人生が変わる瞬間というものは、もっとこう、なんというか劇的な出来事が起きるものだと思っていた。
竜を討伐するだとか、聖なる剣を抜くだとか。あるいは、神殿の鐘が王都中へ鳴り響くくらいの、誰にでも分かる何かがあるものだと。
実際には、銅貨七枚が木の受け皿へ落ちた、ひどく馴染みのある音だったのだが。
「はいよ。確かに」
酒場の親父は、太い指で銅貨を手早く数えると、それを腰の革袋へと落とした。
卓上には、豆と塩漬け肉の煮込みが入っていた空の皿と、黒パンのカスがいくつか。薄い麦酒の杯も、泡の跡を残して空になっていた。
合わせて銅貨七枚の夕食。
大した贅沢ではない。
それでも、今日一日の稼ぎがなかった俺にとっては、少々手痛い出費だった。
「今日はもう帰るのか、ダリオ」
「ええ、まあ。明日も早いですから」
「依頼、取れたのか?」
「……まだですかねぇ」
俺が曖昧に笑うと、親父は分かりやすく眉をしかめた。
《折れた角笛亭》の中は、夜が深まるほど騒がしくなる。
酒で顔を赤くした冒険者たちが、大声でその日の戦果を語り合っていた。焼いた腸詰めの脂が弾ける音。酒杯を打ち合わせる音。硬い椅子が石床を擦る音。暖炉で薪が割れる音。
汗と革と酒、香辛料、それから魔物の血を完全には落としきれなかった装備の臭い。
ラウゼンの冒険者酒場では、どこにでもある夜だった。
俺は椅子の背に掛けていた外套を取り、色褪せた革鎧の上から羽織った。腰の片刃剣が椅子の脚に当たり、鈍い音を立てる。
その音に反応して、近くの卓にいた若い冒険者がこちらを見た。
十七、八歳くらいだろう。真新しい革鎧を着た三人組だった。卓の中央には、灰色ではなく青銅色の冒険者札が並べられている。
昇格したばかりらしい。
「青銅級になったんだから、次は煤鐘坑道の第二層だな」
「もう少し装備を揃えてからにしろって。三年以内に鉄級へ上がれば十分だろ」
「三年もかける気かよ。五年やって鉄級になれなきゃ、そこで頭打ちだっていうじゃないか」
俺への興味を無くしたのか、向けた視線を卓上の酒とつまみに戻しながら揚々と語る。
誰に言うでもないのだろうが、酒場で酒を飲んだ若者の話など隣の卓まで筒抜けである。
俺は聞こえなかったふりをして、外套の留め具を直した。
五年やって鉄級になれなければ頭打ち。
彼らの言葉は、正しい。
俺は十五で冒険者になり、今年で二十八になる。
冒険者歴十三年。
階級は青銅級。
つまり頭打ちになってから、さらに八年も同じ場所で燻っている筋金入りだ。
「おい」
酒場の親父が、すこしばかり気まずそうに若者たちへ視線と声を向けようとした。
「別にいいですよぅ。間違ったことは言ってないですから」
「お前はもう少し腹を立ててもいいと思うがな」
「腹を立てたら鉄級に上がれるなら、毎日怒ってますよ」
親父が鼻から息を漏らす。
笑ったのか呆れたのかは分からなかったが、それ以上は何も言わなかった。
俺は軽く手を上げて店を出る。
扉を押し開けると、冷えた夜気が火照った頬を撫でた。
辺境交易都市ラウゼンの冒険者街区は、日が沈んでも灯りが消えることは無い。
北門から入ってきた荷馬車が、車輪を軋ませながら倉庫へ向かっている。道端では夜商いの屋台が、余った肉や野菜を串焼きにして売っていた。冒険者ギルドの石造りの建物からは、遅い帰還を果たした者たちが次々と出てくる。
北には煤鐘丘陵と、迷宮化した旧鉱山。
東にはローデ湿原。
魔物、鉱石、薬草、魔石、旧文明の遺物。
危険なものが多い土地には、それを金に換える人間も集まる。
俺も、その中の一人だった。
少なくとも、冒険者札を首から下げている以上は。
「さて……」
外套の襟を立て、宿の方向へ歩き出す。
石畳には昼間に降った雨がまだ残っており、街灯の橙色の光を歪めて映していた。
明日の朝飯は銅貨二枚。
昼は食べないとして、夜は宿の賄いが銅貨四枚。今月の宿代は払ってあるが、剣をそろそろ研ぎに出さなければならない。
手持ちは、銀貨一枚、大銅貨六枚、銅貨一枚。
今夜の食事代を差し引けば、そのはずだった。
癖で腰の財布へ手を伸ばす。
革紐をほどき、中へ指を入れたところで、妙な感触がした。
「……あれ?」
硬貨が多い気がする。
不審に思いながら、街灯の下へ移動してから掌に中身を広げた。
銀貨一枚。
大銅貨が六枚。
銅貨が――八枚。
「…………」
俺はしばらく、掌の上の硬貨を見つめた。
風に煽られた看板が軒先で軋んでいる。
酔った冒険者たちが、肩を組んで俺の横を通り過ぎた。誰かが笑い、その声が細い路地へと消えていく。
もう一度数えた。
銀貨一枚。
大銅貨六枚。
銅貨八枚。
「いや、えー?」
首を傾げながら、誰に言うでもなく呟く。
「払いました、よね?」
俺は店を出る前、自分で銅貨七枚を受け皿へ置いた。
酒場の親父がそれを数え、革袋へ入れるところも見ている。
払い忘れではない。
財布の底に別の銅貨が隠れていたのだろうか。
いや、それも考えにくい。
俺は毎晩、財布の中身を確認する。
冒険者にとって物資の残量は命の残量だ。水、食料、松明、薬、矢、そして金。
数を間違えれば、死ぬ。
俺はそのあたりを読み違えて居なくなっていった人間を幾人も見て来た。
「飲みすぎましたかねぇ」
薄い麦酒を一杯。
酔うには水が多すぎる。
俺は掌の硬貨を財布へ戻し、革紐をきつく結んだ。
偶然だ。
たまたま昨夜の数え方を間違えた。それだけのことだろう。
そう思おうとしたところで、通りの先に灯りが見えた。
軒先から吊るされた、小さな釜と二本の松明を描いた看板。
《ボルツ商店》。
冒険者向けの雑貨を扱う店で、閉店間際らしく、店主のピナが外に出していた木箱を片づけているところだった。
俺は足を止めた。
今の財布には銀貨一枚、大銅貨六枚、銅貨八枚が入っている。
使えば分かる。
なぜそのような考えに至ったのかは、自分でもよく分からなかった。
普通なら、そこで宿へ帰るべきだった。明日の朝、酒が抜けてから改めて数えればいい。
だが、胸の奥に引っかかった小さな棘が、どうにも消えてくれなかった。
気がつけば、俺の足は商店へと向かっていた。