赤尾根商会へ到着して間もなく、俺は店の奥にある小さな食堂へ通された。
表では、荷を下ろす威勢のいい掛け声と、木箱を置く音が絶えず響いている。二階でも物を引きずる音や足音が階下まで聞こえてきており、俺に貸す予定の部屋を整理してくれているらしかった。
「悪いね。こっちもまさかお告げの人間が捕まると思ってなかったんだ。寝床を作るのにもう少し時間を貰うよ」
帳面とインク壺を抱えたナジャが、卓の向かいへ腰を下ろしながら言った。
「夕飯までには、こっちも何とか片づけておくよ。それまで王都を見て回ってくるといい。……おっと、迷子にはならないでおくれよ」
「大丈夫ですよぅ」
最後のひと言は冗談だったらしく、ナジャはからからと声を上げて笑った。
確かに、王都は見上げるほど巨大な街だ。しかも商隊の本店があるこの辺りは、城門から入ってずいぶん奥まで進んだ場所にある。慣れない者なら、帰り道を見失っても不思議ではない。
とはいえ、こちらも長く冒険者を続けてきた身だ。道筋や周囲の地形を頭へ入れるくらいなら、さほど難しいことではなかった。
「さて、じゃあ約束していた金の話を済ませようか」
ナジャから差し出された紙には、借り入れる額と返済期限、手数料に加え、期日までに返せなかった場合の取り決めまで、細かく書き連ねられていた。
金貸しはしていないと言っていたわりに、ずいぶんときっちりとした書面だ。さすがは王都に店を構える商人、といったところだろうか。
借りるのは銀貨二枚。返済期限は一月後で、手数料と利息として、大銅貨二枚を元金と合わせて支払う。期限を過ぎた場合は、赤尾根商会の荷運びや護衛、あるいは遺物探索といった仕事を引き受け、その報酬を返済分へ充てる。
要するにそういう内容なのだが、紙上では、小難しい言い回しで書かれているので少しばかり辟易する。
……こういう文面って、どうにも苦手なんですよねぇ。
「……はい、確かに」
そう答えながらも、すぐに署名することはせず、書面へもう一度目を落とす。自分に不利な条件が紛れ込んでいないか、二度、三度と端から端まで読み返した。
こうした契約書は、面倒でも隅々まで確かめておかなければならない。後になって知らなかったでは済まず、取り返しのつかないことになる場合もある。
実際、数年に一度ほどではあるが、世間知らずな新人冒険者が悪辣な連中に法外な契約を結ばされ、借金を盾に奴隷同然の身へ落とされた、などという話も耳にするのだから。
俺が内容を確認して署名し、階級札の番号も書き添えると、ナジャは赤尾根商会の印を捺した。一通を帳面へ挟み、控えと小さな銭袋をこちらへ差し出す。
中には銀貨だけでなく、買い物へ使いやすいよう両替された大銅貨や小銅貨も入っていた。
「ありがとうございます」
袋を受け取ると、念のためナジャと一緒に中身を改めた。銀貨の枚数に間違いがないことを確かめ、口を固く縛って腰の物入れへ収める。
そのまま、王都を見て回るならどの辺りがよいかと尋ねてみた。
ナジャによれば、南東通りを北へ進めば、雑貨屋や食料品店が軒を連ね、その先には魔法具を扱う職人たちの区画があるらしい。
ついでに、人目を避けて道具を試せそうな場所についても聞いてみると、店の裏手を流れる排水路を上流へたどった先に、今は使われていない石造りの洗い場があると教えてくれた。
「ああそうだ、くれぐれも火の類は使うんじゃないよ。兵士が飛んでくる」
「了解です」
ルーメを外套の内側へ隠し、《四式》には店で余っていた端布を譲ってもらい、目立たないよう丁寧に巻きつける。支度を整えて店を出ると、そのまま大通りの方角へ足を向けた。
荷車と人で混み合う通りには、焼けた肉や香辛料、煮炊きに使う油、なめした革など、さまざまな匂いが漂っていた。軒を連ねる店々からは客を呼び込む威勢のよい声が絶え間なく飛び交う。
