九分を、どこから持ってくるか。
第一鐘の計算盤は、十二通りの案を出した。
一、参加者の医療上限を一割上げる。予測重症八千二百。
二、辞退者の空き経路を本人同意なく使う。規則違反。そして分灯式の意味がなくなる。
三、北辺鐘の壊れた導入路へ夜滓を流す。鐘周辺の避難が間に合わない。
四、候補児の残留影を燃料にする。
これは全員が同時に削除した。
残る八案も、数字を別の人へ隠す方法だった。誰かの九分を無料にすれば、時計だけは合う。
最後に、計算盤へ載せていない方法が一つある。
手動全量弁。
私の左三歩先。認証札は外窓のロウさん。本人影は第一鐘の中。
九分だけ弁を開き、全国夜滓を私へ戻す。分灯式が完成した瞬間に十二鐘へ排出。朝の器を永久運用するのではなく、仮の受容槽として使う。
心肺が九分もつ確率、四十二パーセント。
声帯夜晶が崩壊する確率、百。
影経路が焼失する確率、百。
生存しても影請けへ戻れる確率、ゼロ。
計算しやすい。
今度は、その一人の損失がゼロでないと知っている。
『全量弁を九分、緩衝槽として使用』
公開板へ提案する。
五人とも動かなかった。
予想していた反対が来ない。賛成もしない。ロウさんは認証札を左手に載せ、私へ見せるだけ。選択を奪わないための沈黙は、ときどき怒鳴られるより居心地が悪い。
「別案の探索を継続します」
エルネスト長官が言う。
『何分』
「身体限界まで二十一分。探索期限は十一分後。残り十六分で式完成を二十五分まで短縮できれば全量弁不要」
『短縮確率』
「九パーセント」
ゼロではない。九分のために九パーセントへ賭ける。数字の形が少し面白い。笑うところではないらしく、誰も口元を動かさなかった。
十一分、別案を探す。
私は候補児の波形を保ち、各鐘の余白を一単位ずつ洗う。東水路鐘に四十秒。麦環市に十八秒。王都第二鐘の廃診療路に二十七秒。合計しても二分に届かない。
ノルが主軸の回転比を一歯ずらす案を出す。成功すれば三分短縮、失敗すれば並列輪が解ける。主任と模擬盤を回し、七回目で赤糸が切れた。採用しない。
ティアさんは冷却で私の心肺限界を伸ばせないか試す。体温を一度下げれば二分伸びるが、夜晶が固まり排出に四分余計にかかる。差し引き二分損。冷やせばよいという問題でもない。
セラさんは童謡の欠落節を過去記録から探す。『ひとりの影に朝を盛るな』の前に、地方によって一行ある。
『夜は名を食べ、朝は名を呼ぶ』
候補児を名で分けた方法を、全国予定へ使う。予定札を地区番号でなく本人名へ再分類すると、重複波形が減った。
短縮、一分四十秒。
レオンは東出口から、帰還経路に使うはずの予備光を差し出す。私を外へ出すための道を削れば、式は五十秒縮む。
『却下』
私が書く。
「理由」
『出口を閉じる案は、全量弁と一緒に検討できません』
戻る道を消した状態で、自分を使う案へ同意する。それは選択ではなく、以前の契約の作り直しだ。
レオンは予備光を戻した。
「了解」
出口は開いたまま。
ロウさんは軍用鐘の優先経路を切る。指揮通信が夜明けまで使えなくなるが、市民避難は終わっている。短縮、三十六秒。
エルネスト長官は王城保護路を停止する。王族の同意書を待てば間に合わない、と旧権限で切ろうとし、途中で手を止めた。
「同意なしに切れば、同じです」
王城へ危険率を送り、返事を待つ。
八十秒後、王城から『全停止』。短縮、一分十二秒。
権限のある人が自分で差し出すまで待った時間は、無駄ではない。
それでも不足、四分四十二秒。
夜蝕は進む。太陽が細い輪になり、第一鐘の高窓から色が消えた。予定札だけが床へ淡い朝色を落としている。
私の影固定限界、残り九分。
分灯式完成、十三分四十二秒。
探索期限。
『全量弁、四分四十二秒』
私は提案を更新する。
九分ではない。全員で四分十八秒を見つけた。私一人の仕事を半分にしたので、ずいぶん楽になった。生存率は四十二から六十一へ上昇。それでも声と影術の焼失は百。
ティアさんが医療表を外窓へ貼る。
『実施後、発声機能は戻らない。影請け能力も戻らない。走行、重量作業、長時間立位を生涯制限する可能性。心不全再発、呼吸補助。理解した?』
『理解』
いつもの同意欄へ印をつける。
ティアさんは紙を下げない。
『声を失っても紙がある、仕事を失っても別の仕事がある、とは今ここで書かないで』
先回りされた。
私は書こうとしていた板を裏返す。代用品の一覧を出せば、損失を小さくできる。小さく説明できても、失う事実は小さくならない。
