白い紙に十九と書いてある。
たったそれだけの値札が、焼きたてのパン一籠より重く感じるのだから、記憶というのは重さの決め方が下手だ。
「それをどこで」
ロウさんが、もう一度聞いた。
暁鐘はきれいに鳴っている。隔離室から救出されたグスタさんは担架の上。ティアさんが右脚の梁を外す準備をし、ノルが器具を並べている。
皆、仕事の途中だ。
「靴に結んでありました」
値札を見せる。
ロウさんは受け取らなかった。
「触らず、そのまま持て」
「触ってますけど」
「今から増やすな」
何を増やすのだろう。
紙は泥で湿っている。銀貨ほどの大きさで、穴へ白い紐。市場の値札に似ているけれど、数字は墨ではなく、何かを焼きつけたような灰色だ。
「グスタさん、これはあなたの?」
担架へ近づく。
「知らん」
痛み止めを噛みながら答えた。
「下へ入る前には、なかった。梁が落ちたあと、靴に何か触れた気はしたが」
「隔離室の中にあった?」
「暗くて見えん」
ロウさんがセラさんへ目を向ける。
「封鎖。隔離室から出た物を全部、青布へ」
指示を受け、セラさんが床へ青い布を広げた。グスタさんの工具、折れた留め具、服についた石片。一つずつ触れずに細い挟みで移す。
私も値札を置こうとした。
紙が指から離れない。
濡れて貼りついたのではない。紐が、いつの間にか人差し指へ巻きついている。
「あれ」
引く。
白い紐が細く伸び、皮膚へ食い込んだ。
「動かないで」
ティアさんがグスタさんの処置をノルへ任せ、こちらへ来る。
「痛みは」
「一くらい。紙で指を切るより軽い」
「事実?」
「事実」
今度は最初から答えられた。成長である。
ティアさんが小さな鋏を紐へ入れる。刃が閉じても切れない。紐の表面から、黒い煙が薄く上がった。
「夜滓」
レオンが剣へ手をかける。
「剣で指ごと切るのはやめてね」
「やらない」
「今、少し考えた顔だった」
「紐だけだ」
レオンは真面目に訂正した。
ありがたいけれど、剣で細い紐を狙うのは難しいと思う。
「誘導札だ」
ロウさんが言った。
「夜滓へ対象を教える。札の番号と同じ残響を持つ者へ絡む」
「残響?」
「強い影熱を受けた人間には、夜滓の癖が残る。声や匂いと同じだ」
セラさんが青布の横へしゃがみ、値札を拡大鏡で見た。
「紙ではありません。麦布です。古い繊維を糊で固めてある」
ノルも横からのぞく。
「だから濡れても破れなかったんだ。今の誘導札は金属ですよね」
「今のものは、設備点検にしか使わない」
ロウさんの声が少し硬い。
「人間へ結ぶ形式は、長夜直後に廃止された」
「どうして人間へ番号を?」
聞くと、ロウさんは値札ではなく私を見た。
「夜滓を移す対象を管理するためだ。名前は同じ音があり、呼び間違える。番号なら重ならないよう割り振れる」
「便利ですね」
「便利で済ませるな」
珍しく強い声だった。
怒らせるつもりはない。でも管理する側にとって便利なのは事実だ。パンの注文札だって、同じ丸パンを十人が頼めば名前より番号が早い。
人間とパンを同じにするな、と言われそうなので口には出さなかった。
「廃止された札が、なぜ鐘の中にあるんでしょう」
セラさんが板へ書く。
「誰かが持ち込んだか、古い設備に残っていたか」
ロウさんは二つの可能性を挙げたが、後者を信じていない声に聞こえた。目は隔離室ではなく、私の指へ絡む紐を追っている。
「番号十九の記録は?」
問いを重ねる。
「今はない」
「今は、ということは前にはあった?」
答えが来る前に、紐から黒い煙が上がった。
十九という番号が、私を選んだ。
胸の黒線が熱くなる。
「これ、私の番号ってことですか」
なるべく軽く聞く。
ロウさんは答えなかった。
代わりに結界杖を床へ立て、札の周囲へ青い輪を作る。
「セラ、鐘楼を閉鎖。レオンは避難誘導。ティアはミナから離れろ」
「紐を外すまで離れません」
「札が呼ぶのは夜滓だ」
「患者を置いていく理由にはならない」
ティアさんの声が硬い。
ロウさんは一拍だけ迷い、それ以上命令しなかった。
ノルが工具箱から銅の輪を持ってくる。
「札を輪の中へ入れたら、呼ぶ方向をずらせます」
「根拠は」
「誘導札が使われてた時代、点検工がそうしたって教本に」
「やれ」
銅輪を私の指へ通す。値札と紐が輪の内側に収まった。
黒い煙が、私ではなく銅へ絡む。
「うまい」
ノルへ言うと、目が少し明るくなった。
「教本どおりです」
「覚えて必要なとき出せるのが、うまいんだよ」
褒める場所を間違えないことは大切だ。知識があるだけでは動けない。怖いときに工具箱を開けたノルが偉い。
