警視庁 広域(すぎる)情報(過多)統括(できない)室の(脅威)事件簿 作:駄文亭
午前七時四十二分。
警視庁広域情報統括室の中央に置かれた会議机を、職員たちは遠巻きに囲んでいた。
机の上には銀色の円盤がある。
正確には、昨夜まで円盤だったものだ。
表面には卵殻のような亀裂が走り、その隙間から黒い触手が三本ほど伸びている。中央には赤い眼が一つあり、時折、眠そうに瞬いていた。
「きゅう」
それが鳴いた。
三嶋あかねが人差し指を近づける。
黒い触手が指へ巻きついた。
「やっぱり懐いてる」
「触らないでくださいと言いましたよね」
遠藤真実は、机から二メートルの距離を保ったまま告げた。
普段なら未知の情報へ真っ先に食いつく彼女だが、今回は警戒心が好奇心を上回っているらしい。
「昨日から何も起きてないぞ」
「何も起きていないことは、安全性を意味しません。そもそも地球外生命体へ素手で触れる行為が非合理的です」
「成井は食べ物じゃないって言ってた」
「食用ではないことと、毒性がないことは別問題です」
三嶋は黒い触手を軽く摘まんだ。
「嫌がってない」
「毒キノコも触られたくらいでは嫌がりません」
「キノコと一緒にするなよ。可哀想だろ」
「どうしてキノコではなく、こちらへ感情移入するんです?」
「動くから」
「基準が雑です」
二人の背後で、大安文徳はコーヒーを飲んでいた。
昨夜の会議は午前二時まで続いた。
宇宙的幼体が生物なのか、物品なのか、危険物なのか、それとも高次元現象なのか。各省庁へ問い合わせた結果、十二通りの回答が返ってきた。
厚生労働省は、人間でないため管轄外。
環境省は、国内へ定着した外来生物であれば調査対象になり得る。
文部科学省は、学術的価値の観点から研究機関への移送を提案。
防衛省は、敵性が確認されていないため対処不能。
外務省は、地球外文明との外交関係が樹立されていないため、正式な交渉相手として認められない。
警察庁からは、発見物として適切に保管するよう指示が来た。
適切とは何かについては、書かれていなかった。
「室長」
遠藤が振り返る。
「今後の管理方針を決めてください」
「昨日、決めませんでした?」
「暫定的に統括室で保管することだけです。給餌、衛生管理、行動観察、安全確保、緊急時の処分方法は未定です」
「処分って言うなよ」
三嶋が眉を寄せた。
「一般的な危険物管理上の表現です」
「こいつが聞いたら傷つくだろ」
「日本語を理解している根拠はありません」
「きゅう」
幼体が小さく鳴いた。
赤い眼から、透明な液体が一滴こぼれる。
三嶋が遠藤を睨んだ。
「泣いたぞ」
「私の発言が原因とは限りません」
「謝れ」
「なぜ私が?」
「二人とも」
大安はタンブラーを机へ置いた。
「朝から宇宙生物の前で喧嘩しないでください。教育に悪い」
「教育対象なんですか?」
「知りませんけど、覚えられたら困るでしょう」
幼体の触手が一本伸び、三嶋の机に置かれていたボールペンを掴んだ。
器用に持ち上げる。
「ほら、賢い」
「筆記能力の有無を確認してください」
「きゅう」
幼体はボールペンを赤い眼の下へ運び、そのまま身体の中へ取り込んだ。
三人が黙った。
「食べたな」
三嶋が言った。
「給餌対象はプラスチック製品でしょうか」
遠藤が端末へ記録する。
「ボールペン代は経費で出ます?」
「出ません」
大安が即答した。
幼体の触手が、今度は会議机に置かれた遠藤の携帯端末へ伸びた。
「やめなさい」
遠藤が素早く回収する。
触手は行き場を失い、しばらく宙を彷徨った。
やがて大安のタンブラーへ向かう。
「それは駄目」
大安も回収した。
幼体の赤い眼が、左右へ動く。
触手が萎れた。
三嶋が大安を見る。
「可哀想だろ」
「俺の朝食です」
「コーヒーは食事じゃない」
「昨夜から何も食べてないので、今は朝食扱いです」
「何か食べろよ」
「時間がありませんでした」
「コンビニくらい寄れるだろ」
「宇宙生物を預かってる警察官が、制服でもない女の人と午前三時にコンビニへ入ると、余計な情報が残るでしょう」
三嶋が一瞬黙った。
