「見習い、辞める」
ノルが言った。
昨日までは工具を全部教えてと言ったのに、今日は辞職届。十二歳は決断が速い。
『修繕隊を?』
「ミナの見習い」
『正式な雇用関係ではありません』
「じゃあ、今まで何だったの」
『工具の貸与と技術指導』
「そうやって、言葉を仕事にするの嫌い」
床に置かれた赤い糸の工具は、二人の間にある。
ノルは拾わない。私も手を伸ばさない。最初に取ったほうが所有者になる遊びみたいだ。
『理由を確認します』
「昨日言った」
『ミナがいないなら不要』
「それ」
『道具の有用性は使用者で変わりません』
「僕の話、全然聞いてない」
聞いて、文字へ直した。感情の部分が落ちたらしい。
筆談は一日五十行。今は三行。説明する余裕はある。
『工具を使えば、古式分灯器を修理できます。分灯式成功率が上がり、朝の器を使わずに済みます』
「それでミナが助かる?」
『契約不発効になります』
「じゃあ僕が使う」
ノルは工具へ手を伸ばした。途中で止める。
「でも、ミナが死んだあと僕へくれる札は破って」
『昨日撤回しました』
「頭の中は」
紙の指示は破った。けれど、発効時に使える人へ渡す計算は変わっていない。書いていないので、ノルには見えないはずだ。
『所有権は私です』
「また仕事の言葉」
ほかに何と答えればよい。
レオンは窓際にいる。口を挟まない。ティアさんは喉の薬を作り、ロウさんは焼けた右手で路線封鎖の異議申立てを書く。セラさんはノルの言葉も私の札も記録している。
全員が聞いている。
「僕に全部教えたの、ミナがいなくなるからでしょ」
『技術継承は通常業務です』
「最初から?」
第9話。ノルが鐘守になりたいと言った。細工工具を貸し、返す日は決めなかった。あの時点では朝の器を知らない。私は次の配達があり、修繕隊に残る予定もなかった。
『最初は、旅のあと別れるからです』
「今は」
『能力が戻らない可能性。右手感覚低下。古式分灯器の担当が必要』
「死ぬから」
『確定していません』
「帰還欄を消した。荷物を分けた。声帯を標本にするって書いた」
『最悪時の準備です』
「僕が死んだらって、工具を全部渡したら、ミナは受け取る?」
十二歳が死ぬ話をするな、と書きかける。
「それ、僕が言いたい」
先に読まれた。
私とノルは違う。年齢、能力、契約、役割。彼には来年がある。工具を返す予定、学校の課題、修繕工房。私には朝の器の期限がある。
『条件が違います』
「ミナだけ、いつも違う」
『分類上は事実です』
「僕の傷は消毒する。ミナの黒線は仕事に影響しないって言う。僕が徹夜したら怒る。自分は患者十二人より一人が少ないって言う」
具体的だ。セラさんの帳簿を読んだ効果が出ている。
『成長途中の身体と成人前の身体では負担が』
「ミナも十七」
成人前だった。
来年で十八。契約上は重要な署名能力があり、医療上は保護対象。制度によって分類が変わる。
『白麦院で処置経験があります』
「それ、慣れてるって意味にしないで」
ノルの声が大きくなる。泣いてはいない。工具箱の部品名を小さく繰り返し始める。
「平螺子回し、星型、細鑢、切り鋏、線挟み、薄口鉗子」
自分の手を作業へ戻すための数え方。
「全部覚えた。赤糸の工具は力をかけない。欠けたら研がず布へ包む。分灯器の左から三番、逆螺子」
『完璧です』
「褒めないで」
長所を先に見つけると、人は安心する。今日は逆効果らしい。
「覚えたから、ミナはいなくていい?」
『そんなことは』
ない、と書こうとして止まる。
引継ぎの目的は、担当者が不在でも作業を続けること。私がいなくても機能するよう教えた。ノルの質問は正しい。
『作業はできます』
「じゃあ、やめる」
『分灯式の担当を?』
「ミナのいない分灯式を直す見習い」
『それでは朝の器が発効します』
「ミナが残るならやる」
『契約は成功後に不発効です』
「成功したあとも残るって言って」
発効しなければ残る可能性は高い。けれど声と右手、影請けは戻らないかもしれない。修繕隊の身分も治療次第。麦環市へ帰れるか、母と弟を探すか、予定は未定。
『努力します』
「言って」
『確約できません』
「来年、工具を返すって」
第23話で、ノルは予定帳にそう書いた。
『契約不発効かつ生存時』
「条件つけないで!」
工具箱が床へ落ちた。
蓋は閉じている。ノルは壊さない力で落とした。それでも金属音が病室へ響く。
レオンが動く。ノルを止めるのではなく、扉を閉める。廊下の患者へ音が届かないように。
ティアさんは薬瓶を置く。ロウさんは異議申立ての筆を止める。セラさんだけが記録を続ける。
「ミナが僕を助けたから、僕は工具を使う。教えてくれたから、鐘を直せる。でも、それでミナがいなくなっていい理由にならない」
ノルは一息で言った。
「助けられた僕に、ミナが死んだあと役に立てって言わないで」
『死後とは』
「同じ」
修正を拒否された。
「形見はいらない。技術も、赤い糸も、予定帳も、パンも。ミナがいないなら全部いらない」
全部不要。
贈り物の渡し方を間違えたのではない。残すこと自体が迷惑になる。
私がいなくなったあと、工具を見るたびノルは今日を思い出す。予定帳を開くたびレオンは空欄を見る。ティアさんは酵母で患者食を作れない。セラさんは記録を読むたび、言葉を奪ったか考える。親方は焦げたパンを焼き続ける。
なら、何も残さなければよい。
