朝は、息を吐くところから始まる。
吸うほうではない。先に細く吐き切る。そうすると肺の残りが分かり、次に入れてよい量を身体が間違えにくい。
半年も続ければ慣れるかというと、慣れた部分と、毎朝面倒な部分がきれいに半分ずつである。世の中、すべてが上達すると期待してはいけない。
吐く。止める。吸う。
胸の補助具が二回光る。
寝台の脇へ立ち、十まで数える。右足、左足。右手は指先に薄い痺れが残り、握力は左の三割。影はない。
窓から朝日が入っても、足元は床の色だけだ。
最初の一か月は、そのたび探した。いまは月に三回くらい。十分な改善ではないか。失くした工具を毎朝三回探すより、作業損失が少ない。
喉へ息を通す。
音は出ない。
こちらは探さない。両声帯の構造消失、再生見込みなし。半年間、診断は一度も変わっていない。代わりに板を取る。
『おはようございます。本日の肺、晴れときどき曇り』
階下へ下りる前に書く。長い階段は禁止なので、店の裏へ付けた昇降台を使う。紐を引くのは左手。親方が最初、私を荷物台へ載せるのを嫌がった。
『人用の柵を付ければ人用です』
ノルが改造し、いまは親方も小麦袋を載せない。私専用ではなく、膝を傷めた客と牛乳缶にも使う。牛乳缶と同格は気楽だ。
一階へ着くと、アルノパン店はもう焼き始めている。
香りは分からない。
窯口の色、生地表面の張り、親方が二度目に振り返る時間で焼き上がりを読む。味覚と嗅覚は戻らなかったが、確認方法は増えた。
「遅い」
親方が言う。
予定より三分早い。
『お待たせしました。重役は昇降台で出勤します』
「重い役を持つな」
私の板を見て即答。言葉遊びへ付き合う速さだけは、半年でかなり上がった。
作業台には、私用の低い椅子。立位は連続十五分まで。小麦袋、窯板、捏ね鉢は禁止。許可されているのは注文札、会計、成形見本を一個、休憩の知らせ、専門家への連絡。
役に立つ仕事が四つ。休憩を仕事へ数えるのはまだ納得しにくい。予定表には五つ目として入っている。
家族欄の娘だから、仕事がゼロでも店にはいられる。
文字なら読める。意味は、ときどき身体の奥まで届かない。その場合は制度だけ先に使う。理解してから座るのではなく、娘の椅子へ座ってみる。
開店から二十分、最初の客が入る。
帽子を深くかぶった女性と、七歳くらいの男の子。母親が注文札へ丸パン四個。子どもは棚でなく、私の足元を見ている。
「影、ないの?」
私はうなずく。
『なくしました』
「どこで?」
『大きな鐘の中です。落とし物係にも聞きましたが、戻らないそうです』
母親の手が子どもの肩へ伸びる。謝らせる前に、私は次を書く。
『質問料は丸パン半個です』
「高い」
『では、将来払いで』
子どもが口を開けて笑う。母親の指が肩から離れた。
明るさは声量ではなかったらしい。板でも、相手が安心できる順番は選べる。
丸パンを袋へ入れようとしたとき、子どもの影が遅れた。
右へ一歩。影は半歩。
薄い影熱。体温は平常、頬に夜滓斑が一つ。以前の私なら、会計台の陰で少し吸えば終わった。十単位以下。胸の黒線も増えない――そもそも影経路がないので、今は吸えない。
できないと分かった瞬間、手が冷える。
役に立たない。客を待たせる。専門診療所は通りを二つ先。連絡して来るまで十二分。私なら十二秒だった。
私なら、は昔の能力を持つ私の話である。現在の店員へ存在しない工具を要求しても、棚卸しは合わない。
私は緊急札を二枚出す。
『影を踏まないで、椅子へ。息苦しさはありますか』
母親が首を振る。子どもを座らせる。
もう一枚を、店の鐘光通信へ。
『麦環東影熱診療所。小児、影遅延半歩、斑一。発熱なし、呼吸平常。往診をお願いします』
送信する。
親方が窯から出てくる。私の板、子どもの影、送信済み印の順に見る。
「吸ってないな」
能力がないのに確認する。疑われた、と胸のどこかが先に反応する。
違う。半年で三回、私は残った影経路がないか試そうとした。一回目は影熱患者の隣へ長く立ち、心停止しかけた。二回目は吸収具を自作し、ノルに分解された。三回目は秘密ではなく、試したいとティアさんへ言って却下された。
確認される理由はある。
『吸っていません。触れてもいません。診療所へ連絡済み』
送信記録も見せる。
親方は「よし」と言わない。
「怖かったか」
半年前なら、この質問に測定値を返した。
『役に立たないと判断されるのが怖かったです』
書く。
