警視庁 広域(すぎる)情報(過多)統括(できない)室の(脅威)事件簿 作:駄文亭
無機質な廊下を、疲れた足取りの影が歩いていた。
右手には、細い湯気を燻らせる黒いタンブラー。
左腕には、辞書か何かと見紛うほど分厚い紙の束が抱えられている。報告書、照会書、始末書、予算要求書。赤い付箋の貼られた書類は緊急、黄色は至急、青は可及的速やかに対応せよという意味だった。
すべて急げという意味である。
男の名は、大安文徳。
公安から出向してきたシステムエンジニアであり、警視庁広域情報統括室の室長である。
全国の警察組織が保有する捜査情報を集約し、都道府県の境界を越えて発生する事件を監視、分析、指揮する。それが広域情報統括室の本来の役目だった。
大安は、そのための統合情報システムを半年で構築した。
平常時であれば、一人でも運用できる。
問題は、完成した日から一度も平常時になったことがない点だった。
大安はタンブラーのコーヒーを啜った。
淹れてから十分も経っていないはずなのに、もうぬるい。
「嫌な予感がするなぁ」
大安がそう呟いた時、まだ何も起きてはいなかった。
何も起きていない時に嫌な予感がするのは、たいてい何かが起きる前兆だった。
廊下の突き当たりにある金属扉には、簡素なプレートが掲げられている。
――警視庁広域情報統括室。
大安が肘で扉を押し開けると、二人の女性が言い争っていた。
「ですから、空調の設定温度を勝手に変えないでください。室内機器の安定稼働と職員の集中力を考慮すれば、二十四度が適正です」
「寒いんだよ。二十六度でいいだろ。現場じゃ気温を選べないんだから、これくらい耐えろって?」
「ここは現場ではありません」
「だから身体が鈍るんだ」
「室長」
三嶋あかねが大安を見た。
陸上自衛隊特殊作戦群の対テロ部隊から出向してきた二十六歳。レンジャー資格を持ち、鍛え上げられた体力と、説明不能なほど鋭い勘を持つ現場主義者である。
「室温、二十六度でいいですよね?」
「室長。情報機器の適正環境を考慮し、二十四度を維持すべきです」
遠藤真実も振り返る。
内閣情報調査室から出向中の二十五歳。膨大な情報の中から意味のある関連性を見つけ出す能力は、大安を除けば統括室で最も優れている。
プライドは、それ以上に高い。
大安は書類の束を机に置いた。
「二十五度で」
「妥協は合理的解決ではありません」
「一度刻みで喧嘩するなよ。ここは女子校か?」
二人が同時に大安を睨んだ。
黙っていれば美人なのになぁ、と大安は思った。
声には出さなかった。
優秀な情報官には、余計な情報を与えない方がよい。
部屋の壁面には、大型モニターが並んでいた。全国の事件発生状況、主要交通網、通信量、地震計、人工衛星からの観測情報までが、統括システムによって常時更新されている。
大安が自席へ着くと、机上の端末が短く鳴った。
通信障害。
関東地方の携帯電話網に、局所的なジャミングが発生している。
ほぼ同時に、別の警告が表示された。
東京都西部で地殻応力に異常値。
さらに、観測衛星が未知の空間歪曲を検出した。
「おはようございます、室長」
部屋の隅に座っていた男が新聞を畳んだ。
長い外套に、時代錯誤な長剣を携えた私立探偵、成井舜佐である。
東西を問わない魔術知識、超物理学、超心理学に通じ、戦闘能力だけなら作中でも最強格に位置する男だった。
広域情報統括室には、超常事件のオブザーバーとして籍を置いている。
「おはようございます。成井さん、いつからいました?」
「午前四時頃です。興味深い夢を見まして」
「夢の話は後でお願いします」
「夢ではありません。異なる位相に存在する知性体からの精神感応です」
「もっと後でお願いします」
警告が三つから七つに増えた。
三嶋がモニターを見上げる。
「通信障害、地殻変動、空間歪曲。場所はほぼ同じだな」
「都立星見総合学園周辺です」
遠藤が地図を拡大した。
「放課後の時間帯です。校内に残っている生徒の特定を始めます」
「いや、必要ありません」
大安はタンブラーを机に置いた。
心当たりが四人ほどいた。
その時、統括室の直通回線が鳴った。
発信者は羽柴信彦。
大安が受話器を取る。
「はい、広域情報統括室。どうしたの、羽柴君」
『大安さん、助けてください!』
電話の向こうから、激しい破砕音が聞こえた。
次いで、少女の怒鳴り声。
『なんやと、もう一遍言うてみい!』
『何度でも言ってやるわよ。先に突っかかってきたのはそっちでしょ!』
別の少女が叫ぶ。
『ちょっと、動画を撮るな! 全部消すからね!』
そして、ひどく不安そうな小さな声。
『みんな、喧嘩はやめた方が……また揺れます』
