鐘守庁から、私を出頭させろと手紙が来た。
普通なら慌てるところだと思う。
でも手紙の期限は三日後。市場の夜滓除去は今日。順番を守れば、慌てるのは明後日で間に合う。
「間に合わない」
レオンは反対らしい。
「鐘守庁は、昨日の時点でお前を十九番と呼んでた。今朝には迎えが出てるかもしれない」
「三日後と書いてあるのに?」
「正面から来るとは限らない」
「役所でしょう?」
「役所だからだ」
市警として、何か思うところがあるらしい。
アルノパン店の二階。小さな食卓を囲み、修繕隊と親方、レオンが鐘守庁の書面を見ている。私は椅子が足りないので、窓際の粉箱へ座った。
「返答は私がする」
ロウさんが言う。
「ミナ・アルノは医療制限中。麦環市の鐘事故へ関係する参考人。調査終了まで移送不可」
「それで止まります?」
「一日は」
「短いですね」
「権限の範囲だ」
ロウさんは自分ができることを大きく見せない。そこは信じやすい。
「一日で市場の残りを片づける。そのあと町を出る」
「どこへ」
親方が聞く。
「次の暁鐘へ。ミナも臨時協力員として同行させる」
部屋の空気が止まった。
私も止まった。
「どうして私が?」
「鐘守庁の直轄施設より、修繕隊の管理下に置くほうが安全だ」
「店は」
「バルトとイネスがいる」
親方が答えた。
「配達は」
「ペトがいる」
「帳簿」
「私がつける」
全部、代わりがいる。
よかった。店は困らない。
よかったはずなのに、膝の上の指が冷えた。
「何日くらい?」
「未定だ」
ロウさんの答え。
「次の鐘だけで済まない可能性がある」
「出頭しないと、店に迷惑が」
「ここに残れば、鐘守庁は店ごと監視する」
レオンが言う。
「お前が町を出たほうが、店から目を外せる」
それなら行く理由はある。
働ける場所も、修繕隊が用意してくれる。店の代わりに、旅先で役に立てばいい。
「分かりました。出発までに引継ぎを作ります」
「承諾が早すぎる」
親方が怖い顔をする。
「反対なんですか」
「反対して残せる状況かい」
「じゃあ行きます」
「そういう話じゃない!」
最近、その言葉をよく聞く。
話し合いは、ひとまず市場の作業後へ持ち越された。
残留夜滓は、前日の戦闘で撒いた小麦粉の下へ固まっている。白い道へ黒い筋が何本も残り、朝日へ触れるたび細く煙を上げる。
普通なら鐘の光で少しずつ焼く。
ただし市場は明日から通常営業へ戻したい。光を強くすれば食品と薬草まで傷む。
「削り取って隔離箱へ入れます」
ノルが四角い箱を開けた。
内側は銀板、外側は厚い木。蓋へ小さな鐘がついている。夜滓が漏れると鳴る仕組みだ。
「一箱で、どれくらい?」
「夜喰い半体ぶん」
「分かりにくい単位だね」
「僕もそう思います。教本に書いてあるから」
「パン何個ぶん、とかなら」
「夜滓は食べられません」
ノルは真面目だ。
作業は四組へ分かれた。
市警が市場を封鎖。ロウさんとセラさんが夜滓の位置を測り、ノルが削る。ティアさんは作業者の影熱を監視。
私は店の人へ品物を動かしてもらう係だ。
能力は使わない。重い物も持たない。走らない。
自分の仕事が少なく聞こえるので、最後の三つは説明しない。
「肉屋さん、燻製台を西へ。下の石まで見せてください」
「一人じゃ持てん」
「レオン、お願い」
護衛から荷運びへ変わる。レオンは文句を言わず台を持ち上げ、市警一人と運んだ。
「腰じゃなく膝を使って。上手です」
「お前は監督か」
