返却台ができた。
病室の机に、赤い糸の工具、濃紺の予定帳、焦げたパン、赤い配達鞄が並ぶ。
私の持ち物は、見慣れた人たちの手から返されると、急に中古品らしく見えた。
「形見にはしない」
レオンが言った。
私はまだ生きている。用語の選択が早い。
『死後指示札は契約発効時だけです』
「発効する前提で書いた」
『最悪時への備えです』
「なら、俺たちも最悪へ備える」
濃紺の予定帳を机へ置く。
「返す」
贈った本人が返すのは、言葉として変だ。予定帳はレオンから私への贈り物。今も私の鞄へ入っていた。彼が取り出して机へ戻しただけなら、返却ではなく移動である。
『所有者は私です』
「そうだ。だから、死後に俺へ返す札を撤回しろ」
『撤回後の処理先がありません』
「持って帰れ」
『発効時は』
「持って帰れ」
同じ言葉を重ねる。
契約発効後に第一鐘へ持ち込めという意味だろうか。私物制限を確認する必要がある。
『鐘内部への紙製品持込は』
「そこへ持っていくな」
質問の先を読まれた。
ノルは赤い糸の工具箱を両手で持っている。
「これも返す」
『貸出期限なしです』
「返す日も決めた。一年後」
『前倒し返却は可能です』
「そうじゃない」
机へ置く。工具が重なって、小さな金属音。
「ミナがいなくなったら、僕の物になるって札、破って」
『技術を持つ人が管理するのが安全です』
「いらない」
昨日から、ノルは断るのが上手くなった。
『別の工房へ寄贈します』
「そういう意味じゃない」
では何か。私が使えない場合にノルも使わず、工房にも渡さないなら、道具が余る。古い分灯器へ合う規格は一組だけ。保管したまま錆びるのが一番もったいない。
『セラさんの記録院へ保存』
「僕に返して」
『今、返しました』
「一年後に」
面倒な返却条件だ。道具は目の前にあるのに、一年保管して同じ人へ渡す。
『一年後、私が不在なら』
「いる日まで待つ」
『無期限は在庫管理に不適切です』
「貸出期限なしって言ったの、ミナ」
第9話の言葉を使われた。
返す日を決めない。壊れたら直して使う。それでおしまい。ノルが礼を返す仕事を増やさないための条件だった。
今は、その条件が私へ戻ってくる。
『では保留品』
「形見じゃないなら」
ノルは工具から手を離した。
ティアさんが机へ置いたのは、小瓶だった。乾燥した林檎酵母。第11話で雨樋町の洪水用パンを焼いたとき、私が分けた種だ。治療所で消化のよい発酵水を作るため、少し預けた。
「これ、返す」
『白丘の患者食に使えます』
「アルノパン店の種でしょう」
『分ければ増えます』
「あなたがいなくなったあと、使う前提で渡した?」
『旅先で材料が必要になる可能性を考えました』
「答えは」
『長期保管できるよう乾燥済みです』
「答えて」
仮契約が発効すれば、私がパンを焼く機会はない。酵母は誰かが使ったほうがよい。
『両方です』
ティアさんは瓶を机へ置く。
「患者食には別の種を使う。これは自分で親方へ返して」
返す仕事が一つ増えた。
白丘から麦環市への路線は封鎖されている。宅配便なら候補者本人の移動ではないので通るが、自分で返せと言われた。
『期限は』
「決めない」
ノルと同じ答え。
セラさんは灰色の帳面を置いた。第16話で、本人説明の閲覧権を私へ渡したもの。所有者は最初からセラさんだが、編集権は私にある。
「返却」
『記録はセラさん管理です』
「編集権を本人へ返す。公開範囲も、あなたが決める」
『昨日、全員公開へ同意しました』
「今後の記録。死後に全公開、と先に指定するのをやめる」
『事件資料には必要です』
「本人が死ぬ前提で編集権を使わないで」
本人がいなくなれば、編集できない。なら先に範囲を決めるのは合理的だ。
『閲覧遅延が出ます』
「出す」
今日終わらない仕事を翌日へ送る。ダル医師の処方が、記録係にまで広がった。
ロウさんは何も置かなかった。
私から受け取った物がないのかもしれない。報告書、避難図、分灯式手順は隊の所有物。危険手当も私が復旧費へ回した。
「俺が受け取ったのは、結果だ」
そう言って、命令違反報告を机へ置く。
「第二鐘修復、患者救出、第三鐘の参加者保護。全部、お前が自分を使った結果だ」
『返却できません』
「分かってる」
「だから、借りとして今後の命令を弱めない」
白麦院で救出した負い目が命令権を鈍らせたと、側視点なら分かるのかもしれない。私には、彼が結界杖を机へ立て直した動作しか見えない。
「助けられたから止める権利がない、とは考えない」
『隊長権限は契約で維持されています』
「権限の話にするな」
ロウさんも同じことを言う。
最後に、焦げたパンが届いた。
マルタ親方からの速達便。鐘守庁の封鎖より早く、朝の公示を見て焼いたらしい。包みには六個。五個はきれいな丸、六個目だけ端が黒い。
手紙は短い。
『焦げた分、まだ借りにしてるなら返す。店へ持って帰って食べな』
第1話で、焦げたパンを無償でもらった。私は借りとして数えた。いつか働いて返すつもりだった。
親方は、その借り自体を返してきた。
『帳簿上、私の借りです』
