一人で出発すると、点呼が早い。
私。以上。
夜明け前、白丘療養院の裏口を出た。空の赤い配達鞄、青い襟巻き、身分札、薬、筆談板、ロウさんの封印鍵。
予定帳は枕の下へ置いた。
持ってくれば、帰還後の頁を書けと言われる。置いていけばレオンが見つける。どちらも困るけれど、列車の荷物は軽いほうがよい。
影は私より先に廊下を曲がる。
完全分離したおかげで、見張りの位置が分かる。入口のレオンは椅子で眠っていない。目を閉じ、扉の音を待っている。窓側のロウさんも、机へ左手を置いたまま浅い呼吸。
正面から出れば見つかる。
影が床下の薬品搬入口を示した。白麦院時代の保守路と療養院の地下は、古い冷却管でつながっている。ノルが北病棟の配管図へ印をつけていた。
教わったわけではない。机に開いてあった図を、記録整理で見ただけだ。
寝台をきしませず起きる。右手は感覚が弱いので使わない。左手で鞄、襟巻き、靴。影が毛布の形を保ち、寝ている人の輪郭を二秒遅れで真似する。
身代わりとしては薄い。
それでも二分あれば足りる。
薬品搬入口の留め具を外す。螺子は三本。一本目、普通。二本目、逆。三本目は頭が潰れている。赤い糸の細工工具があれば早いが、扉前へ置いたまま。
ノルなら一度で外す。
私は真鍮ナイフの背を使う――ナイフも棚へ置いた。
形見を残さないため荷物を減らすと、脱出に必要な道具まで減る。計画には改善の余地がある。
薬瓶の蓋を留める薄い金具を曲げ、螺子頭へ差す。二分四十秒。予定より遅い。
床板を持ち上げる。
「どこへ行く」
レオンの声。
起きていた。
影の毛布は、入口から見ると私の形になっていなかったらしい。商品写真の改善が必要だった。
答えない。声は禁止。筆談板へ書けば時間がかかる。
地下へ降り、床板を閉める。レオンが走る音。床板の上で留め具が鳴る。
薬品搬入口は内側からも鍵がかかる。細い閂を下ろす。
「ミナ!」
床越しの声。
私は冷却管の横を進む。
止まれば、全員で来る。封鎖を破った五人は仮契約の保護条件に触れるかもしれない。鐘守庁が拘束できなくても、事故なら守れない。
一人なら、条件を使わずに済む。
地下路は古い。白丘療養院の新棟ができる前、薬と患者を鐘路保守列車へ運んだ通路。壁の案内札は半分消え、夜滓の黒い染みが残る。
影が染みへ触れようとする。
『吸わない』
板へ書いて見せる。影に目があるか分からないが、文字は契約時に使えた。
影は止まる。
今日の目的は夜滓処理ではない。王都へ行き、エルネスト長官からユリオの記録を受け取り、分灯式の第一鐘接続を進める。必要なら朝の器へ入る。
必要かどうかを、現地で決める。
療養院側で警報鐘。
床下の管を通して、三回、二回、一回。患者脱出、封印鍵紛失、候補者所在不明。
仕事が増えた。
申し訳ないので、引継ぎを残す。
中継室までの途中に、古い待避所があった。
壁へ低い座席が二十。白い塗料で番号が振られている。一から二十。移送架台へ載せる前、候補児を並ばせた場所だ。
十九の座席だけ、留め金が外れている。ロウさんが逃がした夜に壊したのかもしれない。二十の留め金は閉じたまま。
ユリオは、ここからどこへ行ったのだろう。
王都に記録がある。エルネスト長官が健康票を持つ。生存していれば二十歳前後。私を覚えているかは分からない。
会ったら何と伝えるか。
『お姉ちゃんです』では証明が足りない。襟巻きの刺繍、幼児靴、候補者本名簿。証拠は全部、病室へ置いてきた。
何も残さない方法を選ぶと、会うための物まで残らない。
引き返せば取れる。
レオンたちは起きている。戻った瞬間、鍵を回収される。全員で別の道を探し、解除試験を繰り返す。ロウさんの手より大きな損失が出る。
王都へ着けば、長官の記録で確認できる。私の所持品は不要だ。
十九の座席へ座る。
体温三十五度四、胸痛五、喉七、右手感覚二。歩行で脈百五十二。予定より速い。
溶解薬を使う。残り三回分。
薬を吸っている間、影が二十の座席へ座った。私ではなく、小さな子どもの形になる。足が床へ届かない。
『ユリオ?』
板を向ける。
影は答えない。私が三歳の弟の姿を思い浮かべたから、二秒遅れて形を取っただけだ。
それでも、座席二つに人影がある。
十二年前の移送でできなかった点呼をする。
『十九、ミナ・セル』
自分の板。
『二十、ユリオ・セル』
影の前へ置く。
二人。
今度は数えられた。
影が立ち、二十番の留め金へ触れる。契約印が光ると、錆びた金具が外れた。座席の下に小さな傷。
『おねえちゃんのあし、ないてる』