「重い物を持てないので」
赤い布を見せる。
便利な印だ。
花屋では鉢を一つずつ移す。軽い鉢なら持てると手を出したら、エダさんに叩かれた。
「その布がついてる人は、口だけ動かしな」
「口は得意です」
「知ってるよ」
市場中が私の扱いに慣れてきた。少し寂しい。
ノルは石畳へ膝をつき、黒い筋を専用のへらで削っていた。刃先を薄く入れ、白い粉ごと持ち上げる。手つきは丁寧だ。
「待って」
三本目の筋へへらを入れる前に止めた。
黒い筋は香辛料屋の棚の下へ続いている。表面だけ見れば細い。でも棚の奥から、濡れた炭の匂いがした。
「量が多い?」
ノルが手を止める。
「匂いが変。昨日は胡椒と夜滓が混じって、もっと鼻が痛かった」
「胡椒をどけたからでは」
「違う。濡れてる」
香辛料屋の店主を呼ぶ。
「棚の下に水路があります?」
「雨樋の排水管だ。裏の側溝へ出る」
店主は棚板を一枚外した。
石床へ小さな格子。隙間から黒い水が見える。
夜滓が排水管へ溜まっている。表面を削れば、下からまた上がってきたはずだ。
「よく気づきました」
セラさんが言う。
「昔、胡椒袋へ水が染みたことがあるので。乾いた胡椒はくしゃみ、濡れた胡椒は咳が出ます」
「専門が役立ったんですね」
「パン屋の専門ではない気もします」
配達をしていると、店ごとの失敗まで覚える。香辛料屋が排水を詰まらせた日は、店主が一日中機嫌を悪くし、うちのパンへまで辛いと文句を言った。
ロウさんが排水図を確認する。
「側溝の出口へ隔離箱を置く。ここから洗浄水で押し出す」
「水と一緒なら、夜滓が広がりません?」
「銀粉を混ぜて固める。ティア、濃度を」
ティアさんが試験瓶へ黒い水を一滴取り、銀粉を量る。セラさんは必要量を記録。レオンと市警が側溝を封鎖し、ノルが排水口へ革管をつなぐ。
私は香辛料屋の品を高い棚へ移す順番を決めた。
誰も、私へ夜滓を吸えと言わない。
当たり前だ。治療条件で禁止されている。
それでも、五人が銀粉と水と箱を用意するのを見ていると、私が一度触れば早いという考えが浮かぶ。
考えるだけにした。
「洗浄、始めるぞ」
ロウさんの合図で、水を流す。
格子の下の黒が動き、側溝へ押し出される。出口の隔離箱が一度、二度と鳴った。三度目で音が止まり、蓋が閉じる。
十五分。
一人なら一分だったかもしれない。
でも誰も倒れず、黒線も増えなかった。
十五分は、悪くない時間だ。
でも、三枚目でへらの柄が外れた。
「あ」
刃が石へ落ちる。
黒い筋のすぐ横。
ノルは素手で拾いかけ、止まった。昨日なら触っていたかもしれない。今日は手袋用の挟みを使う。
「成長しましたね」
ティアさんが言う。
「柄を壊しました」
「そちらではなく、手を止めたこと」
ノルは少し照れた。
褒める場所が、私と同じだ。ティアさんとは相性が悪くないかもしれない。
「へら、見せて」
ノルが挟みで刃を取り、洗浄皿へ入れた。夜滓を落としたあと、柄と一緒に受け取る。
留め軸が折れている。
「予備は?」
「昨日、光輪を外すとき二本折りました。これが最後」
「鐘守工の道具なのに、弱くない?」
「夜滓で脆くなるんです」
専用軸がなければ直せない形だ。でも刃と柄の穴は残っている。
「細い針金と、木釘。あと革紐」
「応急修理できます?」
「パン窯の灰掻き棒と、だいたい同じ」
「全然違うと思います」
見た目は違う。でも、刃を柄へ固定して、力をまっすぐ伝える道具だ。必要な働きは同じ。
