ラウゼンの北門を抜ける。
城壁の外へ出ると街の喧騒は遠ざかり、代わりに湿った土と草の匂いが濃くなった。
街道には荷車の轍が深く刻まれ、道の左右には低い草原が広がり、その向こうに煤を被ったような黒い丘陵が連なっていた。
煤鐘丘陵。
その麓に口を開けているのが、今日の目的地である《煤鐘坑道》だ。
歩いて三時間。
十三年も冒険者を続けていれば、何度通ったか分からない道だった。
若い頃は、この街道を歩くだけでも胸が躍ったものだ。
丘の向こうには迷宮があり、迷宮の中には魔物や魔石がある。運がよければ旧文明の遺物が見つかり、それを売れば一夜で大金持ちになれる。
十五歳の俺は、本気でそんなことを信じていた。
二十八歳になった今では、目新しくもなんともない、寂しいただの道に過ぎない。
だが、今日は違う。
新たな発見と検証に胸が躍るのを否定できない。
今、自分自身に起こっていることを十全に活用できれば、この先の展望など幾らでも開けてくるはずだ。
大きな背負い袋の重みを直しながら、脚を動かす。
いつもよりも少し早い時間、昼前には煤鐘坑道の入口へ着いた。
黒い岩壁へ大きな穴が開き、その前には監視小屋と木柵が設けられている。
入口の脇には、古い採掘道具や支柱の破片が積まれていて、坑内から吹き出す風には、湿った岩と鉄、それから古い油の匂いが混じっている。
監視小屋では、白髪の老人が椅子へ座り、入坑者の記録をつけていた。
「おはようございます」
「おお、ダリオか」
ここの老人も長い。俺が若手の頃から変わらずに居る。
老人は俺の冒険者札と依頼書の控えを確認し、台帳へ視線を落とした。
「鉄牙鼠三体。浅層だけだな」
「その予定です」
「昨日の雨で、第二層へ下りる西側通路が緩んでる。入るなよ」
「ギルドでも言われましたよぅ」
そうかい、と、さして興味も無さそうに相槌だけ返してくる。
俺は曖昧に笑みを返し、坑道へ足を踏み入れた。
外の光が届くのは、入口から数十歩までだった。
その先には闇が広がっている。
壁へ埋め込まれた古い魔石灯が、ところどころで青白い光を滲ませていたが、足元を十分に照らすほどではない。
俺は松明を一本取り出し、火口箱で火をつけた。
橙色の炎が広がり、濡れた岩肌を照らす。
支柱へ染み込んだ油の臭い。
天井から落ちる水滴。
そして、坑道の奥から低く響く金属音。
ごぅん。
ごぅん、と。
かつて鉱夫へ危険を知らせるために吊るされた金属板が、地下を抜ける風で揺れている。
この音が、《煤鐘坑道》という名前の由来だった。
まずは、人の出入りがほとんどない資材置き場へ向かう。
入口からほど近く、魔物も寄りつかない小部屋だ。
持ってきた鉄釘を岩の隙間へ挟み、松明を固定する。そこへ油を垂らし、火勢を強めた。
「普通なら、絶対にやらないんですけどねぇ」
松明一本が銅貨三枚。
油にも金が掛かる。
まだ使える松明を、ただ燃やし尽くす。
昨夜までの俺なら、金を捨てるのと同じにしか思えなかっただろう。
けれど、今日は確認しなければならない。
炎が木と布を舐め、ぱちぱちと音を立てる。
燃え尽きるのを待つ間、俺は背負い袋から古い短弓を取り出した。
矢筒には七本。
一本を抜き、奥の深い亀裂へ向けて構える。
弦を引き矢を放つと、勢いよく暗い亀裂へ吸い込まれ、奥で硬い物に当たる音がした。
回収は難しいだろう。
背負った矢筒を確認する。
六本。
しばらく待っても、変化はない。
「矢は駄目ですかね?」
そう思った時、背後で小さな音がした。
矢筒へ指を入れる。
七本。
「……戻った」
矢筒から視線を外し、燃えている松明へ目を向ける。
木の半分以上が炭へ変わっていた。
やがて最後の火が消え、黒い燃え殻が床へ落ちる。
背負い袋を開くと、松明は六本。
使う前と同じ数に戻っていた。
「よし……よし!」
思わず声が大きくなる。
食料だけではない。矢も、松明も戻る。
冒険者にとって、あり得ないほど便利な力だ。
自身にとって都合がよすぎることだけが不安ではあるが、だからと言って今はどうしようもない。
降って湧いた幸運を享受するだけだ。
新しい松明へ火をつけ、小部屋を出た。
能力を確かめるだけでなく、受けた依頼も終わらせなければならない。
鉄牙鼠三体。
それが依頼達成の条件だった。
浅層の通路を進みながら、壁の噛み跡や床に落ちた鉱石片を調べる。
鉄牙鼠は鉱石を食べる。
新しい削り跡と黒い糞があれば、近くに巣か餌場があるはずだ。
やがて、通路の角で細かな鉱石片を見つけた。
糞の量からして、二体か三体。
俺は壁の金具へ松明を固定し、左腕へ盾を通す。
矢筒から一本を抜いた。
今までは戦う前に躊躇したり、装備の経費を考えていたが、もうその必要はない。
使い放題だ。
奥へ小石を投げると、乾いた音が岩壁を数度跳ねる。
やがて暗闇から、爪が石を引っ掻く音が聞こえてきた。
松明の光の端へ、犬ほどの大きさをした鼠が姿を現す。
灰黒色の毛。
太い前脚。
口元から突き出た、金属質の門歯。
一体。
後ろにもう一体。
さらに奥で、小さな影が動いた。
「三体ですかね」
依頼にはちょうどいい。
先頭の鉄牙鼠が鼻を鳴らし、こちらへ向かって走り出した。
俺は短弓を引く。
狙うのは頭ではない。
門歯を砕けば、討伐証明として使えなくなる。
矢を放つ。
肩へ刺さった。
鉄牙鼠は怒りの声を上げ、そのまま突進してくる。
二本目。
今度は首の付け根へ入った。
鼠の前脚がもつれ、岩床を滑る。
矢筒へ手を入れると、七本。
既に戻っている。
「早いですね」
二体目が倒れた仲間を飛び越えてきたところに矢を放つが、外れた……!