「本人へ書け」
レオン。
返事の便箋を出す。
『焦げたパン一個、受領。借りは相殺――』
違う。親方は店へ持って帰って食べろと書いた。ここで受領しただけでは条件未達。
『帰還時に精算します』
書き直す。
「帰還名簿へ名前を書けないのに?」
ティアさんが聞く。
『契約不発効時』
「また条件」
『条件上の事実です』
「親方は条件をつけてない」
返事が難しい。
焦げたパンは、六人で分けるには形が悪い。端を切れば五切れと小さな一切れ。第1話の朝食と同じ。
私はナイフを取る。
「何する」
『六等分』
「一個はお前が食べる」
『患者食があります』
「六個目だ」
レオンは焦げた一個を私の前へ置く。
味は分からない。喉に固い物は禁止。食べられない理由が二つある。
『浸せば食べられます』
自分で解決策を書いてしまった。
ティアさんが温かい乳を用意する。焦げたパンを小さくちぎり、浸す。黒い端が柔らかくなる。
五人は自分の丸パンへ手をつけない。
私が一口飲み込むまで待つ。
味はない。温度と、焦げた皮のざらつきだけ。
『食べました』
札を見せる。
誰も笑わない。けれど五人も食べ始めた。
食後、レオンが赤い配達鞄を机の中央へ置いた。
引継札では、鞄の返送先はアルノパン店。中身は用途ごとに別の人。きれいに分けたつもりだった。
「一つずつ確認する」
『昨日、セラさんと整理済みです』
「処理先じゃない。誰から受け取ったか」
帳簿の項目としては珍しい。所有権は、現在の持ち主と譲渡記録があれば足りる。
最初に、真鍮のパン切りナイフ。
『マルタ親方。十二歳、店で最初に一斤を切った日』
刃は何度も研ぎ、細くなっている。柄の端には、私が落としたときのへこみ。
「返したら、親方は使う?」
ティアさんが聞く。
『予備として』
「本人が使えと言う」
『新しい物のほうが安全です』
「安全な新しい物を、あなたへ買うかもしれない」
『費用が二重です』
ティアさんは額へ手を当てる。費用を減らす話をすると、最近よくこの動作をする。
次。白い欠けた名札。
『白麦院。贈り物ではありません』
「捨てる?」
セラさん。
『罪証として記録院へ』
「自分の名は?」
『ミナ・セルを併記済み』
「現在名は」
『同じ大きさで併記』
レオンが作った二枚の名札がある。旧名と現在名。どちらも私を呼ぶ。証拠箱へ入れるなら、三枚一緒が分かりやすい。
「証拠である前に、あなたの名前」
セラさんは名札を鞄へ戻した。
『保管規則が』
「本人所持の写し。原本登録は済んでいる」
記録係の権限で逃げ道を作られた。
次。青い襟巻き。
『母リナ・セル。面会時の返却品』
洗われているが、十二年前の石鹸の匂いは残っていない。端にMとYの刺繍。ミナとユリオ。
「使った?」
ノルが聞く。
『資料保全のため未使用』
「寒いのに?」
『古い布は傷みます』
「じゃあ、何のためにお母さんは作ったの」
首へ巻くため。
分かる。けれどユリオの分まで一枚にある。私だけが使うと、弟の半分を消耗する。
『母かユリオへ返すまで保管』
「ミナにも作った」
『二人用です』
「半分、巻けば」
ノルが襟巻きの片側を私の肩へかける。もう片側は空いた椅子へ伸びる。二人で使う長さだ。
青い布が首へ触れる。温かいかどうか、低体温の皮膚ではよく分からない。重さだけはある。
『治療用の布と混同します』
「今だけ」
返す理由を作ったのに、ノルは聞かない。
次。小さな靴。
『ユリオ。母からの返却品』
私の手のひらより短い。弟がこれを履いた時期を覚えていない。
「これは履けないね」
ノルは真面目に確認した。
『本人か母へ』
「見つからなかったら」
『記録院』
「見つけるまで?」
『調査期限は大夜蝕前。以後は鐘守庁記録へ』
「ミナが調べるのをやめる期限?」
『朝の器発効時は動けません』
「また契約」
靴を箱へ戻す音が強い。
次。林檎の種。
白麦院の箱から回収した古い種と、アルノパン店の酵母瓶。育つかどうか分からない種と、今も増える種。
『古い種は白麦院資料。酵母は店へ』
「植えないの?」
レオン。
『十二年前なので発芽率が低いです』
「一粒も?」
『試験していません』
「来年、店の裏へ植える」
『発芽しなければ』
「別の林檎を植える」
『資料が減ります』
「全部じゃない。一粒」
十七粒ある。罪証として十六粒でも数量は足りるかもしれない。
『セラさんの許可が必要』
「許可」
即答された。
来年の予定が、また一つ増えた。私の予定帳には書かず、レオンが自分の紙へ書く。
次。母の手紙。
誰から受け取ったか、答えは母。けれど実際に手渡したのはセラさん。保管したのは白麦院。十二年遅れて私へ来た。
『返信作成中』
「どこまで」
セラさん。
『受け取りました。王都で所在調査します』
「帰ります、は」
『住所不明です』
「家は場所だけ?」
『届け先には住所が必要です』
母は、役に立たなくても帰れと書いた。私はまだ使い方が分からない。
「返す品じゃない」
セラさんが手紙を鞄へ戻す。
「受け取ったことだけでも、あなたの側に残る」
紙を紛失しても?
