朝の器は、人の形をしていなかった。
王都第一鐘の地下、三層分を貫く黒い槽。上から見ると、大きな茶碗に似ている。朝を盛るには深すぎるし、洗う人のことを考えていない。
「正式名称は、第一鐘全路受容槽」
エルネスト長官が案内する。
『朝の器は通称ですか』
「計画名です。人を指す言葉ではない」
そこは用語台帳と合う。
受容槽の周囲には、作業台が十二。十二鐘それぞれの夜滓量、人口、避難率、分灯式の接続可否が表示される。
第一作業台、王都。人口三百二十万、避難九十六。
第二、雨樋町を含む東水路。避難九十一。
第三、硝子港。避難九十八。
残り九基は山間、農地、鉱山、北辺。
『受容順』
「避難率の低い地域から。漏出時の被害を先に減らす」
『人口の多い王都からでは』
「一人あたりの危険を均等にするなら地方。総死者数を最小化するなら王都。今回は、救援が届くまでの時間を基準に地方から」
計算にも選び方がある。
第四作業台の下に、小さな赤い札がある。
『器損壊時』
「第一鐘を閉鎖し、適合者ごと地下へ封印」
『治療搬出は』
「全路切断後。最短六時間」
『心停止時』
「鐘力で循環を維持。脳機能の保証は十二分」
生きている定義まで工程に入る。
『本人死亡確認は誰が』
「医療班長」
『家族通知』
「鐘守庁」
『アルノパン店には』
「仮契約の補償担当が通知」
親方へ届くのは、契約履行通知。私の言葉ではない。
『本人の手紙を預けられますか』
「用意している?」
ない。死後札は破り、音声記録は削除を許可した。何も残さない方針だった。
『今はありません』
「紙と筆を用意します」
長官は作業員へ命じる。
『不要です』
「書かない選択も、紙がなければ選択ではない」
第42話で私が使った理屈を返された。
机へ便箋が六枚置かれる。
マルタ親方、レオン、ティアさん、ロウさん、セラさん、ノル。六人。自分宛てはない。
書き出しだけ試す。
『親方へ。五十個のパンは――』
避難所へは別の店が納品した。書く必要がない。
『レオンへ。予定帳は――』
枕下。見つける。
『ティアさんへ。治療記録は――』
本人が持っている。
全員へ引継ぎを書くと、また死後指示札になる。
便箋を裏返す。
「書かない?」
『渡す作業を増やします』
「受け取るかは、彼らが選ぶ」
私は六枚を鞄へ入れた。白紙のまま。書くかどうかは接続後にも選べる。
第二層は医療区画。
身体を受容槽へ入れるのではなく、縁の椅子へ固定する。背中の導入路へ十二本の銀管、影だけを槽へ。心臓と肺は鐘力で補助。
拘束帯は手首、足首、胸、額。
『途中離脱不可のため?』
「痙攣による自己損傷防止」
『解除者』
「医療班長と私。本人が意識を保つ場合は、痛みと呼吸困難の合図でも緩める」
『離脱は』
「緩めても接続は切れない」
身体を自由にしても、影は残る。
医療班長が同意票を出した。受容前処置、心肺補助、意識維持薬、鎮痛薬。
鎮痛薬には弱・中・強。白丘と同じ。
強は意識を失い、工程確認ができない。中は呼吸抑制。弱は効かない可能性。
『中』
選ぶ。
「作業を続けるため?」
ダル医師なら聞く質問を、医療班長がした。
『痛みで判断が変わらないため』
「意識を保ちたい?」
私は工程表を見る。
『はい』
役に立つため、ではなく、自分で見たい。そう書くには行数制限がないのに、書かなかった。
第三層は退避路。
受容槽から東西へ二本。接続前なら本人も通れる。接続後は医療班専用。
「出口は残します」
長官が言う。
『使えない出口です』
「分灯式が完成した時点で使える」
その時まで身体があれば。
出口の向こうから、遠い金属音がする。追跡台車が外周封鎖へ着いたのかもしれない。
長官は王都駅から中枢まで、護衛をつけなかった。逃げ道は封鎖され、仮契約は進行中。私が自分で来ると分かっている。
灰色の通路の左右へ、工程表が並ぶ。
一、適合者確認。
二、影分離。
三、第一鐘へ影を固定。
四、全国避難率九十五パーセントで予備接続。
五、百パーセントで全路開放。
六、大夜蝕の夜滓を受容。
七、分灯式成功時は、受容分を全国へ再分配。
現在、全国避難率八十八。王都九十六。地方の山間部が遅れている。
『百パーセントまで待ちます』
「あなたの心拍がもちません」
長官は私の胸へついた計測札を見る。百五十二、時々一拍抜ける。影誘導が始まってから、黒線は心臓を一周した。
『治療班は』
「中枢入口に待機。接続後は入れません」
『エマ医師』
「後発台車。到着まで三十二分」
五人と一緒。
『待ちます』