「誰が一緒に行くって言った?」
「昨日、送ると言ったのは三嶋さんです」
「一人で帰したら倒れそうだったからだ」
「遠藤さんが車を出してくれました」
「私の行動が抜けています」
遠藤が不満そうに言った。
「送ってくれたことには感謝しています」
「運転したのは私です」
「分かっています」
「では、なぜ三嶋さんだけを例に?」
「そこ、掘り下げる話ですか?」
赤い眼が三人を順番に見た。
「きゅう」
「ほら」
三嶋が言った。
「こいつも呆れてる」
「その解釈には客観性がありません」
「子どもには分かるんだよ」
「子どもと断定する根拠もありません」
「幼体だろ?」
「地球外生命体に成体と幼体の区分が存在するとは限りません」
「小さいから子どもだ」
「それなら小型犬は、すべて大型犬の子どもになります」
「遠藤さん」
大安が止める。
「朝から犬の定義で喧嘩しないでください」
「犬の定義ではありません」
「宇宙生物の成長段階についての議論です」
二人が同時に訂正した。
大安は目を閉じた。
若手のホープを希望した。
確かに二人とも若く、優秀である。
希望の仕方が悪かったのかもしれない。
◇
午前八時五分。
統括室の扉が開いた。
「おはようございます」
成井舜佐が入ってきた。
昨日の戦闘で裂けた外套は、新しいものに替わっている。腰には長剣があり、右手には紙袋を提げていた。
「成井さん、何ですか、それ」
大安が尋ねる。
「朝食です」
「珍しいですね」
「私のではありません」
成井は紙袋から、透明な容器を取り出した。
中には色とりどりの鉱石、乾燥した海藻のようなもの、淡く光る金属片が入っている。
三嶋が顔を近づけた。
「食べられるのか?」
「宇宙的幼体が摂取する可能性のある物質を集めました」
「どこで?」
「都内です」
「都内のどこに、光る金属を食べ物として売っている店があるんです?」
遠藤が尋ねる。
「築地です」
「築地の何屋ですか?」
「説明が難しいですね」
「警察官の前で説明しにくい店から、正体不明の物質を買ってこないでください」
「領収書はあります」
成井は紙片を大安へ渡した。
店名欄には、読めない文字が並んでいる。
金額は二万八千円。
「これ、経費で落ちませんよ」
「必要経費です」
「必要性を説明できます?」
「幼体は、高次元空間で形成された情報物質を主食としている可能性があります」
「一般人が理解できるように」
「何を食べるか分からないので、いろいろ買いました」
「最初からそう言ってください」
成井が透明容器を幼体の前へ置いた。
赤い眼が中身を見つめる。
一本の触手が伸び、淡く光る金属片を摘まんだ。
口らしき器官はない。
それでも金属片は触手の先から吸収され、消えた。
「きゅう」
幼体の身体が、わずかに膨らんだ。
三嶋が目を輝かせる。
「食べた」
「成井さん。今の物質は何です?」
遠藤が尋ねる。
「人工衛星から剥離した外装材です」
「それを築地で売っていたんですか?」
「はい」
「どこの人工衛星です?」
「旧ソ連のものです」
統括室が静まり返った。
大安は領収書を机へ置いた。
「その店、後で調査対象に入れてください」
「有益な店ですよ」
「有益かどうかと、合法かどうかは別です」
幼体の身体が、再び脈打った。
銀色の殻が少しずつ開いていく。
黒い霧が机の上へ溢れ、触手が五本に増えた。
「大きくなったな」
三嶋が嬉しそうに言った。
「成長速度が異常です」
遠藤が椅子を引く。
「成井さん、成体までどの程度かかります?」
「情報がありません」
「推理は?」
「すでに成体である可能性があります」
「小さいのに?」
三嶋が尋ねた。
「先ほど遠藤さんが指摘した通り、小さいから幼体とは限りません」
遠藤が一瞬、誇らしそうな顔をした。
「では、なぜ幼体と呼んでいたんです?」
大安が聞く。
「可愛いので」
「基準が三嶋さんと同じだなぁ」
黒い霧が机の縁から床へ垂れた。
幼体の赤い眼が、大安へ向く。
「きいてくれよぉ」
低い声が響いた。
大安は椅子から立ち上がった。
「成長してる!」
「言語能力を獲得しました」
