三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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五十個のパン

 王都へ行く列車は、麦環市を通る。

 通るだけで停まらない。候補者移送の優先便なので、途中駅は全部素通り。そういう規則だった。

 ただし、王都前の夜滓検査で異常があれば別である。

 私の影には二千単位以上。胸の黒線は心臓を半周。声帯夜晶、導入路、秘密契約。検査器は見たことのない赤色になった。

 

『要緊急整備』

 

 列車が麦環市の保守側線へ入る。

 規則は守った。私が停車を頼んだわけではない。

 停車時間は夜明けまで八時間。

 

 王都中央鐘の受入槽を調整し、列車の影封印を交換する。その間、候補者は車内待機。

 待機は苦手だ。

 窓からアルノパン店の煙突が見える。朝前の窯は、もう煙を出していた。親方は公示で私の名前を見ても、店を休まなかったらしい。

 

 店へ荷物を返す仕事がある。焦げたパンの受領報告。封鎖で届かなかった返信。八時間あれば往復できる。

 

 列車の扉は、候補者本人の王都方向移動だけを許可する。逆方向へ降りると警報が鳴る。

 影を先に降ろす。

 警報なし。

 身体も続く。

 一歩目で小さな鐘、二歩目で大きな鐘。三歩目に走れば、保守員が来るまで二分。

 走行禁止なので早歩きにした。

 駅の裏柵を越え、朝市前の道へ出る。青い襟巻きで喉の布を隠し、空の赤い配達鞄を肩へ。影は身体の隣を歩く。

 麦環市は変わっていない。

 花屋の軒、肉屋の看板、靴屋の曲がった雨樋。暁鐘は修理後の薄い光を町へ落としている。

 変わったのは、私の声が出ないことくらいだ。

 アルノパン店の裏口は、鍵がかかっていなかった。

 親方は朝の仕込み中、私が配達から戻るまで開けておく。十二年続いた悪い防犯習慣。

 扉を開ける。

 小麦粉、酵母、薪、焼けた皮。

 味はしない。匂いも弱い。それでも、窯の熱が頬へ触れる位置を身体が覚えている。

 マルタ親方が作業台の向こうにいる。

 生地を五十個へ分割していた。

 私を見ても、手を止めない。

 

「手、洗いな」

 

 帰ってきたのか、何をしたのか、喉はどうしたのか。聞かない。

 私は手洗い場へ行く。右手の感覚が弱いので、湯の温度を左で確かめる。爪の間まで洗い、作業布を巻く。

 親方は秤を指す。

 

「五十個。避難所へ持ってく」

『王都の大夜蝕対策ですか』

 

 店の伝言板へ書く。

 

「市の北倉庫。鐘守庁が、王都で何かあれば地方も夜熱が出るって」

 

 私の朝の器計画が失敗した場合だ。

 

『手伝います』

「喉の布、黒いぞ」

『発声はしません。成形のみ』

「手」

『左手で可能』

 

 親方は右手の温布を外し、指先を一つずつ押した。

 

「分かる?」

 

 見ないよう目を閉じる。一、二、三。四本目は分からない。

 

『三本』

「五本押した」

 

 レオンと同じ検査をする。

 

「成形は左。窯、刃物、粉袋は触るな」

 

 働く許可が出た。

 生地を左手で丸める。

 最初は縁が割れた。二個目は力が偏る。三個目で、台を回しながら手のひらを固定する方法を思い出す。

 五十個は同じ生地ではない。

 北倉庫の避難者名簿には、幼児八人、歯の弱い老人十一人、糖蜜を避ける人三人、塩分制限二人。親方は白い札、青い札、黄色い札で分けていた。

 

『名簿を見ましたか』

「市役所の受付を起こした」

 

 夜中に。

 

『怒られませんでしたか』

「パンを持ってった」

 

 交渉材料が強い。

 白札は普通の丸パン二十六。青は乳で柔らかくしたもの十九。黄色は塩なし五。合計五十。

 私は左手で白札を丸め、親方が閉じ目を確認する。三個に一個、台へ戻される。

 