『声を失います』
一行。
『影請けへ戻れません』
二行。
『パン生地を五十個こねる仕事も、たぶんできません』
三行。
親方の店で立って食べる癖もやめる。六人分の朝食では座る側になる。迷惑――その語を消す。
『助けが必要になります』
ティアさんは医療表を下ろした。
ロウさんが認証札を握る。
「俺が開けば、また命令でお前を使う」
『私が開くには認証が必要です』
「渡せば、責任をお前へ押しつける」
どちらも本当だ。
全量弁は五者承認へ変わっている。ロウさん一人の命令でも、私一人の自己決定でも動かない。鐘代表、医療者、市民代表、経路責任者、本人。
十一鐘の承認が集まる。条件は四分四十二秒で自動閉鎖、本人意識喪失時も続行、各鐘の排出準備完了を先に確認。市民代表は賛成六十九、反対十八、保留十三。
反対票の理由。
『一人を使わないと言ったばかりだ』
そのとおり。
『本人が望んでも認めるな』
それも、私が自分を安く扱う事実を考えれば正しい。
私は反対票を説得しない。賛成票を正義にもできない。
ただ、待てば六人から始まり、全国へ逆流が広がる。私が含まれる三千万人へ。
私も含まれる。
一人をゼロにして三千万人を救うのではない。一人が傷つく案で、三千万人全員を救う。人数は減らさない。損失も消さない。
それでも私は、同じ弁を選ぶ。
少し困る。自己認識を直せば、正しい答えも自動で変わると思っていた。そういう便利な修理ではないらしい。
違うのは、終わったあとを人数に入れること。
『実施条件を追加』
私は書く。
『終了後、私を生存者として治療する。声と能力の回復不能を、死亡扱いの理由にしない。帰還名簿から外さない』
ロウさんが帰還名簿を窓へ押しつける。私の名の横へ、赤い線を二本。
『帰還予定。要介助』
隊長の字。
ノルが全量弁と十二鐘を赤糸工具でつなぐ。四分四十二秒後、本人影が焼けて認証できなくなっても、機械側から閉じる仕掛け。
「絶対、閉める」
『絶対は機械用語ではありません』
「じゃあ、閉鎖成功予測九十九・八」
『よくできました』
「褒めないで。〇・二をなくす」
工具の先を調整孔へ入れる。赤い糸が、私へ渡されたときより黒ずんでいる。使った道具の色だ。
セラさんは承認文を二冊へ分けない。一枚の上段に本人説明、下段に観察事実。
『本人説明:三千万人全員のため、四分四十二秒の全量受容を選択。帰還・治療を条件とする』
『観察事実:本人は過去に損失を過小評価し、帰還欄を削除。現在は不可逆損傷を具体記載し、帰還名簿への残留を要求』
どちらかだけで私を決めない記録。
レオンは東出口から中へ入らない。入れば仮契約の保護条件に触れ、経路が乱れる。それでも手だけを、投入口から差し出した。
「ここまで届く」
私の左手から一尺。
計測環を出れば届く。影固定は崩れないぎりぎり。
手を借りる必要は、全量弁の操作にはない。左手は動く。筆談もできる。
では、何のため。
レオンが待っている。
私は板へ、全量受容開始と書きかけた。
指先が震える。寒さはない。体温三十七度二。痛みは予測内。工程も四度確認した。
何が不足しているのか、今回は分かる。
認めれば作業が遅れる。心配させる。認証票が撤回されるかもしれない。だから書かないほうが簡単。
簡単なほうを、いつも選んできた。
私は開始の文字を消した。
『怖い』
たった二文字を、公開板でなく、手元の板へ書く。
セラさんが見る。記録する前に、私を見た。
レオンの手は動かない。急かさず、引っ込めず、掌を上へ向けたまま。
『手を握ってください』
依頼を書く。
計測環から左肩を出す。胸の黒線が引かれ、警報が鳴る。ティアさんが許容位置を指で示す。あと一寸。
指先が触れる。
レオンが掴まない。私が掌へ指を置き、自分で握るまで待つ。
温かい。
人の手は治療具より温度が不揃いだ。親指の付け根に古い剣だこ。人差し指に、東出口の金具で切った新しい傷。私を助ける作業で増えた傷を、きれいな話にしてはいけない。
「怖いまま、やるのか」
うなずく。
「帰りたいか」
もう一度、うなずく。
「分かった。離さない」
離さなければ操作しにくい。そこは実務調整が必要なので、私の指を二本だけ握り、残る三本を筆談用に空けてもらう。雰囲気は少し減るが、性能は上がった。
五者承認。
ロウさんが認証札を投入口へ差し込む。
ティアさんが心肺補助と喉の排出管を開く。
セラさんが開始時刻と私の二文字を記す。