母親が読む位置だった。慌てて隠そうとして、やめる。患者へ余計な心配をさせる告白なので、場所はよくなかった。ただ、書いた事実まで消す必要はない。
母親は子どもの背へ手を当てたまま、私を見る。
「もう呼んでくれたでしょう」
責める声ではなかった、とだけ分かる。
「私、影熱のことを知りません。あなたが十単位って言ってくれて、専門の人を呼んでくれた。役に立ってます」
十単位とは板へ書いていない。口の形で言ったか――声は出ない。昔の癖で、私が指を十本出していたらしい。
『説明不足でした』
「そこから?」
母親の眉が上がる。子どもが「お姉ちゃん、怒られ方が変」と言った。
たしかに。
診療所の専門員が九分で到着する。影冷却布を子どもの足元へ置き、夜滓斑を採取。原因は昨夜の旧水路遊び。吸収せず、三十分かけて体外へ逃がす。
「早期連絡で軽症のままです」
専門員は診療票の連絡者へ、私の名を書く。
治療者ではない。連絡者。
役割が小さくなったのではなく、別の欄になった。そう理解できる日は理解する。できない日は、診療票を見て事実だけ確認する。
親子が帰ったあと、親方は私の前へ焦げたパンを置いた。
表面が片側だけ黒い。商品にはできない。昔なら私が引き取り、借りを返したことにした。
「食べるか」
受け取る理由を聞かれている。
『昼食分ですか』
「朝食分」
『代金は』
「娘」
通貨欄として便利すぎる。私が何も返せない。
何も返さない練習を、ティアさんは週二回入れた。贈り物を受け、二十四時間以内に対価を作らない。治療法の名前は『受領待機』。私は『借金熟成』と呼んで叱られた。
『いただきます』
焦げたパンを皿へ置く。
味は分からない。焦げの匂いもない。硬い皮が舌へ当たり、中は温かい。食べる速度が上がると呼吸が乱れるので、一口ごとに止まる。
親方は窯へ戻り、振り返らない。
見張られていないと、少し食べやすい。見ていないふりかもしれない。親方の内側は決めないでおく。
朝の営業が終わるころ、修繕隊の馬車が着く。
半年後も修繕隊と呼んでいるが、仕事は変わった。十二鐘の共同保守、候補制度廃止の監査、白麦院被害者の捜索、朝の器計画の証言。壊れた道具だけでなく、壊した制度も直す隊。
ユリオは南王都の療養院で、十歩の歩行訓練中。意識を取り戻した最初の日、私を姉と呼んだ。私は声で返せず、彼は二度呼んだ。それから筆談を覚え、いまは私より字が大きい。
母の所在はまだ見つからない。死亡届もなく、七年前の南王都転居記録から先が切れている。ユリオと私は、捜索願の家族欄へ二人で署名した。見つける予定と、必ず見つかる約束は別にしてある。
今日の朝食へユリオがいないのは、歩行訓練を優先した本人の選択。来月、麦環市までの移送許可が出れば席を増やす。六人という数を完成形にして、七人目を断る理由はない。
最初にノルが降りる。背が少し伸び、赤糸工具を腰に下げている。
「新しい主軸、図面できた」
挨拶より先に筒を出す。
『おはようございます。順番を守れる大人への道は遠いですね』
「ミナに言われたくない」
返事が速い。
ノルの後ろから主任技師も降りた。第一鐘の正式主軸は、中央を作らず十二基の相互参照を常設する設計。赤糸の切断法も規格へ入った。
私は見たかった主軸を見る。
予定札の裏に書いた日から半年。実物ではなく図面だが、予定は完成品しか認めない決まりではない。
『貸出期限ですね』
工具を指す。
ノルは腰袋を押さえる。
「返さない。新しい主軸が動くまで延長」
『利息』
「工具の新しい使い方を一個教える」
『承認』
返ってこない約束が、一つ増えた。
ティアさんは診療鞄を持って入る。私の板を読む前に、胸の補助具、唇の色、椅子へ座っていることを確認。
「営業中に患者」
親方が報告する。
「吸収は」
『していません』
「試行は」
『していません』
「専門連絡」
『九分で到着。軽症』
ティアさんは計測器を出す。
『褒めるところです』
「診てから」
冷たい。以前ならそう評価した。いまは、褒め言葉を治療の対価にしない人だと知っている。
酸素値、心拍、胸痛。異常なし。最後にティアさんは私の診療表へ、『専門家を呼び、待機できた』と書く。
「よく待った」
治療結果と別欄の言葉。
私は受領待機の規則に従い、礼の仕事を探さない。
『ありがとうございます』
書くだけにする。
ロウさんは右手の包帯を外している。火傷跡で指二本が曲がりにくい。隊長職は降り、共同鐘評議の現場代表。命令を出さない人になったわけではない。避難時には命じる。ただし保護と排除を同じ紙で行わない。