通り沿いの露店へ何気なく目をやれば、値段はラウゼンよりも一回り高かった。
串焼きは二本で大銅貨一枚。固焼きパンも同じ値段だが、向こうで売られているものよりいくらか小さい。宿代まで必要となれば、銀貨二枚など、ものの数日で底を突いてしまうだろう。
そう考えると、赤尾根商店の空き部屋を借りられたのは、思っていた以上にありがたい話だった。
その一方で、店に並ぶ品の豊富さは、ラウゼンとは比べものにならない。
最初に足を踏み入れた雑貨屋だけでも、縄は太さや素材ごとに棚が分けられ、折り畳んで持ち運べる水袋や、雨を弾く油布、方角を示す磁針、靴底へ打ち込む滑り止めの鋲まで揃っていた。
ラウゼンなら取り寄せを頼むしかないような品々が、ここでは壁や棚を埋め尽くすほど並べられている。
「ダリオ、これなぁに?」
外套の襟元から、ルーメが声を潜めて尋ねてくる。
「旅用の石鹸ですよぅ」
「へえ。いい匂い」
そんなやり取りを交わしながら店内を見て回り、俺は真鍮製の小さな火口箱を一つ手に取った。
大銅貨で四枚。安物ではないが、手が届かないほど高価でもない。長く使え、旅人であれば誰もが欲しがる品だ。売るとなっても、買い手には困らないだろう。
ほかにも薄く切り分けられた石鹸や、紙、保存の利く豆菓子を少し。それらをまとめて入れられるよう、大きめの背嚢も買い求めた。
別の店には、湯へ落とせばそのまま粥になる穀物の塊や、蜜で固めた木の実、香草と塩を練り込んだ携帯食が並んでいた。甘味は貴重だ。少々値は張ったものの、蜜漬けの木の実を一つ選ぶ。
刃物屋では、解体に使う細身の小刀から、魔物の甲皮を割るための厚刃まで、用途ごとにさまざまな刃物が揃っていた。
もっとも、今必要なのはそこまで大仰な品ではない。結局、解体用の小刀を一本だけ買い足した。
一通り買い物を終えて財布の中身を確かめると、ちょうど銀貨一枚ほどを使った計算だ。
だが、銭袋の中を見ると……
良し、戻っている。変わらず銀貨二枚分。
にやけそうになる顔を締めながら、さらに通りを奥へ。
青い瓶の看板が揺れる横道へ入ると、店の雰囲気が変わった。
刻印を彫った石、術式を書き込んだ札、色の違う液体を封じた瓶。自ら魔法を使えない者でも、封を切る、割る、投げるといった簡単な動作だけで魔の効果を引き出せる道具が並んでいる。
その中の一軒で、店の奥に置かれた硝子箱が目に留まった。
黒い布の上に、厚手の白い札が一枚だけ収められている。札には金色の線で扉が描かれ、中央の黒い封蝋へ複雑な術式が刻まれていた。
「これは、何ですか?」
俺が尋ねると、片眼鏡を掛けた店主は硝子箱の中へ視線を落とした。
「《門開きの札》だ。壁に貼りつけて封を切れば、十数えるほどの間だけ、向こう側へ通じる扉が開く」
「壁を壊さずに、ですか?」
「ああ。効果が切れれば元どおりだ。崩落現場で人を助け出したり、鍵の壊れた倉庫へ入ったりするときに使う。もっとも、向こう側まで土で埋まっている場所や、分厚い壁には通じんがな」
何とも驚くべき魔術だった。
だが同時に、こんなものがあれば、盗賊や押し込みにとっては喉から手が出るほど欲しい代物なのではないか。
そんな考えが顔に出ていたのだろう。店主は片眼鏡の奥で目を細め、含みのある笑みを浮かべた。
「悪いことを考えている顔だね?」
「いえ、まあ……少しだけ」
「安心しな。この札は術者と紐づいていてね。術式を込めた人間なら、どこで、何に使われたかを追えるようになっている。それに、そもそも札へ術式を封じられる者は認可制だ。潜りの術者に真似できるようなもんじゃない」
もっとも、どんな仕組みにも抜け道はあるのだろう。
それを口にしたところで仕方がないし、店主も承知しているはずだ。俺はそれ以上踏み込まず、値札の見えない硝子箱へ目を戻した。
「ちなみに、おいくらで?」
「金貨二枚と大銀貨六枚」