ノルが赤糸工具で自動閉鎖を固定。
レオンが私の左手を握る。
私は本人影を、全量弁へ重ねた。
開く。
夜が入ってきた。
冷たい、ではない。熱い、でもない。身体の内側に空いていた場所を、重い水で一度に埋められる。喉、胸、背中、目の裏。十九人の声と、三百二十一人の熱と、国中の影が、区別を失って押し寄せる。
候補児の名を呼ぶ。声にはしない。波形の札を一枚ずつ持つ。
トーマ。トト。エナ。サリ。ナナ。リリア。ハルク。アト。ミオ。カル。レミ。サーニャ。イヴォ。ララ。ゲン。メリ。キト。ニア。ミナ。ユリオ。
十九番のミナではなく、ミナ・セルとミナ・アルノを同じ札へ。
自分の名を最後へ送らない。
開始から三十秒。
声帯の夜晶が割れた。
口から黒い血が落ちる。ティアさんの排出管が吸う。喉の形が崩れる感覚。痛みは十。小さく書かない。
『痛み十』
板へ一文字ずつ。
麻酔が追加される。意識を完全に落とせば波形を分けられない。痛みだけを下げ、名前を保つ。
一分。
影固定の輪郭が焼ける。足元にあった私の影が薄くなり、第一鐘の影と区別できなくなる。
影請け能力、消失予測百。
もう予測ではない。右肩から胸へあった感覚が、切れた糸みたいに戻らない。
ノルが工具を回す。自動閉鎖率九十九・九。〇・一を、主任が別の留め具で押さえる。
二分。
分灯式成功率、九十七。
全国の予定が流れ込む。パン、迎え、謝罪、睡眠、空白。私の中へ入れるのではない。私の外を通り、十二鐘へ戻る。私は九分の橋台。
三分。
心拍が二度抜ける。
ティアさんが補助光を直接入れる。治療契約ではない。私が帰還条件として頼んだ治療。
ロウさんが全量弁を半分閉鎖。本人の予定より十二秒早い。命令ではなく、医療者の限界値に従う権限行使。
流入が減り、代わりに東水路鐘が一割多く受ける。市民承認済みの余白。
四分。
レオンの指が濡れている。私の血か、彼の汗か分からない。握る力は変わらない。
私は帰ったあとの予定を考える。
新しい主軸を見る。
朝食を食べる。
親方の焦げたパンを、味が分からないまま焦げた形で覚える。
ノルへ工具を返してもらう。いや、期限は主軸を見るまでなので、そのあと返却交渉。
予定は、役に立つ作業だけではなかった。
四分三十秒。
並列輪、完成。
「全鐘、排出開始」
長官ではなく、十二鐘の声が重なって告げる。
赤糸が張る。
ノルの工具が全量弁を閉じ始めた。
四分四十二秒。
閉鎖。
私の中を満たしていた夜が、十二方向へ引かれる。候補児の名札が一枚ずつ光へ変わる。ユリオの影は南区へ伸び、身体の胸と重なった。
最後に、自分の影を探す。
ない。
失くした物を探す癖で足元を見る。第一鐘の床に、誰のものでもない朝の光だけがある。
分灯式成功率、百。
全国夜滓圧力、低下。
大夜蝕の黒い輪の端から、光が戻る。
私は東出口へ進もうとした。
足が動かない。
心拍が止まる。
ティアさんの手が胸へ来る。レオンの指が離れ、身体を受ける。ノルの工具音。ロウさんの権限確認。セラさんの筆が一度だけ止まる。
そこで、朝が切れた。
*
次に目を開けたとき、高窓から朝日が差していた。
夜蝕は終わったらしい。
呼吸は、胸へ細い管を通して借りている。心臓は遅く、三回に一度、鐘光補助が押す。左手にはレオンの手。右手はまだ感覚がない。
喉へ何かを尋ねる。
声が出ない。
息だけが抜け、音の形にならなかった。
一時的な腫れではない。ティアさんの治療表には、両声帯構造消失、再生見込みなし。影経路も反応なし。便利な代用品を数える前に、戻らないという事実を一度、そのまま置く。
本当に残酷なくらい、予定どおり。ここは驚く場所ではない。筆談板を探す。
セラさんがすぐ渡す。ノルが支え、ティアさんが書ける角度まで寝台を上げる。ロウさんは帰還名簿を持っている。レオンは手を離さない。
『成功?』
書く。
「成功。全国の逆流死者、ゼロ。重症は治療中」
長官が答える。
『ユリオ』
「身体へ影が戻った。自発呼吸。意識はまだ」
『候補児』
セラさんが、二十枚の名札を見せる。輪郭は薄いが、番号へ戻っていない。
よかった。
口の形だけで言う。
五人の顔を見る。
誰も笑っていない。
成功した。生きている。帰還名簿にも名前がある。それでもロウさんの包帯は黒く、ティアさんの治療表には永久の文字、ノルの工具は焦げ、セラさんの記録には『怖い』、レオンの手には私の血が乾いている。
朝焼けはきれいだ。
きれいな結果だけでは、五人の顔は晴れなかった。