王都へ行く列車は、麦環市を通る。
通るだけで停まらない。候補者移送の優先便なので、途中駅は全部素通り。そういう規則だった。
ただし、王都前の夜滓検査で異常があれば別である。
私の影には二千単位以上。胸の黒線は心臓を半周。声帯夜晶、導入路、秘密契約。検査器は見たことのない赤色になった。
『要緊急整備』
列車が麦環市の保守側線へ入る。
規則は守った。私が停車を頼んだわけではない。
停車時間は夜明けまで八時間。
王都中央鐘の受入槽を調整し、列車の影封印を交換する。その間、候補者は車内待機。
待機は苦手だ。
窓からアルノパン店の煙突が見える。朝前の窯は、もう煙を出していた。親方は公示で私の名前を見ても、店を休まなかったらしい。
店へ荷物を返す仕事がある。焦げたパンの受領報告。封鎖で届かなかった返信。八時間あれば往復できる。
列車の扉は、候補者本人の王都方向移動だけを許可する。逆方向へ降りると警報が鳴る。
影を先に降ろす。
警報なし。
身体も続く。
一歩目で小さな鐘、二歩目で大きな鐘。三歩目に走れば、保守員が来るまで二分。
走行禁止なので早歩きにした。
駅の裏柵を越え、朝市前の道へ出る。青い襟巻きで喉の布を隠し、空の赤い配達鞄を肩へ。影は身体の隣を歩く。
麦環市は変わっていない。
花屋の軒、肉屋の看板、靴屋の曲がった雨樋。暁鐘は修理後の薄い光を町へ落としている。
変わったのは、私の声が出ないことくらいだ。
アルノパン店の裏口は、鍵がかかっていなかった。
親方は朝の仕込み中、私が配達から戻るまで開けておく。十二年続いた悪い防犯習慣。
扉を開ける。
小麦粉、酵母、薪、焼けた皮。
味はしない。匂いも弱い。それでも、窯の熱が頬へ触れる位置を身体が覚えている。
マルタ親方が作業台の向こうにいる。
生地を五十個へ分割していた。
私を見ても、手を止めない。
「手、洗いな」
帰ってきたのか、何をしたのか、喉はどうしたのか。聞かない。
私は手洗い場へ行く。右手の感覚が弱いので、湯の温度を左で確かめる。爪の間まで洗い、作業布を巻く。
親方は秤を指す。
「五十個。避難所へ持ってく」
『王都の大夜蝕対策ですか』
店の伝言板へ書く。
「市の北倉庫。鐘守庁が、王都で何かあれば地方も夜熱が出るって」
私の朝の器計画が失敗した場合だ。
『手伝います』
「喉の布、黒いぞ」
『発声はしません。成形のみ』
「手」
『左手で可能』
親方は右手の温布を外し、指先を一つずつ押した。
「分かる?」
見ないよう目を閉じる。一、二、三。四本目は分からない。
『三本』
「五本押した」
レオンと同じ検査をする。
「成形は左。窯、刃物、粉袋は触るな」
働く許可が出た。
生地を左手で丸める。
最初は縁が割れた。二個目は力が偏る。三個目で、台を回しながら手のひらを固定する方法を思い出す。
五十個は同じ生地ではない。
北倉庫の避難者名簿には、幼児八人、歯の弱い老人十一人、糖蜜を避ける人三人、塩分制限二人。親方は白い札、青い札、黄色い札で分けていた。
『名簿を見ましたか』
「市役所の受付を起こした」
夜中に。
『怒られませんでしたか』
「パンを持ってった」
交渉材料が強い。
白札は普通の丸パン二十六。青は乳で柔らかくしたもの十九。黄色は塩なし五。合計五十。
私は左手で白札を丸め、親方が閉じ目を確認する。三個に一個、台へ戻される。
「張りが足りない」
『左手の角度が』
「身体じゃなく、生地を見な」
生地は言い訳を聞かない。押した分だけ潰れ、休ませた分だけ戻る。
私は台の高さを一段下げた。左肘が開かず、手のひら全体を使える。次の五個は戻されなかった。
「工夫はするんだね」
『品質に必要です』
「自分の身体には」
『治療中です』
「逃げた患者が何言ってる」
事実なので反論しない。
青札の生地は柔らかい。右手で支えないと台へ張りつく。私は木べらを固定具にし、左手だけで折る。親方は木べらの位置を一寸直した。
『助かります』
「礼じゃなく覚えな」
次は自分で直す。
この作業に次がある前提を、親方は普通に使う。
黄色札は塩がないため、発酵が速い。先に窯へ入れる。親方が長柄を持ち、私が焼き時刻を札へ書く。
味見はできない。匂いも弱い。
焼き色、底を叩いた音、重さで判断する。親方が一個割り、内部の気泡を見る。
「味は私が見る」
『お願いします』
「悔しい?」
味見を任せるのは合理的だ。前にもそう答えた。
『安全です』
「悔しいかって聞いた」
味が分からない。親方の焦げたパンも、蜂蜜も、塩も。食べられるが、前に何を好きだったか、記憶でしか分からない。
『少し』
