三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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いらない工具の使い道

 鐘舌が落ちた。

 

 床板の上で二回跳ね、三回目は鳴らなかった。全国三百二十万人分の明日を抱えた金属としては、ずいぶん控えめな退場である。

 

『交換部品は』

 

 私が板を上げる。

 

「ありません」

 

 エルネスト長官の答えも短い。第一鐘は二百年前の機械で、同じ合金はもう作れない。予備鐘舌は四十年前の夜蝕で使い、記録上はその後に補充済み。記録上は、という言葉は最近あまり信用がない。

 

 技師が折れた軸を測る。接合して再試験まで最短二時間二十分。全路開放まで四十一分。

 

 修理工程は立派だ。間に合わない点を除けば。

 

『別の鐘を鳴らす』

 

「第一鐘以外には、全国予定を束ねる主軸がありません」

 

『十一鐘へ個別送信』

 

「一基ずつなら十七分。十一基で三時間以上です」

 

 足し算をすると気持ちよく失敗する。

 

 東外窓の向こうで、ノルが折れた鐘舌を見ていた。しゃがみ、分配歯車の蓋を開ける。赤い糸を巻いた工具が、腰の袋から出た。

 

 私が返してもらったあと、もう一度床へ置かれて、ノルが拾った工具。

 

 形見にするのは嫌だと言われた。では今は何か。貸出品らしい。貸出期間は私が戻るまで。ずいぶん回収意欲を刺激する契約である。

 

 ノルが工具の細い先を主軸の溝へ差し込む。

 

「第一鐘をばらす」

 

 外窓越しでも聞こえる声だった。

 

「主軸を十二個に分ける。鐘舌で順番に送るから遅い。最初から全部つなぐ」

 

 長官の背後で技師が立ち上がった。

 

「主軸を切れば復旧不能だ。並列接続は理論上、逆相した一基から全基へ夜滓が戻る」

 

「今のままだとミナへ全部戻る」

 

「機械を壊すかもしれない話と、人命は同列ではない」

 

「同列じゃないよ。機械は壊れるかもしれない。ミナは壊れる」

 

 ノルは技師を見ず、工具の幅を溝へ合わせる。言い方がまっすぐすぎて、逃げ道まで切る子だ。

 

 長官が主軸図を開いた。十二支路は中央で一度束ねられ、鐘舌の一振りで順に位相を与える。ノルの案は中央を解体し、支路同士を輪にして互いの位相を参照させるもの。

 

 平たく言えば、班長が全員へ一人ずつ指示する代わりに、十二人が隣の作業を見て合わせる。班長の胃には優しい。作業員同士が反対方向へ回し始めた場合、工房が飛ぶ。

 

『位相ずれの止め方』

 

 私が聞く。

 

「十二個の歯車へ印をつける。赤い糸を全部へ通して、一本でも逆なら切れる」

 

『切れたあと』

 

「その鐘だけ外す」

 

『誰が』

 

「僕」

 

 即答。

 

 危険な役を一人で背負う答えなので、褒めてはいけない。私が言える立場かという問題は、棚へ上げる。棚はもう満杯だが、今だけ頑張ってもらおう。

 

『一人で十二基は見られません。各鐘の技師へ切断権を渡してください』

 

 ノルの口が曲がる。

 

「失敗されたら」

 

『ノルが失敗する可能性も同じ表へ』

 

「僕はこれ、分かる」

 

『分かる人が、分かる手順を渡すのも技術です』

 

 自分で全部持つな、と教える。教える側の影が第一鐘に縫いつけられている点には触れない。教材は目の前にあるほうが効く場合と、反面教師で十分な場合がある。

 

 ノルは返事をせず、十二枚の切断図を描き始めた。拒否ではない。線の横へ、工具を差す角度と、糸が切れたとき触ってはいけない歯を足している。

 

 上手になった。

 

 最初は私の手元を真似し、次は理由を聞き、今は私がいなくても手順を作る。工具を渡した意味は、これで完了。私が返却されなくても――違う。そこまでを一続きにしない約束だった。

