鐘の下に人がいる。
そう分かったら、次にすることは救助だと思うでしょう?
私も思った。
暁鐘の仕組みは、もう少し面倒だった。
「下部隔離室を開けば、溜まった夜滓が鐘室へ上がる」
ノルが昇降台の床へ設計図を広げた。
紙の四隅は金属片で押さえてある。鐘の内部では絶えず弱い風が回り、油断すると設計図まで朝空へ飛び立とうとするのだ。
「隔離室の上に古い光輪があります。先に交換しないと、たぶん夜喰いが三、四体」
「交換に一刻」
ロウさんが懐中時計を見る。
床下を叩く音は、さっきから戻っていない。
「中の人は一刻もつ?」
尋ねると、ノルは唇を結んだ。
「分かりません」
分からないことを、分からないと言える。やっぱりいい修理工になると思う。
「別の入口は」
レオンが設計図をのぞき込む。
「点検孔が西壁に。でも人が通る大きさじゃないです」
「空気はどこから入るの」
全員が私を見た。
「生きてるなら、空気が入ってるでしょう? 完全に閉まってたら、声も聞こえない」
ノルが設計図の線を指で追う。
「排熱管があります。上は鐘の外壁へ――でも、ここも幅が」
「何セルチ?」
「四十二」
私の肩幅なら、ぎりぎり通る。
「駄目だ」
レオンが早い。
「まだ通るって言ってない」
「顔で分かる」
「私の顔、よく喋るねえ」
ティアさんが赤い医療制限布を指で弾いた。
「狭い管を通るのは重労働。条件違反です」
「じゃあ、誰が通れます?」
ロウさんは私より肩幅がある。レオンも同じ。ティアさんは薬鞄を持ち込めなければ、着いた先で治療ができない。セラさんは通れそうだけれど、排熱管の先から聞こえる音を拾いにくい。
ノルは小さい。
でも十二歳だ。
「僕が行きます」
本人も同じ答えへ着いた。
「駄目」
今度は私が早かった。
ノルが眉を寄せる。
「僕なら通れます」
「通れるのと、行かせていいのは別」
「ミナさんも同じです」
子どもは、ときどき余計なところまでよく見ている。
「私は十七。ノルより五年ぶん、狭いところへ入った経験が多い」
「どんな経験ですか」
パン窯の灰を掻き出す。粉倉の床下へ落ちた林檎を拾う。白い建物の通気口で、呼ばれる時間が過ぎるまで隠れる。
最後の一つはいらない。
「パン屋はいろいろあるの」
答えをまとめた。
「通気管の内部状態を確認するだけなら、医療制限の範囲外とは言い切れません」
セラさんが記録板へ書く。
「味方だと思ってました」
「事実を分けています。推奨はしません」
小さい冗談は、やっぱり通じる。
ロウさんが決めた。
「先行確認だけ許可する。命綱をつける。隔離室まで降りず、声が届く位置で状態を確認。異常があれば引き戻す」
「了解」
「救助は光輪交換後だ」
「……了解」
返事の間を、セラさんが記録した気がする。
排熱管の入口は鐘楼三階の外壁にあった。
石蓋を外すと、温かい金属の匂いがする。人一人ぶんの丸い穴が、暗闇へ斜めに下りている。
腰へ命綱を巻かれた。
レオンが結び目を三度確かめる。引っ張り、指を差し込み、また引っ張る。
「ほどけないよ」
「お前が中で外すかもしれない」
「信用が地面を掘ってる」
「自分で埋めたんだ」
それは否定できない。
ティアさんは私の脈を測り、胸へ小さな銀板を貼った。板から細い糸が伸び、彼女の測定器へつながる。
「脈が百二十を超えたら引き戻します。夜滓に触れたら引き戻す。息苦しさ、胸痛、眩暈があれば報告」
「全部なければ?」
「その質問をした時点で眩暈以外は疑います」
今日も笑ってくれない。
でも糸を留める手は丁寧だった。冷たい銀板が直接肌へ当たらないよう、薄い布を一枚挟んでいる。
「行ってきます」
穴へ足から入る。
四十二セルチは、数字で聞くより狭かった。両肩を少し斜めにし、肘で身体を送る。金属壁は昨日まで熱を運んでいたらしく、まだぬるい。
背後から光が細くなる。
「ミナ、聞こえるか」
レオンの声が管へ響く。
「聞こえる。今のところ、たいへん汚いです」
「身体の状態を言え」
「服の状態も身体に含まれません?」
命綱が一度強く引かれた。
「元気です。息も平気。胸も痛くない」
今度は引かれない。
進む。
管の途中に、煤が固まった場所がある。指で触れず、鼻を近づける。焦げた油の匂い。その下に、酸っぱいような匂い。
夜滓はない。
光が消えたあとも、暗闇には慣れなかった。左手で壁の継ぎ目を数え、右肘で前へ進む。七つ、八つ、九つ。
十個目の継ぎ目で、下から呼吸音がした。
「聞こえますか!」
管の先へ声を投げる。
返事はない。
「アルノパン店です。朝の配達に来ました。注文した人は返事をお願いします」
