三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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三日後の空席

 帰ると書けないなら、安心だけ置いていけばよい。

 そう考えた。

 親方は止めた生地の前で、私の返事を待っている。避難所のパンは別の店が焼く。窯は空。朝食の卵六個も、まだ割られていない。

 

 列車の発車まで一時間。

 私は伝言板へ書く。

 

『王都で第一鐘を調整します。分灯式を優先。朝の器は予備です』

 

「読んだ」

『薬は三回分。王都医療班が待機』

「それも」

『五人が追跡中。到着後合流』

「仕事の話じゃない」

 

 知っている。

 親方が欲しいのは、帰ってくる、の一文。

 確実でないことは書けない。では、いつもの言葉を使う。

 三日寝れば戻る。

 石筆が『三』まで書き、止まった。

 白麦院の映像。寝台七、十一、四。元どおりと書かれた子はいない。八歳の私も、三日後に皿を洗い、戻った証拠を自分で作った。

 親方は伝言板の『三』を見る。

 

「三日?」

 

 私は消す。

 別の言葉。

 すぐ終わる。心配しないで。問題ない。任せてください。

 どれも、相手を動かさないために使う言葉だ。親方が王都へ来る、窯を止める、私を待つ。その選択を減らす。

 安心語は、相手へ渡す毛布だと思っていた。

 実際は、扉へかける鍵だったのかもしれない。

 

『帰りたいです』

 

 書く。

 親方の肩が下がった。

 

『帰還は約束できません』

 

 二行目。

 肩がまた固くなる。

 

「一行目だけじゃ駄目か」

『条件を隠すと、選べなくなります』

「何を」

『待つか、店を続けるか、王都へ来るか』

 

「全部やる」

 

 親方は簡単に決めた。

 

「店を続けて、待って、必要なら王都へ行く」

 

『身体が一つです』

「人を頼む」

 

 私には思いつかない答えだった。

 親方は濡れ布を取る。膨らみすぎる直前の生地を、拳で軽く押す。空気を抜き、発酵を遅らせる。

 

「帰りたいなら、焼く」

『五十個は代替済みです』

「六個」

 

 朝食分だけを窯へ入れる。

 一つ目、親方。違う、親方は立って食べると言った。レオン、ティア、ロウ、セラ、ノル、私。六個。

 自分を数えた。

 親方の配分を読み上げただけだ。

 焼き上がりまで二十分。

 椅子へ座るよう言われる。私は窓際の席。隙間は直っている。青い襟巻きの片端を、空いた隣の椅子へ置く。

 

「声、出ないのか」

 

 頷く。

 

「戻る?」

 

 首を横へ振りかける。声帯夜晶を除去できても、神経損傷が残る可能性。今の医療予測は不明。

 

『分かりません』

「怖い?」

 

 ティアさんと同じ質問。

 声が戻らないこと。味が戻らないこと。右手が使えないこと。影が私から離れること。第一鐘で身体がもたないこと。

 どれを選んでも、仕事の名前へ変えられる。

 

『不便です』

「そうか」

 

 親方は追及しなかった。

 窯から六個のパンを出す。焦げていない。きれいな丸。

 親方は一個を布へ包み、私へ渡す。

 

「王都で食べな」

『五人分は』

「ここで待つ」

 

 食べる人のいないパンを、五個残す。

 冷めたら焼き直す。何度でも。

 

『三日以上は保存できません』

「次を焼く」

 

 また三日が出た。今度は戻る期限ではなく、パンの期限。

 親方は私の『三』を消した跡へ、新しい文を書く。

 

『三日後も空席なら、次のパンを焼く』

 

 安心ではない。空席になる可能性を隠さず、次の作業を親方自身が選んだ。

 私は家族帳簿を開く。

 今度は最後まで読む。

 ミナ・アルノ。娘。

 署名はしない。十八歳で追加できる。

 頁を閉じず、親方へ返す。

 

『抜ける予定はありません』

 

 帰る約束の代わりには弱い。でも、家族欄を退職時に消さない意思なら書ける。

 親方は板を受け取り、裏へ書いた。

 

『知ってる』

 