 

 工具の用途が増えた。今日の記録はそれだけでよい。

 

「許可できません」

 

 第一鐘主任技師が主軸図を閉じる。

 

「主軸を失えば、今後の夜蝕で全国分配ができなくなる。ノル君の仮設は今夜を越えても保たない」

 

「今夜のあとで作り直す」

 

「二百年の機械だ」

 

「二百年前の人も、最初は部品を作った」

 

 ノルは赤糸工具を持ったまま立つ。主任は工具ではなく、まだ少年の手を見た。

 

 止めたいのかもしれない。壊されたくないだけかもしれない。どちらも表情だけでは分からない。ただ、主任は主軸の鍵から手を離さなかった。

 

 ロウさんが二人の間へ入る。

 

 以前なら命令書を出した。隊長権限で鍵を取り上げ、ノルを危険作業から外しただろう。

 

 包帯の右手は下げたまま、左手で公開板を開く。

 

「現行維持。四十一分後、朝の器へ全量移行。適合者の声帯、影術、心肺機能を不可逆損傷する予測九十七パーセント。死亡予測六十二パーセント」

 

 私の値札を読み上げる声は揺れなかった。

 

「並列改造。成功予測五十四パーセント。失敗時、第一鐘主軸喪失。逆流による市民重症予測は、切断手順成功時二百八十人、失敗時最大四万一千人」

 

 主任技師の顎が上がる。数字だけなら後者の失敗が大きい。

 

「選択権者は、第一鐘管理者、接続十一鐘、市民代表、作業者。俺は命令しない。ノル、お前は作業者としてどちらを選ぶ」

 

「ばらす」

 

「理由」

 

「機械は直せる。死んだ人と、なくした声は、同じに戻せない」

 

 私の喉に触れない言い方だった。そこを見れば手元が狂うからかもしれない。

 

 ロウさんはうなずかず、主任へ向く。

 

「あなたは」

 

 長い沈黙のあと、主任は鍵を抜いた。

 

「私は機械を守る技師です。だから、機械を人一人の代わりにしてはいけない」

 

 鍵をノルへ渡さず、自分で主軸蓋を開ける。

 

「ただし、ばらすのは私だ。君は構造を読め。二百年分の固着を甘く見るな」

 

 ノルが一度だけ鼻をすすった。泣いたとは決めない。金属粉が多い部屋である。

 

 十一鐘へ改造案と危険率を送る。北辺鐘は夜滓を受けないが、位相参照だけなら参加できると返事。壊れた導入路を持つ鐘にも、壊れているからできる仕事があった。

 

 市民代表の投票は、予定札の脇で始まる。

 

『機械を壊すな』

『一人を壊すな』

『四万人は多すぎる』

『切断を各地で練習してから』

 

 時間がない、と長官は急かさない。急がせて同意を取れば、朝の器と同じになる。

 

 ノルはその間に模擬歯車を十二個、床へ並べた。赤い糸を輪に通し、一個を逆へ回す。糸が張り、三番の結び目が切れた。

 

「切れるのが遅い」

 

『糸を細く』

 

「夜滓で焼ける」

 

『結び目を歯へ近づける』

 

「巻き込む」

 

 私たちは三案を捨てる。四つ目で、工具の柄にある小さな穴を使った。赤い糸を歯車へ直接結ばず、各切断レバーの穴へ通す。逆相すれば張力でレバーが半分引かれ、現地技師が残り半分を引く。

 

 完全自動にしない。人の判断を一手残す。

 

 ノルが笑う代わりに、私へ工具の柄を向けた。穴は私が、紛失防止の紐を通すために開けたものだ。腰へ結ばないとよく落とすので。格好のよい由来ではない。

 

『落とし物防止穴です』

 

「知ってる。落としたあとに使い道が増えた」

 

 工具も人も、最初の用途だけで決まらないらしい。

 

 なら、朝の器と決められた私にも、別の使い道がある。人に使い道と言うのは変だが、私の頭には一番入りやすい。まずはその程度の理解でよい。

 