「帰還名簿の半年確認」
帳面を出す。
私の欄は残っている。ミナ・アルノ。旧名ミナ・セル。帰還済み、要通院。役割欄は空白。
『書き忘れですか』
「本人が書く欄だ」
以前なら『影請け』『修繕隊臨時協力員』『パン職人』を詰めた。いまは迷い、鉛筆を止める。
空白でも名簿から消えない。
『保留』
自分で書く。
ロウさんは期限を尋ねず、帳面を閉じた。
セラさんは統合記録を持っている。鍵は私の青い襟巻きの内ポケット。今日は音声記録を使わず、私の板を一枚ずつ待つ。
『記事の題は決まりましたか』
「仮題だけ」
『見せてください』
「編集権者の仕事?」
『好奇心です』
セラさんは紙を渡す。朝の器計画失敗報告。英雄、一人の犠牲、奇跡という語はない。制度が一人の自己評価を利用した事実、共同式でも本人の不可逆損傷を避けられなかった事実、今後の禁止事項。
『私が明るかったことも書きますか』
「必要なら。ただし、耐えられた証拠には使わない」
私は余白へ、親子から質問料を取り損ねた件を書き足す。失敗報告へは不要なので、別紙になった。
最後にレオンが入る。
最初に私の足元を見る癖は残っている。影がないと確認し、次に顔、胸の補助具、右手、椅子。半年で順番まで固定された。
『検品が長いです』
「報告を聞いた」
『吸っていません』
「知ってる」
疑う前提の返事ではない。診療所の記録を読んだらしい。
「怖かったか」
二度目の質問。
『はい』
今度は説明をつけない。
「何をした」
『専門家を呼び、九分待ちました』
「そうか」
笑わない。抱きしめない。私が座る椅子の隣へ、自分の椅子を置く。
信頼は、成功一回で元へ戻らない。私はまだ痛みを小さく書くことがある。レオンはまだ私の報告より先に手を見てしまう。どちらも半年で消えなかった。
ただ、私は疑われたと思ったとき、黙って役目を増やすのでなく、そう見えたと板へ書けるようになった。レオンは監視した理由を、保護だから正しいと閉じずに説明する。
壊れる前と同じ関係には戻らない。
壊れたあとに作る関係は、前より手間が多い。
昼前、親方が店の戸を閉める。
「朝飯」
朝としては遅い。私の服薬と六人の到着へ合わせたので、これは朝食である。時刻より目的を優先。パン屋の規則は柔軟だ。
卓上に皿が並ぶ。
一、二、三、四、五。
親方が六枚目を持って止まる。
「何人分」
試験らしい。
レオン、ティアさん、ロウさん、セラさん、ノル。五人。
以前の私は、そこで答えを終えた。
家族帳簿を開く。家族欄、娘、ミナ・アルノ。仕事を失うと家も失うと誤認。来年の職人試験。声なし・影なし・心肺制限は、家族欄の削除条件に書かれていない。
自分を足す。
『六人分です』
親方から六枚目を受け取り、自分の前へ置く。
窯前には親方の七枚目。全員、数えられている。
焦げたパンが一個、私の皿へ来る。
『これは狙って焦がしましたね』
「失敗だ」
『毎回同じ位置です』
「窯の癖だ」
親方の口元が一度だけ動く。内側は決めない。焦げを削らず、そのまま一口。
味はない。
皮の硬さと、中の温度。記憶の香り。失った事実は戻らない。食べられる事実も消えない。
六人は、私が飲み込むまで次の話を待つ。過保護である。以前なら急いで食べ、待ち時間を減らした。
今は一口ごとに息を吐く。
待たせる。
待ってもらう。
食後、予定帳を開く。死後の引継書にしようとして返された帳面。明日の欄は空白。
自分の名を書く。
『ミナ・アルノ』
その下へ、予定。
『明日も朝食』
パンを焼く、ではない。誰かを治す、でもない。食べる側の予定。
帰還の確率、心肺の状態、役に立てる仕事を条件に付けたくなる。鉛筆を止める。条件なしでは怖い。怖いままで、一行を消さない。
レオンへ帳面を見せる。
彼は私でなく、文字を読む。何度も確かめ、予定帳を返した。
「俺も」
自分の予定欄へ、『朝食』と書く。
約束は、帰れなかったとき人を曇らせる。だから約束しないほうが簡単だと思っていた。
いまは、守れない可能性ごと予定へ置く。明日になって食べられなければ、その日に直す。予定が外れても、私の席まで消えるわけではない。
たぶん。
まだ、たぶんでよい。
確信ができるまで朝食を抜く必要はない。分からない日は、分からないまま皿を頼む。それを新しい手順の第一工程にする。
窓の朝日は、私の足元へ影を作らない。
それでも六枚の皿が、今も確かに卓上に並んでいる。