遠藤が記録する。
「感心してる場合ですか?」
「言語獲得の過程は極めて重要な観察対象です」
「最初の言葉がそれでいいんですか?」
黒い霧が形を変える。
小さな角が二本、生えてきた。
机の上に、手のひらほどの大きさになった、だいうちゅうのいーしが座っている。
「きいてくれよぉ」
「嫌です」
大安は即答した。
「まだ何も言うてへん」
「そのやり取りは昨日しました」
「ワイ、昨日のワイとは別個体やで」
「同じ台詞を使うな」
「個体差を認めへんのは差別や」
「生後一日で面倒なことを覚えないでください」
小さな宇宙的存在は、触手を伸ばして大安のタンブラーを掴んだ。
大安も反対側を掴む。
「離せ」
「一口だけ」
「駄目」
「ケチ」
「お前たちは、どうして俺の飲み物ばかり狙うんだ」
「働く者の飲む液体には、疲労と諦念が溶け込んどる。ワイらには御馳走なんや」
三嶋が大安を見る。
「それなら、室長のコーヒーは栄養満点だな」
「笑えません」
「私のコーヒーでも代用できますか?」
遠藤が尋ねる。
「お姉ちゃんのは、上昇志向が強すぎて胃にもたれる」
遠藤の表情が固まった。
三嶋が吹き出す。
「宇宙生物にも分かるんだな」
「お姉ちゃんのは、野生臭い」
三嶋の笑いが止まった。
「誰が野生だ」
「二人とも」
大安が間に入る。
「宇宙生物に本気で腹を立てないでください」
「室長はケチと言われて怒ったでしょう」
「俺のは事実関係を訂正しただけです」
「同じです」
小さな宇宙的存在は、タンブラーを諦めて机へ座り直した。
「ほな、きいてくれよぉ」
「何です?」
「名前つけて」
統括室が静かになった。
「名前?」
三嶋が尋ねる。
「昨日生まれたばっかりで、まだ名前ないねん」
「親は?」
「アザ様」
「それは親というより、発生源では?」
遠藤が言った。
「親みたいなもんや」
「先ほどの大きい個体との関係は?」
「別の分霊」
「兄弟ですか?」
「そこまで単純やない。ワイでもよう分からん」
三嶋が腕を組む。
「きゅうでいいだろ」
「鳴き声やないか」
「覚えやすい」
「もっと威厳ある名前がええ」
「では、識別名称として《宇宙的高次元生命体第九号》を提案します」
遠藤が言った。
「役所の書類やないか」
「書類上の名称です」
「大宇宙皇帝アルティメット暗黒王は?」
三嶋が提案する。
「長いわ」
「わがままだな」
成井が幼体を見つめた。
「その存在構造から考えると、名は持たない方がよいでしょう」
「どうしてです?」
大安が尋ねる。
「高次元存在へ名を与える行為は、存在の輪郭を固定することに繋がります。名付けた者との間に、因果的な主従、あるいは親子関係が生じる可能性があります」
全員が黙った。
幼体の赤い眼が、大安へ向く。
「名前つけて」
「絶対に嫌です」
「なんでや」
「今の説明を聞いてました?」
「お前ならええやろ」
「何が?」
「疲れてて、諦めが良くて、面倒見もええ。保護者向きや」
「嫌な評価だなぁ」
三嶋が大安の肩を叩く。
「名付け親になってやれよ」
「他人事だと思って」
「このまま番号で呼ぶのは可哀想です」
遠藤まで加わる。
「遠藤さんが付ければいいでしょう」
「私には、すでに実務上適切な識別名称があります」
「嫌なんでしょう?」
「合理的判断です」
「大安さん」
成井が静かに言った。
「名付けをお願いします」
「成井さんまで?」
「あなたが最も適しています」
「理由は?」
「すでに懐いています」
小さな宇宙的存在が、大安の袖へ触手を巻きつけた。
「きゅう」
先ほどまでの低い関西弁はどこへ行ったのか、急に可愛らしい声を出した。
「ずるいな、こいつ」
三嶋が笑う。
大安は触手を外そうとした。
幼体は離れない。
「俺は仕事があるんです」
「邪魔せえへん」
「ビールを飲むでしょう」
「大きくなったらな」
「大きくなる前に帰ってください」
「帰る場所ないねん」
大安の手が止まった。
「先ほどの個体は?」
「連絡つかへん」
「あなたたちは、同じ存在同士で連絡も取れないんですか?」
「部署が違う」
「宇宙にも縦割り行政があるんだなぁ」
