結局、その夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、机の上へ並べた硬貨が浮かび、あれやこれやと道具の使い道やら、欲しかった装備の値段が脳裏にちらつく。
今ある元手を使い、何をどうしていったらいいのか。今まで考えたことのないような事で頭を捻りながら、体だけは横にしている。
妄想だにしなかったようなことが、いくら考えても次から次へと浮かんでは消え、目は冴えていく。
屋根の隙間から射し込む朝の光が部屋の埃を白く照らし始めた頃、俺は寝台から身体を起こした。藁の詰まった敷布が、重たげに軋む。
「……ふぁぁ」
口を大きく広げ、欠伸を噛み、両手で顔を擦る。
青銅冒険者とはいえ、数日寝なくても問題ない程度の鍛え方はしている。
これが後数年も経つと、無理が聞かなくなってくるというのは先達から口を酸っぱくして言われることでもあるが、まぁ、今はまだいい。
体を伸ばし、立ち上がる。
さて、何はともあれ、検証だ。
昨日確認できたのは、金と食べ物だけ。
松明も、油も、矢も、薬も戻るのか。
それを調べるには、街中より迷宮の方が都合がいい。
壁の釘から革鎧を外し、色褪せた上着の上へ身につけた。胸当ての革紐を締め、左腕へ小型の盾を通す。
腰へ吊った片刃剣は、長年研ぎ直したことで、買った頃より随分と細くなっていた。刃の根元には小さな欠けもある。
これも、元へ戻るのだろうか。
試しに折ってみる、という考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
「戻らなかったら、終わりですからねぇ……」
なけなしの金で買った相棒。中古の物を値切りに値切って銀貨八枚。これが無くなったら死んでも死にきれない。
昨夜買った道具を背負い袋へ詰め直し、そこへ、木箱の底から取り出した古い短弓と矢筒を加えた。
矢は七本。
元は十本あったが、三本は狩猟依頼で失った。一本あたり銅貨二枚。大した値段ではないように見えて、俺のような底辺冒険者にとっては死活問題だ。
もし矢まで戻るなら、そう期待の念を込めながらしまい込む。
背負い袋を持ち上げると、いつもより重い。
当然、普段の倍近い物資だ。それでも、戦闘や探索の邪魔になるような重さでもない。
運びの仕事の時なんかは、これよりもずっと重たい荷を担いで同行することもある。
「さ、行きますか」
そう自分に気合を入れながら屋根裏部屋を出た。
一階の食堂へ下りると、マルタが大鍋をかき混ぜている姿が目に入った。
窓から射し込む朝日が、鍋から立つ湯気を白く照らしている。乾燥豆と刻んだ根菜の煮える、素朴で温かな匂いが食堂へ広がっていた。
イネスは卓へ木皿を並べながら、俺の顔を見るなり眉をひそめた。
「ひどい顔ねぇ」
「朝から随分ですねぇ」
そんな軽口を叩き合いながら、いつもの席へと腰を下ろす。
イネスは呆れたように息を吐き、傍へと寄ってくる。
「さて、お客サマ。朝ご飯は?」
「お願いします」
「銅貨二枚」
「分かってますよぅ」
俺は財布から銅貨二枚を出し、イネスへ渡した。
彼女がそれを前掛けの小袋へ入れて厨房へ向かうのを見送ってから、卓の下でこっそり財布を開いた。
財布の中の銅貨は六枚。
当然、支払った直後なのだから、二枚減っている。
昨夜も戻るまでに少し時間があった。
やがて運ばれてきた豆と根菜の煮込み、焼いた黒パン、薄い山羊乳を腹へ入れる。
値段にしては上等な食事。これを目当てにココを定宿にしていると言っても過言ではない。
食べ終えてからもう一度財布を確認すると、銅貨は八枚へ戻っていた。
よし。
昨日のことが夢でなかったことを改めて確認し、軽く拳を握る。
「今日はどこに行くんだい」
気がつけば、厨房から出てきていたマルタが、俺の足元の背負い袋を見て言った。
「煤鐘坑道へ行こうかと思いまして」
「……気を付けなよ」
マルタは前掛けで手を拭い、俺の向かいへ腰を下ろした。
「あんたみたいなのはね、地道にやるのが一番さね。稼ごう、一山当てようって時が、一番危ないんだ」
しみじみと語る彼女は、どこか別の人間を重ねているようにも見えた。
「死ぬつもりはありませんよ」
「ふん、だと良いんだけどね」
流石に、普段の装いと違い過ぎたせいだろうか、追及の視線が少しばかり痛い。
「無理はしませんよ」
マルタは少し黙り、それから小さく息を吐いた。
「そんなんだから、あんたは十三年もやってこれたんだろうね」
「昇格はできませんでしたけどねぇ」
「階級札は墓場へ持っていけないよ」
それだけ言うと、マルタは席を立った。
俺も残った山羊乳を飲み干し、背負い袋を持ち上げる。
「では、行ってきます」
「気をつけてねー」
気の抜けた様な声を上げて手を振ってくるイネスと、無言で頷くマルタ。
そんな彼女たちに見送られ、《青い燕亭》を出た。
朝のラウゼンは喧噪で満ち満ちている。
北門から入ってきた荷馬車が市場へ向かい、商人たちは店先へ品を並べていた。職人街の方角からは、鍛冶工房が鉄を打つ澄んだ音が響いてくる。
冒険者ギルドの前には、既に何組もの冒険者が集まっていた。