統括室の地震監視画面に、太平洋側の観測点が一斉に点灯した。
大安は額を押さえた。
「状況を簡潔に説明して」
『猪俣さんが飛んできたボールを打ち返したら体育倉庫の壁が壊れて、胡蝶さんが自慢するなって怒って、宇佐美さんの携帯が瓦礫で壊れて、天野さんが自分のせいだと思い始めました!』
「なるほど」
非常によく分からないが、原因と結果だけは分かった。
異世界帰還勇者、猪俣睦。
西日本の大規模極道組織《猪鹿蝶》の幹部令嬢、胡蝶わかば。
生身でプログラムへ干渉できる電子使い、宇佐美美琴。
日本列島を霊的に固定する要石、天野ひすい。
四人とも同じ学校に通っている。
隔離した方が安全なのは分かっていた。
しかし四人を離そうとすると、天野ひすいを中心とした因果関係が奇妙な反発を起こす。距離を置かせても、遠足、旅行、事件、事故、転移などを経て必ず再会した。
腐れ縁が物理法則に組み込まれている。
大安はそれを、要石の縁と呼んでいた。
「羽柴君。天野さんをその場に座らせて、深呼吸させて。宇佐美さんには、今から通信障害を直すから余計なことを考えないように伝えて」
『余計なことって言ったら怒りませんか?』
「じゃあ、楽しいことを考えてもらって」
『何を考えてもらえば?』
「君が考えてよ。そのくらい女の子の扱いを学んでおかないと駄目だよ。おじさんみたいになるからね」
『この状況で人生相談しないでください!』
「大丈夫。君ならできる」
『その根拠は!?』
「俺が現場に行くまで死ななかった実績」
大安は電話を切った。
三嶋がすでに防弾ジャケットを手にしている。
「車、回します」
「私も同行します」
遠藤が端末を閉じた。
「現場観察なしでは正確な評価ができません」
「二人とも待機。遠藤さんは通信障害の拡大予測。三嶋さんは周辺の避難経路と警備体制を確認してください」
「一人で行くつもりですか?」
「俺が行った方が早い」
「また仕事を抱え込みますね」
「部下同士が室温で喧嘩してなければ、連れていったかもしれません」
二人が黙った。
大安は上着を掴み、扉へ向かった。
成井が後をついてくる。
「成井さんも待機してください」
「いえ。今回の事件について、すでに一つの結論へ到達しました」
「聞きたくないなぁ」
「体育倉庫の壁は、猪俣睦の打球によって破壊されたのではありません」
「羽柴君が見てますけど」
「それは表層的な現象です。真の原因は、校舎建設以前から土地に封じられていた白蛇信仰と、戦後に埋設された旧軍の超心理増幅装置。そして思春期の少女四名が形成した閉鎖型感情共鳴圏です」
大安は立ち止まった。
「一般人が理解できるようにお願いします」
「学校の地下に何かいます」
「最初からそう言ってください」
◇
星見総合学園の校庭では、体育倉庫の壁が半分ほど消失していた。
崩れたのではない。
直径三メートルほどの円形に、綺麗に吹き飛んでいる。
穴の向こうには、硬式球が突き刺さった防球ネットが見えた。
「だから、少し力を入れただけだって言ってるでしょ!」
猪俣睦が言った。
異世界から帰還した際、複数の技能と世界法則を持ち帰った少女である。本人は野球のボールを軽く打ち返したつもりだったらしい。
「それを自慢言うんや! うちなら壁ごとき壊さず、ボールだけ粉にしたるわ!」
胡蝶わかばが拳を握る。
「自慢してない!」
「しとる!」
二人の足元で、砂が浮き上がっていた。
猪俣の異世界法則が、地球側の物理法則と衝突している。
宇佐美美琴は、画面の割れた携帯電話を握りしめていた。怒気に反応して、校内ネットワークが断続的に停止している。
天野ひすいは、壊れた倉庫の前で青ざめていた。
「わたしが、ボールを避けたから……」
地面が低く鳴った。
羽柴信彦は四人の中央で、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「僕のせいじゃないのに、どうしていつも僕が真ん中にいるんだろう」
「好かれてるからじゃない?」
大安が声をかけると、羽柴は救世主を見るような顔をした。
「大安さん!」
「お疲れさま。よく生きてたね」
「褒め方が嫌です!」
大安は四人を順に見た。
「猪俣さん。君は力を制御できなかった。胡蝶さん。君は関係ないのに喧嘩を売った。宇佐美さん。壊れた携帯電話は補償するから、世界中の通信網に八つ当たりするのはやめて。天野さん。今回は君の責任じゃない」
四人が同時に口を開こうとする。
大安は先に手を上げた。
「反論は一人一分。年齢順で」
「なんでや!」
「胡蝶さん、今ので二十秒使いました」
「せこいぞ、おっさん!」
「さらに五秒」
胡蝶が口を閉じた。
地面の振動が少し弱まった。
