三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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明日を分ける歌

 暁鐘が直ったら、朝が戻ってくる。

 そう思っていた。

 

 鐘は一拍も遅れず鳴ったし、夜喰いも隔離室へ戻った。だったら明日からは普通にパンを焼ける。今回の仕事は終わり。修繕隊の皆さんへ礼を言い、私は店へ帰る。

 

 きれいな順番だ。

 

「鐘の光が足りない」

 

 翌朝、ロウさんが順番を崩した。

 

 鐘楼の外壁に、十二本の青い線が走っている。町の境界まで届くはずの光は、市場の端で薄くなり、粉倉の前で消えていた。

 

「光輪は新しいんでしょう?」

「輪は光を増やす。元になる願いがなければ、増やす物がない」

 

 暁鐘は、人の「明日の予定」を燃料にする。

 

 朝になったら畑へ行く。靴を直す。子どもを迎える。パンを焼く。本人が口にした小さな予定が青い光になり、夜を遠ざける。

 

 麦環市の鐘は二日半止まり、貯めていた予定を使い切ったらしい。

 

「また集めればいいのでは?」

 

 簡単に聞く。

 ロウさんは鐘楼前の広場を示した。

 町の人が並ばされている。

 

 市警が一人ずつ名前を確認し、役所の書記が紙へ予定を書き取る。列の先には小さな青い火皿。書記が読み上げた予定を、市民が復唱して火へ入れる仕組みだ。

 

 順番も道具もそろっている。

 なのに火は弱かった。

 

「明日は倉庫の整理をします」

 

 魚屋の主人が棒読みで言う。火皿へ小さな青が浮かび、すぐ消える。

 

「予定が本物じゃない」

 

 ノルが小声で言った。

 

「魚屋さん、明日は川の北側へ仕入れです。いつも木の日に行くから」

 

「知ってるんですか」

「パンを六枚持っていく日」

 

 仕入れの船は夜明け前に出る。片手で食べられる平焼きを毎回頼まれるので覚えている。

 

 役所が用意した予定は、町を動かすための立派な仕事ばかりだった。倉庫整理。道路清掃。夜警への参加。税の期限を守る。

 

 誰かが明日やるべきことではある。

 でも目の前の人がやりたいことではない。

 

「予定なんて、言わせれば同じじゃないの?」

 

 市警の責任者が苛立った声を出す。

 

「言葉は入ってる。火も一瞬つく」

「一瞬では境界まで届かない」

 

 ロウさんが答える。

 

「鐘は本人が選んだ明日を燃やす。命令された予定は、命令した人間の願いだ」

 

「なら、市民へ自由に言わせろ」

「昨日、夜喰いが出たばかりです。そんな状況で自由にと言われても、皆さん困ります」

 

 セラさんが記録板を見せる。

 

 列の人たちは、市警と鐘守工に囲まれている。町を守るためだと言われ、立派な予定を求められている。ここで「昼まで寝たい」と言える人は、かなり強い。

 

「店ごとに聞きましょう」

 

 提案した。

 レオンがこちらを見る。

 

「また歩き回る気か」

「重い物は持たない。走らない。能力も使わない。話を聞くだけ」

 

「昨日も排熱管へ入った」

「話を聞いただけです」

「管の中でな」

 

 場所の違いだと思う。

 ティアさんが赤い布と私の顔を見比べた。

 

「脈と体温を先に測ります」

「通れば?」

「二時間。セラと一緒。昼食を持つ。痛みか眩暈が出たら戻る」

 

「話が早くて助かります」

「あなたの交渉に慣れたくありません」

 

 慣れてくれたら、もっと早くなるのに。

 脈八十六、体温三十六度二分。合格。

 親方が持たせた昼食袋をセラさんへ預け、市場へ出た。

 最初は魚屋。

 

「明日、何をします?」

「倉庫の整理だ」

 

 市警へ言ったのと同じ答えだ。

 

「本当に?」

「町のためになる」

「北の船は行かなくていいんですか」

 

 主人の目が動いた。

 

「……川が荒れてなければ行く。今は鯖が安い」

 

「帰ったら?」

「妻と焼いて食う」

 

 奥から奥さんが顔を出す。

 

