三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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一人ぶんの予備

 三日寝れば戻る。

 

 私はそう言ったけれど、正確には二日と半分で寝台から追い出された。

 

 元気になったからではない。

 

「じっとしていられない患者を置くと、病室の仕事が増えます」

 

 ティアさんの判断である。

 

 実に合理的だと思う。

 

 共同学校の治療室で二晩。脈は一分九十二まで下がり、体温も三十六度に戻った。胸まで伸びた黒線は、鎖骨の下で止まっている。消えてはいないけれど、服を着れば見えない。

 

 見えないものは作業の邪魔にならない。少なくとも、他の人の手は止めない。

 

「退院条件を確認します」

 

 ティアさんが紙を読む。

 

「影請け禁止。重い物は禁止。走らない。六時間ごとに検温。食事を抜かない。単独行動をしない」

「重い物は、何リートから?」

「質問の意図がよくない」

「パン籠にも重さがあるので」

「持たない」

「配達できません」

「しない」

 

 退院というより、仕事からの追放に近い。

 

 寝台の横では、セラさんが同じ条件を記録板へ写している。最後に空欄を一つ作り、私へ向けた。

 

『本人ができること』

 

「袋詰め、帳簿、注文取り、窯の温度確認、軽い籠の配達、道案内」

 

 書き終える前に答えた。

 

 セラさんの筆が少し止まる。

 

「考えてありました?」

「二日も寝てましたから」

 

 何もせず天井を見る時間は長い。自分を使える場所くらい探しておかないと、三日目には壁の染みへ名前をつけ始める。

 

 ちなみに、窓際の大きい染みはロウさんで、天井中央の細長い染みがレオンだった。理由は本人たちへ言わないほうがいい。

 

「道案内は助かります」

 

 セラさんが書く。

 

 その一言で、胸のあたりが少し軽くなった。

 

 助かる。

 

 いい言葉だ。相手の中に自分の置き場所が一つできる。

 

「ただし、修繕隊の臨時協力員としてロウ隊長の指示に従うこと」

「前回、従わなかった実績がありますけど」

「だから書きます」

 

 セラさんは笑わず、唇の端だけ少し曲げた。

 

 この人の冗談は音が小さい。見落とさないようにしよう。

 

 学校の外では、麦環市の鐘がまた弱く鳴っていた。

 

 二日半のあいだに遅延は一拍から三拍へ増え、鐘楼周辺が封鎖された。修繕隊は内部の光輪が欠けたと判断したらしい。

 

 欠けた部品は十二枚。

 

 予備は町の東倉庫にある。

 

 問題は、東倉庫から鐘楼までの大通りへ夜滓が漏れ、荷車を通せないことだった。

 

「裏路地は」

 

 ロウさんが学校の机へ地図を広げていた。濃紺の外套は肩が縫い直され、結界杖のひびには銀輪が巻かれている。

 

「西の二本は狭すぎる。北は階段。南は市場の天幕が固定されている」

 

 レオンが答える。

 

「天幕は外せますよ」

 

 入口から口を挟むと、全員がこちらを見た。

 

 レオンだけ、歓迎していない顔だ。

 

「退院したのか」

「追い出されました。手がかかる患者だそうです」

「戻れ」

「戻る場所から追い出されたの」

 

 強い理屈だと思う。

 

 ロウさんはティアさんを見る。薬師が一枚の紙を渡した。

 

「条件つきです。違反一つで再入院」

「条件を確認した」

 

 ロウさんが頷き、地図の南側を指す。

 

 地図は三年前のものだった。

 

 鐘楼と市場、大通り、共同井戸。石で動かないものは正しい。でも店の位置がかなり違う。豆屋は去年、娘夫婦の家とつなげるため二軒東へ移った。陶器屋の裏口は窯を増やして塞がっている。地図の上で広い路地も、今朝は粉屋の荷車が二台止まっていた。

 

「これ、道の幅はいつ測りました?」

 

 セラさんが地図の隅を読む。

 

「三年前の秋です」

「秋なら麦袋が少ない。今は春の買い入れで、粉倉の前が半分になります」

 

 ロウさんが私へ炭筆を渡した。

 

「直せるか」

「今朝の状態なら」

 

