十三番目の受け皿には、「器」と書いてあった。
器なら、パン屋にもたくさんある。
粉を量る器。卵を溶く器。発酵中の生地を入れる器。中身を受け止め、こぼさず、使い終わったら洗う。
だから最初は、あまり怖い言葉だと思わなかった。
「触るな」
ロウさんが、ノルの手を止めた。
その声が怖かった。
ノルの指は、十三番目の皿まであと少し。普段なら道具へ触れる前に材質と留め具を見る子が、今日は文字へ気を取られている。
「すみません」
すぐ手を引く。
「謝る必要はない。私の説明が遅れた」
ロウさんは結界杖を横に置き、青い手袋をはめた。右手、左手、それぞれの指先を引いて隙間をなくす。
動作が丁寧すぎる。
「知ってる設備なんですか」
レオンが尋ねる。
「似た物を見たことがある」
「どこで」
「旧鐘守庁の実験施設だ」
「名前は」
ロウさんは答えず、受け皿へ青い粉を振った。
粉が器の底へ落ちる。普通なら夜滓が残っていれば黒く変わる。十三番目の皿では、青い粉が音もなく消えた。
「空じゃない」
ノルが言う。
「何か入ってる」
ティアさんが細い試験紙を皿の縁へ近づける。白い紙の先が、触れる前に灰色へ変わった。
「夜滓の反応。でも量が測れません」
「底がないから?」
「測定具の届く範囲に底がない、と考えたほうがいい」
器の直径は、私が両腕で抱えられるくらい。深さは二十セルチもない。見た目どおりなら、粉を半袋入れればいっぱいになる。
なのに青い粉は全部消えた。
「もう一度、別の物を入れます?」
ノルが工具箱を見る。
「入れた先が分からない物へ、道具を捨てるな」
ロウさんが止めた。
「糸をつければ回収できます」
「引く力が向こうへ伝わる。何を起こすか分からない」
「じゃあ音は?」
私は皿の横へ耳を近づけた。
レオンに襟を引かれる。
「顔を寄せるな」
「聞くだけ」
「昨日も同じことを言って管へ入った」
「今日は入りません」
床へ膝をつき、少し離れて耳を澄ます。
低い風の音。
その奥に、規則的な響きがある。
とん、とん。間を置いて、とん。
「誰か叩いてる?」
全員が静かになる。
ノルが受け皿の横へ金属棒を置いた。音が伝わり、はっきりする。
「機械です。送風弁が回る音」
「今も動いてるの?」
「鐘の火が入ったから」
十三番目の器は、昨日まで眠っていた。市民の予定を十二皿へ入れ、光輪を動かしたことで、隠された配管まで起きたらしい。
ロウさんが受け皿を覆う蓋を探す。見当たらない。
「ノル。仮封板を作れ。セラ、十二皿の流量を記録。ティアはミナを内部光から出せ」
「自分で出ます」
立ち上がる。
足元の影が、器の方向へ細く伸びていた。
私が動いても、一拍だけ床へ残る。
レオンの手が剣から離れ、影を踏むように前へ出た。靴の下で影は止まらない。黒い先端が十三番目の皿へ触れた。
胸の黒線が、内側から引かれる。
「っ」
息が詰まる。
ティアさんが赤い布をつかみ、私を光輪の外へ引いた。
影が足元へ戻る。
「痛み」
「二。引っ張られただけ」
「影は身体の一部です。だけ、をつけない」
「二です」
言い直す。
ロウさんは器と私を見比べ、顔を固くした。
「反応を見ただろう。外へ」
今度は反論しなかった。
「入っているというより、入る先が別にある」
ロウさんは光輪の基部へ細い鏡を差し込んだ。鏡面に、皿の裏側が映る。
太い管が一本、鐘の下へ伸びていた。
「隔離室?」
私が聞く。
「違う。鐘楼の外へ向かっている」
ノルが設計図を広げる。昨日見た図には、そんな管はない。線があるはずの場所は、何も描かれていない白い余白だ。
「隠し配管です」
セラさんが記録板へ書いた。
「どこへ出るか調べます?」