少し待つ。
「……パンは、頼んでない」
男の声が返った。
よかった。冗談へ訂正できるなら、意識はある。
「注文違いですね。お名前は?」
「グスタ……鐘守工の、グスタ・レム」
「怪我は」
「右脚。梁に挟まれた。灯りは消えた」
「血は出てます?」
「分からん。脚の感覚が、ない」
よろしくない。
隔離室までは、管の先からさらに三メルトほど下。声は届くが、姿は見えない。
「グスタさん。今、上で光輪を交換してます。一刻で開けます」
「開けるな」
即答だった。
「夜滓が溜まってる。俺が作業を、間違えた。外へ出したら鐘が死ぬ」
「開けないと、グスタさんが困ります」
「一人だ」
短い言葉だった。
一人なら、鐘と比べられる。
グスタさんはそう言っている。
理屈は分かる。一人と町一つなら、比べるまでもない。
「一人でも、救助の仕事は一人分できます。上に人が余ってるので」
「余ってない。鐘を直せ」
「それもやってます。修繕隊は手が多いんです」
ノルは留め具を外し、ロウさんは光輪を支え、レオンは周囲を守る。ティアさんは治療準備、セラさんは工程記録。
私は話す。
役割は違う。同時にできる。
「眠らないでくださいね。好きなパンは?」
「そんな話をしてる場合か」
「起きててもらう場合です。答えて」
沈黙が長い。
「白パン」
「高いやつですね」
「悪いか」
「いい趣味です。うちの店では黒麦の倍します」
「金の話しか」
「パン屋なので」
後ろから命綱が二回引かれた。
撤退の合図だ。
「グスタさん、いったん戻ります。次に声がしたら、名前と好きなパンを答えてください」
「来るな」
「注文を聞いたので、届けないと店の評判に関わります」
身体を後ろへずらす。
戻るほうが難しい。足先で壁を探り、肘を交互に使う。途中、左肩が継ぎ目へ引っかかった。
無理に引くと、布が裂けた。
金属の角が鎖骨の下を擦る。
「痛っ」
小さく出た声を、銀板が拾ったらしい。
命綱が強く引かれた。
「待って、引っかかってる!」
もう一度引かれ、肩が外れた。代わりに皮膚が切れる。
入口の光が近づき、最後はレオンに両腕をつかまれて引き出された。
「報告」
ティアさんが言う。
「グスタ・レムさん。右脚を梁に挟まれ、感覚なし。意識あり。白パンが好き」
「あなたの状態」
「服が一枚だめになりました」
「身体」
逃げられない。
「肩を少し擦りました」
ティアさんが襟を開き、傷を見る。浅い。血も少しだけ。
「ああ、これならパンの切り込みより浅いですよ」
「笑いません」
ぴしゃりと言われた。
「まだ何も面白いことを」
「面白く聞かせようとしたでしょう」
したかもしれない。
傷をそのまま見せると、相手は困る。大きさを知っているものへ例えれば、扱いやすくなる。パンの切り込みなら、焼けば開いて終わりだ。
「事実を言って」
ティアさんの指が傷の周りへ触れる。
「金属で切りました。少し痛いです」
「少し、はどの程度」
「十段階なら三」
「最初からそれでいい」
消毒液がしみる。
今のは五くらいあると思う。言うと薬を薄められそうなので、黙った。
ティアさんは私の顔を見て、消毒布を一度止めた。
「今は?」
「五」
「よろしい」
ばれていた。
薬師には冗談より数字が通じる。覚えておこう。
ティアさんは肩へ細い布を貼り、次に鎖骨の下の黒線を一本ずつ確認した。昨日つけた印と重ね、増えていないことを確かめる。
「影請けは使っていませんね」
「約束しましたから」
胸を張ると、肩の傷が引きつった。すぐ戻す。
「褒めてもらってもいいところですよ」
「禁止されたことをしないのは普通です」
「昨日まで普通じゃなかった人が普通になった。大きな進歩では?」
ティアさんは薬鞄を閉じ、内ポケットから小さな蜂蜜飴を出した。
「処置後の糖分。食べて」
「これ、褒めてます?」
「治療です」
受け取る。琥珀色の飴は紙へ包まれ、端がきっちり二度折られている。
「代金は」
「診療費へ入っています」
「私は登録してないので、診療費は自分で――」
「食べないなら取り上げます」
急いで口へ入れた。
蜂蜜の甘さが広がる。親方のパンより少し香りが弱く、薬草の苦味が残っていた。
「おいしい」
「事実?」
聞き返される。
「事実。甘くて、少し苦い」
ティアさんはようやく頷いた。笑いはしない。でも今は、それで充分だった。
「ミナ」
レオンがしゃがみ、裂けた服を見た。
「命綱を強く引いたのは俺だ」
「引かなかったら、まだ管の中です」
「傷を増やした」
「外へ出した」
どちらも事実だ。
