硬い何かが、石床を規則正しく打っていた。
無数の硬質な何かが、わずかにずれた間隔で床を叩き、その音を幾重にも重ねながらこちらへ近づいてくる。
俺は四式を握ったまま、装備庫の入口へ近づいた。
「ダリオ、気をつけてね」
「ええ」
肩口まで下がってきたルーメへ小声で返し、扉の隙間から、そろりと通路を覗く。
最初に見えたのは、二つの赤い光だった。
暗い通路の奥。
人間の目よりも遥かに低い位置で、左右へ大きく離れて浮かんでいる。
近づくにつれ、輪郭が少しずつ闇から浮かび上がった。
黒褐色の外殻。
一節ごとが、小さな盾ほどもある。
地面すれすれに構えられた頭部からは、岩をも噛み砕けそうな一対の顎が突き出し、左右へ伸びた長い触角が、通路の壁や床を撫でるように揺れていた。
その後ろへ、節の連なった胴体が延々と続いている。
長さは、大人が何人も横たわったほど。
通路そのものが動いているような圧迫感があった。
――《岩喰い百足》。
昔、魔物の討伐記録で読んだ覚えがある。
坑道や地下洞窟を好み、鉱石を含んだ岩盤さえ顎で噛み砕く大型の魔物。
硬い外殻に覆われ、並の剣では傷をつけることすら難しい。
記録に載っていた成体も、十分に大きかったが、目の前の個体は、それよりもさらに一回り大きく見える。
討伐難易度は、鉄級冒険者を含んだ複数のパーティーで挑む相手。
少なくとも、青銅級の冒険者がひとりで立ち向かうような魔物ではない。
ましてや俺は、つい先ほどまで死にかけていた身だ。
胸の傷は塞がり切っておらず、右脚もまともに踏み込めない。
なんだって、こんな場所に、こんなやつが。
「……大きいねぇ」
耳元でルーメが囁いた。
「ええ。ずいぶんと」
「戦うの?」
「無理ですよぅ」
考えるまでもなく即答した。
「万全の状態でも、一度剣を合わせられるかどうか。そのあとには、顎に挟まれて終わりです」
「じゃあ、逃げる?」
俺が頷くと、岩喰い百足が顎を鳴らした。
がちん、と。
金属同士を打ち合わせたような音が通路へ響く。
百足は通路の左右にある入口へ順番に頭を差し入れ、長い触角を蠢かせていた。
何かの匂いを探っているのか、それとも別の器官が働いているのか。
どちらにせよ、こちらを見つけるのも、時間の問題だった。
「ただし」
俺は腰帯の収納部から、薄い六角形の結晶板を抜き取った。
「少しばかり、痛い目には遭ってもらいましょう」
「逃げるんじゃないの?」
「逃げるために、ですよ」
四式の柄頭には、小さな差し込み口があった。
そこへ結晶板を押し込む。
かちり、と硬い音が鳴ると、刃の峰へ走る橙色の線に淡い光が灯る。
次いで、低い振動が柄を通して手のひらへ伝わってきた。
手元で感じる揺れは小さい。
だが、目を凝らすと、暗銀色の刃だけが霞むほどの速さで細かく震えている。
「一回だけだからね」
ルーメが念を押す。
「分かっています」
一度切れば、結晶板は砕ける。やり直しは利かない。
――少なくとも、本来なら。
「さて、どこを狙うべきか……」
外殻を正面から斬っても、刃が通るとは思えない。
眼を狙うにしても、あの顎の正面へ立たなければならない。
俺の呟きを聞いたルーメが、岩喰い百足へ視線を向けた。
丸い瞳の奥に、細い光の線が走る。
光は百足の頭部から胴体へ滑り、その内部を測るように何度か往復した。
「頭の下」
ルーメが小声で言う。
「二つ目と三つ目の殻の間。そこが薄いみたい」
「……分かるんですか?」
「うん。患者さんの身体を見るのと一緒だね」
「患者扱い、でいいんでしょうかねぇ、あれは」
「元気すぎる患者さん?」
「暴れそうですもんねぇ」
軽口を叩きながらも、視線は相手から外さない。
暑くもないはずだが、額に汗が浮くのが分かる。
仕組みは分からないが、勘だけで斬りつけるよりは遥かにマシだ。
ルーメを信じるとしよう。
俺は百足とは逆、通路の先へ視線を向けた。
逃げ込む予定の場所は、装備庫とは反対側にある扉だ。
ルーメによれば、施設を管理する者が使っていた通路へ繋がっているらしい。
管理用だけあって、扉は通常のものよりも厚く、頑丈に造られているという。
そこまでの距離は、数十歩。
だが、このまま背を向けて走れば、扉へ辿り着く前に追いつかれるだろう。
岩喰い百足がゆっくりと頭部を上げ、二つの赤い目が、こちらへ向く。
見つかった……!
一拍遅れて、百足が顎を大きく開いた。
「きしゃああああっ!」
金属を引き裂くような鳴き声が、狭い通路へ反響する。
開かれた顎の奥には、粘ついた黄色い液体が溜まっていた。
喉元が大きく膨らむ。
何かを吐く!?