 地図へ線を足す。花屋の水桶。魚屋の氷箱。靴屋夫婦が喧嘩をすると道の真ん中へ出す革干し台。最後の一つは毎日ではないけれど、今日は確実にある。

 

 ノルが机の反対から身を乗り出した。

 

「ここ、壁じゃないんですか」

「木箱を積んであるだけ。古道具屋のおじいさんが、壁だと言い張って税金をまけてもらってる」

「それ、いいんですか」

「よくないから、記録官さんには聞かなかったことにしてほしいな」

 

 セラさんがすでに板へ書いていた。

 

『古道具屋、未申告の道路占有』

 

「仕事が速い」

「褒めても消しません」

 

 古道具屋のおじいさんには、あとでパンを一つ持っていこう。罰金ぶんには足りないが、謝罪の入口くらいにはなる。

 

「北路は、光輪を一枚ずつ担げば通れます」

 

 ノルが地図の階段を指す。

 

「一枚の重さは?」

「六十八リート」

 

 ロウさんが即座に却下した。

 

「十二往復で時間を失う。落とせば人が潰れる」

 

「西路は荷車の後輪だけ外して、小回りの利く台車へ――」

 

 ノルが次の案を出す。

 

「台車へ積み替える時間が一刻」

 

 レオンが言う。

 

「護衛人数も倍要る。南を開けたほうが早い」

 

 ノルは口を尖らせず、すぐ南路の寸法を測り始めた。自分の案を捨てるのが上手い子だ。修理では、道具に執着するより結果へ執着するほうが強い。

 

「ミナ」

 

 ティアさんが呼ぶ。

 

「何です?」

「今、ノルの長所を見つけた顔をしてる」

「顔に出ます?」

「出る。自分の条件も同じくらい丁寧に見て」

 

 難しい注文だ。

 

 私の条件は、走らない、持たない、使わない。できないことばかりで、褒める場所が見つからない。

 

「道案内ならできます」

「それだけをして」

「はい」

 

 返事をすると、ティアさんが赤い布を私の腕へ結んだ。

 

「これは?」

「医療制限中の印。誰が見ても、重い物を渡さない」

「市場中に病人だと宣伝するんですね」

「嫌なら治療室へ戻る?」

「赤は好きです」

 

 即答した。

 

 赤い布は配達鞄と同じ色だ。元気そうに見える。悪くない。

 

 ただ、結び目の下で黒い線が一本、脈に合わせて動いた。

 

「天幕の所有者は」

「八軒。魚屋、花屋、肉屋、豆屋、靴屋、陶器屋、古道具屋、それから香辛料屋。固定杭を全部抜けば、荷車一台ぶんは通せます」

「時間は」

「普通に頼むと半日。私が行けば半刻」

 

 レオンの眉間が動いた。

 

「走るな」

「歩いても半刻」

 

 朝の配達で、どの店が何時に仕入れ、誰へ話を通せば早いか知っている。魚屋は奥さん、花屋はエダさん本人、靴屋は喧嘩中なら二人へ別々に頼む。香辛料屋は理由より先に補償額を言う。

 

 道は石だけでできていない。そこを使う人の癖まで分かって、初めて近道になる。

 

「協力員の最初の仕事だ」

 

 ロウさんが言った。

 

「南路を開け。セラをつける。レオンは倉庫から荷車を護衛」

「私もミナにつく」

「護衛の主目的は光輪だ」

「こいつは――」

「走りません。重い物も持ちません」

 

 先に言う。

 

 レオンが私を見る。前に約束を破ったので、信じろとは言えない。

 

「セラさんが記録するよ。破ったらすぐ分かる」

 

 セラさんは記録板を掲げた。

 

『すでに発言を記録』

 

 頼もしい。私の逃げ道を消すことに関しては、修繕隊はずいぶん仲がいい。

 

 市場へ向かった。

 

 歩く。ちゃんと歩く。セラさんは私の半歩後ろで、時々足音がずれる。鐘が鳴ると聞き取りにくくなるらしく、こちらが話すときは自然に横へ並んだ。

 

「八軒へ、同じ説明をしますか」

「相手によって変えます」

「事実は?」

「変えません。順番を変えるだけ」

 