店へ道具を取りに戻る。
私の細工箱は、窯の奥の棚にある。小さな金槌、錐、針金切り、やすり、木釘。五年かけ、給金から一つずつ買った。
最初に買ったのは錐。持ち手へ小さな焦げ跡がある。火のそばへ置きすぎた。二度目からは棚の右へ置くようになった。
箱を持ち上げる。
「どこへ持っていく」
親方が帳場から見ていた。
「市場。ノルの道具が壊れたので」
「戻すんだろうね」
「もちろん」
答えた。
でも市場へ戻る道で、考えが変わった。
旅へ出るなら、細工箱は荷物になる。修繕隊にはもっといい工具がある。私はパン屋で、鐘を直すのはノルだ。
使う人が持ったほうがいい。
市場の隅へ作業布を広げ、へらを直した。
折れた軸を抜き、木釘を削る。穴へ通し、細い針金を二重に巻く。革紐で柄を締め、余った端を切る。
「動かしてみて」
ノルが握る。石へ刃を当て、力を入れる。
柄はずれない。
「すごい」
「応急だから、一日ごとに巻き直して」
「この金槌、軽いですね」
ノルが細工箱の金槌を持つ。
「狭いところ用。柄も短いから、鐘の中で使いやすいよ」
「錐も細い。こういうの、隊の支給箱にはないです」
目が輝いている。
道具は、使われるためにある。衣装箱の底へしまわれるより、ノルの手で鐘を直すほうがいい。
「じゃあ、箱ごと貸す」
言うと、ノルの動きが止まった。
「全部?」
「旅のあいだ。必要でしょう」
「でもミナさんも使う」
「隊のを借ります」
「これは、ミナさんのですよね」
「今はね」
ノルは箱を見た。錐の焦げ跡、金槌の小さな傷、私が道具の位置に合わせて縫った布の仕切り。
「貸すって、いつ返せばいいですか」
旅が終わったら。
そう答えればいい。
でも旅の期間は未定だ。鐘守庁に捕まれば、店へ戻れないかもしれない。私が戻らなくても、道具だけ親方へ返す手間をノルへ負わせることになる。
「一人前になったら」
「それ、返す日が来ません」
「自信がない?」
「一人前になったら、もう返さなくていいって言うつもりでしょう」
見抜かれた。
「よく分かったね」
「それは贈り物です」
「違うよ。使える人へ置き場所を変えるだけ」
贈り物にすると、ノルが礼を返そうとする。借りにすると、返す日を考える。どちらも余計な仕事が増える。
「道具は使ったほうがお得。私が持って旅をすると重い。ノルが持てば鐘を直せる。全員得する」
説明はきれいだと思う。
ノルは納得しない。
「贈り物って言ったら、受け取りませんか」
「お返しを考えます」
「僕が直した鐘で返します」
すぐ答えた。
子どもなのに、妙に上手い。
「それだと町が得するだけで、私は返してもらってないよ」
「じゃあ、ミナさんがいる町の鐘を直します」
「私のいる場所が分からなかったら?」
ノルが黙った。
困らせてしまった。
「貸し出しでいいでしょう。返す日は決めない。壊れたら直して使う。これでおしまい」
箱を押しつける。
ノルは両手で受け取った。
「おしまいにしません」
「何が?」
「借りたこと、覚えてます」
真面目な顔だ。
忘れてくれていいのに。
「じゃあ、好きにして」
頭を撫でようとしたら、手を避けられた。
代わりにノルは道具箱から赤い糸を出した。私の細工箱の取っ手へ二重に巻き、結ぶ。
「これは?」
「隊の物と間違えない印」
なるほど。実務的だ。
「いいね。すぐ分かる」
ノルは、やっと少し笑った。
修理したへらで、残りの夜滓を削る。
