『六人目を忘れている』
セラさんの板を拾う。
補助銀具が外れ、角が削れている。文字は読める。
ロウ、ティア、セラ、ノル、レオン。
五人。
六人目は私。
数としては分かる。中枢の内側と外側に分かれているので、作業班として数えなかっただけだ。
『別班です』
板へ返す。
セラさんは新しい紙を外窓へ貼った。
『そうやって、自分だけ別の単位にする』
ノルが窓枠の最後の金具を外す。防夜硝子は残したまま、東廃棄路の操作線へ手を入れられる隙間ができる。
「何をしている」
エルネスト長官が止める。
「面会許可の範囲です」
ノルは答えた。声は硝子越しに通信器が拾う。
「窓を分解することは含まれません」
「壊してない。戻せます」
前にも聞いた。
ロウさんは封印鍵を操作盤へ入れる。
「東出口を開く」
「仮契約条件に反する」
「本人の退路を増やす。接続作業へ参加しない」
「退出すれば受容が中断します」
「だから本人へ選ばせる」
長官の眉が初めて動く。
「ミナさんは、すでに選んだ」
「条項を隠される前にな」
「隠した責任は認めた。選択自体は彼女も自分のものだと明言した」
正しい。
『私の選択です』
書く。
レオンが外窓へ近づく。
「俺たちへ、嘘をついた選択も?」
『止められると予測しました』
「選択肢を一つ消した」
『予備計画を残しました』
「お前を残す計画は消した」
話が戻る。
ティアさんが治療記録を窓へ映す。
「署名時、発熱、鎮痛薬、出血、影分離。即時開始条項は非表示。医療上、有効な同意とは認めない」
「契約院は判断能力を認定した」
長官。
「他人の条件を正確に書けることと、自分の損失を評価できることは別」
「本人の自己評価を、病理として無効にするのですか」
「無効にしない。選び直す材料を全部見せる」
ティアさんは薬の選択肢を三つ、退出後の予測を二つ、残留時の損失を四つ並べる。
「出るなら、影切断を三段階。声は戻らない可能性七割、右手五割、心肺損傷三割。残るなら、全路開放後の生存予測不能」
数字がある。
「どちらを選んでも治療する。言うことを聞いたら、ではない」
契約を守る報酬としての治療ではない。
セラさんは灰色の帳面を出す。二冊ではなく、ばらした頁を一枚ずつ。
「本人説明を信じた結果」
第3話。三日寝れば。レオンと市警が店への報告を遅らせた。
第15話。手順通り。ロウさんが結果を認め、次の任務参加を許した。
第19話。一回だけ。ティアさんと声滓患者が止め切れなかった。
第31話。命令受領。任務外の形で吸収した。
「信じた側の選択も記録する」
セラさんは頁の横へ、五人それぞれの署名を置く。
「あなたの嘘だけを罪証にしない。私たちは、都合のよい言葉を採用した」
『では責任は分担済みです』
「責任を分けても、傷は消えない」
記録で処理できない物がある。
ノルは赤い糸の工具を窓へ置く。
「返す」
『分灯器修理に使って』
「返して、また借りる」
『手間が増えます』
「増やす」
わざと。
「僕が返すたび、ミナが受け取る。借りるたび、ミナが渡す。何回でも」
物を往復させるため、二人とも必要になる。
「形見にしない方法、それ」
工具を受け取るには、防夜硝子を開ける必要がある。
ロウさんは、焼けた右手の包帯を外した。
黒い傷が手の甲から指へ走る。解除試験で結界を受けた痕。まだ握れない。
「お前が第三鐘で二千単位を吸ったとき、俺は命令違反だと怒った」
『事実です』
「解除試験では、お前が危険だと止めた。俺は二千を吸った奴が言うなと退けた」
覚えている。
「結果、この手だ」
『治療で回復見込み』
「それを聞いて、軽いと思うか」
『結界杖を右手で持てません』
「仕事の損失だけじゃない。痛い」
ロウさんは自分の傷へ、痛い、と言った。
「お前の忠告を信じなかった傷だ。だが、信じて解除をやめていれば、契約の仕掛けを知らなかった。どちらを選んでも傷は残る」
『最善判断は情報時点で』
「正解へ閉じるな。俺が今も痛いことを、結果で消すな」
言葉の届き方が少し分かる。
私が「問題ない」と言うたび、周囲は傷を評価する権利を失う。本人が軽いと言えば、止める側は大げさになる。
ティアさんは自分の治療契約を破った。
紙を二つに裂くのではなく、署名欄の上へ赤い線を引く。
「症状報告、能力禁止、単独行動禁止。必要な条項だった。でも、これを守れば使う、破れば使わないという関係になった」
『治療安全の条件です』
「治療する条件にはしない」
新しい紙を窓へ貼る。
『情報提供は義務。治療を受けるかは本人。違反時も治療継続。任務可否は別判断』
「あなたがまた隠しても、私は治療する。怒っても、薬を置く」
『契約の強制力が下がります』