「下がって!」
俺は反射的に《障壁球》を腰帯から掴み取り、装備庫の床へ叩きつけた。
透明な球体が床へ触れた瞬間、乾いた音を立てて砕ける。
内部に折り畳まれていたエネルギーが光へ変わり、一気に展開した。
半透明の六角形が次々と重なり、俺たちの目の前へ一枚の壁を作る。
その直後だった。
岩喰い百足の顎から、黄色い液体が勢いよく吐き出された。
酸液が瞬壁へぶつかる。
じゅうううう、と。
濡れた鉄を火へ投げ込んだような音が鳴り、白い蒸気が一気に広がった。
鼻を刺す刺激臭。
光壁の表面が黒く変色し、六角形の一枚一枚へ細かな亀裂が走る。
「もう壊れちゃうよ!?」
「分かってます!」
慌てるルーメへ叫び返し、四式を両手で握った。
ゆっくりと息を吸う。
肺へ空気が入るたび、胸の内側が痛んだ。
右脚へも、満足に体重を乗せられない。
こちらから踏み込むのは無理だ。
ならば。
向こうから、斬れる位置まで来てもらう。
光壁全体へ大きな亀裂が広がった次の瞬間、瞬壁が無数の光片となって砕け散った。
白い蒸気の向こうから、岩喰い百足の頭部が飛び出してくる。
巨大な顎を開き、装備庫の入口へそのまま突っ込んできた。
俺は左脚で床を蹴り、身体を横へ投げ出す。
「っ……!」
踏み込んだ瞬間、右脚へ鋭い痛みが走る。
身体の動きが僅かに鈍ったと思った瞬間、百足の顎が外套の裾を掠める。
次いで、背後の金属棚へ食らいついた。
轟音。
保存術式に守られていた分厚い棚が、飴細工のようにひしゃげ、支柱ごと噛み砕かれる。
恐ろしい。
正面から挟まれれば、鎧を着ていても胴体ごと千切られるだろう。
だが、百足は勢い余って、頭部を装備庫の奥まで突っ込んでいる。
長い胴体が入口へ引っ掛かり、一瞬だけ動きが止まった。
頭の下。
二つ目と三つ目の外殻の間。
黒褐色の節が衝突の余波で蠢く中、わずかに色の薄い継ぎ目が見えた。
「そこ!」
ルーメの声と同時、四式を振り下ろす。
暗銀色の刃が、外殻の隙間へ滑り込む。
硬い手応え。だが!
直後、柄の内部で結晶板が砕け、刃全体が低い唸りを上げる。
手の骨へ直接響くような振動が、刃先から百足の肉へ流れ込んだ。
硬い外殻の継ぎ目を押し広げ、その内側にある肉を抉る。
ぎち、と。
何か太いものが断ち切れる感触があった。
黒褐色の外殻へ細い亀裂が走り、傷口から黒い体液が噴き出す。
「ぎしゃあああああっ!」
百足が甲高い悲鳴を上げ、全身を激しく捩る。
「うわっ……!」
頭部を振り回され、肉へ食い込んだ四式ごと俺の身体が宙へ持ち上げられかける。
このままだと壁へ叩きつけられる!
そう認識するや、四式から手を離し、床へ転がった。
受け身を取る余裕などない。
肩から石床へ落ち、肺から息が抜ける。
「ダリオ!」
「大丈夫……!」
こちらを心配げに見てくるルーメにやせ我慢で返す。
岩喰い百足は、外殻へ四式を食い込ませたまま、頭部を壁へ何度も打ちつけていた。
刃を抜こうとしているらしい。
四式は俺が得たばかりの、唯一まともな武器だ。失うわけにはいかない。
だが、今近づけば、暴れる脚に触れただけで身体を砕かれる。
俺は腰帯から《衝撃杭》を抜き、視線を百足の頭部から、崩れかけた側壁へ向ける。
使うなら、今しかない。
「ルーメ、これはどうやって使うんですか!」
「後ろの輪っかを引いて、投げるの!」
「作動するまでの時間は!」
「三つ数えたら!」
「了解!」
答えを聞くなり、反衝杭の後部にある輪へ指を掛け、引き抜く。
杭の側面へ刻まれた白い矢印が明滅し、その周囲へ細かな術式が浮かび上がった。
狙いは、百足の頭部とひび割れた壁の間。
投げつけると、黒い杭が床を滑り、外殻のすぐ横で止まった。
一。
岩喰い百足が頭を振り、二つの赤い目をこちらへ向ける。
二。
傷口から黒い体液を垂らしながら、巨大な顎を開く。
三。
白い光が弾けた。
爆発とは違う。
反衝杭に刻まれた矢印の方向へ、すべての力が一気に放たれた。
空気そのものを巨大な槌で打ちつけたような轟音。
岩喰い百足の頭部が真横から殴り飛ばされ、ひび割れた石壁へ叩き込まれる。
施設全体が揺れた。
足元の石材が浮き上がり、天井から細かな砂と埃が降り注ぐ。
外殻へ刺さっていた四式が衝撃で抜け、床へ落ちた。
暗銀色の剣は回転しながら石床を滑り、俺の数歩手前で止まる。
さらに石壁の亀裂が一気に広がった。
崩れた壁と天井の一部が、百足の上半身へ降り注ぐと、岩塊が何度も外殻を叩き、その巨体を瓦礫の下へ押し潰した。
俺は、思わず息を止めたままその様子を見つめる。
外殻の隙間からは、黒い体液が絶え間なく流れ出していた。
――やったか。
そう思ったのは、一瞬だった。
瓦礫の下から、低い振動が伝わってくる。
崩れた石が、ひとつ持ち上がった。
「ぎゃああああああっ!」
耳をつんざく絶叫。
岩喰い百足が全身を捩り、頭上の瓦礫を跳ね飛ばし始める。
生きている!
傷ついているどころか、怒り狂っている。
まだ窮地は脱していないようだ。