 列車へ戻る時間。

 店の裏口で、親方は抱きしめなかった。空の赤い配達鞄へパン一個、薬を確認し、肩紐を短くする。

 

「五人に会ったら」

『合流を伝えます』

「違う。勝手に行った分、殴られな」

『暴力は契約違反です』

「なら怒られな」

 

 それは避けにくい。

 

「ミナ」

 

 名前を呼ぶ。

 旧姓でも候補番号でもない。親方が赤い札の裏から読んだ名。

 

「行ってらっしゃい」

 

 帰る場所がある人への言葉だ。

 私は板を上げる。

 

『行ってきます』

 

 発車三分前に列車へ戻る。

 保守員は候補者の無断下車を報告しようとして、私の影濃度を見て先に冷却槽を直した。優先順位の分かる人だ。

 

 列車が動く。

 アルノパン店の煙突が遠ざかる。親方は店へ戻らず、線路脇に立っている。

 私はパンを一口だけ食べる。味はない。温かい。

 保守列車の通信器に、追跡台車から五通の短報が届いていた。

 ロウさん。

 

『封印鍵窃取、単独移動、治療契約違反。処分保留。王都到着まで車外へ出るな』

 

 もう出て戻ったあとだ。報告を訂正する。

 

『麦環市で緊急整備停車。車外移動。現在帰乗。負傷なし』

 

 胸痛五、喉出血、右手感覚二は既存症状なので「負傷なし」は正しい――限定回答に数えられる。

 

『既存症状変化なし。家族欄確認』

 

 追加する。

 次はティアさんから。

 

『薬の残数。使用時刻。出血。食事。これ以外を書いたら怒る』

 

 要点が明確だ。

 

『溶解薬三回分。待避所で一回使用、残二。黒い出血布二枚。朝食パン三分の一。水二百』

 

 書いてから、薬が残り二回だと自分でも確認する。王都医療班まで三時間。足りる。

 セラさん。

 

『音声記録の削除は保留。本人へ編集権返却まで保存。二十番座席の刻字写しを受領。原位置を損傷していない?』

 

『損傷なし。撮影板で写し。時刻と場所記載』

 

 記録の質問なら、会話がずれない。

 ノル。

 

『工具、借りた。返す。扉、鍵なしで外した。台車も鍵なしで動かした。王都まで四十分後ろ』

 

 四十分。予想より近い。

 

『古式工具は力をかけないで』

 

 返信する。

 すぐ返る。

 

『知ってる。教えなくていい。返すから待って』

 

 待って、に期限がある。四十分。扱いやすい。

 

 最後、レオン。

 

『麦環市で降りたな』

 

 質問ではない。

 

『緊急整備八時間。アルノパン店へ焦げパン受領報告。避難用パン成形』

 

『帰った?』

 

 店へ、という意味。

 

『一時帰店。家族欄を確認』

『帰りたいか』

 

 親方と同じ問い。

 

『はい』

 

 今度は一行目だけを送る。

 通信器がしばらく沈黙する。返事がないので、通信不良を確認しようとしたところで紙が出た。

 

『その記録、消すな』

 

 セラさんへも保存される。自分の言葉が証拠になる。

 

『実行可能性とは別です』

 

 補足を送る。

 

『分かってる。別でいい』

 

 気持ちと予定を、無理に一つへしなくてよいらしい。

 

 列車は雨樋町への分岐を通る。窓の外に、第二鐘へつながる水路。洪水の泥は片づき、橋へ新しい板が渡されている。

 

 ジュノの危険手当を復旧配達の日当に変えた。あの子へ大人がいると言い、自分には当てはめなかった。

 次に硝子港鐘路との合流。声滓燃料は除去され、硝子筒が朝の光を返す。

 オレンさんへ、声がなくても代わりがあると書いた。失う時間を予定へ入れなかった。

 過去の道を、列車は王都へ集める。

 私の安心語も、使った場所から戻ってくる。

 

 王都へ着いたのは昼前。

 

 第一鐘駅のホームに、人が集まっていた。

 雨樋町のジュノ。硝子港のオレンさんと声滓患者七人。白丘療養院の北病棟患者。麦環市警備隊の人。修繕隊ではない。

 