「下げる。あなたが罰を避けるため報告するのと、自分の損失を知るため報告するのは違う」
使わない、と言われた第20話。私は役割停止だと受け取った。ティアさんは、患者を使わないという境界を作った。
「言葉を選び損ねた。だから今度は、選択肢を紙に全部出す」
薬を三種並べた行動が、その訂正。
セラさんは二冊の帳面から、同じ日付の頁を外す。
本人説明と観察事実。二つを一枚の左右へ貼った。
「分けたことで見えた。分けたことで、あなたの言葉を低い棚へ置いた」
『事実と説明は別です』
「別だけど、上下ではない」
本人説明を左、観察事実を右。中央へ第三欄。
『本人が後から選んだ意味』
「今、追加する。編集権は本人」
『私が死んだ場合』
「その質問には答えない」
セラさんは筆を止めた。
「声を保存する仕事だと思ってた。でも、保存を理由に死後を先に作っていた。今は書かない」
記録しない傷を、自分で持つ。
ノルは工具箱の蓋を開く。
「ミナが教えた順番、全部できる」
『確認済みです』
「だから一人で行った?」
『分灯式修理を任せられます』
「教わらなければ、置いてかなかった?」
そうではない。教えなくても、別の技師を探した。
『ノルの能力は理由の一つ』
「僕が上手くなるほど、ミナがいなくていい理由になるの嫌だ」
『長所は悪くありません』
「知ってる。だから、ミナが残る理由にも使う」
ノルは古式工具を投入口へ通す。私の前へ落ちる。
「受け取って」
左手で拾う。
「今、僕へ貸して」
すぐ返す。
「受け取った。次、ミナへ返す」
投入口から戻す。
往復一回。何の修理にも使っていない。二人がいることだけを確認する作業。
「手間、増えた」
『増えました』
初めて、増えたことを否定しない。
レオンは最後まで物を出さない。
右上腕の古い痣も、監視記録も、予定帳も。代わりに東出口の手動輪を示す。
「第15話、力ずくで止めた。お前の腕をつかみ、俺の腕にも痣ができた」
『潜水を止めるためです』
「止め切れなかった。次から道を塞ぎ、見張った。見ていれば守れると思った」
『実際、症状発見が早まりました』
「お前は見えない場所で上手くやるようになった」
影だけの吸収、限定回答、秘密札、床下。
「俺のやり方が、お前を一人にした」
『私が選びました』
「両方だ」
どちらか一つにしない。
「だから、今は引っ張らない。出口を開ける。お前が出るまで待つ」
『時間がありません』
「時間を作る」
『方法は』
「五人で探す。六人ならもっと探せる」
六人目を、戦力として数えているのか、帰る人として数えているのか。
今は両方でよいのかもしれない。
レオンは抱きしめようとしない。
硝子の外から手を伸ばさず、東出口の手動輪へ立つ。
「開ける」
私を力ずくで引き出さない。出口だけを作る。
「出るかはお前が決めろ」
長官が警告する。
「出口開放で影固定率が下がる。現在取り込み済み夜滓一万二千。逆流の危険」
「段階切断を準備する」
ティアさんが測定器を掲げる。
「セラ、個別波形。ノル、分配弁。ロウ、外側結界」
役割が決まる。
私が出る選択肢を、五人が作る。
レオンが手動輪を回す。
東出口の封印が一段外れる。
受容槽の夜滓が揺れた。
候補児二十人の波形が悲鳴を上げる。名札が外れかけ、集合量へ戻る。
『待って』
私は板を上げる。
レオンは止める。
「出ないのか」
『切断手順を確認』
ティアさんの予測を見る。三段階。第一、影固定を五十パーセントへ。第二、個別波形を第一鐘へ移す。第三、本人退避。
第二段階に必要な分灯器が、まだ第三鐘規格。第一鐘へ接続していない。
『個別波形の受け皿がありません』
「一時封印槽」
長官が提案。
「容量八千。一万二千は入らない」
ティアさんの計算は即答だった。
『超過四千』
「私たち五人で分ける」
ロウさん。
『仮契約条件』
「保護を拒否する」
『契約上は拒否不能』
「なら条件を改変しろ」
全路停止が必要。大夜蝕抑制が揺らぐ。
選択肢は増えた。でも、すぐ使えるわけではない。
レオンは出口を一段開けたままにする。
「閉めない」
長官が言う。
「固定率が落ちる」
「出られるようになるまで、このままにする」
東から細い風が入る。
出口の向こうは、五人がいる。手を伸ばせば届かない距離。でも道はある。
怒りも、拒絶も、沈黙も、作業を邪魔するためではなかった。
私がいなくなると、五人の中に処理できない物が残る。それを避けるため、仕事を止め、道具を返し、記録を壊し、命令を依頼へ変えた。
少しだけ、理解する。
『私を失う反応ですか』
板へ書く。
五人が同時にこちらを見る。
「今さら?」
ノル。
「そう」
ティアさんは一語で認める。
「記録します」
セラさん。
「理解したなら出ろ」