「私は塩焼きがいい」

「この前も焦がしただろ」

「あんたが喋らせたからだよ」

 

 二人が言い合いを始める。

 青い火皿へ、さっきより大きな火が灯った。

 

『鯖を仕入れ、妻と焼く』

 

 セラさんが記録する。

 

「町のためにならない予定でも、いいんですね」

 

 魚屋が火を見る。

 

「二人が明日も生きる予定です。充分でしょう」

 

 次は花屋。

 エダさんは、枯れかけた赤い花を植え替えると言った。

 

「売れない花だけどね」

「売れないから、明日まで置いておける」

 

「そういう見方もあるか」

 

 青い火。

 

 靴屋の夫婦は、互いの靴を直すと言い張った。ご主人は奥さんの踵、奥さんはご主人の穴。喧嘩の続きにも見えるけれど、火は二つとも明るい。

 

 豆屋のナナさんは、娘のフィオと豆を百粒数える。

 

「学校の宿題なの。十まででいいのに、あの子が百までやるって」

 

「途中で寝そうですね」

「私が先に寝るよ」

 

 火皿の青が大きくなる。

 立派でなくてもいい。

 誰かに褒められなくても、町の役に立たなくてもいい。

 明日、本人がしたいこと。

 それだけで夜を遠ざける。

 ずいぶん都合のいい仕組みだと思う。

 同時に、少し落ち着かない。

 市場の次は北住宅区へ回った。

 

 ここは店が少なく、戸を叩かないと人が出てこない。セラさんが町の名簿を持ち、私はパンの配達先を思い出す。名前が分からなくても、固いパンを薄く切ってほしい家、塩抜きのパンを頼む家、毎週一個だけ買う家なら分かる。

 

 三軒目で、返事がなかった。

 

「空き家?」

 

 セラさんが名簿を見る。

 

「ベン・ロッタ、七十三歳。一人暮らし」

 

 窓の隙間から、朝食の皿が見えた。湯気はない。でも昨日配ったパンの包み紙がある。

 

「ベンさん。アルノパン店です」

 

 戸を叩く。

 

 しばらくして、鍵が一つ外れた。

 

 細い老人が顔を出す。髪は白く、右手に杖。具合が悪いというより、朝から誰にも会いたくなかった顔だ。

 

「予定ならない」

 

 こちらが話す前に言った。

 

「町へ役立つことはもうできん。夜警も清掃も、若い奴に頼め」

 

 役所の人が先に来たのだろう。

 

「町の役に立つ予定じゃなくていいんです」

 

「なら、なおさらない」

 

 戸を閉めようとする。

 

 隙間から部屋の奥が見えた。机に、青い縁の皿が二枚ある。一枚は使われ、もう一枚は布で包まれている。

 

「そのお皿、きれいですね」

 

 ベンさんの手が止まった。

 

「妻のだ」

「奥さんは?」

「去年、死んだ」

 

 聞き方を間違えた。

 謝る前に、ベンさんが続ける。

 

「隣の娘が、形見を受け取りたいと言ってる。渡すと言ったが、まだ置いてある」

 

「明日、渡します?」

「今日でもできる」

「今日は鐘のことで人が多い。割ったら困るでしょう。明日の朝、布をもう一枚巻いて届けるのは?」

 

 ベンさんは皿を見る。

 

「朝は、あの娘が仕事へ出る」

「じゃあ夕方」

「雨になる」

「明後日でも」

「先延ばしさせたいのか」

 

 違う。本人の明日を作るつもりで、私の都合のいい日に押し込もうとしていた。

 

「ごめんなさい。いつ渡したいです?」

 

 聞き直す。

 ベンさんは長く考えた。

 

「明日、昼にする。昼なら妻がいつも茶を飲んだ」

 

 火皿を差し出す。

 

『妻の皿を、隣の娘へ渡す』

 

 青い火は小さかった。でも消えなかった。

 

「これで町が守れるのか」

「少し」

「皿一枚で?」

「一人分の明日ですから」

 

 答えると、ベンさんは戸を少し大きく開けた。

 

「パンを一つくれ。明日の茶に食う」

 