猪俣が腕を組む。
「私は悪くないとは言わないけど、胡蝶が急に突っかかってきたのよ」
「はい。だから修理費は君の能力管理を担当する機関へ請求します。胡蝶さんには反省文」
「なんでうちだけ反省文や!」
「壊してないのに喧嘩を始めたから」
「極道の娘に反省文書かせる気か!」
「公務員に脅しは通用しないよ。脅された事実を文書に残す仕事だから」
胡蝶は歯噛みしたが、反論できなかった。
宇佐美が割れた携帯電話を差し出す。
「本当に弁償してくれるの?」
「公費で出るかは分からないけど、申請はします」
「それ、出ないやつじゃない?」
「よく分かったね」
「じゃあ直して」
「俺、警察官なんだけど」
「システムエンジニアでしょ」
「職務外です」
「直してくれたら通信戻す」
大安は携帯電話を受け取った。
「脅迫の才能があるなぁ」
周囲の携帯電話が一斉に回線へ復帰した。
最後に、大安は天野ひすいの前へしゃがむ。
「天野さん。日本列島の地殻応力が上昇しています」
「ごめんなさい……」
「怒ってるわけじゃない。落ち着いてくれればいいんです。倉庫は直せるけど、日本列島を直す予算はありません」
「……はい」
ひすいが小さく笑った。
地面の振動が止まる。
統括室から遠藤の連絡が入った。
『地殻応力、正常値へ復帰。空間歪曲も急速に縮小しています』
「了解」
『ただし、学園地下に未知の超心理反応があります』
「成井さんが向かってます」
『一人で、ですか?』
「一人の方が被害が少ないんです」
校舎の地下から、何か巨大なものが断末魔を上げた。
続いて、地面の奥を走る白い閃光。
少女たちが一斉に振り返る。
「今の何?」
羽柴が尋ねた。
大安は携帯電話の割れた画面を確認しながら答えた。
「校内設備の点検です」
◇
大安が統括室へ戻った時には、午後九時を回っていた。
机の上には、朝よりも多くの書類が積まれている。
遠藤が報告する。
「学園地下の反応は消失しました。成井さんからは、白蛇神と旧軍の超心理装置が融合した存在を切断した、と報告が来ています」
「一応、推理は合ってたんですね」
「推理の過程は理解不能です」
「いつものことです」
三嶋が別の画面を示した。
「吉良徴喜の信者が、大阪と名古屋で同時に事件を起こす予定だったみたいです」
「実行前に関係者を確保しました」
遠藤が淡々と続ける。
「なぜ事前に分かったんです?」
「衛星軌道上から秘密の情報が来たので」
「どこの衛星です?」
「秘密です」
「室長が私たちに情報を隠すのは、統括室の理念に反します」
「知ると寿命が縮む類の秘密だから」
「合理的な説明ではありません」
「でも健康にはいいです」
大安は椅子へ腰を下ろした。
統括システムの画面に、本日の処理件数が表示される。
広域通信障害。
日本沈没未遂。
異世界法則流入。
反社会勢力関係者の情緒的不安定。
校内地下怪異。
犯罪教唆事件二件。
すべて処理済み。
「今日は早く帰れそうですね」
三嶋が言った。
大安は時計を見た。
「もう九時だけど」
「昨日より早い」
「その比較をするようになったら終わりですよ」
◇
大安が自宅のアパートへ着いたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。
玄関を開ける。
明かりが点いている。
大安は静かに靴を脱ぎ、居間を覗いた。
黒い霧のような巨体が、ちゃぶ台の前に座っていた。
角がある。
光る目が一つある。
人類がまともに直視すれば、数日ほど体調を崩す恐れがある何かだった。
そいつは、大安が冷蔵庫へ入れておいたビールを飲んでいた。
「きいてくれよぉ」
「それ、俺のビール」
「下僕のヨグとかクーとかが、また勝手に円盤飛ばしとんねん。ワイには何の報告もあらへん。入ってきたら止めとるもん。それでも管理責任や言われるんやで。ひどいやろ?」
「他所でやれ」
「冷たいやないか。同じ中間管理職として――」
大安は玄関脇に設置された次元転送装置の電源を入れた。
「性別は?」
「概念的には雄寄りやな」
「じゃあ容赦しない」
大安のヤクザキックが、宇宙的存在の胴体へ突き刺さった。
「待て、まだ話の途中やぁぁぁぁ――」
黒い巨体は次元転送装置へ吸い込まれ、消えた。
部屋に静寂が戻る。
大安は冷蔵庫を開けた。
ビールは一本も残っていなかった。
「あー、くそ。なんでこんなに忙しいんだ?」
着替える気力もなく、布団へ倒れ込む。
目を閉じると、一瞬で意識を持っていかれた。
暗闇の中から、声がした。
「きいてくれよぉ」
「夢に出るなぁぁぁぁぁ――!」
その夜も、日本は沈まなかった。
大安文徳が、眠れたかどうかは別の話である。