ロウさん。
レオンは何も言わず、出口の手動輪を持つ。
長官だけが私の板を読む。
「理解しても、選択は変わらないことがあります」
その通り。
私は出たい。
帰りたい。親方の六個目のパン。予定帳。母とユリオの調査。工具の往復。
左足を東出口へ向ける。
拘束帯を一つ外す。
医療班長が止めようとし、ティアさんが窓の外から首を振る。
「本人が試す。心拍を見て」
胸の帯。足首。額。順番に緩める。身体は椅子から自由になる。影だけは槽の底。
一歩目。
鐘力補助が三パーセント下がる。心拍は百三十、二拍抜ける。
東から入る風が青い襟巻きを動かした。麦環市の外気ではない。地下の冷たい風。それでも出口から来る。
外窓の五人が近くなる。
レオンは手を出さない。ノルは工具を握り、ティアさんは測定値、ロウさんは結界、セラさんは私の板を待つ。
『帰りたい』
窓へ見せる。
レオンの口が、知ってる、と動く。
二歩目。
影固定一パーセント低下。
候補児の声が変わる。
『また番号になる』
リリア。
『おねえちゃん、待って』
ユリオ。
測定器へ警告。
『遠隔生体反応低下』
南区の救助班から通信が入る。
『対象発見。男性二十歳前後、意識不明。影経路切断時、心停止の恐れ』
ユリオの身体が見つかった。
出口と弟が、同じ計測器の両側にある。
ティアさんが叫ぶ。
「止まって。戻れ、じゃない。そこで待って。別の受け皿を作る」
戻れと言えば、私が全量を引き受ける。出ろと言えば、七十四人と弟が死ぬ。彼女は第三の位置を指定した。
私は二歩目で止まる。
東出口は開いたまま。
出たい気持ちも、つながった人も、どちらも消さない場所。
ロウさんが長官へ向く。
「分灯式を今すぐ第一鐘へ」
「成功率七割。全路を開けば三割が適合者へ残る」
「残る三割を一時封印」
「容量不足」
「市民の予定を増やす」
「一時間では集まらない」
「集める」
五人の後ろに、王都駅で待っていた人々がいる。ジュノ、オレンさん、患者たち。さらに通りの公示を見た市民。
選択肢を隠さなければ、選ぶ人がいるかもしれない。
影固定が一パーセント下がった。
受容槽の候補児が崩れる。
トーマの名札が消え、番号一へ戻る。リリアの赤い糸が黒くなる。ユリオの大人の姿が二十番の小さな影へ縮む。
技師が叫ぶ。
「個別波形、生命反応と連動! 適合者が離れれば、取り込み済みの生体経路が切断されます」
『結果』
「候補児の残留影は消失。ユリオ・セルの遠隔生体反応も停止」
消失。
記憶だけなら消えても身体は死なない。けれどユリオには生体反応がある。
『現在接続した一般影は』
「影熱患者三百二十一名。切断時、夜滓が本人へ逆流。推定死亡七十四」
すでに、人がつながっている。
レオンは出口の輪を閉めない。
「戻れとは言わない」
硝子越しの通信。
「お前が戻れば安全だ。でも、戻ったら一人へ載せる。だからそこで待て」
ティアさんと同じ第三の答え。
ノルは第一鐘の分配図を床へ広げる。
「七十四人とユリオさんを先に別の鐘へ移す。十二鐘へ割れば、一基六人くらい」
『夜滓量は人数と一致しません』
「分かってる。だから測る」
セラさんが個別波形二十一と一般患者三百二十一の一覧を作る。ロウさんは十二鐘の責任者へ接続許可を求める。ティアさんは切断順を症状の軽い人からではなく、受け皿の近い経路から組む。
五人は、私へ戻れとも、今すぐ出ろとも言わない。
出られる条件を作る。
エルネスト長官はその作業を見ている。
「成功率は低い」
「一人を使う計画より?」
ロウさん。
「国民全体の生存率は下がる可能性がある」
「ミナを国民へ数えていない」
「数えています。一名の損失として」
「一名の中身を、本人が小さく見積もってる。その数字を使うな」
私の計算を、長官が国家の計算へ使った。
患者十二と私一。五百四十万人と適合者一。単位をそろえれば、一は小さい。
でも一の中に、声、味、手、親方、予定帳、弟、五人が入っている。
『私の損失見積もりは不正確ですか』
長官へ板を見せる。
「医学的には」
『計画上は』
長官はすぐ答えなかった。
「あなたが自分の将来を対価へ入れなかった。その値をゼロとして採用した」
認めた。
「計画者として、都合がよかった」
エルネストの声は変わらない。数字だけがなくなった。
『訂正してください』
「何を」
『適合者一名の損失、算出不能』
私自身の値段を高く書けない。だから、分からない欄へ戻す。
長官は公示計画書を修正した。
『適合者損失:算出不能。本人の自己評価を根拠としない』
数字から外れることが、初めて小さく扱われない方法になった。
出口は開いた。
私が一歩出れば、ユリオと七十四人が死ぬ。
選択肢はある。
使えるものが、まだない。