警視庁 広域(すぎる)情報(過多)統括(できない)室の(脅威)事件簿   作:駄文亭

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第五話 宇宙的幼体の保育先は所管外です

 午前六時十二分。

 

 大安文徳は、電子音ではなく咀嚼音で目を覚ました。

 

 硬いものを、細かく噛み砕く音である。

 

 枕元の時計を見る。

 

 目覚ましが鳴るまで、あと十八分。

 

 この十八分は、現在の大安にとって国家予算に換算できないほど貴重な時間だった。

 

「……キュウ」

 

 返事はない。

 

 代わりに、寝室の外から、ばきりという音が聞こえた。

 

 大安は布団から起き上がった。

 

 寝室を出る。

 

 六畳の居間には、黒い霧をまとった手のひらほどの宇宙的生命体が座っていた。

 

 その前に、昨夜まで無線通信機器だったものがある。

 

 家庭用ルーターである。

 

 アンテナは三本とも消え、筐体の角が大きく欠けていた。

 

 キュウの触手がルーターを掴み、口のない身体へ少しずつ取り込んでいる。

 

「何を食べてるんです?」

 

「朝ごはん」

 

「それは通信機器です」

 

「うまいで」

 

「味の問題じゃない」

 

 大安はルーターを取り上げようとした。

 

 キュウは触手を巻きつけ、抵抗する。

 

「離してください」

 

「あと一口」

 

「一口で全部なくなるでしょう」

 

「とーちゃん、ケチ」

 

「養育初日に家財を食べられた父親の気持ちを考えてください」

 

「父親なん?」

 

「違います」

 

「どっちやねん」

 

 昨夜、因果関係だけは確定してしまった。

 

 宇宙的な意味では、大安文徳はキュウの保護責任者であり、名付け親であり、父親に近い存在らしい。

 

 地球の法律上、どれに該当するかは未定である。

 

 大安はルーターの残骸を確認した。

 

 電源ランプは消えている。

 

 回線も死んでいる。

 

「どうしてこれを食べたんです?」

 

「腹減ったから」

 

「成井さんにもらった人工衛星の部品があったでしょう」

 

「あれ、夜食に食べた」

 

「一週間分だと言ってましたよ」

 

「育ち盛りや」

 

「宇宙的存在にも育ち盛りがあるんですか?」

 

「今できた」

 

 大安は額を押さえた。

 

 携帯電話を確認する。

 

 無線回線が死んだため、昨夜から届いていた通知が一斉に携帯回線へ流れ込んできた。

 

 未読、四十七件。

 

 うち三十一件が、キュウの処遇に関するものだった。

 

「朝から仕事を増やさないでくださいよ」

 

「ワイ、何もしてへん」

 

「ルーターを食べました」

 

「仕事とは関係ないやろ」

 

「買い直すのは俺です」

 

 キュウは少し考えた。

 

「経費で落とせへんの?」

 

「落ちません」

 

「公務員って大変やな」

 

「誰のせいですか」

 

 冷蔵庫の扉には、新しく取り付けた南京錠がある。

 

 大安は鍵を開けた。

 

 中にはビールが六本、ミネラルウォーター、栄養補助食品、調味料が少々。

 

 人間らしい食材は、ほとんど入っていない。

 

「とーちゃん」

 

「何です?」

 

「この家、食うもん少ないな」

 

「あなたが食べられる物は、普通の家庭にはありません」

 

「とーちゃんは何食うて生きとるん?」

 

「主に職場で」

 

「家族の食卓は?」

 

「家族じゃありません」

 

「父子家庭は大変やな」

 

「話を聞いてください」

 

 大安は栄養補助食品を一つ取り出した。

 

 封を切ろうとすると、キュウの触手が伸びてくる。

 

「これは俺のです」

 

「一口」

 

「昨日、コーヒーを一日一口と決めたでしょう」

 

「固形物は別契約や」

 

「誰が契約したんです?」

 

「宇宙では口約束も契約や」

 

「ここは日本です」

 

 大安は触手を払い、栄養補助食品を口へ放り込んだ。

 

 味気ない。

 

 それでもルーターよりは、人間向けの味がした。

 

     ◇

 

 午前七時五十五分。

 

