拍黙った。
『その通りです。解除時期について明示しなかった責任は認めます』
認めるのが速い。言い逃れをしないから、かえって次へ進む。
「なら改変に同意しろ」
ロウさん。
『代替受容計画を示してください』
「帰還意思の登録を契約違反から外す」
『帰還先を持つことには同意します。ただし発効時の途中離脱不可と矛盾する』
「矛盾を残せ。人間は二つの予定を持てる」
『術式は曖昧さを処理できません』
「作ったのは人間だ」
『百年前の王家契約を、私一人で書き換えられない』
正確な答えだ。
セラさんが入る。
「本人への説明で、意図的に省略した?」
『解除を選ばないと、ミナさんの過去の行動から予測しました』
「はい、か、いいえ」
『はい』
部屋の誰も動かなかった。
『理由は』
私は二十四行目。
『解除可能と知れば、周囲が本人の意思を上書きする。解除不能に近い契約なら、彼女の選択が保持される』
「自発性を守ったと言うの?」
エマ医師。
『自発性を計画の要件にしました。拘束して器へ入れるより、倫理的費用が低い』
「選ばせる前に、選ぶよう育てた」
セラさんの声は大きくない。
「白麦院で、役に立てば食べられると教えた。戻らない損失を三日で戻ると言った。十二年追跡した。その人の署名を自発性と記録する?」
『彼女はその経験を含めて現在の人格です。過去を理由に意思能力を否定することも、本人への暴力です』
どちらも正しいように聞こえる。
白麦院を理由に私の選択を全部無効にされたら、今まで選んだ仕事も、親方の店に残ったことも、修繕隊へ入ったことも他人の物になる。
けれど、長官はその困る部分を盾にしている。
『私の選択です』
書く。
レオンが板を見る。
「俺たちへ隠したことも?」
『止められると予測しました』
「止められる選択肢を消した」
『予備計画を残しました』
「それを選択って言うな」
彼の手は名簿の空欄にある。
エルネスト長官が続ける。
『ミナさん。追加条件はすべて受理されています。あなたの選択により、五名と店は保護される』
安心させる言葉だ。
そのために書いた。
「本人へ褒美のように言うな」
ロウさんが遠話器を切った。
長官の言葉は途中で消える。けれど契約印は残る。
『解除しないでください』
すぐ書く。
「お前が決めるな」
ロウさん。
『現在の分灯式七割。即時開始時、準備なし。期待死者は公示値以上』
「分かってる」
『なら選択肢は一つです』
「一つにしたのは、お前とエルネストだ」
怒っている理由は、計画の選択肢を減らしたことらしい。
私は五人を守る条件を入れた。けれど相談すれば、契約自体を止められる。止められたら予備がなくなる。だから秘密にした。
結果、解除という作業が増えた。
『申し訳ありません。代替案完成を優先します』
「謝る場所が違う」
レオン。
『手順上の損失を認めています』
「手順の話じゃない」
また意味がずれる。
専門官が遠話の向こうで紙をめくる。
『追加条件を確認。修繕隊五名への拘束、代替指名、処罰禁止。アルノパン店への終身営業補償。候補番号制度廃止、本名併記、遺族補償。ユリオ・セルの記録開示』
「本人への対価」
セラさんが聞く。
『上記条件の履行』
「本人の治療、生存、帰還は」
『ありません』
「契約として公平?」
『本人が、第三者への給付を対価として指定しています。形式上は』
形式上。
専門家も、よい契約とは言わなかった。
「署名時の判断能力は」
ティアさんが治療記録を読む。
「発熱三十七度九分、喉出血、影分離、鎮痛薬使用。医療上、重要契約へ同意できる状態ではない」
『術式側の認定は、意思明瞭。条件追記と矛盾修正を自力で実施』
「具合が悪くても、他人の条件なら正確に書ける。それを判断能力と呼ばないで」
『契約院としては、無効申立ての根拠になり得ます』
「申立てれば?」
『破棄判定の可能性があります』
大夜蝕が始まる。
出口が輪になっている。
エマ医師が影の術式へ細い針を近づけた。
「破棄せず、条項を一時停止できない?」
『国家継続契約は停止概念を持ちません』
「改変は」
『契約者と鐘守庁長官、契約院三者の同意』
「本人はここにいる。契約院はあなた。長官を呼んで」
『長官の現在地は王都へ移動中』
ロウさんが遠話器を取る。
「回線をつなげ」
『鐘守庁の専用線が閉じています』
「命令だ」
『私はあなたの指揮系統ではありません』
専門家は正しい。
セラさんが契約文字の末尾を指す。
「試験解除条項」
小さな文字があった。
『本契約の拘束作用を一秒未満停止し、代替術式との接続を確認できる。夜滓抑制解除は試験時間に比例』
「一秒なら」
ノルが計算する。
「大夜蝕が全部始まるんじゃなく、九百八十万のうち一秒分?」
『抑制期間五十四日で均等換算すれば約二・一単位。ただし夜滓は均等でない』
