湿原を離れてしばらくすると、乾いた土の街道へと道が変わった。
俺が乗った荷台には、染料に使う乾燥した草や、布で厳重に包まれた魔物素材が積まれており、その隙間へ一人分の場所が空けられている。
がたんごとん。馬車は地面の起伏に合わせて揺れ、幌に吊るされた金具が甲高い澄んだ音を立てる。
湿原の湿った匂いから、爽やかな青い匂いが隙間から流れ込んできていた。
身体に不調はない。
水路を出た時に比べても、もう万全に近いと言っても良いだろう。
ルーメの治療が、それだけ確かなものだったということだ。
肩口へ浮かんでいた光り球は、街道へ出て間もなく光を失っていた。白い球体は最後に一度だけ弱く明滅すると、そのまま消えてしまった。
ほどなく腰帯の物入れを確かめると、使う前と同じ白い球が戻っている。
「ねえ、ダリオ!」
御者台から、少年が逆さまに顔を覗かせた。最初にルーメへ興味を示し、手を伸ばしかけていたあの少年だ。
ナジャの弟の一人だという彼は、見慣れないものを見ると放っておけない性分らしい。
「ルーメって、何を食べるんだ?」
「特には、何も食べませんねぇ」
「じゃあ、水も飲まないのか?」
「ええ、飲みません」
「寝たりは?」
「さて、どうでしょうねぇ」
こちらが答え終えるのを待ちきれないように、次から次へと質問が飛んでくる。よほどルーメのことが気になって仕方がないらしい。
その気持ちも、分からないではない。自分も子供の頃は、見慣れないものを前にすればこんなふうに何でも知りたがったような気がする。
……いや、もう少しは大人しかっただろうか。
「前を見な!」
御者台の脇を歩いていた年長の女の声が飛び、少年は慌てて顔を引っ込めた。
直後、馬車が少しだけ左右へ振れる。
「話すなら止まってからにしな!」
「ちゃんと前も見てたって!」
「見てたら馬車が揺れるかい!」
叱られている声を聞きながら、ルーメは楽しそうに笑っていた。
隊商の面々は、俺への接し方がそれぞれ違う。
ナジャは最初から気安く話しかけてくるが、年長の男は必要なこと以外ほとんど口にしない。
荷を取り仕切る女は、俺を客としては扱うが、丁寧にはしてはこない。
少年のように興味を隠さない者もいる。
彼らが信じているのは、俺ではなく長老のお告げとやらだ。二つの灯を携えた者を王都へ導く。その言葉に従っているだけで、俺自身へ興味はそれぞれ、と言うことなのだろう。
昼を少し過ぎた頃、隊商は小川のそばで短い休憩を取った。
馬へ水を飲ませ、車輪へ着いた泥を叩き、草を外す。俺も荷台から下り、長く座って固まった身体を伸ばした。
少し離れた場所では、ナジャが荷を確認している。ほかの面々も、それぞれの仕事へ散っていた。
誰もこちらを見ていない。
「ルーメ」
声を落として呼ぶと、すい、と肩の近くへ寄ってきた。
「なぁに?」
俺は外套の陰へ手を入れ、腰帯にしまっていた結晶を取り出した。
光を透かす乳白色の結晶。
自然にしゃがみ込み、道端に落ちていた石を使い、叩く。
かすかな音を立ててひびが入り、細かな光へ砕けていくと、その光は吸い込まれるようにルーメの身体へ集まった。
「ふわぁ……」
ルーメの輪郭が一瞬だけ強く輝き、白金色の髪から、光の粒がきらきらと零れ落ちた。
小さな手足を順番に動かして具合を確かめると、その場でくるりと一回転する。
「うん! 元気いっぱい!」
こちらを向き、両の拳を握って笑うルーメの姿に、自然と頬が緩んだ。
ひとまず調子に問題はなさそうだ。とはいえ、どれほどの時間なら顕現していられるのかについては、落ち着いたところで改めて確かめておいた方がよいだろう。
休憩を終えた隊商は、再び南へ進んだ。
街道の両側には低い雑木林と畑が増えていく。何度か農夫の荷車とすれ違ったが、獣人だけで構成された隊商を珍しそうに見る者もいれば、顔を背ける者もいた。
ナジャたちは気に留めない。
慣れているのか、その表情からはなにも読み取れなかった。
日が西へ傾き始めた頃、二台の馬車は街道脇の野営地へ入った。
低い石垣に囲まれた広場で、中央には古い井戸があり、端には雨除けの屋根も設けられている。先客はいなかった。
馬車は外側を塞ぐように半円形へ止められ、馬はその内側へつながれた。年長の男が周囲を確認し、ほかの者たちは井戸水や薪、鍋を準備していく。