 警視庁広域情報統括室の入口には、見慣れない看板が置かれていた。

 

高次元生命体取扱協議会

関係者以外立入禁止

 

 大安は看板を見た。

 

「俺も関係者なんですかね」

 

 肩に乗ったキュウが答える。

 

「とーちゃんやからな」

 

「一番深く関係してるでしょうね」

 

 扉を開ける。

 

 統括室の中には、すでに十人以上の人間が集まっていた。

 

 警察庁。

 

 内閣官房。

 

 防衛省。

 

 外務省。

 

 文部科学省。

 

 環境省。

 

 厚生労働省。

 

 東京都。

 

 宇宙航空研究開発機構。

 

 それぞれの担当者が机を囲み、分厚い資料を前にしている。

 

 遠藤真実は、その中央で説明資料を配布していた。

 

 三嶋あかねは壁際に立ち、露骨に退屈そうな顔をしている。

 

「室長、遅いです」

 

 遠藤が言った。

 

「始業前ですよ」

 

「協議会は七時三十分開始です」

 

「誰が決めたんです?」

 

「関係各機関です」

 

「俺に連絡は?」

 

「午前二時十四分にメールを送信しました」

 

「寝ていました」

 

「既読が付きませんでした」

 

「寝てたからですね」

 

「公務員の勤務態度として――」

 

 三嶋が間に入った。

 

「やめとけ。四十分しか寝てない人間に、午前二時のメールを読めって言うのは無茶だ」

 

「昨夜は二時間二十三分寝ました」

 

 大安が訂正する。

 

「増えたな」

 

「キュウが午前三時まで静かだったので」

 

 キュウが大安の肩から触手を上げた。

 

「ワイ、ええ子やで」

 

 協議会の参加者たちが一斉にキュウを見る。

 

 何人かが顔を青ざめさせた。

 

 環境省の担当者は、視線を合わせないよう資料へ目を落とした。

 

 宇宙航空研究開発機構の研究員だけが、強い興味を示している。

 

「対象個体が到着しましたので、協議を再開します」

 

 遠藤が言った。

 

「まず、対象の法的地位についてですが――」

 

「ちょっと待ってください」

 

 厚生労働省の担当者が手を上げた。

 

「本当に会話が可能なのですか?」

 

「可能です」

 

 大安が答える。

 

「キュウ。挨拶してください」

 

「おはようさん」

 

 キュウが触手を振った。

 

 担当者の顔が引きつる。

 

「日本語を?」

 

「昨日覚えました」

 

「教育は誰が?」

 

「自然習得です」

 

「主に大安さんと、例の高次元生命体の言葉を模倣しています」

 

 遠藤が補足する。

 

「教育環境には問題がありますね」

 

「俺のせいですか?」

 

「昨夜から『経費』『残業』『所管外』という言葉を頻繁に使用しています」

 

「親の背中を見て育っとるんや」

 

「親ではありません」

 

 東京都の担当者が資料をめくった。

 

「対象は未成年者に該当するのでしょうか」

 

「誕生からの経過時間は、一日と十時間ほどです」

 

 遠藤が答える。

 

「ただし精神発達と身体的成長が、地球上の生物とは一致しません」

 

「乳幼児として扱うべきでは?」

 

「排泄、睡眠、体温維持など、生物学的な養育は必要としていません」

 

「腹は減るで」

 

 キュウが言った。

 

「主食は?」

 

「高次元情報物質、人工衛星の外装材、電子機器、疲労と諦念が溶け込んだコーヒーです」

 

 成井舜佐が答えた。

 

 いつの間にか会議机の端へ座っている。

 

 参加者の何人かが、資料へそのまま書き写した。

 

 大安は止めた。

 

「最後のは書かなくていいです」

 

「重要な栄養源です」

 

「俺の疲労を餌として扱わないでください」

 

 防衛省の担当者が手を上げる。

 

「戦闘能力は?」

 

「不明です」

 

「昨日、星見総合学園を異空間へ取り込んだと報告されています」

 

「感情の過剰摂取による一時的膨張です」

 

「再発の可能性は?」

 

「あります」

 

 遠藤が即答した。

 

