目を覚ますと、見慣れない天井があった。
梁には乾燥薬草が吊られ、開け放たれた小窓から入る風に、細い葉先がかすかに揺れている。物置を急いで片づけた部屋らしく、壁際には木箱が二つ残っていたが、寝台には清潔な毛布が敷かれ、昨日は久しぶりに体を伸ばして眠ることができた。
そうか。ここは赤尾根商店の一室だった。
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こすと、枕元に浮かんでいたルーメの輪郭が、窓から差し込む朝の光を受けて淡くきらめいた。
「おはようー!」
朝から少しも衰えない元気な声に、こちらもつられて笑みを返す。
寝台脇の物入れから結晶を取り出し、砕いた。もう何度も繰り返した手順だけに、今ではすっかり慣れたものだ。
割れた結晶から溢れた光はルーメの身体へ吸い込まれていく。白金色の髪から細かな粒子が零れ、その輪郭は先ほどまでよりも鮮明に、ひときわ強く輝いた。
こうして結晶を割り始めてから、すでに幾日か経っている。
そのせいだろうか。ルーメは少しずつ、以前よりも存在感を増しているように思えた。うまく言葉にはできないが、そこにいるという感覚そのものが、日ごとに確かなものへ変わっている気がする。
もっとも、本人に尋ねても、「そうかなー?」と、首を傾げるばかりだったが。
身支度を整えて階下へ降りると、赤尾根商会は既に動き始めていた。
店先では乾燥肉や薬草が棚へ並べられ、奥では昨日運び込んだ荷を解く音と声が。通りへ面した戸は大きく開かれ、朝の空気と一緒に、近所の店が焼く薄パンの匂いが入り込んでいた。
「おはよう。よく寝れたかい? 婆さまが待ってる。そこにある飯を食べたら、行くよ」
店へ顔を出すと、帳場で在庫帳をめくっていたナジャが、こちらを見るなり顎をしゃくった。
示された卓の端には、俺の分らしい薄焼きのパンと豆の煮込みが用意されている。礼を告げて手早く腹へ収めると、ナジャは帳面を閉じて立ち上がり、俺たちを店のさらに奥へと案内した。
倉庫の裏には、外から見えない位置に小さな中庭があった。
石壁に囲まれた地面へ白い砂が敷かれ、中央には灰を残した浅い炉がある。軒下には赤い紐、獣骨、乾燥させた木の実が吊られ、壁際には古びた地図や獣皮の巻物が積まれていた。
炉の向こうに、白髪の老女が座っている。
薄茶色の耳は片方が欠け、深い皺の刻まれた顔には、長い年月を過ぎた凄みのようなモノが感じられた。
「婆さま。連れてきたよ」
「見れば分かるさ。朝から声が大きい」
ナジャは肩をすくめ、俺を促して老女の前へと座る。俺もそれに従い、彼女の隣へ腰を下ろした。
老女の視線がまず俺へ向き、それから肩口に浮かぶルーメへ移る。
「無理を言って来てもらったようで、すまなかったね」
老女はそう言って、こちらへ軽く頭を下げた。
「ああ、いえ。こちらにも都合のよい話でしたから、どうかお気になさらず」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
ゆっくりと顔を上げた老女は、改めて俺の姿を見定めるように目を細める。
「さて――二つの灯を連れた男、か」
確かめるように呟きながら、その鋭い視線をまっすぐこちらへ向けてきた。
その隣で、ナジャが頷く。
「ああ。婆さまの占いどおりだったよ。それで? どうして王都まで連れてくる必要があったんだい?」
「それを知るために、ここへ呼んだのさ」
老女は静かに答えると、炉へ香木を一本くべた。赤く熱せられた炭に触れた途端、細い煙が立ち上り、乾いた甘い香りが部屋へ広がっていく。
「あのとき、ワシが見たのは、朝霧と、水に閉ざされた門。そして、二つの灯を従えた者じゃった。その者を王都へ導けば、失われた道が再び開く――占いが示したのは、それだけじゃ」
「失われた道、ですか」
「ワシにも、まだ分からん。見えたものを、見えたまま伝えただけじゃからな」
老女はそう言いながら、懐から赤い木の実を三つ取り出し、炉を囲むように一つずつ並べていく。
「だが、これほど形のはっきりした占いは珍しい。おぬしが何者で、赤尾根とどうかかわるのか。まずは、それを確かめねばならん」
香木から立つ煙を、老女が細い指で掬う。
煙は風もないのに炉の上で渦を巻き、一本の筋となってルーメへ伸びた。触れる直前、白金色の光が弾け、煙が細かな輪へ分かれる。輪はルーメの身体を一度巡ると、今度は俺の手首へ絡みつこうとした。
だが、触れた煙は二つへ割れた。
一方は背後へ。
もう一方は、まだ何もない俺の前方へ。
老女はわずかに目を細め、その視線を俺の傍らに浮かぶルーメへ向けた。
「器のために生まれ、役目を終えれば消えるはずだった灯、か」
「どういう意味です?」
「名が、あれの内に根づき始めておる」
老女は、ルーメを見つめたまま静かに続ける。
「誰かに名を呼ばれ、自らもそれを己の名として受け入れる。そうして存在を重ねていけば、器のためだけに生み出されたものも、いつかは与えられた役目を越える」
ひどく回りくどい言い方だった。
ただ、俺が何をすべきかだけは、何となく分かった気がする。
これまでどおり結晶を与え、ルーメを顕現させ続ければいい。名を呼び、こうしてともに過ごしていけば、いつか彼女は、今とは違う何かになれるのかもしれない。