板へ書く。
親方は驚いた顔をしない。黄色札のパンを一口食べる。
「塩なしにしちゃ、粉が甘い」
感想を私へ渡す。
私は記録札へ『粉の甘みあり。幼児用にも可』と書く。味そのものは戻らないが、親方の言葉を借りて品質へ使える。
「借りって数えるなよ」
書く前に釘を刺された。
『共同検品です』
「それでいい」
五十個のうち二十七まで成形したところで、親方が朝食の皿を出した。
六枚。
『現在二人です』
「あと四人来る」
『後発は五人です』
「あんた入れて六人」
数が合わない。今ここに親方と私。修繕隊五人が来れば七人。
『親方の皿は』
「立って食べる」
店主はいつも仕込み中に端を食べる。客席の皿へ自分を数えない。
『六個は修繕隊分。私は列車食があります』
「五人と、あんた」
訂正される。
私は卵を数える。六。パン六。椅子六。私の席は、昔から窓際。冬に風が入るので、ほかの人を座らせないため選んだ。
今は窓枠が直され、隙間がない。
『修理したんですか』
「去年」
『必要なら早く』
「あんたが帰るたび、毛布でふさいでたから忘れた」
私が対処していたから、修理が遅れた。役に立った行動が、根本修理を遠ざける例として記録できる。
セラさんがいないので、書かない。
親方の生地は戻ってくる。
押して、折って、丸める。白麦院を出た朝、初めて触ったときと同じ。
「列車は」
十個目で親方が聞いた。
『王都前整備。夜明けに出ます』
「あんたは」
『同乗』
「五人は」
『後発台車』
「置いてきたね」
『先行です』
「置いてきた」
親方は言い直さない。
『王都で合流できます』
封鎖を突破できれば。ノルなら台車の鍵外を分解する。五人の長所は音声で確認した。
「何しに行く」
『第一鐘の分灯式接続。ユリオの記録回収』
「それだけ?」
『朝の器は共同式が間に合わない場合のみ』
親方の手が止まった。
生地を丸める途中。表面が張り、閉じ目だけがまだ開いている。
「何、それ」
公示には単独受容方式としか出ていない。店へ詳細を知らせれば、親方が王都へ来る。仮契約で店は保護されるが、本人が動けば保護条項の外かもしれない。
『大夜蝕の予備計画です』
「あんたが何する」
『適合確認』
「何を失う」
声。影請け。心臓。肺。未来。
契約には書かれていない。医療予測なら、長い説明になる。
『生存率は算出不能です』
親方は生地から手を離した。
「帰ってくる率は」
『同じです』
「違う。生きてても帰らない子がいる」
私のことらしい。
『分灯式が完成すれば帰還します』
「完成しなかったら」
『王国を守れます』
答えになっていると思う。
親方は作業台の下から、古い帳簿を出した。店の雇用帳簿。私が十二歳で来た年から、給金、食費、部屋代が記録されている。
最初の頁。
ミナ、皿洗い。給金銅貨十二。食事一日二回。部屋代免除。
次の年、配達見習い。
次、製パン補助。
次、配達責任者。
最後の頁に、赤い線。
雇用欄の私の名前が消されている。
胸が冷える。
役に立てなくなったから、ではない。私が旅へ出て三週間。長期不在の人を雇用帳簿から外すのは普通だ。
『退職日は』
「下」
親方が指す。
家族欄。
マルタ・アルノ。店主。
そこには、ミナ・アルノ――娘、とある。
提出印まである。市役所受理、第23話の日付。親方が未提出だった養子申請を、私が白麦院へ向かった日に出した。
添付書類が帳簿の後ろへ綴じてある。
同居証明。十二歳から五年間、店二階に居住。医療費、衣服費、教育費、食費。親方が払った金額。
私は給金から部屋代と食費を返していたつもりだった。帳簿を見ると、差し引かれていない。給金は全額、私名義の貯蓄へ回されている。
『この貯蓄は』
「あんたの」
『食費精算に』
「しない」
『五年分は高額です』
「子どもの飯代を請求する親がいるか」
親。
マルタ親方は、昔から自分をそう数えていたらしい。
『住み込み雇用と説明されました』
「最初の三日だけ」
ロウさんが三日だけ預けた。親方はパン屋を何だと思ってる、と金を投げ返した。
「あんたが四日目も朝一番で床を磨いた。だから仕事をやめさせたら出てくと思った」
『正しい判断です』
「正しくない。出てっても、追えばよかった」
親方は帳簿の頁をめくる。
十三歳。熱が三十九度あった日、配達十六件。私は忙しい週と同じと説明。親方は配達を半分取り上げたが、残り半分は行かせた。
十四歳。右足を捻った日、厨房作業へ変更。休ませず、座ってできる仕事を与えた。
十五歳。店の裏で夜喰いを吸った日。朝まで寝かせ、次の日から仕込みへ戻した。