「あるで。ひどいやろ?」
大安は深く息を吐いた。
昨夜から、この幼体に関する照会だけで二十七件の連絡が来ている。
ここで存在を安定させ、法的な管理対象へ分類できるなら、少なくとも書類上の処理は進む。
問題は、名付けた者との間に因果関係が生じる点だった。
「仮称ですからね」
大安は念を押した。
「恒久的な名前ではなく、統括室内での識別用です」
「おう」
「書類上の責任者にもなりません」
「分かった分かった」
「では――」
大安は少し考えた。
幼体。
九号。
宇宙。
きゅう。
「キュウで」
三嶋が笑った。
「結局、私と同じじゃないか」
「漢字は使いません。片仮名です。識別名称としてのキュウ」
「はいはい」
キュウの赤い眼が細くなる。
喜んでいるらしい。
「とーちゃん」
「撤回します」
「もう遅いで」
大安の携帯端末が一斉に警告音を発した。
統括システムの画面に、新たな登録情報が表示される。
【高次元生命体・個体識別名:キュウ】
【地球上における保護責任者:大安文徳】
【因果接続:完了】
大安は画面を見た。
もう一度見た。
表示は消えない。
「成井さん」
「はい」
「解除方法は?」
「ありません」
「先に言ってくださいよ!」
「先ほど、親子関係が生じる可能性があると説明しました」
「可能性でしょう!」
「確定ではありませんでした」
「確定しましたよ!」
キュウが大安の腕を伝い、肩へ乗った。
「とーちゃん、腹減った」
「誰が父親だ!」
◇
午前十一時三十分。
星見総合学園では、四人の少女と羽柴信彦が、職員室へ呼び出されていた。
学校側からの呼び出しではない。
広域情報統括室から、身元確認と経過観察への協力要請が来たのである。
「また何か起きたんですか?」
羽柴が尋ねる。
三嶋あかねは、職員室の長机へ銀色の保護容器を置いた。
「宇宙生物を預かることになった」
「大安さんの仕事、警察ですよね?」
「本人もそう言ってる」
容器の中から、黒い触手が一本出てくる。
羽柴は一歩下がった。
「昨日の卵ですか?」
「孵った」
「大丈夫なんですか?」
「今のところは」
猪俣睦が触手を見つめる。
「魔物の気配とは違うわね」
「異世界にも、こんなのいなかったの?」
「もっと気持ち悪いのはいた」
「これより?」
「目が七十個くらいあるやつとか」
天野ひすいが保護容器へ近づいた。
触手が彼女の方へ伸びる。
三嶋が制止しようとしたが、ひすいは静かに手を差し出した。
触手が指先へ触れる。
「寂しいみたいです」
「分かるの?」
羽柴が尋ねる。
「何となく」
地面の奥で、微かな音がした。
要石と高次元生命体の間に、何かの縁が生じている。
「不用意に仲良くならないでくださいね」
三嶋が言った。
「室長が保護責任者になったばかりだから」
「大安さん、子持ちになったんですか?」
羽柴が驚く。
「宇宙的には、そうらしい」
胡蝶わかばが声を上げて笑った。
「あのおっさん、女の影もないのに、いきなり子持ちかい!」
「笑い事ではありません」
三嶋が言う。
「本人、朝から各省庁へ電話してる」
「児童手当は出るの?」
宇佐美美琴が尋ねた。
「人間じゃないから出ない」
「扶養控除は?」
「たぶん無理」
「可哀想」
「大安さんが?」
羽柴が聞く。
「キュウが」
美琴は容器を覗き込む。
触手が彼女の携帯電話へ伸びた。
「これは駄目」
美琴が携帯を引く。
キュウは容器の中から、赤い眼だけを覗かせた。
「ちょっとだけ」
「喋った!」
羽柴が叫ぶ。
「携帯食べるから駄目」
「古いのならいい?」
「壊れた端末ならあるけど」
「宇佐美さん」
三嶋が止める。
「餌付けすると懐くぞ」
「もう大安さんに懐いてるんでしょ?」
「それ以上、因果関係を増やしたくない」
胡蝶が容器を覗き込む。
「こいつ、強いんか?」
「強さは不明」
「殴ったら分かるやろ」
「赤ん坊を殴るな」
「誰が本気で殴る言うた!」
「胡蝶ならやりそう」
猪俣が言う。
「なんやと!」
「喧嘩しないでください」
ひすいが二人の間へ入った。
キュウが容器の中で震えた。
