意識が戻った時、最初に感じたのは、自分の身体がひどく冷えていることだった。
頬に触れている石床が冷たい。
背中も、腰も、脚も、どこを打ったのか分からないほど鈍く痛んでいる。
けれど、それよりも大きな問題がある。
息を吸う。
「……っ」
空気が入ってこない。
もう一度吸おうとすると、胸の傷から、ひゅう、と細い空気が漏れた。
喉へ生温かいものがせり上がり、口の端から血が流れる。
古い廃棄孔へ捨てられた後、坑道の崩落に巻き込まれ、さらに深い場所へ落ちたらしい。上を見るが、ただただ暗い闇しか見えない。
どれほど意識を失っていたのかは分からない。
まだ生きていることは確かだが、失った血の量が多すぎた。このままでは、あとどれほど保つか。
「……薬……」
声を出したつもりだったが、喉から漏れたのはか細い息だけだ。
回復薬は背負い袋に入れていた。
残っているのは、腰帯の古い短剣と、それから衣服の内側に入れていた冒険者手帳だけだ。
血を止められる物はない。
灯りさえない。
目を開けているのか、閉じているのかも分からないほどの暗闇だった。
床に身体を横たえたまま、しばらく浅い呼吸を繰り返した。
吸える量は少しずつ減っている。
指先も痺れてきた。
眠い。
このまま目を閉じれば楽になるのだろう。
その考えに抗うように、右手の指を動かした。
まだ動く。
腕も、少しなら上がる。
それだけ確認してから、俺は床へ手のひらをついた。
帰らないと……
やっと、やっと俺の冒険者人生が始まった。そう思ったんだ。
右腕へ力を込めると、胸の傷が大きく開いたように痛み、視界のないはずの目の前が白く染まった。
身体を起こすことはできなかったので、腹を床へつけたまま、腕だけで少しずつ身体を引きずる。
一度動くたび、胸の奥で血が泡立つ。
右脚は力が入らず、床を擦るだけで激痛が走った。
どこへ向かっているのかも分からない。
ただ、完全な暗闇の中に、僅かな白い光が見えていた。
弱々しく。
一定の間隔で、呼吸するように明滅している。
俺はその光へ向かって這った。
床は自然の岩肌ではなかった。
埃と小石の下には、四角く整えられた石材が敷かれている。壁にも細い溝が規則的に走り、ところどころに金属の柱が埋め込まれていた。
煤鐘坑道では見ない造りだ。
もしかしたら、旧王国時代の施設。
地図には存在しない、未踏破の地下区画。
白い光は、壁へ埋め込まれた金属箱から漏れていた。
腰ほどの高さに設置されているが、今の俺にはひどく遠い。
床へ伏せたまま手を伸ばす。
届かない。
もう一度身体を引き寄せる。
指先が取っ手に触れたので、掴んで引く。
錆びついているのか、びくともしない。
もう止めたい、そう思う頭を払い、限界の力を振り絞る。
一度。
二度。
腕へ残った力を集め、取っ手を引いた。
金属の軋む音とともに蓋が開くと、箱の内側から乳白色の光が溢れ、周囲の床を淡く照らした。
中に収められていたのは、親指ほどの小さな結晶だった。
乳白色の石へ、銀色の細い枠が巻かれている。内部には小さな光が浮かんでいた。
箱の内側には古い文字と、いくつかの絵が刻まれている。
倒れた人間。
結晶を手に取る人影。
砕かれる石。
光に包まれた負傷者。
旧王国文字は読めないが、用途は分かった。
おそらくは、救命具の類。
震える手で、何とか結晶を取り出した。
古代の遺物だ。
無事に持ち帰れば、金貨数枚どころではない価値になるかもしれない。
そんな考えが、ごく自然に頭へ浮かんだ。
我ながら救いがない。
今はそんな場合でもないだろうに。
結晶を床へ置き、短剣の柄を振り下ろした。
一度目では割れなかった。