「張りが足りない」

『左手の角度が』

「身体じゃなく、生地を見な」

 

 生地は言い訳を聞かない。押した分だけ潰れ、休ませた分だけ戻る。

 私は台の高さを一段下げた。左肘が開かず、手のひら全体を使える。次の五個は戻されなかった。

 

「工夫はするんだね」

『品質に必要です』

「自分の身体には」

『治療中です』

「逃げた患者が何言ってる」

 

 事実なので反論しない。

 青札の生地は柔らかい。右手で支えないと台へ張りつく。私は木べらを固定具にし、左手だけで折る。親方は木べらの位置を一寸直した。

 

『助かります』

「礼じゃなく覚えな」

 

 次は自分で直す。

 この作業に次がある前提を、親方は普通に使う。

 黄色札は塩がないため、発酵が速い。先に窯へ入れる。親方が長柄を持ち、私が焼き時刻を札へ書く。

 味見はできない。匂いも弱い。

 焼き色、底を叩いた音、重さで判断する。親方が一個割り、内部の気泡を見る。

 

「味は私が見る」

『お願いします』

「悔しい?」

 

 味見を任せるのは合理的だ。前にもそう答えた。

 

『安全です』

「悔しいかって聞いた」

 

 味が分からない。親方の焦げたパンも、蜂蜜も、塩も。食べられるが、前に何を好きだったか、記憶でしか分からない。

 

『少し』

 

 板へ書く。

 親方は驚いた顔をしない。黄色札のパンを一口食べる。

 

「塩なしにしちゃ、粉が甘い」

 

 感想を私へ渡す。

 私は記録札へ『粉の甘みあり。幼児用にも可』と書く。味そのものは戻らないが、親方の言葉を借りて品質へ使える。

 

「借りって数えるなよ」

 

 書く前に釘を刺された。

 

『共同検品です』

「それでいい」

 

 五十個のうち二十七まで成形したところで、親方が朝食の皿を出した。

 六枚。

 

『現在二人です』

「あと四人来る」

『後発は五人です』

「あんた入れて六人」

 

 数が合わない。今ここに親方と私。修繕隊五人が来れば七人。

 

『親方の皿は』

「立って食べる」

 

 店主はいつも仕込み中に端を食べる。客席の皿へ自分を数えない。

 

『六個は修繕隊分。私は列車食があります』

 

「五人と、あんた」

 

 訂正される。

 私は卵を数える。六。パン六。椅子六。私の席は、昔から窓際。冬に風が入るので、ほかの人を座らせないため選んだ。

 今は窓枠が直され、隙間がない。

 

『修理したんですか』

「去年」

『必要なら早く』

「あんたが帰るたび、毛布でふさいでたから忘れた」

 

 私が対処していたから、修理が遅れた。役に立った行動が、根本修理を遠ざける例として記録できる。

 セラさんがいないので、書かない。

 親方の生地は戻ってくる。

 押して、折って、丸める。白麦院を出た朝、初めて触ったときと同じ。

 

「列車は」

 

 十個目で親方が聞いた。

 

『王都前整備。夜明けに出ます』

「あんたは」

『同乗』

「五人は」

『後発台車』

「置いてきたね」

『先行です』

「置いてきた」

 

 親方は言い直さない。

 

『王都で合流できます』

 

 封鎖を突破できれば。ノルなら台車の鍵外を分解する。五人の長所は音声で確認した。

 

「何しに行く」

『第一鐘の分灯式接続。ユリオの記録回収』

 

「それだけ?」

『朝の器は共同式が間に合わない場合のみ』

 

 親方の手が止まった。

 生地を丸める途中。表面が張り、閉じ目だけがまだ開いている。

 

「何、それ」

 

 公示には単独受容方式としか出ていない。店へ詳細を知らせれば、親方が王都へ来る。仮契約で店は保護されるが、本人が動けば保護条項の外かもしれない。

 

『大夜蝕の予備計画です』

「あんたが何する」

『適合確認』

「何を失う」

 