二人の感情に反応したらしい。
黒い霧が保護容器の隙間から溢れ、天井へ広がっていく。
「まずい」
三嶋が容器を掴んだ。
「全員、落ち着け!」
「うちは落ち着いとる!」
「その声量で言うな!」
キュウの身体が急速に膨張する。
机ほどの大きさ。
次いで教室ほど。
職員室の天井と床の距離が、物理的な意味を失い始める。窓の外には、青空ではなく無数の星々が広がっていた。
「感情を食べて成長している?」
美琴が言った。
「喧嘩をやめて!」
羽柴が叫ぶ。
「うちのせいちゃう!」
「胡蝶が怒鳴るからでしょ!」
「猪俣さんも反論しない!」
「何で私だけ!」
キュウがさらに大きくなった。
赤い眼が職員室全体を見下ろす。
「きいてくれよぉ」
校舎が震えた。
日本上空の大気が渦を巻き始める。
三嶋は携帯電話を取り出した。
「室長」
◇
広域情報統括室。
大安は、十五件目の省庁間協議を行っていた。
「ですから、対象は高次元生命体であって、戸籍法上の出生届を提出できるとは考えていません。ただし宇宙側の記録では、俺が保護責任者として登録されているようです」
『それは養子縁組に該当しますか?』
「俺が聞きたいです」
『生物学上の親子関係は?』
「ありません」
『出生地は?』
「警視庁です」
『本籍地は?』
「ありません」
『国籍は?』
「宇宙です」
電話の向こうが沈黙した。
大安の携帯電話へ、三嶋から着信が入る。
「すみません。一度切ります」
『まだ確認事項が――』
「人類が滅びかけているので」
大安は通話を切り、三嶋の電話へ出た。
「はい」
『室長。キュウが巨大化した』
「何を食べさせたんです?」
『少女たちの喧嘩』
「食べさせないでくださいよ!」
『勝手に食べたんだ』
統括システムへ、星見総合学園周辺の映像を表示する。
校舎の一部が異空間に飲み込まれている。
上空には巨大な赤い眼。
周囲の住民は、怪異を認識できていない。認識できないまま、何となく学校から離れる方向へ歩いている。
成井が画面を見た。
「名付けによって、大安さんの感情と接続されています」
「俺の?」
「あなたの疲労と、少女たちの感情を同時に取り込み、急速に成長したのでしょう」
「俺、そんなに疲れて見えます?」
「成長量から判断すると、かなり」
「客観的な証拠が出たなぁ」
大安は上着を掴んだ。
「現場へ行きます」
「私も同行します」
成井が剣を取る。
「最悪の場合は、因果接続を切断します」
「キュウはどうなります?」
「消滅する可能性があります」
大安は扉の前で足を止めた。
「他の方法は?」
「保護責任者が、直接落ち着かせることです」
「どうやって?」
「親らしく」
「経験がありません」
「誰でも最初は未経験です」
「励まされても困るなぁ」
◇
星見総合学園の職員室は、宇宙の中心に浮かんでいた。
少なくとも、羽柴信彦にはそう見えた。
机も椅子も床も残っている。
しかし窓の外には銀河が広がり、天井から巨大な黒い触手が何本も垂れ下がっている。
猪俣睦は剣を抜き、胡蝶わかばは拳を構えていた。
「斬ればいいんでしょ!」
「待て。室長の子どもらしいぞ」
三嶋が止める。
「大安さんの子ども!?」
「宇宙的な意味で」
「余計分からない!」
宇佐美美琴は携帯電話をキュウへ向けていた。
「内部構造にアクセスできない。接続しようとすると、私の方が取り込まれる」
「ひすいちゃんは?」
羽柴が尋ねる。
天野ひすいは、職員室の中央に立っていた。
黒い触手が、彼女を守るように周囲を囲んでいる。
「怖がっています」
「僕たちを怖がってるの?」
「捨てられることを」
巨大な赤い眼から、透明な液体が落ちた。
宇宙空間を漂う涙が、小さな球体となって浮かぶ。
羽柴は剣を構えた猪俣を見る。
「剣、下ろそう」
「でも」
「怖がってるんだって」
猪俣は迷った末、剣を鞘へ戻した。
胡蝶も拳を下げる。
「うちは最初から殴る気なかったで」
「嘘つけ」
三嶋が言った。
空間の歪みが、わずかに弱くなる。
「きいてくれよぉ」
キュウの声が、あらゆる方向から響いた。
「とーちゃん、ワイのこと捨てるんや」