二度目で表面に亀裂が入り、三度目で澄んだ音を立てて砕ける。
白金色の光が弾け、冷たい地下の空気が僅かに揺れる。
無数の光の粒が箱の周囲へ広がり、やがて俺の胸元へ集まってきた。
握り拳ほどの光球。
中心には、曖昧な人影が見える。
光球は俺の顔の前で一度揺れた後、血で濡れた胸へ移動した。
「ねぇねぇ! ボクの声、聞こえる?」
鈴を転がすような、明るい声だった。
幼く、少し舌足らずで、あまりにも朗らかだ。
声が出ないので、緩慢に頷くとそれでも伝わったらしい。
「よかったぁ。だいじょうぶだよ。ボクが手当てするからね」
俺が何かを尋ねるより早く、光球から細い糸が何本も伸びた。
血で濡れた衣服をすり抜け、胸の傷へ入ってくる。
「ちょっと痛いよ。動かないでね」
言葉の直後、胸を内側から強く締めつけられ、あまりの痛みに声が漏れる。
「ぐっ……!」
「がまん、がまん。いま血を止めてるからね」
光の糸が裂けた肉を寄せ、傷口の周囲へ絡みついていく感覚。
痛みは強い。
しかし、外へ流れ続けていた血が明らかに弱まった。
別の光が胸の奥へ伸びる。
「左の肺が破れてるよ。骨も二本、折れてる。血もいっぱい足りないね」
「……治りますか?」
少しばかり、声が戻る。
「ぜんぶは無理だよ」
声は明るいままだったが、返答は迷いがなかった。
「いま死なないようにするだけ。血を止めて、息ができるようにして、折れた骨を固定するね。ちゃんとした治療は、あとでしてもらって」
「あとがあれば……ですがね」
子供のような声は、こういう状況でも不思議と耳へ入りやすかった。
決められた言葉を繰り返しているのではなく、患者と意思疎通のようなモノを取っている。よほど高度な術式を組んでいるに違いないが、あいにくと自分は門外漢だ。
ありがたいとしか思えない。
光の糸が、折れた肋骨の周囲へ巻きついていく。
身体の中へ柔らかな添え木を当てられたような感触がした。
続いて右脚。
「足首と膝の間をひどくひねってるよ。骨は折れてないけど、いま歩いたらもっと悪くなるね」
足へ光が巻きつく。
熱を持っていた箇所が僅かに楽になった。
痛みが消えたわけではないが、身体を引きずるくらいならできそうだった。
光球は一切手を止めない。
必要な処置を順番に行い、俺の状態を確認しながら、次の光を伸ばしていく。
しばらくして、息を吸った。
胸はまだ痛むが、先ほどとは違い、肺の奥まで僅かに空気が入る。
喉へ血が上がってくる感触も薄くなっていた。
「呼吸が……楽になりましたね」
「うん。いちばん危ないところは止めたよ」
光球が僅かに揺れた。
その光は、最初に現れた時よりも弱くなっている。
「もう少し傷を固めるね。でも、全部は間に合わないかも」
「間に合わない?」
「ボクが動ける時間が、もう少しだから」
光球が当然のことであるように告げる。
「処置が終わったら、ボクは消えるよ」
「……消えるんですか」
「うん。そうだよ?」
あっけらかんと。
負傷者を治療するために現れ、処置が終われば消える。
薬が空になることと同じなのだろうか。
俺は床へ散らばった結晶の破片へ目を向けた。
白かった破片は光を失い、ただの濁った石へ変わっている。
使い切った一度きりの救命具。
――そのはずだった。
砕けた破片が、ふい、と消える。
次の瞬間、からん、と音を立てて結晶が現れた。銀の枠に巻かれた、小さい光る結晶。
まさか。これもか。
結晶へ手を伸ばす。
見た感じは、先ほどの物と変わりない。
もう一回使ったら、どうなるんだろうか。
さらに増えるのか、それとも……
ちらり、と目線を光球に向ける。光は処置を続けたまま、少し楽しそうに揺れていた。