岩へ当たり、軸が折れる。
いつもなら、そこで胸の中へ焦りが生まれるが、今日はそんなことは無い。
「もう一本!」
二本目を引き抜き、前脚の付け根を狙う。
命中。
鉄牙鼠が前のめりに転ぶ。
次の矢を首へ撃ち込み、動きを止めた。
三体目は仲間の死骸の前で立ち止まり、すぐさま暗闇へ引っ込んでいってしまった。
「逃げた?」
右手の横穴から、爪音が響く。
おっと、回り込みか。
弓を手放し盾を構えると、直後、鉄牙鼠が横穴から飛び出してくる。
「そっちですか!」
金属質の門歯が革盾へ食い込んだ。
衝撃が左肩まで抜ける。
勢いを殺すように二歩下がり、右手で片刃剣を抜いた。
鼠が盾へ噛みついたまま、激しく首を振る。
「っく!」
盾を押しつけ、剣を下から突き上げる。
刃が柔らかな腹へ入り、熱い血が右手へ流れた。
鉄牙鼠が甲高い声を上げながら前脚の爪を振り回し、俺の右腕を掠めた。
「痛っ!」
上着が裂け、皮膚へ赤い線が走る。
深くはない。
俺は歯を食いしばり、さらに剣を押し込んだ。
やがて鼠の身体から力が抜け、床へ崩れ落ちる。
「……もう、いませんよね?」
周囲の音を聞く。
水滴。
遠くの煤鐘。
松明が燃える音。
ほかに動く気配はないことを確認してやっと一息ついた。
剣についた血を拭い、短剣を取り出す。
鉄牙鼠の門歯は、見えている部分を折るだけでは討伐証明にならない。
根元に残る青い魔力線まで、傷つけずに抜く必要がある。
木片を口へ噛ませ、顎を固定する。
上下二本ずつ。
合計四本。
短剣の先で歯茎との隙間を慎重に広げ、根元から抜いていく。
「よし、これで一組」
血を拭い、専用の革袋へ入れ、二体目、三体目も同じように処理した。
合計三組。
これで依頼は達成できる。
胸を開き、小さな魔核も取り出しておく。
依頼品の門歯とは別に、魔核には買い取り値がつく。
鉄牙鼠の物は一つ銅貨数枚程度だが、三つあれば食事一回分くらいにはなる。
「今までなら、ここで帰ってますよねぇ」
右腕の傷を見ると、ぽたぽたと血が垂れて床に赤い円を描いていた。
回復薬を使うほどではないが、それでも戦闘に支障が出る可能性はある。
これまでなら、そう判断した。
安物の回復薬でも一本、大銅貨四枚。
この傷へ薬を使えば、一日の稼ぎがほとんど消える。
けれど、今日は違う。
使った薬が戻るなら。
俺は背負い袋から、薄緑色の薬液が入った小瓶を取り出し、一拍の間を持ってから栓を抜く。
腐りかけた草を煮詰めたような臭いが鼻を突く。
俺は覚悟を決め、一気に飲み干した。
「うぇ……」
苦い。
喉が焼け、腹の奥から熱が広がっていく。
右腕の傷が脈打ち、流れていた血が止まった。開いた皮膚がゆっくり寄り、痛みが薄れていく。
俺は空瓶を見つめるが、何も起こらない。
「もう少し時間がかかるかな?」
そう呟いた時、瓶の輪郭が揺らいだ。
「え?」
手にしていた瓶が、透ける。
次の瞬間には、指の間から消えていた。
「ちょっと!?」
落としたのかと足元を探すが、ない。
背負い袋の中から、かすかなガラス音が聞こえた。
恐る恐る袋を開くと、未開封の回復薬が一本、そこに入っていた。
「戻ってる……」
取り出し、松明の光へ透かす。
封蝋も、薬液の色も同じ。
瓶の底に刻まれた印だけが、最初に買った物と僅かに違っているように見えた。
「こんな形でしたかね?」
昨日、底まで詳しく眺めたわけではない。
気のせいかもしれないと思いながら、薬瓶を袋へ戻した。
右腕の傷は血が止まり、痛みもほとんどなくなっている。
初めてだった。この程度の傷へ回復薬を使ったのは。
使った方がいいと分かっていても、使えなかった。
薬を惜しんで傷を化膿させ、仕事を休んだこともある。貧乏根性ここに極まれりだなと、笑われたこともある。
だが……これなら!
矢を外してもいい。
松明の残り時間を気にせず、足元を照らせる。
怪我を我慢しなくてもいい。
俺は強くなったわけではない。
だけれども、使える手段を失わなくなった。
それが冒険者にとってどれほど大きいか、十三年間、財布とにらめっこしながら頭を捻っていた俺には分かる。
その時だった。
坑道の奥から、硬い音が響いた。
鉄牙鼠の爪音ではない。
一定の間隔で繰り返される、金属が岩を叩く音。
何の音だ?