「避難率百パーセントまで推定四時間。心停止予測は一時間二十分。影固定を先に行えば、第一鐘が心拍を補助できます」
身体を守るため接続する。接続すれば夜滓が流れ始める。治療と育成は目的次第で同じ行為。第29話でティアさんが嫌った言葉を思い出す。
『影固定後の離脱』
「分灯式成功または契約失効まで不可」
『避難未完了地域への影響』
「予備接続中は限定的。あなたが受容を維持すれば、流出しない」
『維持不能時』
「中枢から近い王都より、未接続の地方鐘路へ逆流します」
遅れている地域ほど危ない。
工程表を読む。
最初から最後まで。
「質問は」
『もう一度』
長官が頁を戻す。
一、適合者確認。
二、影分離。
同じ文字。読み落としはない。
七まで読み、また戻す。
「三度目です」
『確認です』
「恐怖で短期記憶が低下している可能性があります」
怖い、と言わずに済む説明を先に出された。
『喉の夜晶と低体温でも低下します』
「いずれでも、判断を急がせる状態ではない」
『早期接続を勧めたのは長官です』
「身体損失の計算。契約同意の話とは別です」
この人は、私を侮辱しない。判断能力も、役立つ価値も認める。そのうえで、一人へ全部載せる。
『三十二分待ちます』
「五名を待つ?」
『医療者と修繕隊の専門確認』
「彼らは接続へ反対します」
『選択肢を隠さない』
第42話で覚えた。
長官は時計を見る。
「二十分なら待てます。以後は心拍補助なしの危険が上回る」
『三十二分』
「二十五」
『三十』
「合流時、説明に二分必要」
『二十八分待機、二分説明』
「合意」
交渉成立。
私は中枢前室へ座る。時計を机へ。二十八分。
長官は避難報告を処理する。山村へ飛行便、河川集落へ鐘光信号、地下坑道へ作業員。彼が一つ命令するたび、避難率が〇・一ずつ上がる。
有能だ。
有能な人が、一人犠牲を最適解と信じている。間違いは悪意より直しにくい。
私は親方のパンを出す。残り三分の二。喉へ乳はないので、水へ浸す。
「食べられるのですか」
『柔らかくすれば』
「味覚は」
『五味なし』
「それでも食べる」
『薬のためです』
親方が六人分に焼いたから、とは言わない。
長官は自分の机から、蜂蜜の小瓶を出した。
「糖分を」
『味は同じです』
「心拍維持に必要」
受け取る。対価を探す必要はない。計画維持の経費だ。
パンへ蜂蜜を一滴。甘さはない。粘りだけ分かる。
「白麦院で、処置後に同じ物を出しました」
手が止まる。
「糖分は拒絶反応を下げた」
『覚えていません』
「あなたは毎回、半分を弟へ残した」
ユリオ。
『弟の記録を』
「接続後に開示します」
『条件条項では、契約受理時』
「所在の確定に時間がかかっています」
『健康票は持っています』
「持っている、と誰が」
『白麦院の紙粉。現在追跡票。長官の反応』
セラさんのように証拠を並べる。
長官は眼鏡を外し、布で拭いた。
「健康票は王都医療庫にあります。本人の現在記録はない」
『死亡』
「確認できません」
『生存』
「確認できない」
『最後の記録』
「七年前。第一鐘保守院の補助工」
待避所の刻字と合う。大きくなった弟が、あの道を通った。
『氏名』
「ユリオ・セル」
番号ではない。
『退職理由』
「第一鐘内部で影熱発症。治療後に失踪」
『私の導入路と関係』
「彼の夜滓をあなたが幼少期に吸った。二人の影経路は一部接続された可能性」
町中の影が私へ向く。夜滓の中に、弟の経路もあるかもしれない。
「正式記録は接続後に」
『今、写しを』
「原本保護のため」
『選択肢を隠さない』
同じ言葉を使う。
長官は机の鍵を開け、薄い紙を一枚出した。
ユリオ・セル。二十歳。第一鐘保守補助。影感応あり、受容適性なし。七年前、行方不明。
備考。
『十九番の導入路へ、遠隔反応を継続』
私が夜滓を吸うたび、弟にも何か届いていた可能性。
『朝の器接続時は』
「経路が生きていれば、彼の影も引かれる」
『契約外です』
「所在不明のため除外処置ができない」
予備計画は一人ではなかった。
知らない場所の弟を、私の経路ごと使う。
『接続を停止』
「すでに影誘導六十八。停止は仮契約破棄ではないが、あなたの心拍補助も切れる」
『ユリオ除外まで』
「除外手順を作る時間は」
技師が計算する。最低六時間。
私の心拍は一時間二十分。
「選び直しますか」
長官が聞く。
弟を巻き込むなら、朝の器条件と違う。解除申立ての根拠になる。ただし破棄は大夜蝕を始める。
『分灯式を早めます』
「五名が到着しても、九十九・九までは遠い」
『接続は二十八分まで待つ』