 声。影請け。心臓。肺。未来。

 契約には書かれていない。医療予測なら、長い説明になる。

 

『生存率は算出不能です』

 

 親方は生地から手を離した。

 

「帰ってくる率は」

『同じです』

「違う。生きてても帰らない子がいる」

 

 私のことらしい。

 

『分灯式が完成すれば帰還します』

「完成しなかったら」

『王国を守れます』

 

 答えになっていると思う。

 親方は作業台の下から、古い帳簿を出した。店の雇用帳簿。私が十二歳で来た年から、給金、食費、部屋代が記録されている。

 最初の頁。

 ミナ、皿洗い。給金銅貨十二。食事一日二回。部屋代免除。

 次の年、配達見習い。

 次、製パン補助。

 次、配達責任者。

 

 最後の頁に、赤い線。

 雇用欄の私の名前が消されている。

 胸が冷える。

 役に立てなくなったから、ではない。私が旅へ出て三週間。長期不在の人を雇用帳簿から外すのは普通だ。

 

『退職日は』

「下」

 

 親方が指す。

 家族欄。

 マルタ・アルノ。店主。

 そこには、ミナ・アルノ――娘、とある。

 提出印まである。市役所受理、第23話の日付。親方が未提出だった養子申請を、私が白麦院へ向かった日に出した。

 添付書類が帳簿の後ろへ綴じてある。

 同居証明。十二歳から五年間、店二階に居住。医療費、衣服費、教育費、食費。親方が払った金額。

 

 私は給金から部屋代と食費を返していたつもりだった。帳簿を見ると、差し引かれていない。給金は全額、私名義の貯蓄へ回されている。

 

『この貯蓄は』

「あんたの」

『食費精算に』

「しない」

『五年分は高額です』

「子どもの飯代を請求する親がいるか」

 

 親。

 マルタ親方は、昔から自分をそう数えていたらしい。

 

『住み込み雇用と説明されました』

「最初の三日だけ」

 

 ロウさんが三日だけ預けた。親方はパン屋を何だと思ってる、と金を投げ返した。

 

「あんたが四日目も朝一番で床を磨いた。だから仕事をやめさせたら出てくと思った」

 

『正しい判断です』

「正しくない。出てっても、追えばよかった」

 

 親方は帳簿の頁をめくる。

 十三歳。熱が三十九度あった日、配達十六件。私は忙しい週と同じと説明。親方は配達を半分取り上げたが、残り半分は行かせた。

 

 十四歳。右足を捻った日、厨房作業へ変更。休ませず、座ってできる仕事を与えた。

 十五歳。店の裏で夜喰いを吸った日。朝まで寝かせ、次の日から仕込みへ戻した。

 雇用記録の横に、親方の小さな字。

 

『仕事をやめさせると、荷物をまとめる』

 

 観察されていた。

 

「働かせたほうが店に残ると思った」

『実際、残りました』

「それを、家だと教えなかった」

『部屋と食事のある職場です』

「まだ言うか」

 

 親方は帳簿を閉じず、次の書類を出す。

 学校入学申請。私は夜間学校へ三か月だけ通い、配達が増えて辞めた。申請者はマルタ・アルノ、続柄「母代わり」。

 

 影請け登録の拒否申立て。能力を仕事へ使わせるな、と親方が市へ提出。却下理由は、本人が影請けを否定したため保護対象を特定できない。

 

 十八歳の職人試験申込。来年の日付。推薦者マルタ・アルノ。

 私の来年を、親方は予定へ入れていた。

 

『試験料が未納です』

「払った」

『私の貯蓄から』

「祝い」

『合格前です』

「先に祝う」

 

 贈り物の順番までおかしい。

 

 最後の紙。第23話に提出した家族登録。

 理由欄に、親方の字。

 

『本人は仕事を失うと家も失うと誤認している。雇用欄から外し、家族欄へ移す』

 

 私の考えが、市役所の紙に書かれている。

 

『誤認ではありません。住居は雇用条件でした』

 