「調べる」
ロウさんは即答し、それから私を見た。
「ミナは外へ」
「どうして」
「影請けの残響に反応する設備かもしれない」
「だから、いたほうが反応を見るのに便利では?」
「人間を検査具にする気はない」
言い方が強い。
実験施設という言葉。白い値札。十九番。ロウさんの沈黙。
つながりそうなものがいくつもある。
でも今は、管の先を調べる仕事がある。過去の話を始めれば、手が止まる。止まっていい仕事と、先に終わらせる仕事は分けたほうがいい。
「外で出口を探します」
自分から言った。
レオンがこちらを見る。
「聞かないのか」
「何を?」
「実験施設がどこか」
「管を見つけたあとでいいでしょう」
「あとで話す保証はない」
レオンはロウさんを見たままだ。
人を疑うときのレオンは、目を逸らさない。相手が嫌がっても、答えが出るまで待つ。市警としてはいいところだと思う。
「保証が必要なら、セラさんに書いてもらおう」
記録官を見る。
セラさんは板へ一行刻んだ。
『隠し配管確認後、ロウ・ガルドは旧実験施設との関係を説明する』
ロウさんへ向ける。
「署名を」
少しの沈黙。
ロウさんは炭筆を取り、自分の名を書いた。
角張った文字だった。
どこかで見た気がする。
「これでいい?」
レオンへ聞く。
「今は」
納得ではなく、保留らしい。それでも仕事は進む。
鐘楼の外へ出た。
隠し配管は地下を通り、町のどこかへ伸びている。出口を地上から探すには、空気か音か温度の違いを見る。
「鐘へ火を入れて、管だけ温めます」
ノルが提案した。
「地面が温まれば出口が分かる。でも今の鐘火でやると、町の境界が薄くなります」
「なら、別の熱を入れる?」
「管の入口が器の下です。普通の火を入れたら、内部を焼くかもしれない」
普通の火は駄目。鐘火も使えない。
私は鐘楼の壁へ手を当てた。石は朝日でぬるい。地面も同じ。
「冷やすのは?」
ノルが瞬く。
「温めるのと逆?」
「管へ冷たい空気を送れば、地面が冷える。魚屋の氷を借りて、送風機で押す」
「できます」
答えが速い。
ノルはすぐ必要な部品を数えた。手回し送風機、革管、接続環。私は魚屋へ氷を頼みに行く。
昨日仕入れの予定を鐘へ入れた主人は、本当に北の船へ行っていた。店には奥さんがいる。
「氷一箱、鐘を調べるのに貸してください」
「魚がぬるくなる」
「今日の売り切り分を別箱へ移して、残りは川へ戻す。鐘がまた止まるより損が少ないです」
「氷代は」
セラさんが市の補償書へ金額を書く。奥さんは数字を確かめ、氷箱の鍵を渡した。
「あんたと話すと、損してるのか得してるのか分からなくなるね」
「最後に町が残れば、だいたい得です」
箱は市警二人へ運んでもらう。私は持たない。赤い医療布が市場で有名になり、誰も重い物を渡してくれなくなった。
便利だけれど、少し困る。
氷を鐘楼へ運び、砕いて革管へ詰める。ノルとバルトさんが送風機を回した。
冷たい空気が十三番目の器から隠し配管へ流れる。
私たちは地上を歩いた。
セラさんが細い温度針を地面へ刺し、ノルが数値を読む。レオンは周囲を警戒。ロウさんは一歩後ろで、あまり口を出さない。
管は鐘楼から北へ向かい、学校の前を通った。
次に古い共同井戸。
そこから東へ曲がる。
「この先、何があります?」
セラさんが聞く。
「今は空き倉庫。昔は救護所だったはず」
町の古い人から聞いたことがある。長夜のあと、影熱の子どもを集めた場所。二十年前に閉鎖され、粉の臨時倉庫として数年使われた。
今は戸へ板が打ちつけてある。
「温度、低いです」
ノルが倉庫前の石を指す。
隠し配管の出口は、ここだ。