 魚屋の奥さんには、最初に鐘が止まれば冷蔵用の朝灯も消えると伝えた。店の魚が腐る。天幕の杭はご主人と二人で抜いてくれた。

 

 花屋のエダさんには、避難する子どもの道になると話した。彼女は説明の途中で金槌を持った。

 

 香辛料屋には、市が天幕の修繕費を出す予定だとセラさんから書面で示してもらう。金額が未定だと渋ったので、荷車が通らず鐘が止まれば店を開ける客もいなくなると追加した。

 

「脅しですか」

 

 店を出てから、セラさんが聞いた。

 

「損失の順番を説明しただけです」

「得意ですね」

「パン屋ですから」

 

 原価、期限、売れ残り。毎日、小さな損失の順番を決めている。

 

 靴屋では、予想どおり夫婦がまだ喧嘩をしていた。

 

「天幕の右半分を外してください」

 

 ご主人へ頼む。

 

「奥さんは左半分。どちらが早いか、市の記録官さんが測ります」

 

 二人は口を閉じ、別々の金槌を取った。

 

 セラさんが記録板へ書く。

 

『事実:夫婦は協力して天幕を撤去』

 

「競争です」

 

 小声で訂正した。

 

『観察:結果は協力』

 

 なるほど。記録する人のほうが一枚上手だ。

 

 予定より少し早く、南路が開いた。

 

 市場の天幕が両側へ畳まれ、鐘楼まで石畳が一本伸びる。東から光輪を積んだ荷車が見えた。

 

 光輪は、人の背丈ほどある銀色の板だ。薄い弧を十二枚組み合わせ、鐘の内側へ円を作る。荷車には布で包まれた弧が積まれ、レオンと市警四人が囲んでいる。

 

 その前方、石畳の割れ目から黒い煙が上がった。

 

「止まって!」

 

 叫ぶ。

 

 レオンが手を上げ、荷車が止まる。

 

 煙は細い。夜喰いになるほどではない。でも光輪は夜滓を引き寄せる。あの上を車輪が通れば、十二枚全部へ黒が付く。

 

「迂回路」

 

 セラさんが板へ書く。

 

「北は階段。西は荷車が曲がれない。ここを渡すしかない」

 

 夜滓を吸えば早い。

 

 そう考えた瞬間、胸の黒線が熱を持った。

 

 身体が先に準備をしたらしい。困った働き者だ。

 

 影請けは禁止。

 

 私は道の両側を見る。

 

 小麦粉の袋。魚屋の塩。陶器屋の平たい窯板。使えるものはある。

 

「粉を一袋、買います」

「何に」

「夜滓は光のある方へ寄る。でも粉をかぶせれば、煙の流れが見える」

 

 昔、店の床下へ黒いものが出たときに知った。説明した人の顔は思い出さなくていい。

 

 粉屋から一袋運んでもらい、石畳へ薄く撒く。重い物は持てないので、袋はペトとバルトさんに頼んだ。

 

 人へ頼むと、仕事は進む。

 

 分かっていたはずなのに、少し不思議だ。

 

 白い粉の上で、夜滓が蛇みたいな筋を作った。中心を避け、右端へ流れている。

 

「塩を左へ。窯板を中央に敷いて」

 

 市場の人たちが動く。魚屋が塩を撒き、陶器屋が板を並べる。白い道の上に、幅一歩ぶんの安全な線ができた。

 

「一台ずつ。車輪を線から出さないで」

 

 最初の荷車が進む。

 

 私は前を歩き、粉の筋を見る。セラさんが後ろで車輪を確認する。レオンは光輪のそば。

 

 半分を越えた。

 

 石畳の下で音がした。

 

 夜滓が窯板の隙間から噴き出す。

 

 黒い塊が、荷車の馬の前へ立ち上がった。

 

 頭が二つある犬。片方は吠え、もう片方は子どもの声で「待って」と繰り返している。

 

 夜喰いだ。

 

 馬が前脚を上げる。荷車が傾き、光輪の一枚が布の中で滑った。

 

「馬を切り離せ!」

 

 レオンが手綱へ飛びつく。

 

 市警二人が荷台を支える。セラさんは記録板をしまい、車輪止めを石畳へ蹴り込んだ。

 