工具は工房の共有備品。予定帳は燃やす。鞄も、札も、個人記録も。記憶までは処分できないけれど、新しい仕事で上書きできる。
胸の奥が静かになった。
『分かりました』
書く。
ノルは顔を上げる。
『形見として残しません』
「違う」
『個人所有物を再配分しません』
「違う!」
また工具箱が鳴る。今度は蹴らず、両手で持ち上げた。
「残ってって言ってる!」
言葉の意味は分かる。
使い方が分からない。
母の手紙と同じだ。役に立たなくていいから帰って。残って。どちらも、条件がない。
条件のない依頼は、いつまで、何を、どの品質で達成すればよいのか決められない。
『分灯式を完成させます』
「それから?」
『契約を不発効にします』
「それから!」
何度も同じ空欄を指される。
私は予定帳を開いた。今日、治療。十五分何もしない。明日の欄は白い。
『明日決めます』
昨日レオンに通った答えを使う。
「明日になったら、また明日って言う」
ノルは工具箱を抱え、扉へ向かう。
「見習い辞める。ミナが残るまで、教わらない」
『分灯式は』
「修繕隊の仕事だからやる。ミナの形見としてはやらない」
扉を開ける。
赤い糸の細工工具だけ、床へ残っている。
ノルは一度振り返った。拾わない。
「捨ててない。置いてる」
扉が閉まる。
工具は扉の内側、誰も踏まない端にある。
レオンが廊下から戻った。
「工房まで行った。今は分配歯車をばらしてる」
『作業できています』
「泣いてない、と同じ意味で言うな」
『機械を壊す状態では』
「壊さないよう、部品名を数えてる」
ノルの方法だ。泣く代わりに、外せる物を一つずつ外す。
『落ち着くまで有効です』
「お前が評価するな」
今日、何度目だろう。
レオンは床の工具を拾わない。扉のそばへ膝をつき、赤い糸の結び目だけを確認する。
「お前が残れば、これは形見じゃない」
『分灯式用の現役工具です』
「そういう名前に逃がすな」
『用途は変わりません』
「意味が変わる」
道具に意味をつけると重くなる。用途だけなら、壊れたとき交換できる。意味は替えが利かない。
私は予定帳を指す。
『贈り物を受け取れない理由が分かりました』
「何が」
『意味が増えるからです』
「増えて困るか」
『処分時に相手の負担が出ます』
「処分する前提をやめろ」
また戻る。
セラさんが灰色の帳面を閉じた。
「記録を一度止める」
『なぜ』
「今の会話を残すと、あなたは後で読み、もっと正確な処分方法を作る」
私の使い方を予測されている。
「記録しないと、私が忘れるかもしれない。言葉を失うかもしれない。それでも今は残さない」
『記録係の職務は』
「あなたの死後指示を完成させることではない」
セラさんは帳面を鞄へ入れ、留め具を閉めた。記録しない選択は、彼女にとって工具を床へ置くのと同じくらい重いはずだ。
『必要になったら再開してください』
「あなたが必要性を決めないで」
ティアさんは新しい契約書を出さなかった。
代わりに、右手へ温布を巻く。
「感覚は」
『圧迫四、温度二』
「昨日より温度が落ちてる」
『筆記は可能』
「工具を使えなくなるのが怖い?」
怖い、という語が急に来た。
右手が使えなければパンを切れない。文字が遅くなる。細工工具を持てない。配達鞄の留め具も片手では難しい。
仕事への影響は大きい。
『不便です』
「怖い?」
同じ問い。
『左手を練習します』
ティアさんは温布の端を留める。強く締めず、私の返事を訂正もしない。
「今の質問、あとでまたする」
答えが出るまで保留するらしい。
ロウさんは焼けた右手で結界杖を持ち上げた。握れず、床へ落ちる。
『左手用の革帯を作れます』
「要らない」
『指揮に必要です』
「お前が盗った二千単位を俺たちが処理していれば、この手は焼けなかったかもしれない」
逆だ。解除試験で焼けた。第三鐘とは別件。
『因果が違います』
「分かってる。わざと混ぜた」
ロウさんは左手で杖を拾う。
「結果と原因を都合よくつなげられると、どう聞こえるか分かったか」
不正確で、反論したくなる。
『分かりました』
「なら、お前が助けた事実と、お前が消えてよい結論をつなぐな」
一本取られた。
『検討します』
「今ここで切れ」
『将来への影響を』
「切れ」
命令形。
私が助けた。だから役に立つ。役に立つから居場所がある。役に立てる最後の仕事として朝の器を選ぶ。
どこまでを切ればよいのだろう。
『助けた事実は残ります』
「残せ」
『朝の器の適合も事実です』
「それを、消えてよいへつなぐな」
消えてよい、とは書いていない。五百四十万人より一人が合理的と計算しただけ。
でも、その計算を始めた人が自分だけなら、セラさんはまた限定回答と記録する。
『つながりを保留します』
今できる最大の譲歩。
ロウさんは頷かなかったが、同じ命令を繰り返さなかった。
ティアさんが私の脈を取る。百四十六。胸痛五。喉七。数値は昨日と大差ない。
「今、何を考えた」
『ノルの作業参加は維持』
「それ以外」
『形見を残さない』
「それは、ノルが求めたことじゃない」
『本人が不要と言いました』
「本人の言葉を、都合よく切らないで」
十七件の限定回答と同じだと言いたいらしい。
『全文を記録してください』
「記録の問題じゃない」
セラさん自身が言った。
「言葉を残すだけでは、あなたが選ばなかった意味まで固定する」
『では、どうしますか』
「今は、追わない」
ノルを一人に?