鐘楼の入口で、市警の笛が鳴る。
黒い煙が外から流れ込んできた。
誘導札に呼ばれた夜滓だ。
「全員、上階へ!」
ロウさんが結界杖を振る。青い壁が一階と二階の間へ立った。
グスタさんの担架を運ぶ。右脚を固定したばかりで、揺らせない。レオンと市警二人が持ち、ティアさんが足元を支える。
私は――。
「ミナは中央」
レオンに先回りされた。
「分かってる」
「先頭へ出るな」
「案内する場所じゃないから出ません」
今回は本当だ。
鐘楼の階段は円を描いて上る。外壁側は狭く、内側には昇降台の穴がある。担架を水平に保つには、曲がり角ごとに持ち手を替えなくてはいけない。
「次、内側を高く。グスタさん、揺れますよ」
「パン屋が仕切るな」
「元気ですね」
文句が出るなら意識は平気だ。
二階へ着く直前、下の結界が軋んだ。
青い壁の向こうで、黒い影が立ち上がる。
人の形。
小さい。
白い服を着た子どもが、階段の下にいる。
首から値札を下げている。
「十九番」
子どもが呼んだ。
私の指へ巻いた紐が強く締まる。
「呼ばれてるぞ」
グスタさんが担架から言う。
「人違いです」
答えはすぐ出た。
今の私はミナ・アルノ。パン屋の職人で、臨時協力員。十九番という名前ではない。
「十九番。いい子から、こちらへ」
白い子どもが青い壁へ手をつく。
声は子どもではなかった。
大人の女の声。
白い廊下の奥で、同じ声が番号を呼ぶ。
朝食のあと、名前ではなく値札の番号で並ばされた。呼ばれた子は奥の部屋へ行く。戻る子も、戻らない子もいた。
私はいつも早く呼ばれた。
よく我慢できるから。
役に立つ子だから。
「ミナ」
ティアさんの声が近い。
「聞こえる?」
「聞こえてます。担架、止まってる」
グスタさんの右脚が階段の手すりへ当たりそうだ。
「あと二段、外側へ。レオン、前を少し下げて」
指示を出す。
担架が上がる。
仕事へ戻れば、廊下は消える。
番号も声も、今ここで役に立つ分だけ使えばいい。
「十九番」
夜喰いが結界を叩く。
青い壁へひびが入った。
「ロウさん、札を鐘の光へ近づけたら?」
「札ごと夜喰いを焼ける。だが、お前にも光が入る」
「どれくらい」
「残響の一部が焼ける。何を失うかは分からない」
記憶を一つ。
値札と一緒に燃やせるなら、悪い取引ではないように思える。
でも能力使用は禁止だ。これは影請けではないとしても、ティアさんは同じ顔をするだろう。
「別案は」
セラさんが板へ書く。
ロウさんは上の鐘室を見た。
「誘導先を変える。札へ別の番号を上書きし、夜喰いを空の隔離室へ戻す」
「番号は何でも?」
「同じ時代の管理印が要る」
グスタさんが担架から手を上げた。
「工具袋。検査札がある」
セラさんが青布にまとめた道具の中から、金属札を取り出す。数字はゼロ。
「設備用の番号だ。人間じゃない」
グスタさんの声が掠れている。
「それなら、夜喰いが追っても誰も困らん」
いい案だ。
でも、私の指の値札へ数字を重ねるには、結界の近くまで戻る必要がある。
「私が持っていきます」
「駄目だ」
レオン。
「札が離れない」
「指ごと置いていけ」
「さっき、切らないって言ったでしょう」
「俺が持つ」
銅輪の外側をつかむ。黒い煙がレオンの手へ寄りかけ、すぐ私の指へ戻った。
「私しか運べないみたい」
「だからって行かせる理由にはならない」
レオンの声が低い。
理由はある。
青い壁のひびが広がっている。夜喰いが出れば、担架のグスタさん、ノル、ティアさん、セラさんが危ない。鐘もまた止まる。
私なら、札を重ねて戻るだけ。
危険は一人へまとまる。
「レオンは夜喰いを止めて。ロウさんは番号の上書き。私は札を運ぶ。三人でやれば、誰も一人で全部しなくていい」
言い方を変えた。
私一人がやるのではない。役割分担だ。
レオンは納得していない。でもロウさんが頷いた。
「十秒だ。失敗したら、お前ごと結界の外へ引く」
「了解」
命綱がまだ腰についている。レオンが握る。
二階の踊り場から階段を下りる。
青い壁の向こうで、白い子どもが待っている。
「十九番。こちらへ」
「今、忙しいので」
一段。
「怖くありません。痛くありません。すぐ終わります」
懐かしい言葉が続く。
嘘だ。
昔の私は、たぶん信じた。
今は忙しいので、信じている暇がない。
「ロウさん、準備」
「できている」
最後の一段へ足を置く。
結界が割れた。
子どもの腕が伸びる。
レオンの剣が横から入り、白い手を弾く。斬った場所は血ではなく黒い煙になる。
ロウさんがゼロの金属札を、私の指の値札へ押し当てた。