「危険物として、防衛省所管の施設で管理すべきでは?」

 

「うちの子を危険物扱いすんなや」

 

 キュウの赤い眼が細くなった。

 

 室内の照明が一瞬だけ暗くなる。

 

 三嶋が机へ手をついた。

 

「刺激しない方がいい」

 

「事実確認です」

 

「その事実確認で建物が異空間に沈む」

 

 防衛省の担当者は口を閉じた。

 

 文部科学省の担当者が代わりに発言する。

 

「知的生命体であるなら、教育を受ける権利について検討が必要です」

 

「学校へ通わせるんですか?」

 

 大安が尋ねる。

 

「年齢上は就学前ですが、知能水準によっては義務教育相当の教育も――」

 

「学校行きたい」

 

 キュウが言った。

 

「どうして?」

 

「とーちゃんが毎日行くんやろ?」

 

「俺が行くのは職場です」

 

「学校と何が違うん?」

 

「給料が出ます」

 

「残業代は?」

 

「出ません」

 

「学校より悪ない?」

 

 大安は返事をしなかった。

 

 三嶋が肩を震わせる。

 

 遠藤は笑っていない。

 

 ただし口元が少し緩んでいた。

 

「笑いました?」

 

「笑っていません」

 

「今、笑いましたよね」

 

「協議を続けます」

 

 外務省の担当者が手を上げた。

 

「対象の国籍についてですが、地球外文明との外交関係が存在しないため、日本国籍を付与する根拠はありません」

 

「宇宙籍や」

 

 キュウが言う。

 

「宇宙は国家ではありません」

 

「細かいなあ」

 

「入国手続きも行われていません」

 

「卵で来たからな」

 

「密入国に該当する可能性があります」

 

 キュウの触手が止まった。

 

「逮捕されるん?」

 

「現行制度では、あなたを処罰する法律がありません」

 

 大安が答える。

 

「よかった」

 

「ただし、今後作られる可能性はあります」

 

「とーちゃん、守って」

 

「犯罪をしなければ大丈夫です」

 

「ルーター食うた」

 

「器物損壊ですね」

 

「自首するわ」

 

「被害者は俺です」

 

「示談して」

 

「弁償できます?」

 

「出世払いで」

 

「成長したら何になるんです?」

 

「知らん」

 

 協議会は開始から三十分で、すでに本題を見失っていた。

 

     ◇

 

「結論から申し上げます」

 

 午前十時四十五分。

 

 三時間を超える協議の末、遠藤真実が資料を閉じた。

 

「現行法上、キュウを人間、動物、危険物、外交使節、難民、遺失物のいずれかへ分類することは困難です」

 

「三時間かけて、分類できないという結論ですか」

 

 大安が尋ねた。

 

「はい」

 

「統括できてませんね」

 

「対象が既存制度から外れています」

 

「うちの部署名みたいですね」

 

 警視庁広域情報統括室。

 

 扱う情報は広域すぎ、量は多すぎ、実際には統括できない。

 

 正確な名称と言えなくもなかった。

 

「そこで」

 

 遠藤は新しい資料を表示した。

 

「暫定措置として、警視庁が保護する重要参考生命体に指定します」

 

「犯罪捜査上の参考人ですか?」

 

「生命体です」

 

「新しい分類を作ったんですね」

 

「既存の分類へ入らない以上、必要です」

 

「保護責任者は?」

 

「大安室長です」

 

「どうして?」

 

「すでに因果接続が完了しています」

 

「俺の意思は?」

 

「名付け時に確認しなかったのが問題です」

 

 成井が言った。

 

「あなたが黙ってたからでしょう」

 

「可能性は説明しました」

 

「解除できないとは聞いてません」

 

「聞かれませんでした」

 

「普通、重要事項は先に言いますよ」

 

 キュウが触手を大安の頬へ当てた。

 

「とーちゃん、ワイのこと嫌なん?」

 

「嫌ではないです」

 

「好き?」

 

「その二択にするの、やめてもらえます?」

 

「好き?」

 

 キュウの赤い眼が近づく。

 

 大安は参加者たちの視線を感じた。

 

 国家機関の担当者十数名が、返答を待っている。

 

「……責任は取ります」

 