雇用記録の横に、親方の小さな字。
『仕事をやめさせると、荷物をまとめる』
観察されていた。
「働かせたほうが店に残ると思った」
『実際、残りました』
「それを、家だと教えなかった」
『部屋と食事のある職場です』
「まだ言うか」
親方は帳簿を閉じず、次の書類を出す。
学校入学申請。私は夜間学校へ三か月だけ通い、配達が増えて辞めた。申請者はマルタ・アルノ、続柄「母代わり」。
影請け登録の拒否申立て。能力を仕事へ使わせるな、と親方が市へ提出。却下理由は、本人が影請けを否定したため保護対象を特定できない。
十八歳の職人試験申込。来年の日付。推薦者マルタ・アルノ。
私の来年を、親方は予定へ入れていた。
『試験料が未納です』
「払った」
『私の貯蓄から』
「祝い」
『合格前です』
「先に祝う」
贈り物の順番までおかしい。
最後の紙。第23話に提出した家族登録。
理由欄に、親方の字。
『本人は仕事を失うと家も失うと誤認している。雇用欄から外し、家族欄へ移す』
私の考えが、市役所の紙に書かれている。
『誤認ではありません。住居は雇用条件でした』
「十二歳のあんたへ、最初の三日そう言った。四日目から訂正してない。私の落ち度だ」
『今まで住めたので問題ありません』
「今、帰らない理由になってる」
親方の指が家族欄へ止まる。
「問題だ」
『本人署名がありません』
「十七歳の保護登録。本人署名は十八で追加」
『相談を』
「した。家族欄を空けた紙、見せた。あんたは職人だからって閉じた」
第2話。見た。家族欄の空白を、仕事と関係ない欄として閉じた。
「だから私が書いた」
『意思確認が』
「嫌なら十八で抜けな」
出口もある。
白麦院の代筆とは違う。親方は家族へ入れ、抜ける日も残している。
「今、読む?」
家族欄を示す。
意味は読める。
使い方が分からない。
娘。働けなくても、味がなくても、声がなくても残る欄。給金も作業点もない。
読めば、帰りたくなる。
帰りたい。
胸へ出た言葉を、最後の納品へ置き換える。
『五十個を完成させます』
「帳簿を読め」
『発酵時間が』
「読むまで生地は触らない」
親方が私の手から生地を取った。
作業を止められた。
『避難用です』
「帰らない子が焼いたパンを、避難用にしない」
『品質に問題は』
「ある。帰る気が入ってない」
パンの品質基準に精神状態はない。
親方は五十個の生地へ濡れ布をかけた。発酵が進みすぎる。あと二十分で丸めないと、表面が割れる。
避難所の納品時刻まで三時間。今止めれば、最初から仕込み直す小麦はない。五十人の朝食が遅れる。
『食べる人に責任はありません』
「分かってる」
『では作業を』
「別の店へ頼んだ」
親方は店の連絡札を見せた。肉屋の隣の大窯、学校の給食室、北門宿の厨房。十七個、十八個、十五個に分けて依頼済み。私が生地を丸めている間に、代替を作っていた。
『材料費と配達は増えます』
「払う」
『この生地は』
「帰るって決めたら焼く。決めないなら、膨らみすぎた分は酵母へ戻す」
食べ物を無駄にはしない。けれど、私が焼かなくても避難所へパンは届く。
私の役割を外したうえで、五十人を守る道を用意している。
『そこまで準備したなら、私の返答は作業に不要です』
「仕事にはね」
『では何に』
「私に必要」
親方自身が待つため。
その費用を、親方は自分で払うと言っている。
「帰ってくるって言いな」
声は出せない。
板なら書ける。
『契約不発効時に』
「条件をつけるな」
ノルと同じ。
『虚偽は書けません』
「帰りたいか」
はい、と書けばよい。帰りたい気持ちはある。気持ちと実行可能性は別なので、嘘ではない。
でも、帰りたいと親方へ渡せば、親方は待つ。六人分の朝食を作る。店の奥の寝台を空ける。帰れなかった場合、その作業が残る。
『五十個を納品すれば、これまでの食費の一部を返せます』
「返すな」
『材料費は店負担です。作業分だけ』
「返すな!」
親方の手が作業台を打つ。粉が跳ねる。
「あんたが食った分を、最後の納品で返すな」
最後、という語は使っていない。
親方には届いている。
奥の台に、朝食の材料がある。
卵六個。小さな丸パン六個。皿六枚。
私が帰ると知らせる前から、六人分を仕込んでいた。
『修繕隊は後発です』
「知ってる」
『到着時刻未定』
「冷めたら焼き直す」
『私は列車へ戻ります』
「戻ってから食べる分」
条件がない。
私は家族欄をもう一度見る。
ミナ・アルノ。娘。
最後まで読めず、帳簿を閉じた。
親方は生地を止めたまま、腕を組む。
「帰らない子のパンは焼かない」