どうせまた手元に戻ってくるのであれば、やってみる価値はある。
今さら惜しむ理由はない。
結晶を床へ置き、短剣の柄で砕くと、最初の時と同じように白金色の光が弾ける。
だが、光は俺の身体ではなく、宙を浮かぶ光球へ吸い込まれていった。
「おおお?」
光球が少しばかり驚いたように声を発しながら大きく揺れた。
白金色の粒が渦を巻き、光球の中心へ集まっていく。
輪郭のなかった人影が、ゆっくりと身体を伸ばした。
腕。
脚。
細い首。
長い髪のように流れる光。
球体だった光が、掌ほどの小さな人型へ変わっていく。
白金色の髪。
丸い瞳。
光の糸を重ねたような簡素な衣服。
背中には羽ではなく、二枚の薄い光輪が浮かんでいた。
手足の先はまだ透けており、動くたびに小さな光の粒がこぼれている。
見たことは無いが、たぶん、妖精ってやつはこんな姿形をしているのかもしれない。
そんなことを思っていると、光の妖精は自分の両手を見下ろした。
指を握り、開く。
足を動かし、空中で一度だけ回った。
「連続使用を確認しました」
一瞬、今までの声色と違う、冷たい声が光から聞こえてくる。
なるほど、一応は想定された使い方ではあるらしい。
「よっし! これで、重いケガの処置と、ボクがいられる時間をのばせたよ。肺の穴も、もうちょっとちゃんとふさげるみたい」
言いながら、先ほどよりも力強く、太い光の糸が体に纏わりつく。
暖かい膜で覆うように、体が内側からじんわりと治っていっている感覚が分かる。
二度目の結晶も、やがて手元へ戻ってきた。
新しく現れた乳白色の石を見つめる。
一回目は光球。
二回目は小さな人型。
なら、三回目はどうなる。
もう一度、使ってみるか?
不安はあるが、今後のためにも確かめておいた方が良い。それに、さらに回復力を高めて貰えたならば尚良し、だ。
よし、と一言呟き、都合三度目の結晶を砕いた。
先ほどと同じように光が弾け、妖精へと吸い込まれる。
一呼吸。
二呼吸。
何も起きない。
髪や服の形も変わらない。
光が強くなった様子もなかった。
「……そう旨くはいかない、か」
三度目に使った分は無駄になったのか、それとも内部へ蓄えられているのか。
少なくとも、短時間に何度使っても、際限なく姿が変わるわけではないようだ。
期待をしていただけに、肩透かしを食らった気分になる。
だが、また手元に戻った結晶を見て気を改める。
回復手段を得られたのは大きいからな。
そんなことを考えていると、体を巡っていた光の糸がふい、と消える。
「ひとまず、おしまい」
妖精が額らしき場所を拭う仕草をしながら告げる。
もちろん、汗などは出ていない。
俺は、体を見下ろしながら、深呼吸をしたり、立ち上がって屈伸をしたりしてみる。
出血は止まった。
呼吸も安定した。
脚も、強く踏み込もうとすると痛みが走るが、歩く分には問題なさそうだ。
「これで、ゆっくりなら身体を動かせるよ。でも激しい運動はダメ。傷が開いちゃうからね」
「ありがとうございます」
とはいえ、今の状況でどこまで守れるかは疑問だが。
地下のどこにいるかも分からない以上、無理をしない、とは言えない。
それでも、先ほどまで這いずるだけでも精一杯の状態だったことを考えれば、破格の回復だ。
「それとね」
妖精がこちらに声をかけてきながら、小さな指を折り、何かを数えた。
「ボクがここにいられるのは、あと一時間くらい」
一時間。
その時間が長いのか短いのかは分からないが、その間はケガの治療をある程度継続できる、と言うことなのだろうか。
聞いてみると、どうやらそのようで、治療の内容に沿って、さらに顕現できる時間が減っていくらしい。
なるほど?