「好きとは言うてへん」

 

「日本の中年男性に、そこまで明確な感情表現を求めないでください」

 

 三嶋が吹き出した。

 

「宇宙生物にも逃げるんだな」

 

「三嶋さんなら言えます?」

 

「私は好きだぞ」

 

 即答だった。

 

 キュウが大安の肩から三嶋へ飛び移る。

 

「おかーちゃん!」

 

「それはやめろ」

 

「好き言うたやん」

 

「母親になるとは言ってない!」

 

「三嶋一等陸尉」

 

 遠藤が端末へ入力する。

 

「副保護責任者への就任に同意したと記録します」

 

「待て!」

 

「対象個体への好意と、保護意思を明確に表明しました」

 

「ただ可愛いと思ってるだけだ!」

 

「十分です」

 

「室長、止めろ!」

 

 大安は視線を逸らした。

 

「おめでとうございます」

 

「他人事にするな!」

 

 協議会の参加者たちは、粛々と資料を更新し始めた。

 

 こうしてキュウの保護責任者は、大安文徳。

 

 副保護責任者は、三嶋あかねとなった。

 

 本人たちの意思より、書類の方が早かった。

 

     ◇

 

 正午。

 

 問題は、保護責任者二人とも仕事を持っていることだった。

 

「勤務中、誰がキュウを見るんです?」

 

 三嶋が尋ねる。

 

「統括室に置くしかありません」

 

「さっき、プリンターを食べようとしていました」

 

 遠藤が指差す。

 

 キュウは大型複合機の給紙口へ触手を入れていた。

 

「キュウ。離れてください」

 

「紙だけ一枚」

 

「紙は食べても栄養にならないでしょう」

 

「個人情報の味がする」

 

「絶対に食べるな!」

 

 大安が引き剥がす。

 

 キュウの触手には、人事資料が一枚握られていた。

 

「誰の資料です?」

 

「とーちゃんの」

 

「返してください」

 

「給与、思ったより安いな」

 

「読むな!」

 

 三嶋が資料を覗き込もうとする。

 

「ちょっと見せろ」

 

「三嶋さんも見ない!」

 

「部下として上司の待遇を知っておくのは必要だろ」

 

「必要ありません」

 

「残業代、本当にないんだな」

 

「返してください!」

 

 大安が資料を取り返す。

 

 遠藤は冷静に言った。

 

「機密情報を摂取する可能性がある以上、統括室内での放し飼いは危険です」

 

「放し飼い言うな」

 

 キュウが抗議する。

 

「では、常時監視が必要です」

 

「誰が?」

 

 三人が成井を見た。

 

 成井は首を振る。

 

「本日は依頼があります」

 

「どんな依頼です?」

 

「消えた猫の捜索です」

 

「宇宙的生命体より猫を優先するんですか?」

 

「依頼人はすでに料金を支払っています」

 

「私立探偵として正しいな」

 

 三嶋が感心する。

 

「飼い猫が消えた場所は、封鎖された地下神殿の付近です」

 

「普通の猫じゃないですね」

 

「猫は普通です。地下神殿が普通ではありません」

 

「統括室案件になりません?」

 

「所轄へ相談してください」

 

「成井さんが言うんですか」

 

 大安は時計を見た。

 

 午後からは、北海道警との広域詐欺事件に関する会議。

 

 遠藤は分析担当。

 

 三嶋は別件の現場確認。

 

 誰もキュウを監視できない。

 

「学校は?」

 

 三嶋が言った。

 

「星見総合学園?」

 

「昨日、四人がキュウを落ち着かせただろ。天野ひすいとも相性がいい」

 

「生徒へ宇宙生物を預けるんですか?」

 

「警察官を一人つければいい」

 

「誰を?」

 

「室長」

 

「俺は会議です」

 

「遠藤」

 

「分析業務があります」

 

「私も現場だ」

 

 三人は黙った。

 

 キュウが触手を上げる。

 

「一人で行けるで」

 

「駄目です」

 

「電車乗れる」

 

「切符は?」

 

「食べる」

 

「乗車券を食べたら無賃乗車です」

 

「難しいなあ、地球」

 

 大安の携帯電話が鳴った。

 