「廊下にレオンがいる。見守る。説得はしない」
役に立てる行動をあえてしない。相手が選ぶ時間を残す。
私には向いていない。
ロウさんが路線封鎖図を片づける。
「今日から、保守路の封印鍵は俺が身につける」
腰の鍵束を確認する。王都へ通じる旧鐘路保守線。第40話で使う予定――ではなく、封鎖通達後の緊急避難路として調べていたものだ。
「宿直も二名。ミナは病室外へ出ない」
『治療契約の範囲ですか』
「隊長命令」
『理由』
「お前が一人で終わらせる案へ進んでいる」
読まれている。
『形見を残さない話です。移動とは別』
「別だと証明するまで」
命令文の穴が減っている。
夜、病室は二名宿直になった。
入口にレオン、窓側にロウさん。ティアさんは隣室、セラさんは記録室。ノルは工房へ戻り、工具を扉前に置いたまま。
私は眠る。
眠ろうとする。
眠る前に、赤い鞄の中身を机へ出した。
明朝の検査に必要な筆談板、薬、身分札だけを残す。真鍮ナイフ、予定帳、母の手紙、襟巻き、幼児靴、名札、林檎の種。全部、病室の棚へ。
持っていけば形見になる。残しても形見になる。なら所有者を示す札を外し、資料と備品の間へ混ぜる。
ナイフは厨房返却箱。
種と名札は白麦院証拠箱。
靴と襟巻きは家族資料。
予定帳は――。
最初の頁を開く。来年、麦環市で朝飯。今日、治療。十五分何もしない。
明日は空欄。
燃やす札は破った。記録庫へ送る札もレオンに取られた。
置き場所がない。
枕の下へ入れる。朝になったら決めればよい。ノルに言った「明日決めます」は、これで一つだけ本当になる。
青い襟巻きは首へ巻いた。
資料保全にはよくない。けれど母かユリオへ返すまで、私の側にある。ノルが半分だけ巻いた形を思い出し、片端を空いた椅子へ垂らす。
赤い鞄は空になった。
空の鞄は軽い。
王都までの保守列車に持ち込める。身分札と薬、筆談板だけなら三キロ制限にも余裕がある。
私は鞄を寝台の下へ入れた。
影は計測環の中。完全分離したまま、私と同じ姿勢を二秒遅れで取る。
ロウさんの鍵束は右腰。焼けた右手では扱いにくく、眠る前に一度外して机へ置いた。レオンは入口から机も見ている。
盗む必要はない。
分灯式を進めればよい。皆で王都へ行く道を探す。明日を決める。
でも、全員で動けば、全員が契約へ巻き込まれる。五人の安全を条件にした意味がなくなる。鐘守庁は路線を封鎖し、解除試験はロウさんの手を焼いた。
一人なら、封鎖の向こうへ通れる。
候補者本人を王都へ運ぶ道だけは、鐘守庁が止めない。
影へ、鍵、と考える。
影は計測環の縁で止まる。契約条件の銀文字が胸へ浮かぶ。五人への拘束禁止。
私は寝返りを打つ。毛布の端が環の目盛りへかかる。影が二秒遅れて同じ動作をし、黒い指だけが縁から一寸出た。
レオンがこちらを見る。
目を閉じたまま、呼吸を整える。
影の指が床を伸びる。机の脚。鍵束の輪。
金属へ触れられないはずだった。
契約印が光ると、封印鍵の影だけが持ち上がった。実物の鍵も、遅れて音を立てる。
ロウさんが動く前に、影が鍵を寝台の下へ引いた。
私は左手で受け取り、赤い襟巻きの内側へ包む。
誰にも形見を残さないために。
ロウさんの封印鍵を盗んだ。