「番号を捨てろ!」
青い光が走る。
十九の数字が燃え、ゼロへ書き替わった。
指へ食い込んでいた紐が外れる。
夜喰いの顔が崩れた。
「ゼロ番。戻れ」
ロウさんが命じる。
白い子どもが首を傾げる。
次に、石床へ開いた隔離室の穴を見た。
人ではない番号を追い、黒い身体が穴へ落ちる。
セラさんが封印杭を叩き込んだ。
静かになった。
「十秒」
ロウさんが言う。
「九秒でした」
セラさんが板を見せる。
「一秒お得でしたね」
笑ってみせた。
誰も笑わない。
ティアさんが階段を下り、私の指を取った。紐の跡が赤く残っている。
「痛み」
「二」
「眩暈」
「なし」
「記憶の欠落」
確認する。
パンの作り方。店の場所。親方。レオン。今日会った人たち。全部ある。
白い廊下も、値札も。
「たぶん、なし」
「たぶんでは困ります」
「昔のことは、もともと穴が多いから」
ティアさんの手が一瞬止まる。
「それを、今後の診察で聞きます」
「長くなりますよ」
「時間を取ります」
即答だった。
私一人の昔話へ、薬師が時間を使う。
もったいない。
「役に立つ部分だけでいいです」
「何が役に立つかは、聞く前にあなたが決めないで」
ティアさんは、やっぱり笑わない。
その代わり、指の赤い跡へ薬を塗った。
鐘楼の封鎖が解かれ、グスタさんは共同学校の治療室へ運ばれた。町の人は、直った暁鐘の下で市場を戻し始める。
店へ戻ると、昼の焼き上がりは終わっていた。
親方が長卓で売上を数えている。私を見るなり、左肩の新しい布と指の赤い跡へ順番に目を止めた。
「増えたね」
「肩は切り傷、指は紐です。夜滓は増えてません」
事実を先に言う。ティアさんの教えを実践した。
「そういう問題かい」
違ったらしい。
親方は湯気の立つ皿を出した。豆の煮込みと、朝の残りの丸パン。私がいないあいだ、昼食を取っておいたようだ。
「売れ残り?」
「お前の分」
「売れたはずなのに」
「売らなかった」
自分の分だと言われると、値段が分からない。
「給金から――」
「引いたら、その帳簿を窯へ入れる」
それは困る。今月の粉代から書き直しになる。
黙って座り、パンをちぎった。親方は向かい側へ座らず、帳簿をめくり続けている。
「親方。物に値段がついてると、安心しません?」
「しないね。売れない物まで値段をつけろと言う客がいる」
「でも、いくら返せばいいか分かる」
「返さなくていい物もある」
話がうまく通じない。
値段のない物は、返し終わる場所がない。ずっと借りたままになる。食事も部屋も、家族という言葉も。
「今日、白い値札を見つけたんです」
親方の手が止まった。
「どこで」
ロウさんと同じ聞き方だった。
「鐘の下。十九って書いてありました」
「捨てたのかい」
「修繕隊が保管してます」
親方の肩が少しだけ下がる。
「昔、同じものを持ってた気がする」
「気のせいだ」
返事が早すぎた。
親方は嘘をつく子どもの顔が分かる。たぶん、大人の嘘は別なのだろう。今の顔は、私にも分かった。
「欠けた木札、まだ持ってるのか」
私はパンをちぎる指を止めた。
見せた覚えはない。
「どうして知ってるの」
「この家へ来た日、お前が握ってた。寝ても離さなかった」
そうだっただろうか。
五年前の最初の夜。新しい寝台。小麦粉の匂い。扉が閉まる音へ何度も目を覚ました。
親方が椅子へ座っていた気もする。
「親方、あの夜ずっと部屋にいました?」
「仕込みが早かっただけだ」
今度は目を合わせなかった。
借りが一つ増えたのかもしれない。
覚えていない借りは返しにくい。だから、今の仕事をきちんとすればいい。皿を空にし、食器を洗い、午後の帳簿を合わせる。
それで足りる。足りることにする。
仕事を終えたあと、自分の部屋の衣装箱を開けた。
一番下。冬服の下。古い布袋がある。
中には、欠けた木の札。
五年前、白い建物から持ち出したものだ。
半分だけ残った数字を、窓の光へかざす。
九。
欠けた左側を足せば、十九になる。
「同じだ」
声に出すと、部屋の外で床板が鳴った。
振り向く。
扉が少し開き、ロウさんが立っていた。
欠けた名札を見ている。
眉の上の火傷が引きつった。
「それを、まだ持っていたのか」
まただ。
ロウさんは、十九番を知っている。
「どこで見たんです?」
今度こそ聞いた。
ロウさんは答えなかった。
答えられないのではなく、言葉を一つずつ選び、結局どれも捨てたように見えた。
仕事の速い人が、こんなに長く黙る。
その沈黙だけで、値札よりずっと嫌な答えがあると分かった。