大夜蝕まで三十一分。
分灯式の完成まで四十分。
九分不足。帳簿なら赤字である。時間は借りても利子で返せないので、たいへん困る。
「第一鐘から全国へ緊急公示」
エルネスト長官が、朝の器計画書を公開板へ載せた。
適合者一名。夜滓受容量九百八十万。予測生存率三十八。声帯・影術・心肺の不可逆損傷九十七。候補者本人の自己評価による損失、ゼロ。
最後の一行へ、赤い訂正線。
『算出不能』
「本計画は、国民三千万人を救う費用として、一名を計上しました」
長官の声が、十二鐘を通って全国へ行く。鐘舌はない。並列輪の端から端へ、人の予定と一緒に渡される。
「一名なら計算できる。それが計画の出発点でした」
聞いたことがある。第十九候補者だった私へ、安心させるように説明した言葉。
一人なら計算できる。
三千万人の避難、医療、食料、鐘の補修を全部成功させるより、一人へ集めるほうが確実。私は適合して、条件を交渉できた。役目が大きくて、捨てられにくい。かなりよくできた話に見えた。
見えただけだった。
「計画責任者として、朝の器を失敗と認定します。国家継続権限を、分灯式の十二鐘評議と参加者個人へ移譲します」
長官が首元の国家印を外す。全量弁の認証札はすでにロウさんが持っている。残るのは命令印。机の溝へ置き、銀の留め具を折った。
「以後、私一人の命令で夜滓経路を変更できません」
自分を便利な一人にしない宣言でもある。
権限は十二鐘へ均等に割られた。ただし、十二人の責任者が全員賛成するまで何も動かせない仕組みでは間に合わない。医療経路はティアさんを含む三地域の治療者、位相切断は各鐘の現地技師、予定札の扱いは市民記録員、全量弁だけはロウさんを含む五者承認。作業ごとに、失敗したとき一番傷を受ける人へ拒否権を置く。
旧計画官が表を見て眉を寄せた。
「責任の所在が分散します」
「作業も損失も分散しています」
長官が返す。
「最終責任者は必要です」
「失敗の説明責任は私が負います。人の身体を使う決定権まで、説明する人へ集める必要はありません」
責任を取る人が全部を決める。聞き慣れた仕組みだ。ロウさんも、それで私を任務から外した。守るための命令が、私には役目を失う通知に見えた。
公開板へ十二の署名欄が並ぶ。形も違う。硝子港は休符を含む音、北辺は石板の刻み、麦環市は小麦粉をつけた指印。同じ立派な印章にそろえないので、確認には手間がかかる。
手間は、不正確さと同じではない。
公開板に選択票が出る。
『朝の器へ戻す』
『共同負担を続ける』
『参加を辞退する』
危険予測も並ぶ。共同式は完成に九分足りず、そのままでは全国逆流。朝の器なら即時起動できる。分かりやすい。私は全量を受け、ほかの人は助かる。
いまなら全量弁まで三歩。認証札はロウさん。頼めば――頼まなくても、国家継続の数字を示せば彼は責任者として考える。
考えるだけにする。先ほど隠して止められた手順を、言い換えて再提出するのは協力とは呼ばない。
最初の票が入った。
『共同負担。明日、パンを焼くから』
麦環市の札。
『共同負担。子を迎えに行く』
王都東区。
『共同負担。兄へ謝る。許されなくても帰る』
北辺。
『辞退。眠る。鐘の光は受け取る』
南の療養所。
辞退票も分灯式の光から外れない。働けない人を朝から外せば、私がよく知る制度になる。
朝の器を選ぶ票もある。
『家に三人いる。一人を知らない。家族を選ぶ』
当然の選択だ。責める理由はない。
『共同式が失敗すれば子どもも死ぬ。確実な案を使え』
これも正しい。
私は危険率へ追記する。
『朝の器を選んだ人の光も保護。選択理由を非公開にできます』
味方と敵へ分ける必要はない。私は一人で引き受ける案を選んだ人を、私を殺した人として残したくない。殺すという言葉は少し大きい。生存率三十八なので、まだ六割二分くらいの話だ。
外窓でレオンが顔を上げる。
いまの冗談は書いていないのに、何か見えたらしい。私は計測板を先に出す。脈百三十五、吸気痛五、足の震え二。隠していない証拠。彼は口を閉じたまま、板へ親指を当てる。
信じたのではなく、確認した。それでよい。
投票は共同負担六十一、朝の器二十四、辞退十五。
長官は結果を即時決定にしない。
「少数票の地区へ、追加負担を強制しません。鐘ごとの許容量と個人辞退を優先します」
『それでは完成が遅れる』
第一鐘の旧計画官から反論。
「遅れます」
『九分足りない状態で、さらに遅らせるのか』