若い者は期待に満ちた顔で依頼掲示板を見上げ、年を重ねた者は報酬額と経費欄を見比べている。
俺は後者だった。
冒険者の仕事は、依頼書に書かれた報酬だけを見て選ぶものではない。
受注手数料。
保証金。
移動日数にかかる諸経費。
使用する消耗品に、武器の修理費の見込みまで。
すべてを差っ引いた後に残る金が、本当の稼ぎである。
そこを考えずに高額依頼へ飛びつく新人は、たとえ生きて戻っても財布を空にしていることが多い。
俺は石造りのギルドへ入り、常設依頼が並ぶ掲示板の端へ向かった。
煤鐘坑道に関係する依頼書が何枚か貼られている。
魔石片の採取。
坑道内の道標確認。
支柱の損傷調査。
鉄牙鼠の間引き。
俺は最後の一枚を外した。
依頼書の上部には、太い文字でこう記されている。
――煤鐘坑道浅層・鉄牙鼠間引き依頼。
依頼主は、《煤鐘鉱業組合》と冒険者ギルドの共同名義。
鉄牙鼠は鉱石を食べるだけなら、それほど問題にはならない。
だが浅層に増えすぎると、保管された鉱石だけでなく、鉄釘や採掘道具、補強された支柱の金具まで齧る。新人冒険者が出入りする区画で群れが大きくなれば、負傷者も増える。
そのため鉱業組合は、一定数を超えないよう定期的に間引き依頼を出している、と言うわけだ。
討伐数の確認には、鉄牙鼠の金属化した特徴的な門歯を使う。
一頭分として認められるのは、上下左右の門歯が揃った四本一組。
依頼達成には三組が必要。
納品された歯はギルドを通じて鉱業組合へ渡され、細かく砕いて研磨材にするほか、低品質の合金へ混ぜられる。討伐証明であると同時に、依頼主が必要としている素材でもあるわけだ。
達成期限は受注日の翌日、日没までで、報酬は大銅貨六枚。
受注時に必要なのは、事務手数料として銅貨二枚。さらに履行保証金として大銅貨一枚をギルドへ預ける。
保証金は、期限内に達成報告を行うか、正当な理由を添えて中止報告をすれば返却される。
依頼を引き受けたまま放置したり、証明品の偽造が発覚したりすれば没収。
掲示板から依頼書だけを外し、ほかの冒険者が受けられなくする者への対策だった。
「珍しいですね」
背後から声を掛けられ、俺の肩が小さく跳ねる。
振り返ると、馴染みの受付職員であるエルナが立っていた。
濃紺の制服を隙なく着込み、栗色の髪を首筋の低い位置でまとめている。細縁の眼鏡の奥から、青みがかった灰色の目が俺の持つ依頼書へ向けられていた。
「朝から驚かさないでくださいよぅ」
「普通に声を掛けただけですが」
「エルナさんは足音が静かすぎるんですよ」
「冒険者が気がつかない方が問題では?」
「十三年青銅級の冒険者を基準にしない方がいいと思いますけどねぇ」
俺は依頼書を受付へ持っていくと、エルナは内容を確認し、依頼台帳を開く。
「鉄牙鼠三体。単独ですか?」
「そのつもりです」
「以前、この依頼は割に合わないと話していませんでしたか?」
「……言いましたっけ?」
「ええ、私が勧めた際に、それはもうきっぱりと」
どこか非難するような視線を感じるが、いや、そんなはずはない。
彼女は素晴らしい職員だ。ちょいと言い方がキツくなるのが短所ではあるかもしれないけれど。
鉄牙鼠三体を倒し、報酬は大銅貨六枚。
何事もなく終われば、日帰りの仕事としては悪くない。
ただし松明を使い、装備を傷めれば利益はすぐに減る。回復薬を一本使った時点で、その日の稼ぎはほとんど消える程度にはギリギリだ。
だから俺は、これまで積極的に受けてこなかった。
安全に倒すための道具を使うほど、儲けがなくなる依頼だったからだ。
「まあ、良いでしょう。受理します」
だが、今日は違う。
当てもあるし、何より、上手くいけば昨日から寝ずに考えていたアレやこれが実現できるかもしれない。
「受注手数料が銅貨二枚。履行保証金が大銅貨一枚です」
「分かりました」
俺は財布から硬貨を取り出して渡す。
エルナは銅貨二枚を手数料用の箱へ、大銅貨一枚を保証金用の小袋へ分けて入れた。
「保証金には受注番号を付けて保管します。帰還後、達成報告か中止報告をしてください。正当な理由があり、期限内に報告すれば返却されます。無断放棄は没収です」
「分かってますよぅ。十三年やってますから」
「規則なので」
ぴしゃり、と言い切りながら依頼受理の印が押され、俺は依頼書の控えを受け取った。
彼女が書類を引き出しにしまう様子を視界の端に入れながら、こっそり財布の中を確かめる。
大銅貨は五枚。
銅貨は八枚。
「……なるほど」
手数料として支払った銅貨二枚は戻っている。
しかし、保証金として預けた大銅貨一枚は戻っていない。
消費した金は戻る。
返してもらう前提で預けただけの金は、戻らない。
単純に財布から出た金が増えるわけではないらしい。
「第二層へは下りないでください。昨日の雨で、一部の通路に崩落の兆候があります」
書類をしまった彼女が向き直り、忠告を告げる。
まあ、あそこは古いから、そういうこともある。今回は関係ないが、頭の片隅には入れておくとしよう。
「分かりました」
「それでは、ご武運を」
そう言って軽く頭を下げる彼女に手を振りながら、ごった返すギルドを抜ける。
青銅級の札を胸元へ戻し、どこか嘲りの視線を感じながら、街の出口へと足を向けた。