私は触らない。ノルが削り、セラさんが量を記録し、ティアさんが体調を測る。レオンと市警が店の品を運び、ロウさんが隔離箱を封じる。
私の仕事は、次に動かす店を決めることだけ。
それでも市場はきれいになった。
夕方、最後の黒い筋が箱へ入る。小さな鐘が一度鳴り、蓋の封印が閉じた。
「作業終了」
ロウさんが宣言する。
市場の人たちが拍手した。
ノルは細工箱を胸へ抱えている。私は手ぶらだ。
軽い。
旅の荷物を一つ減らせた。とても合理的なはずなのに、腰の横に箱がないと少し落ち着かない。
慣れれば平気だ。
店へ戻ると、ロウさんが二通目の封筒を持って待っていた。
今度は金色の鐘印ではなく、黒い蝋。
「王都からの極秘予測だ」
部屋には修繕隊、親方、レオン。ロウさんが蝋を割る。
紙には、十二の暁鐘を結ぶ円と、中央へ落ちる黒い線が描かれていた。
「麦環市の異常は一基だけの故障ではない。全十二鐘で、夜滓の逆流が始まっている」
ティアさんが日付を見る。
「予測日は」
「最短で六十日後」
「何が起きるんです?」
尋ねる。
ロウさんは紙の表題を指した。
『大夜蝕』
「十二鐘が同時に消える。王国全土で、朝が来なくなる」
六十日。
パンなら、酵母を起こして、何百回も焼ける長さだ。
国を直すには、ずいぶん短い。
「修理の優先順位を出す」
ロウさんは地図へ十二鐘の状態を書き込んだ。
「光量低下、夜滓逆流、配管改造の有無。三つを比較する。最も危険な鐘から回る」
「薬は、今の在庫で何日?」
ティアさんがノルへ聞く。
「影熱薬が二十七本。洗浄銀粉は、今日使って残り九袋」
「王都の補給を待つと足がつく。白丘療養院へ直接依頼します」
セラさんは予定表を作り始めた。六十の小さな枠を引き、移動日、修繕日、予備日へ分ける。
ノルは細工箱から短い金槌を出した。
「旅用の工具、組み直します。この箱なら軽い部品をまとめられる」
もう自分の道具として使い始めている。いいことだ。
「俺も行く」
レオンが言った。
ロウさんが顔を上げる。
「お前は市警だ。転属手続きが要る」
「今日出す。通らなければ辞める」
「待って」
私が止めた。
「仕事を辞めるほどじゃないよ。修繕隊には護衛がいるでしょう?」
「お前は、俺がいなくていいと思うのか」
質問の形が難しい。
レオンは強い。市場で夜喰いを止め、荷車を守り、命綱を引いた。いたほうが助かる。
「いると便利」
正直に答えた。
レオンは目を閉じた。
「便利か」
「かなり」
褒めたつもりなのに、声が疲れている。
親方は、誰の相談にも加わらず、六十日と書かれた紙を見ていた。
「ミナ」
「はい」
「行きたいのかい」
行きたい。
そう聞かれると、答えが出ない。
店を離れたいわけではない。親方のパンも、朝の市場も、窓から鐘が見える小部屋も好きだ。
「必要なら行きます」
「必要じゃなければ」
「店にいます」
「お前がしたいことを聞いてる」
また、その質問だ。
六十日の紙を見た。
国中の朝が消える。麦環市も、店も、親方も残らない。
「みんなが無事なら、どちらでもいいです」
本当に、どちらでもいい。
私がどこにいるかより、皆が朝を迎えるほうが大事だ。
親方は、答えを受け取らなかったような顔をした。
「修繕隊の次の行き先は?」
聞いた。
親方がこちらを見る。
「お前は、まず自分が行く前提かい」
「人手が足りないでしょう?」
十二の鐘。六十日。
私一人くらい、予備に入れておいたほうがお得だ。