 発信者は羽柴信彦だった。

 

 大安は嫌な予感を覚えた。

 

「はい、羽柴君」

 

『大安さん、学校の屋上に変な穴が開いてるんですけど』

 

「どんな穴?」

 

『中が宇宙みたいになってます』

 

 大安はキュウを見る。

 

 キュウも大安を見た。

 

「キュウ」

 

「ワイちゃうで」

 

「まだ何も言ってません」

 

「疑っとる顔や」

 

『あと、胡蝶さんが穴に石を投げて、猪俣さんが入ろうとして、宇佐美さんが撮影して、天野さんが穴から声がするって――』

 

「全員その場から離して」

 

『僕にできると思います!?』

 

「君ならできる」

 

『根拠は?』

 

「毎回、生き残ってる」

 

『それ、前にも聞きました!』

 

 大安は通話を切った。

 

「三嶋さん」

 

「分かってる。車を回す」

 

「遠藤さんは学校周辺の空間異常を解析」

 

「午後の会議は?」

 

「延期します」

 

「北海道警への説明は?」

 

「人類の危機が発生したので」

 

「先方も慣れてきていますね」

 

「慣れさせたくなかったなぁ」

 

 大安は上着を掴んだ。

 

 キュウが肩へ飛び乗る。

 

「ワイも行く」

 

「留守番してください」

 

「保護者同伴やろ?」

 

「俺が保護者なんです」

 

「せやから同伴や」

 

 言葉としては正しかった。

 

 大安は反論できなかった。

 

     ◇

 

 星見総合学園の屋上には、直径二メートルほどの黒い穴が浮かんでいた。

 

 床に開いているのではない。

 

 空間そのものが丸く抜け落ち、その向こうに星々が見えている。

 

 胡蝶わかばは、手頃な石を拾って穴へ投げ入れた。

 

 石は暗闇へ吸い込まれ、消えた。

 

 三秒後。

 

 頭上から同じ石が落ちてきた。

 

「痛っ!」

 

 胡蝶の頭に当たる。

 

「自業自得ね」

 

 猪俣睦が言った。

 

「誰が上から投げたんや!」

 

「自分でしょ」

 

「うちは穴に投げたんや!」

 

「穴が上に繋がってたんじゃない?」

 

 宇佐美美琴は携帯電話を穴へ向けていた。

 

「内部の電子的構造は確認できない。プログラムでも、機械でもないみたい」

 

「だから危ないんだよ!」

 

 羽柴信彦が叫ぶ。

 

「大安さんが来るまで近づかないで!」

 

「羽柴さん」

 

 天野ひすいが、穴の前に立っている。

 

「声がします」

 

「何て?」

 

「お腹が空いたって」

 

 羽柴は嫌な予感を覚えた。

 

「ひすいちゃん、離れよう」

 

「でも、苦しそうです」

 

 穴の中から、細長い何かが伸びた。

 

 黒い触手。

 

 天野ひすいの手首へ巻きつく。

 

「ひすいちゃん!」

 

 羽柴が腕を掴む。

 

 触手は強い力で、ひすいを穴へ引き込もうとした。

 

 猪俣が剣を抜く。

 

「切る!」

 

「待って!」

 

 ひすいが叫ぶ。

 

「悪いものじゃありません!」

 

「引きずり込もうとしてるでしょ!」

 

 胡蝶も触手を掴む。

 

「話は引きずり出してから聞いたる!」

 

「胡蝶さん、力任せに引っ張らないで!」

 

 羽柴、胡蝶、猪俣の三人が、天野ひすいを引く。

 

 穴の向こうからも、何かが引く。

 

 宇佐美の携帯電話が激しく点滅した。

 

「まずい。空間の境界が広がってる!」

 

 穴が直径三メートルへ拡大する。

 

 屋上の床が歪み始めた。

 

「何をしてるんですか!」

 

 屋上の扉が開き、大安文徳が駆け込んできた。

 

 三嶋と遠藤も続く。

 

「大安さん!」

 

「事情は後。全員、手を離して!」

 

「離したらひすいが落ちる!」

 

 猪俣が叫ぶ。

 

「キュウ!」

 

 大安の肩から、黒い影が飛んだ。

 