専門官。
「やる」
ロウさんが決める。
「影から帰還拘束だけ外し、名簿へ名前を書けるか確認する」
解除ではなく試験。成功すれば、帰還意思と仮契約を並べられる。
私は反対を書く。
『危険量不明』
「二千を勝手に吸った奴が言うな」
『今回は患者・市民への流入経路不明』
「結界を張る」
『私が吸収します』
「しない」
試験は準備された。
病室の四隅へ結界杭。窓を封鎖。患者棟の夜滓弁を閉じる。ノルが一秒を鐘歯百二十枚へ分け、セラさんが測定器を五台置く。ティアさんとエマ医師は全員の脈を確認。
私の影だけ、中央の計測環。
「試験中、影請けをしない」
ロウさん。
『流入時は』
「結界で受ける」
『破損時は』
「俺が判断する」
命令を受領する。
ノルが歯車を回す。
「三、二、一」
契約印が一瞬消えた。
夜が落ちた。
窓の外ではなく、部屋の中へ。灯りが全部黒くなり、床から冷気が噴く。結界杭の一本が同時に割れた。
測定器が上限を振り切る。
「停止!」
〇・二秒。
ノルが歯車を戻す。契約印が再点灯し、夜は引いた。
割れた杭の前で、ロウさんが片膝をついている。右手の甲が黒く焼けた。結界で流入を受けた。
ティアさんが治療へ走る。
「量は」
セラさんが五台を見る。
「百八十。〇・二秒で」
均等予測の四百倍以上。
「もう試せない」
エマ医師。
「次は患者棟へ漏れる」
私は影を確認する。吸っていない。命令を守った。代わりにロウさんの手が焼けた。
『治療費を私の報酬から』
書いたら、ティアさんに板を伏せられた。
「今それを言ったら、怒る」
誰が、とは聞かない。全員の顔が同じ方向ではないのに、どれも私から離れていた。
試験結果を契約院へ送る。
遠話の専門官は沈黙し、正式に解除試験禁止を記録した。
『代替計画完成まで、仮契約の維持を勧告します』
勧告ではなく、ほかに道がない。
『分灯式を進めます』
私は書く。
「お前は治療」
ロウさんは手を冷却布へ入れたまま言った。
『予定収集ならできます』
「契約の進行で発声も影も悪化してる」
『だから期限前に完成させます』
「焦ってまた吸う」
『吸わない方法を完成させます』
説明を重ねるほど、皆の顔が硬くなる。
仮契約を秘密にしたことが、計画を乱した。なら私が早く代替案を整えれば、怒る理由はなくなる。
必要なのは信頼の話ではなく、成功率二十九・九パーセント分。
ロウさんの右手を治療している間、レオンは路線表を広げた。
まだ封鎖通達は届いていない。王都、麦環市、硝子港、雨樋町。現在の白丘から出る道を全部書く。
「陸路なら、北の旧鉱道」
「候補者の移動は鐘守庁へ自動通知」
エマ医師。
「通知札を外す」
「治療契約の所在確認も切れる」
「俺が見る」
「喉の夜晶は医療者が必要」
「ティアが同行」
ティアさんは返事をせず、私の脈を測る。逃がすことに同意するか、治療を切らさない条件を考えているのか、手だけでは分からない。
ノルが地図の端を指す。
「川。小さい舟なら札を通らない」
「三日前の雨で増水。影熱患者は低体温になる」
ティアさん。
「馬車へ舟を載せて、浅いところだけ」
「検問が二つ」
セラさんは公文書から検問時刻を出す。
五人が、私をどこかへ運ぶ道を探している。
帰還名簿へ名前を書くことをためらった人たちが、今は紙いっぱいに帰路を増やす。
『どこへ行く計画ですか』
「契約術式から離せる場所」
レオン。
『距離では解除できません』
「エルネストの管理下からは離せる」
『分灯式研究設備も失います』
「研究より先に契約を何とかする」
『期限が減ります』
「減らしてるのは誰だ」
質問が返る。
私が署名した。説明は省略されたが、文字を書いたのは私だ。
『私です』
「一人で責任を取るな」
『本人署名です』
「なら俺たちが怒る権利まで契約で消すな」
怒りは計画の遅延ではないらしい。
それでも、何に対してかはまだ言葉にならない。
セラさんは地図へ六本の線を引いた。五人分ではない。私の線も、白丘から北へ伸びる。
「行き先未定。目的、契約の安全な再検討。帰還者六名」
空欄の名前を、経路図で先に埋めた。
胸の契約印は反応しない。帰る予定ではなく逃げる予定だからか。術式の判断基準も、ずいぶん雑だ。
レオンが地図を折る。
「夜明け前に出る」
私は反対しようとした。五十行の残りは二十一。十分書ける。
けれど、セラさんが先に遠話器の新しい受信紙を取った。
「鐘守庁から通達」
王国地図が赤い線で塗られていく。
「候補者保護と国家継続契約の保全を理由に、王都行き全路線を封鎖。保守列車、街道、鐘路転送、河川便」
「俺たちを白丘へ閉じ込める気か」
レオンが窓を見る。
「違う」
ロウさんは通達の末尾を読む。
「ミナだけを、王都以外へ動かさない」
帰還名簿には名前がない。
王都への道も、全部閉じた。