「足りない九分を、一人の残り時間から無断で取る計画へは戻しません」
長官が私を見ないで答える。こちらを見れば、本人が納得しているように見えてしまうからかもしれない。
私は納得している。全量を受ければ九分は作れる。三千万人と一人なら――そこで計算を止める。
投票板へ新しい返信が出た。
『一人なら計算できると言うが、その一人の明日は何個だ』
硝子港、帽子の男性。
『帽子を干す。宿代を払う。妹へ手紙。少なくとも三個ある』
本人が自分で答えた。
『三個なら三人分か』
『違う。三個でも俺一人だ』
王都の教師が続く。
『生徒三十二人へ試験を返す。未採点なら謝る。これは三十三人分?』
北区の食堂主。
『玉葱を頼む。店を開く。客の予定までは数えられない』
予定札が、人数の枠からはみ出していく。
『器になる人の予定を公開しろ』
誰かが書いた。
公開板の入力欄が私へ移る。
板の裏には『新しい主軸を見る』。家族欄。来年の職人試験。親方の六個目のパン。帰ってから説明するとレオンへ預けた言葉。
書けばよい。
指が動かない。
技術上、私の予定を分灯式へ入れれば、保持中の候補児二十一波形へ混線する恐れがある。公開だけなら流路へ入れず表示できる。つまり、書けない理由は技術だけではない。
新しい主軸を見る。そのとき自分がいる形を、国中に読まれる。
できなかった場合、嘘になる。期待させれば、帰れないときの損失が増える。私の予定一つを出さないほうが、帳簿は簡単だ。
また簡単な一人を作っている。
『現在、本人の予定は非公開を選択』
私は書く。
嘘ではない。提出できない自分を、予定なしとは記録しない。非公開という欄へ入れる。
外窓の五人は、同じ返事をしなかった。
レオンは出口をもう一寸広げる。予定を聞き出す代わりに、帰る道だけを残す。
ティアさんは私の計測表へ『非公開は症状ではない』と書いた。治療対象にして無理に開かない。
ロウさんは帰還名簿の私の欄を指す。空欄だった場所には、王都へ来る前に私が書いた名前がある。予定を言わなくても、帰還人数からは消さないという確認。
ノルは赤糸工具を腰へ結び、結び目を二重にした。貸出期限を変更しないらしい。
セラさんだけが質問を送る。
『非公開の予定は、存在する?』
内容ではなく有無。これなら答えられる。
『あります』
書くと、胸の契約印が熱を持った。帰還意思として仮契約に拾われたらしい。第一鐘の圧力がわずかに上がる。
長官が数値を見る。
「内容を撤回すれば安定します」
私は板を下げない。撤回はしない。予定を消して得る安定は、朝の器と同じ材料でできている。
ティアさんが心拍を測り、ノルが並列輪の余裕を二パーセント回す。ロウさんは全量弁ではなく東水路鐘へ増分を照会。レオンは出口を閉じない。セラさんは『予定あり、非公開』を原文どおり残す。
私の一文を、私の身体だけで処理しない。
圧力は三十秒で下がった。
『非公開でも一名。算出不能』
セラさんが追記した。
公開板の向こうで、市民が勝手に私の予定を推測する。
『パン屋なら明日もパンを焼く』
『影請けだろ。仕事』
『治療では』
『休め』
どれも決めつけなので、セラさんが注記する。
『本人未確認。予定として集計しない』
親方の札が、麦環市暁鐘から再送された。
『朝飯を六人で食べる』
その下へ、六つの皿の絵。絵は上手ではない。丸が五つと、少し歪んだ丸が一つ。歪んだ皿の脇に、焦げたパン。
『六人目は誰』
市民の質問。
『娘』
親方の返事。
『本人の予定は非公開だろ』
『これは私の予定だ。娘が食べるかは娘が決める。席とパンは出す』
本人の選択を勝手に書かず、相手が来ないかもしれない朝食を自分の予定として出す。親方は難しい分灯式を、店の作業へ翻訳していた。
六人分の朝食が、麦環市暁鐘の位相を安定させる。
焦げたパンの丸だけ、光が少し濃い。失敗品も予定から除かれないらしい。親方なら、焦げを削ってスープへ入れる。食べられる部分を探すのが得意だ。
胸が痛い。
吸気時だけでなく、板を見てから一段増えた。これは感情ではなく不整脈――と言い切るには、計測盤の脈がさっきより落ち着いている。
『症状追加。胸部圧迫感、原因未分類』
ティアさんへ出す。
彼女は医療欄へ書いたあと、別の紙を重ねた。
『帰って食べる?』
医療質問ではない。
『食べたいです』
味は分からない。重い物は持てない。席へ座るだけなら、現在の能力でも可能だ。
『帰還は未確定』