第28話の映像で聞いた弟の言葉が刻まれていた。幼い文字ではない。後年、同じ場所へ戻った誰かが書いた線だ。
ユリオは生きて、ここを通った可能性がある。
王都へ行く理由が増えた。
よいことだ。
帰る理由ではないけれど、進む理由なら使える。
私は傷を写し取り、板の裏へ時刻と場所を記す。セラさんへ送るべき証拠。中継室の通信器から、音声記録と一緒に送れる。
何も残さないつもりだったのに、また記録を作った。
でもこれは私物ではない。弟の所在調査。仕事だ。
立ち上がる。十九と二十の座席は、どちらも留め金が開いたまま。
旧保守路の中継室へ入り、音声記録器を見つけた。壁へ固定された非常用。声を入れると地上の管理室へ送る。
喉は完全発声禁止。一音で夜晶が気管へ落ちる可能性。
筆談記録は相手が装置まで来ないと読めない。音声なら、五人へ同時に届く。
声は一番速い道具だ。
前にも同じ計算をした。
結果、発声八回で夜晶が定着した。今回は一回の記録にまとめればよい。
録音板を押す。
「――連絡、です」
声が出た。
砂を詰めた硝子を割る音。喉へ熱い線。布へ血が一滴。
「私は、王都へ、先行します」
一語ごとに息を分ける。
「追跡は、不要。仮契約の、保護条件を、維持してください」
説明だけでは止まらない。五人が自分たちで作業を続けられる理由を渡す。
「ロウさん。全体を、見て、責任者を、決められます。右手が、使えなくても、命令は、できます」
録音板の波形が赤くなる。
「ティアさん。数字と、危険を、別にして、選択肢を、作れます。私が、患者でなくても、必要です」
言い方が変だ。ティアさんが必要なのは、私の治療だけではない。ほかの患者がいる。
「セラさん。言葉と、事実を、両方、残せます。私の説明が、なくても、記録は、進みます」
胸が痛む。六。七。
「ノル。分配歯車を、直せます。逆螺子を、知っています。工具は、扉の内側。使って、ください」
いらないと言われた。けれど分灯式には必要だ。
「レオン。帰る道を、作れます。全員を、朝食へ、戻せます」
全員。
誰を含むか言わない。
「五人で、分灯式を、完成できます」
具体的な作業も残す。
「第三鐘の、残り三割は、予定の数ではなく、分配筒の、傷です。ノルが、逆流板を、反対向きにすれば、二割。セラさんの、帽子の予定と、子どもの靴の予定を、別群に。辞退権は、残す」
喉の奥で何かが剥がれる。飲み込まず、布へ吐く。夜晶の薄片と血。
「ティアさん。参加者の、痛み尺度を、統一。私の尺度は、使わないで。ロウさんは、停止条件を、変えない。レオンは、最後尾に、ならないで」
最後の一文は作業指示ではない。誰かを最後尾へ置くなら、彼は自分を選ぶ。私と同じ計算をする。
「最後尾は、順番で、交代。誰か一人の、担当に、しない」
分灯式の考え方を、避難路にも使う。百の明日を百に返す。一人の影に朝を盛らない。
私は自分を朝の器へ残しながら、五人には一人を作るなと言っている。
矛盾は分かる。
でも、五人なら直せる。
「音声記録は、引継ぎ後、消して、構いません。声の標本には、しないで」
形見を一つ減らす。録音器は送信後に自動保存するので、セラさんが消去権を持つ。
五人の顔を思い浮かべる。
ロウさんは責任者を決める。ティアさんは数値を取る。セラさんは記録の削除も選べる。ノルは工具を使う。レオンは道を作る。
それぞれが私に助けられた、と帳簿には書いてあった。なら、助けられた借りを返す仕事は、ここで終わりにしてよい。今度は自分たちの明日へ使える。
自分が抜けても機能する。
確認すると、胸の中が少し軽くなった。
最後に、行動予定。
「私は、第一鐘で、接続調査。ユリオの、記録回収。朝の器は、共同式が、間に合わない場合だけ」
嘘ではない。
「アルノパン店へは、封鎖解除後、荷物を、返してください。親方へ、焦げたパンは、受け取ったと」
録音板に血が落ちる。
帰還後の予定がない。
足せばよい。契約不発効時、麦環市へ帰る。来年、朝食。林檎の種を植える。
言葉は喉まで来て、出なかった。
夜晶が中央で触れ合う。息が細くなる。
「以上、です」
録音を止める。
布へ咳をする。黒い血。報告札へ出血量を書き、壁に貼る。医療者が来たときに分かる。症状隠しではない。
自分で薬を吸入する。溶解薬は一回分。残りは王都まで持たせる必要がある。
中継室の先に、封印扉。
ロウさんの鍵を出す。右手では回せない。左手で鍵穴へ入れ、二段階。隊長印、保守印。最後に本人の影。
契約印のある影が扉へ触れる。
『候補者十九、王都移送を許可』