 賛成六十八。条件付き賛成二十一。反対十一。並列改造が選ばれる。

 

 主軸解体が始まった。

 

 主任が固着した外輪を焼き、ノルが温度の低い場所だけへ工具を入れる。ロウさんは各鐘の選択と切断担当を確認。セラさんは変更手順を一枚へ統合し、古い工程表を残したまま「不使用」と印をつける。ティアさんは作業員の熱傷限界。レオンは東出口と、私の足元を見ている。

 

 一本目の固定針が抜けたところで、主軸の内側から黒い粉が噴いた。

 

「伏せて」

 

 ティアさんの声と同時に、ロウさんが木枠を倒す。ノルと主任の前へ板が立ち、黒い粉を受けた。粉は木目へ食い込み、表面を古い影みたいに曇らせる。

 

 ノルの左袖に三粒。

 

『触らない』

 

 私が板を上げるより早く、ノルは工具を持つ手を止めた。以前なら驚いて払ったかもしれない。ティアさんが長い柄の刷毛で落とし、皮膚温と影濃度を測る。

 

「軽度。作業継続は本人判断」

 

 ロウさんは「下がれ」と言わない。

 

「ノル。手は動くか」

 

 ノルが一本ずつ指を曲げる。親指、人差し指、中指。薬指だけ二度曲げ直した。

 

「動く」

 

「怖くないか、とは聞かない。続けるか」

 

「続ける。次は板を先に置く」

 

「分かった。俺が持つ」

 

 ロウさんは木枠の持ち手へ左腕を通す。命令権を捨てても、責任まで少年へ返したわけではない。ノルが選んだ場所の隣で、自分の焼けた手を使わずできる仕事を選ぶ。

 

 二本目。板を先に置き、粉を受ける。三本目は固着が強く、工具の柄がしなった。

 

「折れる」

 

 主任が止める。

 

「これは折れない」

 

 ノルは柄の根元へ指を滑らせた。

 

「でも、溝が欠ける。押すんじゃなくて、固定針を温め直す」

 

 主任は炉の温度を二度下げ、三度目にノルの指定へ合わせた。若いから正しいのでも、二百年を知るから正しいのでもない。欠けそうな音を聞いた人の案を、その場で試す。

 

 三本目が抜ける。

 

 ノルは工具の先を布で拭き、赤い糸の焦げを確かめた。私が教えた手順に、さっき自分で増やした点検が加わっている。

 

『上手です』

 

 書いてから、子ども扱いに見えないよう追記する。

 

『主任より先に欠損を予測しました』

 

「一回だけ」

 

 主任が横から言う。

 

「次は私が先に見つける」

 

 競争が始まった。主軸を壊さないための競争なら、たいへん結構。

 

 四本目を抜く間、第一鐘の圧力が一度跳ねた。私の影へ夜滓が戻り、喉の夜晶が内側から擦れる。声は出ない。代わりに呼吸が半分で止まる。

 

 ティアさんが窓へ数字を出す。

 

『脈百四十六。作業を止める?』

 

 私が止めれば、再開に固定工程から七分。身体の上限と工程の損失を並べる。以前なら痛みを申告せず続けた。今は左胸、吸気時、痛み四。板へ全部書く。

 

『固定を維持して二分休止。圧力を第一支路へ仮逃がし』

 

 提案の採否をティアさんへ渡す。彼女は波形を確認し、一分三十秒だけ止めた。私の希望どおりではない。私を無視したわけでもない。

 

 レオンが東出口から椅子を滑らせる。座れば影固定の高さが変わるので使えない。彼は計測環の脚を二寸上げ、立ったまま背を預けられる角度にした。

 

『器用ですね』

 

「ノルに習った」

 

 本人がいなくても進む人と、本人から習ったことを別の人へ使う人。役目は消えるのでなく、薄く広がるらしい。

 

 休止後、脈百三十一。作業再開。

 

 私の仕事は個別波形の保持だ。

 

 トーマとトトを取り違えない。エナの狭い場所への拒否を尊重する。サリとサーニャの歌を一つへ混ぜない。ユリオの影経路と南区の身体を離さない。

 

