俺は財布を握り締めたまま、定宿の《青い燕亭》へ向かって歩いていた。
途中で何度も中身を確認する。
角を曲がるたび。
街灯の下を通るたび。
何度確かめても、硬貨は消えなかった。
一時的な幻覚かもしれない。酒へ何か混ざっていた可能性もある。
魔物の鱗粉を吸い込んだ時、存在しない虫が腕を這っているように見えたことがあるが、もしかしたら。
だが、硬貨は掌に乗せれば重く、爪で弾けば金属音を立てた。
現実に、ここにある。
《青い燕亭》へ着くと、一階の食堂にはまだ灯りが残っていた。
扉を開けた途端、厨房から煮込み料理の香りがふんわりと漂ってくる。
卓を拭いていた看板娘のイネスが、俺の背負い袋を見て目を丸くした。
「おかえりなさい―って、何よ? その荷物」
「いやぁ」
卓を拭く手を止めて、こちらをまじまじと見るイネスに、どこか気恥しくなり頭を掻く。
「明日、遠出でもするの?」
「その予定はないですかね」
「予定もないのに?」
イネスが眉を寄せる。
十九歳の彼女は、俺より九つも年下だが、昔から遠慮というものがない。
すっかり馴染みになったせいか、どこか年の離れた兄妹のようだと誰かにも揶揄われたこともあるくらいだ。
「変な依頼でも受けたんじゃないでしょうね」
「受けてませんよ」
「じゃあ何よ?」
「まぁまぁ」
この娘は、変なところでしつこい。顔も気立ても良いのだが、こういうところで客と揉め事になるのも珍しくない。
流石に一見の客にはしないが、まぁ、時間の問題だ。
「怪しい」
ずい、と身を寄せながら目を細めて詰め寄ってくる。
一日働いた汗と、若い娘独特の甘い匂いが混ざる。
あんまりそうやって不用心に近づくのはどうかと思うんですけどねぇ。
そうこうしていると、騒ぎを聞きつけたのか前掛けを掛けたままの少し老けた女が顔を出してきた。
《青い燕亭》の名物女将、マルタ。若い時分には冒険者をやっていたらしく、ガッシリとした体躯はその時の面影を幾分か残している。
今でも、酔った連中を叩きだすのはよく見る光景だ。
彼女も、俺の荷物を一目見て表情を曇らせる。
「ダリオ」
「はい」
「借金かい」
雑貨屋の店主と同じようなことを言う。
「してませんよぅ」
「じゃあ、盗みかい」
「なんで選択肢がその二つだけなんですかね?」
「急に羽振りがよくなった男なんて、だいたいそのどちらかだよ」
「羽振りがよくなったわけでも……」
ない、と言いかけて口を閉じた。
財布の中身が減らず、背中にはずっしりと物資の重み。
結果だけ見れば、確かに羽振りがよくなっていたと言っても間違いじゃない。
「何でもないです。本当に」
「ふん、そうかい。面倒は起こさないでおくれよ」
マルタはしばらく俺を見ていたが、それ以上追及することなく厨房へ戻った。
去り際、こちらを向くことなく伝えてくる。
「明日の朝、ちゃんと顔を見せな。降りてこなかったら、イネスに屋根裏を開けさせるよ」
「嫌だなぁ、大丈夫ですよ」
「飛ばれちゃ面倒だからね」
「ははは」
乾いた笑いが聞こえたのかどうか、確認することなく階段へ向かう。
イネスに軽く手を上げながら階段を上り、二階を抜け、さらに狭く急な階段を上に。
屋根裏にある俺の部屋は、扉を開ければ一目で全体が見渡せる。
小さな寝台。
装備を入れておく木箱。
水毛のない洗面桶。
小さな机とその上に転がる炭筆。
欠けた水差し。
壁の釘に吊るした革鎧の予備紐や、古い雨具。
天井が低く、真っ直ぐ立てる場所は部屋の中央だけだ。夏は暑く、冬は冷える。雨が強い日は屋根板の隙間から水が落ちる。
最初は二階の普通の部屋を借りていたのだが、定宿に決めた後、家賃の相談をしたら詰め込まれたのがココだ。
まあ、それでも十三年間、この街で生きてきた俺にとっては、唯一、帰ってくる場所だった。
扉を閉め、鍵を掛ける。
背負い袋を床へ下ろし、机の上に財布を置いた。
まず硬貨を並べ、次に、買ってきた品物を床へ並べた。
すべて揃っている。
金もある。
品物もある。
「どういうことなんですかねぇ……」
呟きをこぼしながら、椅子へ腰を下ろす。
目の前に並ぶ品々を見ながら、ふと思いついたことが口から出てくる。
「金だけですかね?」
呟いて、床に並べた品物を見る。
松明。
油。
縄。
包帯。
保存食。
薬。
金が戻るなら、ほかの物はどうなる?