俺は手元へ戻っていた結晶を見る。
少しばかり、思いついたことがあるので、妖精にそのまま聞いてみる。
「ええと」
「なぁに?」
「消える前に、またこれを使えば、いられる時間は延びますか?」
妖精は当然のように頷いた。
「できるよ?」
「できるんですか!?」
「うん。ボクの力が少なくなる前に、もう一回使ったら、出ていられる時間はのびるよ」
「では、定期的に使えば、そのまま出っぱなしにも?」
「できると思う」
そこまで答えた後、妖精は少し困ったように眉を下げた。
「でも、あんまりおすすめしないよ」
「なぜです?」
「これはケガした人を助けるためのものだから。ケガしてない時に使ったら、もったいないよ?」
たしかに。
本来一度しか使えない貴重な救命具を、妖精を留めておくためだけに消費する。
普通なら、考えるまでもなく無駄遣いだ。
継続回復を可能にする、と言っても、無駄な時間が多すぎる。
だが。
「ありがとうございます。でも、その点はご心配なく」
「えっ?」
「消えそうになる前に教えてください」
「でも……」
「大丈夫です」
俺の答えに納得したのかしていないのか、複雑そうな表情を見せた後、妖精は結晶と俺の顔を交互に見た。
「それなら……ボク、ずっといてもいいの?」
「そうですね。出来れば、助けていただけると嬉しいです」
「わぁ!」
背中の光輪が、嬉しそうに強く輝いた。
本人にとって、顕現を続けることが嬉しいのか。
それとも、単に新しい命令を受けたことが嬉しいのか。
チカチカと光を強くしたり弱くしたりしながらひとしきり飛び回ると、ひゅい、と顔の前まで戻ってきた。
「よろしくね! えーっと……」
そこで言葉を止める。
「俺のことは、ダリオと呼んでください」
「ダリオ!」
妖精は何度か名前を口にした。
「ダリオ。ダリオだね! ボクはね! えーっと……あれ?」
喜びに満ちていた顔が、急に悩ましげなものへ変わる。
眉間に皺を寄せ、腕を組み、空中で小さく唸った。
「ぐむむむ……」
「どうしました?」
「ボクの名前、分かんない」
「名前がないんですか?」
「ないみたい!」
ずいぶんと元気よく答えた。
妖精は少し考え込んだあと、ぱっと顔を上げる。
「ねぇ! ボクの名前、ダリオがつけてよ!」
「俺がですか?」
「うん!」
あまりにも急な願いに、俺は言葉を詰まらせた。
名前をつける。
犬や馬にすら、ろくに名前をつけた経験はない。
だが、妖精は期待に満ちた目でこちらを見つめている。
背中の光輪まで、落ち着きなく明滅していた。
「変な名前でも、怒らないでくださいよ?」
「怒らない!」
「本当ですか?」
「たぶん!」
「そこは言い切ってほしかったですねぇ」
俺は壁へ背を預けたまま、しばらく考えた。
白金色の光。
冷たい地下を照らす、小さな灯り。
「ルーメ」
自然と、その響きが口から出た。
妖精が首を傾げる。
「るーめ?」
「ええ。ルーメ、というのはどうでしょう」
光を意味する古い言葉から、少し音を借りた名前だった。
正しい使い方かどうかは知らない。
ただ、この小さな妖精には合っているように思えた。
「ルーメ……」
妖精は確かめるように、もう一度繰り返した。
次の瞬間、顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「ルーメ! いいね! 今日からボクはルーメだ!」
ルーメは嬉しそうに跳ね、空中で何度も回った。
動くたび、白金色の粒が小さな星のように零れていく。
「ルーメ! ボク、ルーメだよ、ダリオ!」
「気に入っていただけたなら、良かったですよぅ」
「うん! すっごく気に入った!」
冷たい地下。
崩れた坑道。
どこに出口があるのかも分からず、俺の身体も完全に治ったわけではない。
状況は何ひとつ好転していない。
それでも。
嬉しそうに自分の名前を繰り返すルーメを見ていると、口元が僅かに緩んだ。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろうか。
俺は手の中の結晶を握りしめ、暗い通路の先へ目を向けた。
まだ死んではいない。
歩ける。
灯りもある。
そして、今はひとりではない。
「では、ルーメ」
「なぁに、ダリオ?」
「ここから出る方法を探しましょうか」
「うん!」
二枚の光輪が、暗闇の中で力強く輝いた。