レオンが戸の板を外す。釘は錆びていたが、内側には新しい擦り傷がある。
「最近、開けた人がいる」
剣を抜き、先に入る。
倉庫の中は空だった。
粉袋も棚もない。床に白い埃。壁際へ、古い金属机が一つ。
その下へ太い配管が入っている。
「出口じゃない」
ノルが机の背面をのぞく。
「装置につながってた跡です。装置だけ外されてる」
床には四つの固定穴。中央に円形の染み。十三番目の器が、何かをここへ送っていた。
何を置けば、町一つの予定を受ける器になるのだろう。
考えなくても、答えは近くにある気がした。
壁際には、低い位置へ傷が並んでいた。
一本、二本、三本。床から同じ高さに、横線と数字。子どもの背丈を測った跡に似ている。
「七、十二、四」
ノルが数字を読む。
「順番じゃないですね」
「番号だろう」
レオンが言う。
十九はない。
少し安心した。
どうして安心したのかは、考えない。
セラさんが壁を写し取る。紙を当て、炭で軽く擦ると、傷だけが黒く浮かぶ。
「ここにも文字」
机の下にしゃがんだノルが、固定穴のそばを指した。
幼い字で、短く刻んである。
『あしたはそと』
明日は外へ出たい。
誰かが器に入る前か、出た後か。外へ行けたかも分からない。
昨日、町の人たちから明日の予定を集めた。鯖を焼く。花を植え替える。皿を届ける。外套の紐を直す。
この部屋の子どもにも、同じような明日があった。
その予定は、鐘へ入ったのだろうか。
「この文字も記録します」
セラさんが言った。
「設計図と同じ扱いで?」
「設計図より先に。装置が誰に使われたかの記録です」
紙へ丁寧に写す。
ロウさんは止めなかった。
代わりに倉庫の隅から、小さな木片を拾った。角が丸く、片側に穴。値札の欠片かもしれない。
「数字は?」
聞く。
「削れている」
ロウさんは青布へ置いた。指先が震えたように見えたが、すぐ手袋の中へ隠れた。
セラさんが机の引き出しを開ける。
中に書類が残っていた。
ほとんどは湿気で読めない。重なった紙を一枚ずつ剥がす。古い配管図、器の寸法、夜滓流量の計算。
「設計者名があります」
セラさんが一番下の紙を広げた。
右下に署名。
角張った文字。
さっき、記録板へ書かれた名前と同じだった。
ロウ・ガルド。
日付は十四年前。
「あなたが作ったのか」
レオンが紙を持ち上げる。
「補助設計だ」
ロウさんは否定しなかった。
「何の装置だ」
「夜滓の一時受け入れ槽」
「人間用の大きさに見える」
「人間を入れた」
倉庫が静かになる。
ノルの工具箱から、小さな金属音がした。手が震え、留め具同士が触れたらしい。
「誰を」
レオンの声がさらに低くなる。
ロウさんは私を見た。
「影請けの子どもたちだ」
白い値札。
十九番。
私は机の固定穴を見た。四本の脚を止める穴。その横に、小さな引っ掻き傷が並んでいる。
記憶は出てこない。
出てこないなら、今はなくても困らない。
「この装置は、今も使えるんですか」
聞いた。
レオンがこちらを振り返る。
「聞くことはそれか」
「だって、鐘からつながってる。誰かが最近、戸を開けた。使うつもりなら止めないと」
「十四年前、こいつが子どもを入れた」
「今、ノルを助けて、グスタさんを助けた人でもあるよ」
「それで昔が消えるのか」
「消えない。でも昔の話だけして、今の危険を見落としたら増える」
レオンの顎が固くなる。
私を心配して怒っているのだと思う。ありがたい。でも今、ロウさんを責めても配管は消えない。
「説明する約束です」
セラさんが記録板を出した。
ロウさんの署名がある。
本人は紙の設計図を見下ろした。
「十四年前、鐘守庁は一人の影請けへ、一地区ぶんの夜滓を集める実験をした。白麦院の子ども二十人が候補になった」