 皆、鐘守庁の公示を見て来たらしい。朝の器適合者を称える旗はない。代わりに、紙や板、工具、食べ物を持っている。

 麦環市警備隊のカイさんは、古い巡回表を持っていた。

 

「第3話。市場の夜喰い処理後、お前は三日寝れば戻ると言った。俺は店へ報告しなかった」

 

『親方へはレオンが』

「俺の担当だった。お前が笑って、店を止めるなって言ったから楽なほうを選んだ」

 

 第36話でレオンが言ったのと同じ。

 

「その次、お前が学校の子三人分を吸った。報告してれば、親方は外へ出さなかった」

 

『学校の影熱処理が遅れます』

「別の人を呼べた」

 

 当時は修繕隊が町にいた。ロウさん、ティアさん。時間はかかっても、選択肢は一つではなかった。

 北病棟のフランさんは、冷却札の束を持っている。

 

「夜中、熱が下がった。次の日、お前を見たら顔が真っ白だった」

 

『低体温は以前からです』

「そう言った。俺は信じて、ありがとうって言った」

 

 感謝は悪くない。患者が熱から解放された事実も消えない。

 

「礼を言えば、お前がもう一度やるって、今なら分かる」

 

『礼がなくても必要なら』

「それを言うと思った」

 

 フランさんは冷却札を私へ渡さず、自分の腕へ巻く。

 

「今度は、自分の熱を自分と医者で持つ。お前へ渡さない」

 

 患者が助けを拒むのではない。助け方を選び直す。

 声滓患者の一人、ミラさんは新しい手話を覚えたばかりだった。オレンさんに確認しながら、ゆっくり動かす。

 

『一回だけ、は、私も言った』

 

 違法採声契約。妹の手術代のため、一曲分を三か月だけ。店は永久譲渡へ差し替えた。

 

『声を渡すとき、戻ると思った。あなたが七人分を取るとき、止めなかった。自分と同じ一回だから』

 

 ミラさんは喉へ手を置く。

 

『同じ傷だと思うと、止めるのが、自分を否定するみたいだった』

 

 助けられた事実と、自分の過去が衝突していた。

 

『今は』

『私の契約は騙された。あなたの契約は、自分で書いた。でも、選択肢を隠された。違う傷。両方止める』

 

 細かく分ける。セラさんみたいだ。

 雨樋町の老人は、焦げたパンの皮を持ってきた。第14話で、焦げた物ばかり選んだ人。

 

「あんた、残り物は借りだって言ったな」

 

『食べ物を無駄にしないためです』

「借りにしたから、次も働くって顔だった」

 

 老人は焦げ皮を自分で食べた。

 

「これはわしの朝飯。あんたの借りにしない」

 

 何も渡さないために来た人までいる。

 集まった全員の反応は違う。

 

 ジュノは結論を急ぎ、オレンさんは休符を渡し、リサさんは救われた側として拒み、フランさんは自分の治療を引き取る。カイさんは報告しなかった責任、ミラさんは契約の違い、老人は借りを切る。

 

 誰も同じ泣き方をしない。

 泣いている人自体、いない。

 そのほうが、言い訳を選びにくい。

 ジュノが先頭へ来る。

 

「三日で戻るって、雨樋町で言った」

 

 正確には、夢泥を吸ったあと。私は二日二十一時間眠り、三日目も幻聴が残った。

 

『戻りませんでした』

「知ってる。なのに、あたし、信じた」

『配達は間に合いました』

「それで正しかったことにしない」

 

 第36話の帳簿が町へ公開されたのかと思った。セラさんの編集権なしでは出ない。

 

「レオンさんが連絡した。信じた人は王都へ来てくれって」

 

 追跡中に、そんな募集をしたらしい。

 オレンさんは手話。

 

『声がなくても代わりがある、と言った』

 

 私が。

 

『代わりを覚える時間を、あなたは予定へ入れなかった』

 

『今、練習中です』

 

 返す。

 

『だから一緒にする』

 

 オレンさんは休符の札を見せる。喋らなくてよい時間。

 声滓患者のリサさんが筆談板を上げる。

 

『一回だけなら、と言った』

 

 七人分を吸ったとき。

 