 私は、光輪が落ちる側にいた。

 

 重い物は禁止。

 

 持つのは無理だ。

 

「布を引いて!」

 

 荷台の包み布をつかみ、市警へ投げる。全員で反対側へ引けば、滑った一枚を戻せる。

 

 市警が二人、布へ加わる。

 

「せーのは言わない。私が三つ数えたら引く。いち、に、さん!」

 

 布が張る。

 

 光輪が荷台の中央へ戻った。

 

 夜喰いがこちらを向く。

 

 黒い犬の顔が、知っている子どもの顔へ変わった。

 

 白い廊下で、値札を首から下げていた子。

 

 名前は――。

 

「見るな!」

 

 レオンの剣が視界を塞いだ。

 

 銀の刃が夜喰いの顎を受ける。子どもの顔が横へ裂け、黒い歯へ戻った。

 

「荷車を進めろ。ミナ、下がれ」

 

 下がる。

 

 一歩だけ。

 

 でも荷車の前方には、まだ粉の薄い場所がある。私が線を読まなければ、車輪が夜滓へ入る。

 

「道だけ見ます」

「退避しろ」

「案内役がいなくなったら、誰が先頭を歩くの」

「俺が」

「夜喰いと道、両方は無理」

 

 返事を待たず、荷車の前へ戻る。

 

 剣も杖も持てない。重い物も運べない。影請けも禁止。

 

 それでも、一人ぶんの目と声は余っている。

 

 予備だ。

 

 何かが足りないとき、そこへ入るための一人。そう考えれば、私が危険な場所にいる理由も説明できる。

 

「右へ半歩。次、窯板の中央!」

 

 荷車が進む。

 

 レオンが夜喰いを押し返し、鐘楼側からロウさんの結界線が伸びてきた。黒い犬の足を縛る。

 

「今だ、走らせろ!」

 

 最後の十歩だけ、馬を走らせる。

 

 荷車と一緒に私も走りかけ、セラさんに外套の襟をつかまれた。

 

「走らない条件」

「今は例外でしょう?」

「書いてありません」

 

 強い。

 

 私たちは早歩きで鐘楼へ入った。

 

 背後で青い光が弾ける。ロウさんの結界に閉じ込められた夜喰いを、レオンの剣が光輪の欠片ごと貫いた。

 

 黒い煙が消える。

 

 鐘楼の内部には、円形の昇降台がある。荷車から光輪を降ろし、上の鐘室へ運ぶ仕組みだ。

 

 ノルが操作盤へ飛びついた。

 

「十二枚、全部無事です!」

「取りつけは何刻?」

 

 ロウさんが入ってくる。

 

「二刻。古い輪を外すのに、もう半刻」

「一刻でやれ」

「留め具が六十個あります」

「四人で外せば十五個だ」

 

 ロウさんは私を見た。

 

「お前は地上で避難誘導」

「取りつけは手伝わなくていい?」

「重い物を持つな。内部光に長く当たるな」

 

 言われて初めて、昇降台の青い灯りが足元を照らしていることに気づいた。

 

 石床へ、皆の影が伸びる。

 

 ロウさん。ティアさん。ノル。セラさん。遅れて入ったレオン。

 

 私の影だけ、動くのが一拍遅れた。

 

 足を動かす。

 

 影は少し遅れて、同じ形になる。

 

 疲れているのだ。影だって持ち主に似るらしい。

 

「外へ出ます」

 

 誰かに見つかる前に、青い灯りから離れた。

 

 いや。

 

 レオンは見ていた。

 

 彼の視線が床から私の顔へ上がる。何も言わない。その沈黙を受け取る前に、鐘楼の壁を叩く音がした。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 昇降台の下からだ。

 

 全員が止まる。

 

 夜喰いなら、扉を叩かない。

 

「誰かいるの?」

 

 ノルが床へ耳をつけた。

 

 石の下から、かすれた声が返ってくる。

 

「――開けて。まだ、人がいる」

 

 子どもの声ではない。年を取った男の人の声だった。続けて壁を三回叩き、それきり黙る。助けを呼ぶ力まで使い切ったように。

 

 麦環市の暁鐘は、誰かを中へ閉じ込めたまま鳴っていた。

 

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