湿地特有の柔らかな地面を踏みしめながら、俺はナジャの背中を追い、交易路へと向かった。
その傍らでは、ルーメが上機嫌に宙を舞いながら、先を行くナジャへ無邪気な問いを投げかけている。
「向こうにいる人たちって、みんなナジャの家族なの?」
「そうだよ。血のつながった親戚ばかりさ。それに、同じ火を囲んで育った仲間なら、もう家族も同然だからね」
ナジャはこちらを見ることなく、だが少しばかり誇らしげに答えた。
「ルーメ」
名を呼ぶと、小さな身体がくるりと振り返り、そのまま俺のもとへ飛んでくる。
「どうしたの?」
俺はわずかに歩幅を緩め、先を行くナジャとの距離を意識して広げた。
獣人は耳が良いと聞く。これだけ離れれば大丈夫だとは思うが、念のため声を落とす。
「……ルーメのことは、あまり人に話さないようにしましょう。何かあってからでは遅いですからねぇ」
できるだけ小さな声で伝えると、ルーメは驚いたように目を見開いた。次いで両手で口を覆い、きょろきょろと辺りを見回し始める。
別に誰かがこちらを窺っているわけでもないのだが、その慌てぶりが妙におかしく、思わず頬が緩みそうになった。
そのとき、先を歩くナジャの耳が、ぴくりと動いた。
……聞こえている、か?
「それに、ルーメは可愛いですからねぇ。悪い人に攫われでもしたら大変だ」
少しだけ声を張ってそう続けると、ルーメは照れたように身体を明滅させながら、俺の周りをふわふわと舞った。
「えー? そうかなぁ」
口元を緩ませ、嬉しそうに光を振りまく姿は、なるほど確かに目立つ。
まあ、こちらも多少は警戒しているのだと、それとなく伝えておくくらいでちょうどいいだろう。
交易路へ着くと、二台の幌馬車と、その周囲で待っていた獣人たちの姿が見えた。
ナジャと同じ薄茶色や赤褐色の耳を持っているが、こちらへ向ける表情は一様ではない。
弓を背負った年長の男は値踏みするように目を細めている。荷車の脇に立つ恰幅のよい女は、俺ではなくナジャに苦笑の類の顔を向け、御者台の少年は好奇心を隠さず、視線がルーメと光り玉を往復している。
残りの若い二人も、一人は会釈したが、もう一人は疑いの目を隠そうともしていなかった。他にも数人がいるが、持ち場があるらしく、それぞれ仕事をしているようだった。
「さあ、連れてきたよ」
ナジャが一行へ向けて声を張る。
「ダリオ・クライン。ラウゼンを拠点にしている青銅級の冒険者だ。王都まで同行してもらう」
紹介が終わると同時に、いくつもの視線が一斉にこちらへ向けられた。
共同で依頼を受けるときと同じだ。こういう時は、最初の印象が大事。
「ご紹介にあずかりました、ダリオです。縁あって、王都までご一緒させていただくことになりました」
そう告げて、軽く頭を下げる。途端に、集まった視線が頭の上へ突き刺さるような感覚を覚えた。
ルーメは俺の背後に隠れたまま、ひと言も発しない。先ほど注意したことを気にしているのか、いつもより光まで控えめになっているようだった。
やがて、一行の中でも年嵩の男が、俺とナジャを順に見比べながら口を開く。
「長老が言っていた、二つの灯を連れた男か」
「うん。絵に描かれていた姿とも同じだね」
ナジャの答えに得心したのか、それとも最初から疑うつもりなどなかったのか。少なくとも、俺の同行に異を唱える者はいなかった。
彼らが信じているのは、見ず知らずの俺ではない。シャーマンである長老の言葉なのだろう。
「まあ、何にせよだ。歓迎するよ、若いの」
恰幅のよい女が腰に手を当て、豪快に笑いかけてくる。
「ただし、荷には勝手に触らないこと。食事と夜番については、こっちの決まりに従ってもらう。それでいいね?」
「ええ、もちろんです」
この一行を取り仕切っているのは向こうだ。こちらから、わざわざ揉め事の種を作るつもりはない。