 キュウは空中で触手を広げ、天野ひすいへ巻きついていた触手を掴む。

 

「お前、どこの部署や!」

 

 穴の向こうから、低い声が響いた。

 

「腹減ったぁ……」

 

 キュウが赤い眼を細める。

 

「知らん声やな」

 

「あなたの仲間では?」

 

 大安が尋ねる。

 

「分霊はいっぱいおるから、全部は知らん」

 

「宇宙的存在にも親戚付き合いの薄さがあるんですね」

 

「数が多すぎるんや」

 

 キュウが穴の中へ触手を伸ばす。

 

 数秒後。

 

 黒い穴から、丸い影が引きずり出された。

 

 キュウより少し大きい。

 

 角はない。

 

 赤い眼が二つあり、身体の周囲に半透明の翼のような膜がある。

 

「腹減ったぁ……」

 

 そいつは屋上へ転がり出ると、床に置かれていた宇佐美美琴の携帯電話へ飛びついた。

 

「ちょっと!」

 

 一口で携帯電話が半分消えた。

 

「また新品にしてもらうから!」

 

「誰が買うんです?」

 

 大安が叫ぶ。

 

「保護責任者」

 

「俺はキュウの保護責任者です!」

 

 新たな宇宙生物は、残り半分も食べた。

 

 身体が少し膨らむ。

 

「うまい」

 

 遠藤が端末を操作する。

 

「新たな高次元生命体の出現を確認。個体識別が必要です」

 

「今度は誰も名前を付けないでくださいよ」

 

 大安が念を押す。

 

 三嶋が新しい宇宙生物を見た。

 

「二つ目だから、ツーでいいんじゃないか?」

 

 統括システムから、警告音が鳴った。

 

【高次元生命体・個体識別名:ツー】

【地球上における保護責任者:三嶋あかね】

【因果接続:完了】

 

 三嶋の顔が固まった。

 

「待て」

 

「成井さんの説明を忘れたんですか!」

 

 大安が叫ぶ。

 

「識別名称のつもりだった!」

 

「俺もそうでした!」

 

 ツーが三嶋の胸元へ飛びつく。

 

「おかーちゃん」

 

 キュウが大安の肩で笑った。

 

「兄弟できたな、とーちゃん」

 

「他人の子です!」

 

「副保護責任者やろ?」

 

「大安」

 

 三嶋が低い声で呼んだ。

 

「何でしょう」

 

「お前も責任取れ」

 

「どうして俺が?」

 

「夫婦は共同責任だ」

 

 屋上が静まり返った。

 

 三嶋本人も、自分が何を言ったか気づいたらしい。

 

 遠藤の指が端末の上で止まる。

 

 宇佐美美琴は、壊された携帯電話の代わりに、羽柴の端末を借りて撮影を始めた。

 

 胡蝶わかばが満面の笑みを浮かべる。

 

「今、夫婦言うたな?」

 

「言ってない」

 

「言うたで!」

 

「共同保護責任者という意味だ!」

 

「夫婦って聞こえました」

 

 天野ひすいが小さく言った。

 

 猪俣睦も頷く。

 

「私にもそう聞こえた」

 

「全員、忘れろ!」

 

 三嶋の怒声が屋上へ響いた。

 

 ツーが嬉しそうに翼を広げる。

 

 キュウも触手を振った。

 

「とーちゃん、おかーちゃん、弟」

 

「家族増えたなぁ」

 

「増えてません!」

 

 大安と三嶋の声が重なった。

 

 遠藤が静かに記録を再開する。

 

「高次元生命体二個体が、大安室長と三嶋一等陸尉を共同の両親として認識した可能性――」

 

「記録するな!」

 

 三嶋が叫んだ。

 

「公的記録は必要です」

 

「消せ!」

 

「情報の改竄になります」

 

 大安は空を見上げた。

 

「あー、くそ。どうして宇宙生物は増えるんだ?」

 

「ワイら、寂しがり屋やからな」

 

 キュウが答えた。

 

 その日、日本は滅びなかった。

 

 ただし、警視庁広域情報統括室では、宇宙的幼体二体分の保育計画と、保護責任者二名の関係性について、また新たな協議が始まることとなった。

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