レオンは納得しない顔をしている。自分のせいだと思っているのだろうか。
「上手に引いてくれたよ。頭から落ちなかった」
褒めると、さらに眉間が狭くなった。
難しい人である。
鐘室では光輪の交換が進んだ。
古い銀板を四枚外し、新しい板を順に取りつける。留め具が回るたび、鐘の内側へ青い線が戻る。
ノルは一つ外すごとに残数を叫んだ。
「四十二!」
「三十七!」
「三十一!」
数が飛ぶのは、他の三人も同時に外しているからだ。
私は排熱管の入口へ座り、グスタさんへ声をかけ続けた。
「好きなパンは?」
「白パン」
「名前は?」
「グスタ・レム」
「今いちばんしたいことは?」
「お前を黙らせたい」
元気が出てきた。
「それは出てきてからお願いします」
十数えるごとに同じ質問をする。返事が遅くなると、別の話を振った。
鐘守工になったのは二十二年前。妻は三年前に亡くなった。息子が一人、硝子港で船大工。白パンは妻が給料日に買った。
聞いたことを、セラさんが記録する。
「残り十二!」
ノルの声。
時間は、予定より少し早い。
ところが十一個目の留め具で、光輪が止まった。
「噛んでる!」
ノルが工具へ体重をかける。動かない。
ロウさんが別の工具を差し込む。
「割るぞ」
「外板まで割れます」
「時間がない」
管の下から返事が来ない。
「グスタさん?」
耳を近づける。
かすかな息。言葉にならない。
一刻待つと言った。
もうほとんど過ぎている。
「先に開けられない?」
「光輪は十一枚」
ロウさんが答える。
「夜喰い一体なら封じられる。二体以上なら鐘室を失う」
「出る数は」
「開けるまで分からない」
確率の話だ。
一人を待たせれば、安全に町を守れる。今開ければ、町も一人も失うかもしれない。
グスタさん自身も、開けるなと言った。
正しい答えは、待つことだ。
「私が中へ入って、出た夜滓を――」
「禁止です」
ティアさんが即座に止めた。
「分かってます。確認しただけ」
本当は、確認ではなかった。
胸の黒線が、隔離室の夜滓へ引かれて熱い。開ければ吸える。全部は無理でも、夜喰い一体ぶん減らせる。
でも、使わないと約束した。
ここで破れば、次は現場へ連れてきてもらえない。
役に立てる場所そのものがなくなる。
「あと何分?」
ノルが留め具を見た。
「普通なら十分。噛んでるから――」
「グスタさんに、外し方を聞こう」
思いついて、管へ顔を入れる。
「グスタさん! 古い光輪の十一番、留め具が噛みました。外し方を教えて!」
返事がない。
「白パンの店、知ってます! 硝子港まで届けますよ!」
嘘だ。硝子港へ配達したことはない。
でも、店は探せる。
「だから起きて。十一番です!」
長い間。
やがて、低い声がした。
「……右じゃ、ない」
「何が?」
「逆ねじだ。左へ……回せ」
ノルが工具を反対へ回す。
留め具が、軽い音を立てて外れた。
「外れました!」
残りも同じだった。
十二枚目の光輪が閉じる。
鐘室いっぱいに青い光が走った。
「隔離室を開ける!」
ロウさんが床の封印杭を抜く。レオンと市警二人が剣を構え、ティアさんは担架を広げる。
扉が持ち上がる。
黒い煙が噴き出した。
光輪が鳴り、煙を薄い膜へ押しつぶす。夜喰いは生まれない。一体も。
「ノル、降下籠!」
昇降台の中央から、小さな籠が下りる。
数分後、右脚を梁で固定された男が引き上げられた。灰色の作業着、白い髭。顔は青いが、目は開いている。
「パン屋……」
私を見つける。
「白パン、一つですね」
「高いから、半分でいい」
「残り半分は息子さんへ届けます」
グスタさんは、かすかに笑った。
ティアさんが右脚の処置へ入る。私は担架の邪魔にならないよう、足元へ回った。
グスタさんの作業靴には、細い紐が結ばれていた。
泥で汚れた、白い紙片。
値札だ。
数字が一つ書いてある。
十九。
胸の奥で、忘れたはずの鐘が鳴った。
いい子から順番です。
白い廊下で、誰かがそう言う。
首から値札を下げた子どもたちが、扉の前へ並んでいる。
「ミナ?」
レオンに呼ばれた。
私は値札から目を離す。
「何でもない。靴紐がほどけそうだっただけ」
グスタさんの靴から白い紙を外し、掌へ隠した。
向かい側で、ロウさんがそれを見ていた。
彼の視線が、値札の数字へ落ちる。
眉の上の古い火傷が、急に白く見えた。
「それをどこで」
ロウさんの声は、さっきまでより低かった。
どうして知っているのだろう。
聞く前に、暁鐘が鳴った。
今度は一拍も遅れず、町じゅうへ朝の音を届けた。
きれいな音だった。
なのに、私の掌の中だけ、白い値札が冷たかった。