無論、明らかに不利益を押しつけられるようなら話は別だが、今のところは客人として迎え入れるつもりでいてくれるらしい。
そんなやり取りをよそに、御者台に座っていた少年は、こちらの話などほとんど耳に入っていない様子だった。
「ねえ! それって妖精なの!?」
身を乗り出し、目を輝かせながらルーメを見つめている。
「ええ。ルーメと言います」
本人に代わって答えると、少年の顔はいっそう明るくなった。そのまま手を伸ばしかけたところで、隣にいた若い女が彼の後頭部を軽く叩き、御者台の奥へと引き戻す。
「すまないね」
女が申し訳なさそうに頭を下げたので、こちらも軽く頷いて応じた。
珍しいものを前に興味を抱くのは無理もない。とはいえ、ルーメのことについては、少しばかり用心しておいた方がよさそうだ。
「名前は、無理に一度で覚えなくていいよ」
ナジャが肩を竦める。
「あたし以外は、必要になったときに聞けばいいさ」
「それは助かります」
見渡せばかなりの人数がいる。これを一度に覚えろと言われても、さすがに骨が折れそうだった。
「さて、先に条件を確認しておこうか」
ナジャはそう言うと一台目の馬車へ背を預け、腕を組んだ。
「王都までは、道中で問題が起きなければ七日ほどだ。食事と水、それから馬車の中で休める場所はこっちで用意する。関所では、うちの商隊に雇われた護衛として申請するつもりだよ」
「関所、ですか。ギルドへ照会されることはありますか?」
思わず声を潜めて尋ねる。
こちとら長年青銅級。関所を超えて遠方まで護衛するような依頼を受けた経験などない。
関所からギルドへ問い合わせでもされれば、困ったことになる。
「指名手配でもされていない限り、まずないね」
ナジャはさほど気にした様子もなく答え、そのまま話を続けた。
「王都へ着いた後も、長老との話が終わるまでは、本店の空き部屋を使ってくれて構わないよ。店と倉庫を兼ねた小さな建物だけど、そこらの安宿よりはよほど上等さ」
なるほど、それならば問題はなさそうだ。
少なくとも、黒釘の連中は俺を始末したつもりでいるはずだ。死んだと思っている人間を、わざわざ指名手配する理由もないだろう。
ナジャも、こちらの事情を深く聞かないまま、ずいぶんと気を回してくれている。
ありがたい話ではあるが、そこまで手を貸すほど、彼女たちは長老のお告げとやらを重く見ているらしい。こうなると、その内容がますます気になってくる。
「ああ、それともう一つ」
ナジャは思い出したように人差し指を立てた。
「もし遺物を売る気になったときは、最初にうちへ声をかけてもらえると嬉しいね。値段については、精いっぱい勉強させてもらうよ」
親指と人差し指で輪を作り、にやりと笑う。
商人が金の話をするときに、たまに見せる仕草だ。だが、獣耳を揺らしながらナジャがやると、不思議と肩の力が抜けてしまう。
「ええ。そのときはよろしくお願いします。それと、こちらからも一つお願いがありまして」
「聞こうか」
「ラウゼンへ、二通ほど手紙を届けていただきたいんです。王都へ着いてからで構いません。できれば、内々に」
俺の言葉を聞き、ナジャの表情が少しだけ険しくなる。
「宛先は?」
「一通は《青い燕亭》へ。もう一通は、ラウゼンの冒険者ギルドで受付をしている、エルナさんにお願いします」
「ギルドそのものじゃなく、受付の個人宛てかい?」
「ええ。ただ、エルナさんへの手紙は、難しそうであれば諦めます」
ナジャは俺の顔をしばらく眺めた後、鼻を小さく鳴らした。
「ふむん。まあ、いいさ。その二通だね」
「ありがとうございます」
エルナとは、俺が冒険者になった頃からの付き合いだ。個人としては信頼している。だが、彼女がギルドという組織の中で、どういう立ち位置は分からない。