同じ板へ二行書く。上を消さない。
ティアさんは二行とも公開せず、自分の胸ポケットへしまった。本人の予定を勝手に式へ使わない。
全国の票が更新される。
共同負担七十四。朝の器十一。辞退十五。
朝の器を選んだ人が減ったのは、私の価値を理解したからとは限らない。共同式の成功率が上がったから、合理的に移った人もいる。それでよい。私を好きになることを参加条件にしたら、ずいぶん面倒な制度になる。
十一パーセントの票も消さない。
『知らない一人を選ぶ』
その言葉の下へ、別地区から返信。
『知らないから計算できない』
『知っていても計算できない』
『嫌いな相手でも、その先の予定までは数えられない』
国中の人が、計算不能を理由に一人を除外しないと宣言する。
私は長官の計画書を見る。白い値札で候補者番号をつけ、能力、従順性、維持費を並べた表。第十九候補者の損失欄はゼロだった。
長官が原本を公開台へ置く。
「本表を廃止します。今後、能力計画の費用へ本人の将来を含め、本人が低く申告しても観察事実と第三者権利審査を通す」
『本人の自己決定を奪うのか』
反論が来る。
「本人の選択は残します。国家が、その人の自己評価の低さを割引券として使うことを禁じます」
割引券。
私なら特売日に喜んで使う言葉だ。自分へ貼られていたと知ると、少し腹が立つ。少しで済ませるところまで含めて、審査対象なのだろう。
白い値札が一枚ずつ剥がされる。十九、二十、十七。候補者名簿を捨てるのではない。番号の横へ本名を残し、価格欄だけを消す。
候補児の波形が安定する。
トーマはトーマ一人。名前を呼んでもらう予定が一つでも、一人分を超えたり減ったりしない。ユリオは身体へ戻り、母を探し、私と歩く。予定が二つでも、便利な二人にはならない。
私も一人。
三千万人と比べれば小さい。小さいまま、ゼロではない。
そこまでなら計算に入れられる。
夜蝕の黒い輪が太陽の半分を覆う。
十二鐘へ夜滓が押し寄せた。各地の切断糸が張り、東水路鐘で一度警報。現地技師がレバーへ手をかけるが、位相は戻り、切断を保留。
次に硝子港第三鐘が遅れる。声滓傷の残る鐘だ。負担を増やせないと申告していたのに、並列輪が予定より四パーセント多く流している。
『切断』
現地技師が選択票を上げる。
切れば港の光は保てるが、予定の向きを受け取れない。オレンさんたち七人の合奏が、休符ごと波形を送った。
『四拍だけ持てる。五拍目で切って』
長官は延長を命じない。現地治療者が一拍ごとの傷を測り、市民代表が二拍まで承認する。技師は三拍目を拒否した。
二拍の間に、ほかの十鐘が負担を分ける。
麦環市暁鐘が一パーセント。北辺鐘は夜滓を受けられない代わり、位相参照を二倍にして計算負荷を引く。王都第二鐘は、参加辞退者の空き経路だけを借りる。辞退した人の影は使わない。
第三鐘の超過がゼロへ戻る。
オレンさんの合奏は、三拍目を鳴らさず休符にした。
『切断不要』
現地技師から返る。
誰かが限界まで耐えた美談にはならない。二拍で止め、残りを十か所へ渡した。そのため完成予測が四十秒延びる。
以前の私なら、四十秒くらい自分が持てばよいと計算する。実際、そのほうが速い。
私は計測板へ、増えた四十秒をそのまま記す。小さく扱わず、誰へも隠さない。
レオンが数字を読み、東出口の時計を四十秒進める。ティアさんは私の退出限界を変えない。足りない時間だけが増えた。
それでも、第三鐘を壊す時間ではなく、国中が分け方を覚えた時間だ。
九分は九分四十秒になり、別経路の短縮でまた九分へ戻る。数字の裏で、誰か一人の限界を無料にしない調整が続く。
予定札の光が並列輪へ流れる。
パンを焼く。子を迎える。謝る。謝らない。眠る。店を閉める。鍵を渡す。明日まで決めない。
役に立つ大きさでは測らない光が、一人分ずつ夜滓を押し返す。
分灯式成功率、九十三。九十五。九十六。
一般患者の逆流予測死者、十九から六。
ユリオの身体から、自発呼吸開始の報告。
候補児の輪郭も保たれている。
「完成まで三十一分」
長官が告げる。
私の計測盤で、影固定を維持できる時間が更新された。
二十二分。
喉ではない。心臓と肺が先に止まる。退出すれば二十一波形が崩れ、完成前の十二鐘へ夜滓が逆流する。
計算し直しても同じ。
三十一から二十二を引く。
九分も、足りない。
国はもう、一人をゼロとして埋める計算を選ばない。だから残った九分だけが、誰の帳簿にも隠れず、私たち全員の前に置かれた。