 注文を受ける。銅片も受け取る。ここはきちんと商売にしたほうがいい。形見を渡す明日へ、借りまで増やす必要はない。

 

 次は市警詰所。

 責任者が、夜警二十人分の予定をまとめて火へ入れようとしていた。

 

「効率がいいだろう」

 

 書類には、全員同じ文。

 

『明日も町を守る』

 

 立派だ。立派すぎて、誰の顔も浮かばない。

 

「本人へ聞きました?」

「勤務表で決まっている」

 

 詰所の壁に、明日の当番表がある。レオンの名前も書かれていた。

 ちょうど鐘楼から戻った本人が、紙を見た。

 

「俺は明日、非番です」

「鐘の異常で変更した」

「本人へ伝えてない予定を、本人の願いとして出すのか」

 

 レオンの声は低い。

 責任者が顔をしかめる。

 

「町を守るのが市警の仕事だ」

「仕事はする。嘘を俺の明日にするな」

 

 短い言葉だった。

 レオンは火皿を受け取る。

 

「明日は外套の留め紐を直す」

 

 青い火がついた。

 

「それ、直すところある?」

「昨日、お前の命綱を引いたとき擦れた」

 

 見れば、右側の紐に細い毛羽がある。毎朝同じに見えたのに、ちゃんと変わっていた。

 

「気づかなかった」

「俺が分かればいい」

 

 レオンは火皿を次の市警へ渡した。

 

 一人は娘と朝飯を食べる。一人は借りた本を返す。一人は非番に川へ釣りに行く。夜警二十人が、二十人へ戻っていく。

 

 青い火が増えた。

 最後にアルノパン店へ寄った。

 親方は話を聞くと、窯から目を離さず言った。

 

「明日、朝飯の皿を六枚出す」

「一枚多いですよ」

「六枚だ」

 

 火皿に、強い青が灯った。

 

 私が何度言っても、親方は皿の数を直さない。仕方ないので、バルトさんとイネスさんにも予定を聞いた。

 

 バルトさんは石臼の軸へ油を差す。イネスさんは新しい林檎酵母を試す。ペトは弟のルカと学校へ行く。

 

「ミナは?」

 

 セラさんが聞いた。

 

「何がです?」

「明日、したいこと」

「朝の配達。鐘が直ったから注文が戻ります」

 

 答えは用意してある。

 

「したいこと?」

「必要なことでもあります」

「質問を変えます。配達がなくても、したいことは」

 

 困った。

 

 配達がなければ、仕込み。仕込みもなければ、窯掃除。全部終わったら帳簿。店の仕事が何もなければ、市場で手の足りないところを探す。

 

 何もしなくていい明日を考えると、足元が少し浮く。

 

「昼寝、ですかね」

 

 冗談にした。

 セラさんは記録板へ書かなかった。

 

「本人説明にも?」

「火へ入れる予定だけ記録します」

「配達を書いてください」

「したいことだと確認できません」

 

 この記録官も手強い。

 

 昼までに、火皿は市場の店を一周した。役所の広場へ戻ると、列は解散し、市警が戸別に聞き取りを始めている。

 

 ロウさんは集まった火を鐘へ移す準備をしていた。

 

 青い火は大きな硝子瓶へまとめられ、内部で魚、花、靴、豆みたいに形を変えている。予定には匂いまであるらしい。瓶の近くは、焼き魚と土と革が混じった不思議な空気だった。

 

「食事」

 

 ティアさんが時間どおり現れた。

 

「あとで」

「条件違反一つ」

「今、鐘へ火を入れるところです」

「見るのに口は使いません」

 

 親方の昼食袋を渡される。中は丸パン二つと、塩漬け肉、林檎。二人分ある。

 

「多い」

「あなたとセラの分」

 

 なるほど。

 セラさんへ一つ渡す。自分のパンには、蜂蜜が薄く塗ってあった。

 親方は余計なことをする。

 

 売り物ほど形がよくないので、たぶん端の生地だ。これなら原価も低い。食べても大丈夫。

 

「おいしいですか」

 

 ティアさんが聞く。

 昨日の蜂蜜飴から、味の報告を求めるようになった。

 

「甘い。少し焼きすぎ。でも端が香ばしい」

 