鐘守庁の封鎖は、私を王都へ運ぶ方向だけ開いた。
扉が上がる。
向こうに、一本の保守列車。貨車二両、運転台。夜明け前の自動便は、白丘から王都中央鐘へ薬剤を運ぶ。
乗車札へ身分を当てる。
『候補者十九』
表示を消し、手書きで直す。
『ミナ・セル/ミナ・アルノ』
列車は受理した。
封印扉の制御盤を内側から閉鎖する。開錠には同じ鍵か、ノルが持つ古式工具。鍵は私が持つ。工具は扉前。
ノルなら開けられる。
ただし、分解に二十分。列車の発車まで八分。
追いつけない時間を計算した。
私は運転台へ入り、王都を選ぶ。
地上から、別の警報。保守路へ侵入者五名。
来た。
予想より早い。レオンが床板、ノルが配管、ロウさんが封印経路、ティアさんが薬の追跡札、セラさんが影濃度。五人の長所を使えば、道は見つかる。
だから扉の外まで来られる。
「ミナ!」
鉄扉越しでも、レオンの声は分かる。
「開けろ!」
私は筆談板を扉の観察窓へ向ける。
『保護条件を守ってください。列車は王都へ行きます』
「鍵を返せ」
ロウさん。
『王都到着後、鐘守庁へ返却』
「窃盗の処理を聞いてない」
『帰還後に減給で』
帰還後、と書けた。
扉の外で、全員の動きが一瞬止まる。
「今、書いたな」
レオン。
『処分手続の話です』
「それでいい。帰って処分を受けろ」
罰を帰還予定に使われた。
ノルが扉の下へ工具を入れる音。赤い糸の細工工具。いらないと言った物を、使っている。
「左下、逆螺子!」
誰かへ指示している。ロウさんが結界を押さえ、ティアさんが扉の夜滓値を読み、セラさんが旧図面を読み上げる。
五人で役割を拒むはずが、五人で作業している。
よいことだ。
列車発車まで六分。
『分解に二十分です』
板へ書く。
「十二分に縮める!」
ノルが叫ぶ。
『間に合いません』
「止めて!」
『自動便です』
「制御線を切れば」
『薬剤便が王都へ届きません』
「列車よりミナ」
ノルの答え。
優先順位を間違えている。王都の患者百二十人分の薬剤。遅れれば治療が止まる。
『薬を止めないで』
「ミナも患者!」
扉へ工具が食い込む。
ティアさんの声。
「声を出した? 血の反応がある!」
『音声記録一回。出血量報告済み。薬使用』
「一回に何語入れたの!」
数えていない。百語は超えた。
筆談板を伏せる。
セラさんが別の質問をする。
「音声に、自分の帰還後はある?」
記録を聞いたらしい。地下の管理線へ送られたから、全員の受信器に届いた。
『第一鐘で接続調査』
「そのあと」
『ユリオ記録回収』
「そのあと」
また空欄。
『分灯式の結果次第です』
「五人の長所は並べた。自分がいなくても動けると言った」
『観察した事実です』
「別れの記録?」
『引継ぎです』
言葉が違うだけで、内容は近いかもしれない。
列車発車まで三分。
ロウさんが命じる。
「ミナ・アルノ。臨時協力員の身分を維持する。王都先行を単独任務として認めない。列車を止め、扉を開けろ」
『候補者移送は修繕隊任務外です』
「隊長命令だ」
『現在、影請け任務から解除中です』
受ける役割がない命令は、私を止められない。
ロウさんが結界杖を扉へ打つ。焼けた右手が開き、血が落ちる。
「命令で守ろうとした。間違えた」
声が鉄を通る。
「今は、隊長としてではない。鍵を返してくれ」
頼みへ変えた。
条件がない。
『理由』
「六人で方法を探す」
『五人を契約から外す条件です』
「安全にされるのを拒否する」
ロウさんは、自分の保護条件を拒んだ。
ティアさんも言う。
「治療者として追う。あなたが治療を拒否しても、情報を持って隣にいる。使われないためじゃない」
セラさん。
「記録係を辞めても追う。本人説明がなくても、観察事実がなくても」
ノル。
「見習いは辞めた。でも扉は開ける」
役割を拒んでも、残ると言っている。
レオンだけ、すぐには話さなかった。
列車発車まで一分。
扉の螺子が二本外れる。ノルの見積もりは十二分より速い。それでも間に合わない。
「ミナ」
レオンが観察窓へ顔を近づける。
「お前が俺たちを無事にするため行くのは分かった」
理解された。
「でも、お前抜きで無事になるつもりはない」
分からない。
五人が生き、分灯式が完成し、店が残る。それが無事だ。
『定義を』
書きかける。
発車鐘。
列車が動いた。
扉の外の五人が、観察窓から後ろへ流れる。
ノルの工具。ティアさんの薬箱。セラさんの帳面。ロウさんの血のついた結界杖。レオンの手。
全員、扉に触れている。
私は鍵を握る。
返す仕事が残った。
保守列車は、王都へ向けて発車した。