「誰がそんなことを言いました?」
大安文徳が、職員室の扉から入ってきた。
扉の向こうには警視庁の廊下が見える。
成井が異空間同士を接続したらしい。
「大安さん!」
羽柴が叫ぶ。
「遅くなってごめんね。各省庁が、キュウを子どもとして扱うか危険物として扱うかで揉めていて」
「どっちになったんです?」
「結論は出てません」
大安は巨大な赤い眼を見上げた。
「キュウ」
「捨てるんやろ」
「捨てません」
「ほんまに?」
「ただし、警視庁で巨大化するのはやめてください。修繕費が出ません」
「学校やで」
「学校なら壊していいわけでもありません」
「とーちゃん、ワイのこと嫌いやろ」
大安は少し考えた。
好きか嫌いかで言えば、迷惑だ。
昨夜から睡眠時間を奪われ、ビールを飲まれ、保護責任者に登録され、省庁間協議を十五件も行うことになった。
今後も仕事は増える。
「好き嫌いを判断するほど、まだ付き合いが長くありません」
「……冷たいなぁ」
「ですが」
大安は続けた。
「名前を付けた責任は取ります」
赤い眼が瞬いた。
「地球にいる間は、俺が面倒を見ます。食べ物も用意する。寝る場所も考える。ただし、勝手に他人の感情を食べない。巨大化しない。俺のビールも飲まない」
「最後だけ厳しくない?」
「一番大事です」
「とーちゃんのコーヒーは?」
「一日一口まで」
「ケチ」
「嫌なら宇宙へ帰ってください」
「分かった」
巨大な黒い霧が収縮を始めた。
銀河が遠ざかる。
触手が細くなり、赤い眼も小さくなる。
数秒後、職員室の机の上には、手のひらほどのキュウが座っていた。
「とーちゃん」
「何です?」
「腹減った」
「成井さん。餌、残ってます?」
「旧ソ連の人工衛星片なら」
「合法的な物にしてください」
「では、壊れた携帯電話は?」
宇佐美が携帯を差し出した。
「食べていいよ」
「美琴さん、ほんまに?」
「新しいのを大安さんが買ってくれるから」
「公費の申請をするだけです!」
キュウは嬉しそうに携帯電話へ飛びついた。
胡蝶が腹を抱えて笑う。
「おっさん、ほんまに父親みたいやな!」
「その呼び方をやめてください」
「大安さん」
羽柴が声をかける。
「女の子の扱いを学ばないと、おじさんみたいになるって言ってましたよね」
「言いましたね」
「宇宙生物の扱いは、どこで学んだんです?」
「今、実地研修中です」
三嶋が笑った。
「現場を知るのは大切だな、室長」
「三嶋さん、他人事だと思ってます?」
「私は面倒見るぞ」
キュウが三嶋を見る。
「おかーちゃん?」
職員室が静まり返った。
三嶋の顔が固まる。
大安は、反射的に視線を逸らした。
遠藤が携帯端末へ記録を始める。
「高次元生命体が三嶋一等陸尉を母親として認識した可能性があります」
「記録するな!」
三嶋が叫んだ。
キュウは楽しそうに触手を振った。
「とーちゃん。おかーちゃん」
胡蝶が床を叩いて笑う。
猪俣も口元を押さえている。
宇佐美は携帯電話のカメラを向けた。
三嶋が大安を睨んだ。
「何とかしろ!」
「俺に言われても」
「お前が父親になったからだろ!」
「俺も被害者です!」
天野ひすいが、小さく笑った。
その日、日本列島は、いつもより少しだけ安定していた。
◇
午後十一時五十六分。
大安のアパート。
布団の上には、キュウが丸くなって寝ていた。
三嶋は警視庁の宿直室へ連れていこうとしたが、キュウが大安の上着から離れなかった。仕方なく自宅へ連れ帰ったのである。
冷蔵庫には新しいビールを入れた。
宇宙的存在への対策として、南京錠も取り付けた。
大安はキュウを布団の端へ移し、自分も横になった。
「あー、くそ。なんでこんなに忙しいんだ?」
目を閉じる。
四十秒ほどで意識が遠のいた。
「とーちゃん」
「……何です?」
「おしっこ」
大安は目を開いた。
「どこから出すんです?」
「分からへん」
「俺も分かりませんよ!」
その夜、警視庁広域情報統括室長は、高次元生命体の排泄方法を調べるため、午前四時まで眠れなかった。
なお、宇宙的生命体に排泄の必要がないことが判明したのは、翌朝のことである。