「十二歳のあんたへ、最初の三日そう言った。四日目から訂正してない。私の落ち度だ」

 

『今まで住めたので問題ありません』

「今、帰らない理由になってる」

 

 親方の指が家族欄へ止まる。

 

「問題だ」

『本人署名がありません』

「十七歳の保護登録。本人署名は十八で追加」

 

『相談を』

「した。家族欄を空けた紙、見せた。あんたは職人だからって閉じた」

 

 第2話。見た。家族欄の空白を、仕事と関係ない欄として閉じた。

 

「だから私が書いた」

『意思確認が』

「嫌なら十八で抜けな」

 

 出口もある。

 白麦院の代筆とは違う。親方は家族へ入れ、抜ける日も残している。

 

「今、読む?」

 

 家族欄を示す。

 意味は読める。

 使い方が分からない。

 娘。働けなくても、味がなくても、声がなくても残る欄。給金も作業点もない。

 読めば、帰りたくなる。

 帰りたい。

 胸へ出た言葉を、最後の納品へ置き換える。

 

『五十個を完成させます』

「帳簿を読め」

『発酵時間が』

「読むまで生地は触らない」

 

 親方が私の手から生地を取った。

 作業を止められた。

 

『避難用です』

「帰らない子が焼いたパンを、避難用にしない」

 

『品質に問題は』

「ある。帰る気が入ってない」

 

 パンの品質基準に精神状態はない。

 親方は五十個の生地へ濡れ布をかけた。発酵が進みすぎる。あと二十分で丸めないと、表面が割れる。

 

 避難所の納品時刻まで三時間。今止めれば、最初から仕込み直す小麦はない。五十人の朝食が遅れる。

 

『食べる人に責任はありません』

「分かってる」

『では作業を』

「別の店へ頼んだ」

 

 親方は店の連絡札を見せた。肉屋の隣の大窯、学校の給食室、北門宿の厨房。十七個、十八個、十五個に分けて依頼済み。私が生地を丸めている間に、代替を作っていた。

 

『材料費と配達は増えます』

「払う」

『この生地は』

「帰るって決めたら焼く。決めないなら、膨らみすぎた分は酵母へ戻す」

 

 食べ物を無駄にはしない。けれど、私が焼かなくても避難所へパンは届く。

 私の役割を外したうえで、五十人を守る道を用意している。

 

『そこまで準備したなら、私の返答は作業に不要です』

 

「仕事にはね」

『では何に』

「私に必要」

 

 親方自身が待つため。

 その費用を、親方は自分で払うと言っている。

 

「帰ってくるって言いな」

 

 声は出せない。

 板なら書ける。

 

『契約不発効時に』

「条件をつけるな」

 

 ノルと同じ。

 

『虚偽は書けません』

「帰りたいか」

 

 はい、と書けばよい。帰りたい気持ちはある。気持ちと実行可能性は別なので、嘘ではない。

 

 でも、帰りたいと親方へ渡せば、親方は待つ。六人分の朝食を作る。店の奥の寝台を空ける。帰れなかった場合、その作業が残る。

 

『五十個を納品すれば、これまでの食費の一部を返せます』

 

「返すな」

『材料費は店負担です。作業分だけ』

「返すな!」

 

 親方の手が作業台を打つ。粉が跳ねる。

 

「あんたが食った分を、最後の納品で返すな」

 

 最後、という語は使っていない。

 親方には届いている。

 奥の台に、朝食の材料がある。

 卵六個。小さな丸パン六個。皿六枚。

 私が帰ると知らせる前から、六人分を仕込んでいた。

 

『修繕隊は後発です』

「知ってる」

『到着時刻未定』

「冷めたら焼き直す」

『私は列車へ戻ります』

「戻ってから食べる分」

 

 条件がない。

 私は家族欄をもう一度見る。

 ミナ・アルノ。娘。

 

 最後まで読めず、帳簿を閉じた。

 親方は生地を止めたまま、腕を組む。

 

「帰らない子のパンは焼かない」

 

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