 主軸が一本抜かれるたび、私の影へ集まる圧力が軽くなる。

 

 自分がいなくても、進んでいる。

 

 安心する。これなら私が途中で働けなくなっても、ノルが直し、主任が部品を作り、十一鐘が互いを見て朝を返せる。

 

 胸の奥が冷える。

 

 安心なら、どうして冷えるのか。役目が減った身体が、また居場所まで減ったと早合点しているだけだ。家族欄とは別。仕事量とも別。分類すれば簡単――簡単ではないが、欄は分けられる。

 

 外窓の向こうで、ノルが主任へ工具の向きを教えている。主任は一度首を振り、別角度を示す。二人で試し、ノルの角度が採用された。

 

 この先も見たい。

 

 私はその一文を、冗談にも作業名にも変えず、胸の内側へ置いた。

 

 見届けるために残る、ではない。残ったから見られる、でもない。帰って、来年の職人試験を受けて、ノルが新しい主軸を作るところを見たい。

 

 予定札へ書こうとして、手が止まる。

 

 まだ提出はできない。書けば鐘が私の予定を掴み、いま保持している二十一波形へ混ざる恐れがある。技術上の理由は本物だ。便利な理由でもある。

 

 私は板の裏へだけ、『新しい主軸を見る』と書く。公開せず、消さない。

 

 主軸の十二分割が終わる。

 

「赤糸を通す」

 

 ノルの声。

 

 十二鐘の現地技師が、それぞれ切断レバーへ糸を結ぶ。実物の糸が全国へ一本で伸びるわけではない。第一鐘の赤糸を基準に、各地で同じ長さ、同じ結び方を作る。

 

 麦環市暁鐘では、アルノパン店の物差しが使われた。親方が生地を量る木尺。端に焦げ跡があるので、映像だけで分かる。

 

『工具じゃなくパン屋の道具でよいのか』

 

 現地技師の質問。

 

『長さが合えば、道具の所属は問いません』

 

 親方から追記。

 

『使ったら粉を拭いて返せ』

 

 国を救う注意事項としては生活感が強い。こういうのは好きだ。

 

 第一鐘の外輪を、主任とノルが反対側から押す。ロウさんは手を貸さない。右手の負傷だけでなく、選んだ作業を奪わないためだろう。代わりに、滑ったとき受ける木枠を足元へ入れた。

 

 外輪が回る。

 

 十二の支路へ同時に光が入った。

 

 東水路鐘、位相一致。

 硝子港第三鐘、一拍遅延、許容内。

 麦環市暁鐘、位相一致。

 北辺鐘、参照のみ接続。

 

 八、九、十。十一。

 

 最後に第一鐘自身が、ほかの十一基を見て位相を合わせる。

 

 中央のない輪が閉じた。

 

 王都中の予定札が一斉に光る。鐘舌は鳴らない。代わりに十一の遠い鐘から届いた振動が、第一鐘の床を細かく揺らした。

 

 成功率八十三。八十七。九十一。

 

 私の影から、圧力が抜ける。

 

 右足を東出口へ半歩。候補児の波形は崩れない。一般患者の逆流予測死者、四十一から十九。ユリオの生体反応、維持。

 

 ノルが工具を掲げた。

 

「これ、返さないから」

 

『貸出期限は』

 

「ミナが帰って、新しい主軸を見るまで」

 

 板の裏を見られたかと思った。見える距離ではない。偶然、同じ予定になっただけだ。

 

『延長を承認します』

 

 私は返す。

 

 長官の計測盤で、夜蝕開始までの数字が動いた。

 

 一時間三十二分。

 

 一時間三十一分。

 

 次の瞬間、残り三十一分。

 

「観測塔から緊急報」

 

 長官が読み上げるより先に、第一鐘の高窓が暗くなる。夕方ではない。空の端から、黒い輪が太陽を削っていた。

 

 夜滓圧力、予定値の三倍。

 

 分灯式完了予測、四十分。

 

 大夜蝕は、一時間早く始まった。

 

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