そう聞こうとして、今は処理先を探す場面ではないと気づく。
最後に、濃紺の予定帳。
『レオンから』
「用途」
『予定記録』
「返却期限」
『なし』
「死後返却」
『札を撤回すれば未指定』
「撤回しろ」
死後指示札を出す。『予定帳はレオンへ。未記入頁は破棄』。
破るには両手が要る。右手の感覚が弱く、紙の端をつかめない。
レオンは手を貸さなかった。自分で選べと言っているらしい。
左手と歯で裂く。喉を傷めないよう、紙を引く角度を変える。一度で切れず、二度。札が真ん中から分かれた。
全員が、その小さな作業を見ている。
『撤回しました』
「次」
『次?』
「未記入頁を破棄しない」
『指定がなくなったので、そのままです』
「自分で使う」
『いつ』
「今でも、明日でも、来年でも」
期限が広すぎる。
『今日の予定は治療です』
「書け」
予定帳を開く。今日の日付。『喉の治療。筆談五十行以内』。
それだけでは医療記録と同じなので、オレンさんの休符練習を思い出す。
『十五分、何もしない』
書き足す。
レオンは頁を閉じなかった。
「明日」
『明日決めます』
「それでいい」
一日分だけなら、仮契約も反応しない。
赤い配達鞄自体には、内側へ古い札が縫いつけてある。幼いユリオが書いたかもしれない『ミナ』。親方が工具箱の私を受け取り、最初に持たせた名前。
『鞄は店の備品です』
「親方が、店の備品を十二年持たせる?」
ティアさん。
『配達担当なので』
「旅へ出ても返せと言わなかった」
『戻るとき荷物が必要です』
自分で言ってから、止まる。
戻るとき。
鞄は、返送用ではなく帰還用に持たされた。
その解釈は、少し重い。
私は襟巻き、靴、名札、手紙、種、予定帳を鞄へ戻す。真鍮ナイフも、酵母瓶も。
中身を分ければ軽くなるはずだったのに、全部戻すと出発時より重い。
レオンが肩紐を直す。
「持てないなら俺が持つ」
『所有者は私です』
「荷物持ちは所有しない」
それなら預けられる。
私は鞄を渡す。返却ではなく、運搬委託。言葉の違いを確認すると、レオンは今度だけ頷いた。
返された品を、机の上で再配分する。
予定帳はレオンへ返さず、記録箱へ。工具はノルが拒否したので、記録院保管。酵母は親方へ郵送。帳面の編集権はセラさんへ再委任。配達鞄は中身を分け、鞄自体は療養院の配膳係へ寄付。
誰も受け取らないなら、別の人へ渡せば品物は役に立つ。
贈り方が悪かった。形見に見えたのなら、持ち主を決めず、必要な場所へ散らせばよい。
私は札を作る。
『予定帳――白丘記録庫』
『工具――古式分灯器担当へ』
『酵母――アルノパン店』
『赤い配達鞄――北病棟配膳用』
「やめろ」
レオンが札を取る。
『返されたので再配置です』
「返したんじゃない」
『全員、返すと言いました』
「死んだあと受け取らないと言った」
『同じです』
「同じじゃない」
言葉どおりに受け取ったら、意味が違うと言われる。
私の言葉は信じないのに、皆の言葉は書かれたとおりではない。会話の規則が人によって違う。
『では、何を求めていますか』
「持ってろ」
『使わない物を』
「使うまで」
『使えない場合は』
「使えるようになるまで」
『戻らない可能性があります』
「それでも」
効率の話ではない。
分かっている。分かっているけれど、何も残さず消えるほうが、皆の荷物は軽くなる。
考えた直後、胸の契約印が冷えた。
ノルが赤い糸の工具を床へ置いた。
机ではなく、私と自分の間。
「いらない」
声が震えている。
「ミナがいないなら、いらない」