できれば、何の関わり合いもないと良いんですがねぇ。
《青い燕亭》には、俺が無事でいることと、屋根裏部屋や荷物をしばらくそのままにしてほしいことを伝える。今月の家賃は既に支払い済みだ。それほど難しくもないはず。
エルナへの手紙には、鉄牙鼠の依頼を受けた青銅級冒険者を捜す必要はないこと。それから、入坑記録を内密に見直してほしいことだけを書くつもりだった。
もちろん、俺の名前は出さない。個人を特定できるような情報も、できる限り避ける。
それでも勘づかれる可能性はあるが、その時こちらは遠い王都の空の下。追手を差し向けるにしても時間がかかるし、距離を理由に手を引く可能性もある。
「ほかには何かあるかい?」
ナジャは先ほどまでの話を紙へさらさらと書き留めながら、顔を上げずに尋ねてきた。
ここまで頼んだのだ。物はついでという奴だろう。
少々厚かましい気もするが、背に腹は代えられない。
「……実は、少しばかり入用でして。王都へ着いてからで構いませんので、いくらかご用立ていただけませんか?」
坑道で襲われた際、長年使っていた財布も失ってしまった。
残念ながらあの力は、自身が使った物にしか適応されないらしい。
背嚢に入れていた物資の類も、戻っては来ていない。
つまり今の俺は、正真正銘の無一文だ。
わずかでも元手を借りられれば、冒険者として依頼を受けるなり、手持ちの品を利用するなりして、金を工面することはできるはずだった。
「うちは金貸しじゃないんだけどねぇ」
ナジャは筆を止めると、指先で頭をこりこりと掻き、少しばかり渋い顔をした。
「……まあ、乗りかかった舟だ。額については、王都へ着いてから相談させておくれ」
「助かります」
思わず、胸の内で安堵の息を吐く。
「さ、じゃあ話はまとまったね。日が高くなる前に湿原を抜けるよ」
その声を合図に、隊商の面々が動き始めた。
年長の男は俺を警戒しながら馬と荷を確かめ、少年は御者台へ戻る前にルーメへ手を振った。
腕を組んでいた若い男は、俺の脇を通る際、低い声で告げる。
「長老の言葉だから乗せる。それだけは覚えておいてくれ」
「分かっています」
「妙な真似はするなよ」
「勿論ですよぅ」
反対に、もう一人の若い女は乾かした果実を一つ差し出してきた。
「後で食べてください」
「ありがとうございます」
この集団も、それぞれあるらしい。
「ダリオ、こっちだ」
ナジャが後方の幌を指す。
「荷台の後ろを空けた。今日は夜番もしなくていいから、ゆっくりしてな」
「ありがとうございます」
申し出は素直に受け取った。
あらかた回復したとはいえ、まだ完全ではない。少しでも休めるときには休みたかった。
俺は《四式》を抱えたまま荷台へ上がり、出口に近い場所へ腰を下ろした。
ルーメが膝へ降り、光り玉は幌の天井近くへ浮かぶ。
やがて荷紐の確認を終えた声が交わされ、馬の鈴が鳴った。
「出すよ!」
掛け声とともに、二台の馬車がゆっくり動き始める。
車輪が湿地板の継ぎ目を越えるたび、荷台が小さく揺れた。幌の隙間から、湿原と煤鐘丘陵が少しずつ遠ざかっていく。
「ダリオ」
ルーメが膝の上から顔を見上げた。
「王都って、どんなところだろ?」
「人がたくさんいるところですよ」
「妖精は?」
「どうでしょうねぇ」
「ボクみたいなのもいるかな?」
答えに迷い、小さく笑った。
「いるといいですねぇ」
「うん!」
王都までは七日ほど。
いつか行ければと憧れながらも、自分には縁のない場所だと思っていた。その王都へ、まさかこんな成り行きで向かうことになるとは。
胸の内は、おおきな不安と、少しばかりの高揚。
どうやら俺は、これから始まる初めての“冒険”を、思っていた以上に楽しみにしているらしかった。