時計を見る。残り九分。
追跡台車の通信が途切れた。王都外周の封鎖へ止められている。
長官へ封鎖解除を求める。
『五人を通してください』
「仮契約条件で、計画への拘束を禁じています」
『本人たちが追跡を選択』
「危険区域へ入れることが保護に反する」
『選択を隠さない』
三度目。
「その言葉を、よく覚えましたね」
『昨日までは使えませんでした』
長官は封鎖解除へ署名した。
到着予定、十五分後。
待機合意を七分超える。
心拍が一度、大きく抜けた。
床へ膝が落ちる。影は倒れない。第一鐘の方向へ引かれ、私の身体からさらに離れる。
医療班が入る。心拍九十、次の瞬間百七十。心房と心室が別々に動いている。
「早期固定」
医師が言う。
『十五分待つ』
「もちません」
『心拍補助だけ』
「影固定と同じ工程です」
長官は時計を見た。
「選択してください。今固定するか、五名を待って心停止の可能性を取るか」
選択肢は提示された。
私は工程表を読む。
四度目。
文字が二重に見える。
『固定。全路開放は避難完了後』
「了解」
受容槽の縁へ立つ。
影が身体から完全に剥がれた。
黒い人型は振り返らず、槽の底へ落ちる。第一鐘の中心へ固定され、町中から伸びた影が一斉につながった。
胸の契約印が皮膚へ焼ける。
心拍が鐘の周期へ強制される。一、二、休み。一、二、休み。自分の鼓動ではない。
夜滓が流れ始めた。
銀管の一本目が背中へ接続する。
十二歳の古い導入痕が開く。痛み七。二本目で八。中鎮痛薬が入っても、数字は下がらない。代わりに痛みの輪郭が遠くなる。
三本目、雨樋町の夜滓。
水の冷たさと夢泥の眠気。ジュノが危険手当を握り、母と弟を養うと言った声。
四本目、硝子港。
喉の夜晶が鳴る。オレンさんの休符、リサさんの匙、声滓患者七人の手話。
五本目、麦環市。
焦げたパン、花屋の胡桃パン、学校の子ども。親方の窯。六枚の皿。
地域ごとの夜滓が、そこで見た人の記憶を連れてくる。夜滓に記憶があるのか、私の脳が痛みへ意味をつけているだけか。どちらでも工程へ影響しない。
六本目で、右手が完全に冷える。
指を見ても、動かしている感覚がない。筆談板を左手へ移す。
『右手感覚〇』
医療班が記録する。
七本目。肺が浅くなる。呼吸数三十二。鐘力補助を一段上げる。
八本目。心拍が一、二、休み。黒線が胸の中央でつながる。
九本目。影の足が槽の底へ届く。
影はもう私の動作を真似しない。両腕を広げ、十二本の夜滓線を受ける器形へ変わる。第29話に天幕で見た輪郭。
『朝の器化、進行』
医療班の記録。
F04と番号を振る人はいない。薄かった影、潜水後に残った影、壁を指した影、宿へ先に帰った影。全部、この形へ近づいていた。
十本目。視界の端が暗い。
十一本目。親方のパンを飲み込んだ胃が痙攣する。吐けば薬も出る。私は口を閉じ、呼吸を鼻へ逃がす。
十二本目は、まだ閉じている。
全国避難完了まで開けない条件。
現在避難九十三・四。刻々と上がる。
五人到着まで九分。
心拍補助残量。影固定は完了。
私は工程表をもう一度見る。
一から七。文字は読める。
怖いか。
左手が震え、板の角が椅子へ当たる。喉は使っていないのに、歯が鳴る。室温は一定、体温は三十五度。低体温だけでは説明が足りない。
『寒いです』
医療班へ書く。
温布が追加される。
怖いとは書いていない。けれど、寒いことを伝えたら身体へ一枚増えた。
役に立つ報告だった。
最初は百単位。次に千。黒い冷気が背中の十七の導入痕から入り、喉、心臓、右手へ回る。
怖いか。
工程を確認する。予備接続。全路はまだ。避難率九十二。五人到着まで十二分。
手順は読める。
三度読んでも、まだ読みたかった理由は分からない。
受容槽の奥から、声がした。
『十九番』
子どもの声。
『今日の点、もらえる?』
白麦院の候補児。でも朝の器契約は、現在の全国鐘路だけ。死んだ子どもの声は対象外だ。
一人ではない。
『食札、半分あげる』
『ユウが待ってる』
『三日寝れば戻る?』
夜滓の中に、契約外の子どもたちがいた。
八番の呼び名、あにき。六番の赤い糸。十二番の競争。記録でしか知らなかった声が、順番を無視して重なる。
その奥で、一人だけ何も言わない小さな影がある。
二十番。
『ユリオ』
左手で板へ書く。
影は顔を上げた。
幼児ではない。二十歳くらいの背丈。第一鐘補助工の上着を着て、右手に古い保守鍵を持っている。
私の記憶が作れる姿ではなかった。
『おねえちゃん』
低くなった声が、本当に十二年ぶんの時間を一度に運んだ。