「ダリオ、すまないがあっちの枯れ枝をいくつか頼めるかい?」
ナジャが林の中を示した。
「分かりました」
ルーメとともに枯れ枝を集め、日が落ち切る前に野営地へ戻った。
薄暗くなった荷台の前で、俺はしまっていた光り球を取り出す。
中央の黒い線へ親指を押し込むと、白い球体が柔らかく輝き、掌からふわりと浮かび上がった。俺の周囲を一度回った後、肩より少し高い位置へ止まる。
使えるものは使っておかねば不自然だろう。
白い光が足元を照らし、薪を運ぶには十分な明るさを作る。ナジャがこちらを見て、興味深そうに耳を動かした。
「いやぁ、やっぱり便利そうだねぇ、それ」
「旧王国で使われていた照明具らしいですからねぇ」
「一晩くらいは持つのかい?」
手に入れてから光を失うまでの時間を思い返す。正確に測ったわけではないが、少なくとも一晩程度なら保っていたはずだ。
「ええ、恐らくは。ただ、自分も仕組みを理解して使っているわけではありませんので……」
「まあ、それもそうか。作った人間なんて、今じゃ誰も残っちゃいないんだからねぇ」
ナジャは納得したように頷くと、顎へ手を添え、改めて光り球をまじまじと眺めた。
間近から見つめても眩しさで目が痛む様子はなく、柔らかな光だけがその顔を照らしている。
「……ちなみに、それ。売ってくれと言ったら、いくらになるんだい?」
声からして、冗談ではないらしい。
もっとも、今のところ手放すつもりはなかった。相場も分からなければ、一度売ったあとで、あの不思議な力によって手元へ戻ってくるのかどうかも確かめていない。
なるべく角が立たないよう断ると、彼女は残念そうに肩を竦めた。
「まあ、そうだろうねぇ」
そう零しながら、未練を残すように一度だけ振り返り、その場を離れていった。
野営地の中央では、薪の下へ小さな《火種石》が置かれていた。
火種石そのものは珍しくない。宿の厨房や農家でも使われる程度の魔法具で、安い物なら数回火を起こせば砕ける。刻印の深い上等品になると、雨風の中でも火を移せるうえ、何十回と使えるらしいが。
炊事をしている女が鉄片で石を軽く叩くと、赤い火花が弾け、乾いた薪へ火が移った。
続いて、年長の男が野営地の四方へ灰色の香を立てる。
先端へ火を近づけると、青みがかった煙が地面を這うように広がった。
「《獣避け香》ですか」
「ああ。この辺りならコレで十分だ。それに、これより強いのは、鼻に悪い」
男はそう言って、僅かに顔をしかめた。
なるほど、獣人ならではの悩み、というやつか。
魔法は、限られた者だけが扱える奇跡というわけではない。
自ら術を行使できる者は多くなくとも、術式を石や札、糸、瓶といった品へ封じ込めた魔法具は、人々の暮らしや旅の中に広く根づいている。
火種石も獣避け香も、そうした道具の一つに過ぎなかった。
もっとも、同じ用途の品であっても、質によって値段は大きく変わる。
扱いやすく、効果が高く、長く使えるものほど値も張る。便利だと分かっていても、これまでの俺には、そうした上等な品へ手を伸ばす余裕などなかった。
だが、今は違う。
元手はナジャから借りることになるが、商人との伝手ができた意味は大きい。
彼女たちが扱う品を手に入れられれば、これまで諦めるしかなかった道具も、試せるようになるだろう。
やがて陽が落ち、焚き火に掛けられた鍋から、豆と乾燥肉の煮込みがぐつぐつと音を立て始めた。
隊商の面々が一人、また一人と炎の周りへ集まり、思い思いの場所に腰を下ろしていく。俺も少しばかり居心地の悪さを覚えながら、その輪の端へ加わった。
歓迎されている、とまでは言えないのかもしれない。
それでも椀を渡され、同じ鍋からよそわれた温かな食事をともに口へ運ぶ。
焚き火の外では、獣避け香の煙が薄くたなびいている。さらに遠く、闇の向こうからは、ときおり魔物のものらしき鳴き声が響いてきた。
光り球は俺の肩口で静かに浮かび、その隣では、ルーメが初めて見る隊商の夜を、珍しそうに眺めている。
王都までは、まだ長い道のりになる。
だが、その先には、これまで使ってみたくても手の届かなかった道具が待っている。
そう思えば、不安よりも先に、わずかな楽しみが胸の内へ浮かんでくるのだった。