「……今のは」
言い終えるより早く、少し先の通りから轟音が響いた。
直後、悲鳴が上がる。
三階建ての古い集合住宅。その一階の角が、地面へ呑み込まれるように大きく沈み込んだ。外壁に亀裂が走り、次の瞬間には白い土埃が噴き出す。建物全体が軋みながら傾き、通りにいた人々が一斉に逃げ惑った。
「行きますよ!」
「分かってる!」
叫ぶのと同時に駆け出す。
現場へ辿り着いた頃には、住人たちが次々と建物の外へ飛び出してきていた。崩れた壁の前では、何人もの大人が中へ向かって必死に誰かの名を呼んでいる。
「中に残っている人は!」
「子供が三人! 奥の部屋だ!」
正面から内部を覗き込む。
崩れた瓦礫の上には、二階部分を支えていたらしい太い梁が斜めに乗っていた。下手に動かせば均衡が崩れ、残っている部分まで一気に落ちかねない。
「ミリィ!」
リュネの声に応じ、ミリィが瓦礫の隙間へ飛び込んでいく。
ほどなく戻ってきた妖精から何かを聞き取ると、リュネが顔を上げた。
「三人ともいる! 生きてるわ!」
その声に重なるように、俺の外套からルーメも飛び出した。
「ダリオ! 一人、ケガしてるみたい!」
「治療はできそうですか?」
そう尋ねながら、ふと気づく。
ルーメの治療を、俺以外の人間に試したことはまだない。
そもそも、誰にでも同じように使えるのかすら分からない。
だが――。
「うん! 大丈夫だよ!」
ルーメは迷うことなく答え、そのまま瓦礫の隙間へ身体を滑り込ませた。
白金色の光が奥へ消えた、その直後だった。
足元が、再びぐらりと揺れる。
「危ない! 離れて!」
リュネが叫ぶ。
同時に、目の前の建物から石と木材が一気に崩れ落ちた。辛うじて残っていた隙間が瓦礫で塞がれ、周囲からまた悲鳴が上がる。
「ルーメ!」
「大丈夫!」
崩れた箇所へ駆け寄ると、奥から小さいながらもしっかりと返事が返ってきた。
胸を撫で下ろす間もなく、続く言葉に息を呑む。
「でも、次に揺れたら危ないかも……!」
建物は今も不気味に軋んでいる。
このままでは、残っている部分まで崩れ落ちるかもしれない。
時間がない。
何か――。
そこで、先ほど大家から受け取ったばかりの品が脳裏をよぎった。
「……一か八か、ですねぇ」
革袋へ手を突っ込み、《門開きの札》を取り出す。
それを見たリュネが、ぎょっと目を見開いた。
「ちょっと、使うの!? 使える保証なんてないのよ!」
「ですが、ほかの手を探している時間もありません」
言っている間にも、遠くで何かが崩れる音がした。
どうやら異変は、この周囲だけでは済んでいないらしい。
「ルーメ! 子供たちはどの辺りですか!」
崩れかけた建物へ向かって声を張り上げる。
瓦礫の奥にいるルーメと、外に残ったミリィが互いに位置を確かめるように飛び回り、その情報をリュネへ伝えていく。
「ダリオ! そこ、その壁の向こうよ!」
ミリィから場所を聞いたリュネが指さす。
俺は示された先を確認すると、迷わずその壁際へ駆け寄った。
手に持った《門開きの札》を押し当て、封蝋へ指を掛け、力を込める。
「……頼みますよ」
封を切る。
一拍。
何も起きない。
ダメか……!