『一回で声帯夜晶になった。私たちは助かった。助かったから、止める』

 

 北病棟のフランさん。

 

『影が勝手に吸った、と説明した。熱が下がって嬉しかった。嬉しかったから、見なかったことにした』

 

 皆が、自分の選択を持っている。

 私の言葉を信じたのは、だまされたからだけではない。配達を進めたい、声を戻したい、熱を下げたい。それぞれ理由があった。

 安心語がなければ、別の選択をしたかもしれない。

 

『申し訳ありません』

 

 板へ書く。

 ジュノが首を振る。

 

「謝って、あたしたちを許す側にしないで」

 

 セラさんと同じことを言う。

 

『では、何を』

「今度は、怖いことも言って」

 

 怖いこと。

 

『朝の器は、生存予測不能。声と影請けを失う可能性。心肺損傷。途中離脱不可』

 

 事実を並べる。

 集まった人たちの顔が曇る。知らないままより、選べる。

 

「それで、ミナは怖い?」

 

 ジュノ。

 自分のことへ戻る。

 長い説明を作ろうとする。恐怖は受容反応を増やす。工程を確認すればよい。分灯式が完成すれば使わない。適合者は一人。五百四十万人。

 喉が鳴った。

 声ではない。夜晶が擦れた音。布へ黒い血がにじむ。

 説明できない。

 親方へも、皆へも、安心語を渡せない。

 

『分かりません』

 

 それだけ書く。

 ジュノは納得しない顔で、でも追及しなかった。

 

「分かったら教えて」

 

 回答を保留された。

 鐘守庁の職員が迎えに来る。

 

 第一鐘中枢へ移動する時刻。集まった人々は封鎖線の外へ下がるが、帰らない。

 

 王都の通りを歩く。

 

 王都の掲示板には、朝の器計画の進行率が出ている。

 適合接続、三十パーセント。影誘導、六十二。避難、八十八。分灯式代替研究、七十。

 私が町へ入った時点で、接続が始まっている。

 

『正式接続前です』

 

 案内職員へ板を見せる。

 

「仮契約が、町中の影を適合者へ向けています。長官は第一鐘で待機」

 

 職員の計測板には、自然発生まで五十二日。その下に、契約前倒し、残り二時間十三分。

 

 自然の夜蝕が早まったのではない。私が王都圏へ入り、影が第一鐘へ届いたため、国家継続条項が「適合者搬入済み」と判定した。五十二日分、十二鐘で抑えていた夜滓を今夜へ引き出す。途中で破棄すれば即時全量、続けても二時間後に全路開放。

 

 第37話の試験で落ちた百八十単位は、その最初の欠片だった。

 

 契約が大夜蝕を待つのではなく、大夜蝕をこちらへ運んだ。

 

『中止』

「契約破棄はできません」

『接続工程の停止』

「長官権限が必要です」

 

 私の契約なのに、開始後は止める権限がない。

 通りの商人が、自分の影を踏もうとしている。影は足から引かれ、細長く私へ伸びる。子どもは母親の影をつかもうとしゃがむ。触れない。

 

 夜滓だけではなく、人の明日の輪郭まで引かれている。

 私が歩くたび、影の先が追う。

 皆の予定を集める仕事なら楽しかった。本人の言葉を聞き、札へ書き、辞退できた。

 今は聞いていない。

 安心語で相手の選択を減らすのと同じだ。

 

 朝の器は、国全体へ「心配しないで」と言うための大きな鍵なのかもしれない。

 

『人々へ接続開始を告知してください』

「混乱が」

『選択を隠さない』

 

 職員は迷い、鐘守庁の腕章を握る。最後に緊急公示板を開いた。

 

 王都全域へ、影誘導開始を通知。

 人々が足元を見る。走る人、立ち止まる人、予定札を取り出す人。選択が増え、通りは混乱する。

 それでも、知らないままよりよい。

 人の影が、妙な方向へ伸びている。

 太陽は南。影は北へ落ちるはずなのに、道の左右から私の足元へ向く。

 一人、十人、百人。

 町中の影が、候補者を見つけた。

 

 第一鐘が鳴る前に、すべての影が私へ向いた。

 

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