……高い。
今の俺には、どう足掻いても手の届かない値段だった。
結局、眺めるだけに留めてその場を離れ、隣の棚に並んでいた、青い硝子玉の嵌まった真鍮の指輪を手に取った。
《湧水の指輪》。
硝子玉の周囲にある輪を回すと水が出る。出力を絞れば飲み水ほど細く、最大まで開けば腕ほどの太さで噴き出すが、蓄えられている総量は風呂桶一杯程度。安物のため、最大出力を続けると刻印が壊れることもあるらしい。
値段は銀貨一枚。
ほかに高価な魔法具へ手を伸ばせる余裕はない。用途が広く、検証もしやすい品としては悪くなかった。
指輪を購入すると、残った金で安い回復薬を一つ買い、店を出た。
次に向かったのは、別の通りにある中古雑貨の買い取り店だった。
先ほど買った火口箱を差し出すと、店主は火打ち金の状態を確かめ、買値を提示した。購入額より大銅貨一枚ほど安いが、未使用品としては妥当だろう。
俺は構わず、その火口箱を売った。
買ったものをすぐさま売る。普通に考えれば、何の意味もない行為だ。
だが、俺にとっては違う。
受け取った硬貨を銭袋へ入れ、何食わぬ顔で外へ出る。
これで、袋の中身は銀貨二枚と、大銅貨三枚。
大銅貨三枚が、元手から増えた形になる。
購入へ使った金が戻るなら、品物を買い、それを売れば、差額を引かれても手持ちは増える。
単純で、かなり有効な稼ぎ方だった。
だが、同じ人間が新品同然の品を何度も持ち込み、買っては売るのを繰り返せば、商人に目をつけられる。店を変えても商人同士が情報を回していない保証はない。
個人で小遣いを作る程度ならともかく、大きく稼ごうとすれば、疑いの目を向けられるのは避けられないだろう。
使える手ではある、が、慎重にする必要はありそうだ。
そのまま通りを抜け、ナジャに教えられた洗い場は、赤尾根商会から歩いて半刻もかからなかった。
古い木桶と洗い台が残るだけの場所で、両側は使われていない倉庫の壁に挟まれている。周囲に人影がないことを確かめ、俺は足元の小石を一つ拾い、一旦腰の物入れに収める。
閉じた物入れから再度取り出し、壁へ向かって投げる。
石は煉瓦へ当たり、乾いた音を立てて排水路へ落ちた。
「さて、数えますよ」
「いーち、にーい……」
ルーメとともに声を抑えて数える。
「……じゅう、じゅういち」
十二を数える前に、腰の物入れが僅かに重くなった。
手を入れると、先ほど投げた石が戻っている。
もう一度同じようにすると、今度は十で戻ってくる。
何度か同じようなことを繰り返し、恐らく、十を数える頃に戻ってくることが確認できた。
次だ。
今度は、石を要らないモノと意識して足元へ置き、その場を離れた。二十を数えても、こちらは戻らなかった。
「使った物は、十数える間で戻る。捨てた物は戻らない、か」
良かった。物で溢れて窒息してしまうことはなさそうだ。
預けたりなんだりの確認は、後でするとしよう。
最後に先ほど買った《湧水の指輪》を指へはめた。
輪を僅かに回すと、青い硝子玉から細い水が流れ出す。開く幅を増やせば水量も増し、最大まで回すと、腕を押し返すほどの水が壁へ叩きつけられた。
水の総量は変わらない。
細く出せば長く使え、勢いを上げれば短時間で空になる。飲み水だけではなく、消火や洗浄、戦闘での牽制にも使える。
やがて硝子玉が白く濁り、効力が切れた。指輪は細かな砂となって消える。
だが、十を数える頃には物入れにまた戻る。
取り出した指輪の硝子玉は、最初と同じ青色へ戻っている。
ようし、良いな。
予想通りの結果に落ち着いたことに頬を緩める。
赤尾根商会への借金を今すぐ返すこともできるが、王都で何が必要になるか分からない以上、手元の金を減らす理由はなかった。
期限はまだ先だ。それまで、使える金として持っておけばよい。
確認したいことを終え、赤尾根商会へと戻る。
日が傾き、影が長く伸びていた。