さすがに薬を試しに飲む気にはなれなかった。回復薬は健康な人間が飲んでも、胃が焼けるように痛むだけだ。高いし。
松明へ火をつけて燃やすにしても、屋根裏で試すことではない。燃え広がったりしたらコトだ。
視線を横にずらし、保存食の袋を手に取る。
硬焼きパンが二つ。
干し肉が二枚。
乾燥豆が一包み。
六食分をまとめて買ったうちの、一食分だ。
夕食を食べたばかりだったが、干し肉一枚くらいなら入る。
干し肉を取り出し、一枚を手に取る。
硬く、塩気が強く、そのまま食べると顎が疲れる。迷宮の中で空腹を誤魔化すための物で、味を楽しむようにはできていない。
野営の時には湯でふやかして汁にするが、今はそんなものはない。
「いただきます」
誰もいない部屋で一応断り、端から噛み切った。
噛むたびに筋が歯の間へ挟まる。
何度も咀嚼し、水差しに入ったぬるい水で流し込む。少し埃臭い。
一枚すべて食べ終えると、空になった指を眺めてペロリと嘗める。
袋の中には、残りの干し肉が一枚。
当然だ。
二枚あったものを一枚食べたのだから、一枚になる。
「……ですよねぇ」
安心したような、落胆したような息が漏れた。
頭を振りながら、机の上の品を片付けようと手を伸ばす。
その時、机の端に置いていた保存食の袋から、かすかな音がした。
乾いた布が、内側から押されたような音。
ごくり、と喉が鳴る。もしや。
袋へ手を伸ばし、口紐をほどき、中を覗く。
干し肉が、二枚入っていた。
「…………」
一枚を摘まみ上げる。
先ほど食べた物と同じような大きさ、同じような厚さだった。
表面には白い塩が浮き、端には燻した時についた黒い焦げ跡がある。
俺はそれを見つめたまま、ゆっくりと椅子へ座り直した。
金だけではない。
使った物が、戻っている。
胸の奥で、何かが大きく脈打った。恐怖ではない。
十三年間、手を伸ばす前に諦めてきたものが、頭の中へ次々と浮かび上がった。
高価だから使えなかった回復薬。
採算が合わずに諦めた火炎瓶。
一本を使えば報酬が消える解毒薬。
命を守れると分かっていても、強敵を打ちのめすと分かっていても買えなかった魔法札。
それらを、使っても失わずに済むのだとしたら。
「いや……」
俺は首を振った。
「喜ぶのは、まだ早いですよね」
世の中には、タダでもらえる物などない。
安い依頼には安い理由がある。
高い薬には高い理由がある。
都合のよすぎる話には、裏があるのが相場だ。
それを、十三年かけて嫌というほど学んできた。
けれど、机の上の硬貨は減らず、食べたはずの干し肉も、袋の中へ戻っている。
俺は銀貨を一枚、指先で持ち上げた。
街灯の明かりが、屋根裏の小窓から差し込み、その表面を鈍く照らす。
「これ、どこから来たんですかね?」
硬貨は何も答えなかった。
ただ、見覚えがあるようで少し違う傷を浮かべながら、俺の指の間で冷たく光っていた。