壁に当てた手を離そうとした、次の瞬間。札の縁を走っていた金色の線が壁へ移った。
縦、横へと光が伸び、人一人が通れる長方形を描く。その内側が音もなく奥へ沈み、本物の扉のような空間が開いた。
「……開いた!」
「行きます!」
リュネの弾んだ声を背に受けながら、俺は現れた扉の中へ飛び込んだ。
閉じ込められていた子供は三人。
二人は部屋の隅で身を寄せ合い、青ざめた顔で震えている。もう一人は倒れた棚に片脚を挟まれ、額から血を流していた。
「骨は折れてないよ! 血も止めてある!」
傍に浮かんでいたルーメが、すぐに状態を知らせてくれる。
「助かります!」
棚の下へ手を差し込み、力任せに持ち上げる。どうにか脚を抜く隙間を作ると、子供を引きずり出し、動ける二人から順に扉の外へ送り出した。
最後の一人を、向こう側で待ち構えていたリュネへ引き渡した、その瞬間。
建物全体が、ひと際大きな軋みを上げた。
「ダリオ! 早く出て!」
「今行きます!」
扉へ駆ける。
だが、ほんの一歩遅かった。
横合いから落ちてきた太い梁が、轟音とともに俺と扉の間へ突き刺さる。
「っ!」
床が大きく揺れ、天井から砂埃と小石がばらばらと降り注いだ。
「ダリオ!」
「大丈夫です!」
声を張り返した直後。
金色に縁取られていた扉が、光の粒となって消えていく。
あとに残ったのは、何の変哲もない石壁だけだった。
「……さて」
完全に取り残されたらしい。
ルーメが俺の肩口へ戻ってくる。
見回してみても、別の出口らしいものはない。
だが、大丈夫だ。
そう。もう少し待てば、恐らく――。
不意に、掌へ乾いた紙の感触が生まれた。
「……来た」
目を落とす。
握られていたのは、《門開きの札》。
ただし、先ほど使った古びた札ではない。
道具屋の硝子箱越しに見たものと同じ、折れも染みもない新品だった。
「よし!」
「やったぁ!」
ルーメが嬉しそうに声を上げる。
俺はすぐさま近くの壁へ札を押し当て、封を切った。
金色の線が壁面を走り、四角い輪郭を描く。
やがて石壁の一部が淡く透け、再び扉の形を取った。
「これで――」
開いた。
だが。
「……え?」
向こう側に、リュネの姿はなかった。
瓦礫に埋もれた通りも、崩れかけた街並みもない。
扉の先へ続いていたのは、青白い灯りが等間隔に並ぶ、見覚えのない石造りの通路だった。
「……これって」
ルーメが小さく呟く。
俺も一瞬、言葉に詰まった。
だが、背後では今も建物が軋んでいる。
「……とりあえず、ここよりは安全でしょう。扉が消える前に行きますよ」
「う、うん」
慎重に足を踏み出し、扉をくぐる。
その先に広がっていた光景を見て、思わず足が止まった。
通路。
そう呼ぶには、あまりにも大きすぎる。
灰色の石材で造られた床は、大通りほどの幅があり、その左右には人の背丈を軽く越える長方形の石枠が、果ての見えない先まで規則正しく並んでいる。
壁面を走る青白い光の筋は、それら一つ一つを結ぶように縦横へ伸び、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。
見上げれば、天井は遥か高い。
吹き抜けを囲むように何層もの回廊が巡り、その間を細長い橋が渡されている。さらに上にも同じ構造が幾重にも続き、どこまであるのか見当もつかない。
逆に欄干の向こうへ目を落とせば、底の見えない暗がりの中に、青白い灯りが点々と浮かんでいた。
まるで。
巨大な塔を逆さに埋め込んだような――そんな異様な空間だった。
「……これは、また」
そう呟いた瞬間、背後で扉が消えた。
振り返っても、崩れかけた住宅へ戻る入口はない。
「ダリオ。ここ、すっごく広いよ」
ルーメが宙へ舞い上がり、辺りを見回しながら言う。
「見れば分かりますよぅ」
「そうじゃなくて」
ルーメはさらに高く浮かび、遠くを指さした。
「ずっと向こうまで、同じのが繋がってる」
その先には、円形の巨大な広間が見えた。
中央には太い石塔がそびえ、その周囲を何重もの通路が取り巻いている。
そして壁という壁に、扉の輪郭が刻まれていた。
百や二百どころではない。
数える気すら失せるほどの数だ。
それを見ているうちに、一つの考えが浮かぶ。
ここは、何かを集めるための場所なのではないか。
あるいは。
あらゆる場所へ繋がるための――集積点。
その瞬間。
遠くの石枠に、一つ。また一つ。
青白い光が灯り始めた。
「……嫌な感じがしますねぇ」
足元を、低い振動が走る。
次いで、右手の壁へ金色の線が浮かび上がった。
「え」
見覚えのある四角い光が、石壁の上を走る。
《門開きの札》と同じ形だ。
そう思った次の瞬間、壁の一部が奥へ沈み込んだ。
そして。
何の前触れもなく、扉が開いた。