「事実?」

「事実」

 

 ティアさんは頷く。

 

 この確認がいつまで続くのかは分からない。でもおいしいと言うだけで一つ安心してくれるなら、安い仕事だ。

 

 火を鐘へ運ぶ。

 

 鐘室の中央には、昨日取りつけた十二枚の光輪が円を作っている。その下に、火を受ける小さな皿が十二個。

 

「一つの皿に一地区」

 

 ノルが説明する。

 

「市場、学校、粉倉、北住宅区……町を十二に分けます。火の量が少ない地区は、他から回せます」

 

「分けてもいいの?」

「昔は、そうしてたみたいです」

 

 教本の古い頁を見せる。

 端に、子どもの歌が書いてあった。

 

『一つの朝を、百の手で。あなたの明日を、わたしの隣へ』

 

「歌なんですか」

「音符があります。でも僕、読めません」

 

 セラさんが譜面を見る。小さく首を振った。音が拾いにくい彼女には、知らない旋律を紙だけから戻すのは難しいらしい。

 

「知ってる」

 

 言ったのは、学校から見学に来たフィオだった。

 

 影熱の治療を受けた六歳の女の子。母親のナナさんと一緒に、火を届けに来ている。

 

「先生が歌ってた」

 

 フィオは息を吸い、歌い始めた。

 単純な四つの音。

 

『一つの朝を、百の手で』

 

 ノルが続く。

 

『あなたの明日を、わたしの隣へ』

 

 音程は少し外れた。フィオが笑う。ノルは顔を赤くし、それでも歌を止めない。

 ナナさんが加わる。

 鐘室にいた市警、鐘守工、市場の人たちも、知っているところから声を重ねた。

 私は歌を知っていた。

 どこで覚えたのかは思い出せない。

 

 白い廊下で、夜になると誰かが小さく歌っていた気がする。番号で呼ばれた子どもたちが、寝台の間で声を渡す。

 

 思い出さなくていい。

 今、フィオの歌がある。

 私は二番から加わった。

 

『一人で夜を持たないで。百の灯りを、朝へ返そう』

 

 歌詞が自然に出た。

 ロウさんがこちらを見る。

 また、何か知っている顔だ。

 でも歌は止めない。

 

 青い火が十二の皿へ分かれていく。一つが弱くなると、隣の火が細い糸を伸ばす。十二枚の光輪が一斉に明るくなった。

 

 鐘が鳴る。

 青い光が市場を越え、粉倉を越え、町の外壁まで走る。

 境界に立っていた市警が、白い旗を振った。

 届いた。

 皆が歌い終わる前に、鐘楼の外から歓声が上がる。

 

 ノルがフィオと手を合わせた。ティアさんも小さく息を吐く。レオンは鐘室の入口で、剣の柄から手を離した。

 

 人へ任せても、朝は来る。

 百人で分けても、仕事は薄くならない。

 それは、かなりいい方法に見えた。

 

「ミナの火はどれ?」

 

 フィオが聞く。

 

「私は集める係」

「予定、言ってないの?」

「配達があるよ」

「それ、したいこと?」

 

 セラさんと同じ質問だ。

 子どもは遠慮がなくて困る。

 

「うちのパンを待ってる人がいるから」

 

 答えると、フィオは少し考えた。

 

「ミナさんが食べたいパンは?」

「親方の蜂蜜パン」

 

 これはすぐ出た。

 

「じゃあ、明日それを食べるって入れればいい」

 

 簡単に言う。

 でも蜂蜜パンは売り物だ。食べれば一個減る。自分で焼けるし、味なら端の生地でも同じ。

 

「また今度ね」

 

 フィオの頭を撫で、話を終えた。

 光輪の確認へ向かったノルが、突然「あれ」と声を出す。

 

「受け皿が多い」

「十二個でしょう?」

「表は十二。でも、下にもう一つ」

 

 光輪の基部へ潜り、細い覆いを外す。

 十二の皿の中心。

 床の下へ隠すように、もう一つ大きな受け皿があった。

 青い火は入っていない。

 内側には、古い文字が刻まれている。

 

『器』

 

 十三番目の皿だけが、誰の明日も受け取らず、空のまま待っていた。

 

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