当のルーメは話の意味が分からないらしく、不思議そうに首を傾げていた。
安心させるように微笑みかけると、ルーメもすぐに顔をほころばせ、嬉しそうに笑い返してくれた。
煙は再び俺の方へ集まり、揺れた。
「それにしても、お前さんの方は妙じゃな。ああ、実に奇妙だ」
「どういう意味です?」
「遠く幾重にも連なる明日から、今日のお前さんへ荷が送られておる」
その言葉に、胸がどきりと跳ねた。
荷が送られている。
それはつまり、使ったはずの物が再び手元へ戻ってくる、あの現象を指しているのではないだろうか。
だが、遠く幾重にも連なる明日とは、いったい何を意味しているのか。それに。
「誰が送っているんです?」
「さあな。そこまでは見えん。だが――」
老女はそこで言葉を切ると、今度はナジャへ視線を移した。
「送られてくる荷のいくつかから、赤尾根の気配を感じる。その縁があったからこそ、占いはお前さんをこの男のもとへ向かわせたのかもしれんな」
炉から立ち上る煙の一筋が、ナジャと俺の間を縫うように絡み合った。やがて細く長く伸びながら昇り、どこへ続いているのかも分からぬまま、空へ。
「つまり、この人がうちの大口客になるってことかい?」
ナジャは軽口めかして笑ったが、その尾は隠しきれない興味を映すように、ゆっくりと左右へ揺れていた。
「それも分からん。だが、お前たちの縁は、そう簡単に切れるものではないじゃろうな」
老女が言い終えると同時に、絡み合っていた煙が、ふっと掻き消えた。
「さて、これでしまいじゃ」
そう告げると、老女はゆっくりと腰を上げた。こちらの反応を待つこともなく庭の奥へ姿を消し、あとには香木の甘い匂いだけが残される。
取り残された俺とナジャは、しばらく無言のまま顔を見合わせた。
「……ううん。結局、よく分からないままですねぇ」
俺の身に起きた異変が、何かしら関わっていることだけは間違いなさそうだ。
だが、どこから来たのか、なぜそこに赤尾根商会の気配が混じっているのか、肝心なところは何一つ分からない。
「まあ、婆さまが言っていたとおり、何かしら縁があるんだろうさ」
ナジャは深く考え込む様子もなく、膝へ手をついて立ち上がった。
「どちらにせよ、しばらくはうちにいればいい。あの部屋も使っていなかったんだ。飯と寝床くらいなら、どうにでも融通できるさ」
そこで、悪戯っぽく口元を緩める。
「どうやらあんたは、うちの大口客になってくれるかもしれないらしいからね」
「それはまあ……善処しますよぅ」
苦笑交じりに答えると、ナジャも楽しそうに喉を鳴らした。
そうして俺たちは、どちらからともなく歩き出し、庭を後にして店へ戻った。
面会を終えた後、約束していた通り、二通の手紙を書いた。
一通は青い燕亭へ。
もう一通は、ラウゼン冒険者ギルドのエルナへ。
内容は事前に決めていたとおり、居場所を特定できる情報を避け、無事であることと、調べてほしいことだけを簡潔に記した。
ナジャは封を確かめると、二通を別々の革袋へ入れた。
「青い燕亭の方は南回り。ギルド宛ては西の商会を経由させる。運ぶ隊商も別にするよ」
「お願いします」
「今夜の便へ乗せる。急げば、四日か五日で着くだろうね」
これで、ラウゼンへ向けて今できることは済んだ。
あとは王都で身を隠しながら、だが、さてどうしたものか。
赤尾根商会の世話になり続けるだけではいられない。すぐ返せるとはいえ、借金もある。しばらく王都へ滞在するなら、冒険者として仕事を探す必要がある。
「王都でラウゼンの冒険者札を使った場合、向こうへ何か伝わったりするんでしょうか?」
たかが青銅級一人の動向を、わざわざ知らせるようなことはしないはずだ。それでも、少しでも事情を知っていそうな相手には聞いておきたかった。
「うーん。あたしもギルドの仕組みに詳しいわけじゃないから、はっきりとは言えないけどねぇ」
ナジャは腕を組み、少し考えてから続ける。
「たぶん、いちいち知らせたりはしないんじゃないかい? 王都だけでも、冒険者がどれだけいると思ってるんだ。札を使うたびに所属先へ照会をかけていたら、きりがないよ」
ナジャも、俺と同じ見立てらしい。
考え始めれば不安の種はいくらでも出てくるが、今のところ確かめる術もない。ひとまず問題はないものとして、動いてみるしかないだろう。
「ああ、そうだ。仕事を探すなら、中央じゃなく南東支部へ行くといい」
「南東支部、ですか?」
「中央は人が多いからね。余所から来た青銅級にまで回ってくる仕事なんて、そうそう残っちゃいないよ。その点、南東支部ならここからも近いし、まだ探しやすいはずさ」
王都ほどの規模になると、一つの街の中に支部がいくつも置かれているらしい。
中央にある本部も、機会があれば一度くらい見ておきたかった。とはいえ、今は観光より仕事が先だ。せっかく助言してもらったのだから、素直に近場へ向かうとしよう。
「ありがとうございます。まずは、何か仕事を探してみます」
「ああ。気をつけて行ってきな」
ナジャに見送られ、店を後にする。
腰に佩いた《四式》の位置を確かめてから、王都南東支部のある方角へ足を向けた。
ルーメは外套の中で過ごすことにもすっかり慣れたらしく、襟元の奥へ居心地よさそうに収まっている。
俺はその気配を感じながら、新しい仕事へ向かう緊張と、未知の依頼に対する期待とを胸に、王都の通りを歩き始めた。