「何人、生きた」
レオンが聞く。
「最初の実験で二人死んだ。計画は縮小され、私は設備から外れた」
「止めなかったのか」
「止めなかった」
言い訳をしない。
そのことを立派だとは思わない。でも、命令だった、知らなかったと言えば少しは自分を守れるのに、しなかった。
ロウさんの長所は、責任から逃げないところだ。
欠点も、同じ場所にある気がする。
「十九番は」
私は尋ねた。
「実験を受けた?」
「記録上は、適合検査までだ」
「記録上は?」
「実験記録の一部が消されている」
便利な答えだ。分からないことが増えるだけで、今すぐ泣いたり怒ったりしなくて済む。
ティアさんはロウさんへ近づいた。
「二人が死んだとき、あなたは何歳でした」
「十八」
今のレオンと同じだ。
「設計者と呼ばれる年齢ではない」
「署名した年齢ではある」
ロウさんは、紙の自分の名を指でなぞった。
「安全弁を増やせば死者が減ると考えた。子どもを使う計画そのものではなく、死ぬ人数だけを直そうとした」
「それで二人」
「それ以前は、一度に五人死んだ」
数字が並ぶ。
五人より二人のほうが少ない。三人助かる。正しい改善だ。
それでも、この部屋の壁には『あしたはそと』と残っている。
「ロウさんの弁がなければ、もっと死んだ?」
「そうかもしれない」
「なら、作ったこと全部が間違いではないでしょう」
レオンが強く息を吐いた。
「また数の話か」
「数は大事だよ」
「お前は、自分が少ない側へ入るときだけそう言う」
意味が分からず、彼を見る。
「今の話に私は入ってないでしょう?」
レオンは答えなかった。
私が十九番なら、入っているのかもしれない。でも記録は消え、覚えてもいない。今さら一人足しても、十四年前の人数は変わらない。
「設計を使って、今の配管を止められます」
ノルが図面を見て言った。
「ここ。安全弁が残っていれば、鐘側から閉じられる」
過去のロウさんが描いた弁だ。
その設計が、今の町を守る。
「場所は分かる?」
「鐘楼の北壁。外から開けられます」
「じゃあ先に止めよう」
過去を数える仕事と、今を直す仕事。両方やればいい。
ロウさんは一度目を閉じ、それから頷いた。
「じゃあ、残った書類を持ち帰りましょう。配管は封じる。最近ここを開けた人も調べる」
作業を並べる。
ノルが頷き、書類を乾いた順に分け始めた。セラさんは引き出しの中身を記録。レオンはまだロウさんを見ている。
「ミナ」
「何?」
「お前が決めることじゃない」
「何を?」
「昔を後回しにしていいか」
私の昔なのだから、私が順番を決めていいと思う。
そう言おうとした。
でもレオンの手は、剣の柄ではなく、外套の擦れた留め紐をつかんでいた。昨日、私の命綱を引いた跡。
私の過去を知りたいのではなく、また同じことが起きるのを止めたいのかもしれない。
「後回し。捨てるとは言ってない」
少しだけ言い直す。
レオンは納得しないまま、それ以上は言わなかった。
倉庫を出ると、市警の伝令が走ってきた。
封筒を一通、ロウさんへ渡す。灰色の厚紙に、金色の鐘印。
「鐘守庁からです。麦環市で未登録の影請けが確認されたと」
伝令は私を見た。
「ミナ・アルノ本人と、保護者または雇用主の出頭を求めています」
早い。
登録を断ってから、まだ三日しか経っていない。
ロウさんが封を切る。
書面の末尾には、もう一つ角張った署名があった。
エルネスト・ハイル。鐘守庁長官。
そして本文には、私の名前より先に番号が書かれていた。
『旧候補者十九番の所在を照会する』
ミナ・アルノではない。
鐘守庁は、最初から十九番を探していた。