警視庁 広域(すぎる)情報(過多)統括(できない)室の(脅威)事件簿 作:駄文亭
日曜日、午前七時三十二分。
大安文徳は、自宅の食卓で一枚の予定表を見つめていた。
九時三十分 警視庁広域情報統括室集合
十時三十分 水族館到着
十二時三十分 昼食
十四時 イルカショー
十六時 解散
目的:家族交流及び高次元生命体の情緒安定
作成者は遠藤真実。
分刻みで組まれた日程の余白には、緊急事態を想定した予備時間が十五分ずつ確保されている。
水族館へ行く予定表としては、あまりにも硬い。
「イルカショー、楽しみやな」
食卓の上でキュウが触手を振った。
「イルカ、食べてええ?」
「駄目です」
「見るだけ?」
「見るだけです」
「触るんは?」
「施設側が許可した場合だけです」
「舐めるんは?」
「駄目です」
「一口だけ」
「駄目です」
大安は予定表を裏返した。
裏面には注意事項が記載されている。
キュウ及びツーへの禁止事項
一、館内設備を摂取しない
二、展示生物を摂取しない
三、来館者の感情を過剰摂取しない
四、水槽内部へ侵入しない
五、宇宙的法則による展示内容の改変を行わない
六、保護者の許可なく分裂・増殖しない
「六番目は必要ですか?」
「ツーが昨日、小さいの三つに分かれたやろ」
「あれは寝ぼけていただけだそうです」
「寝ぼけて分裂する方が怖いで」
キュウは大安のコーヒーカップへ触手を伸ばした。
「一口」
「今日はまだ駄目です」
「日曜やで」
「曜日は関係ありません」
「家族サービスの日やろ」
「その言葉をどこで覚えたんです?」
「児童相談所のお姉さん」
「余計な教育を」
キュウの触手が萎れた。
「とーちゃん、家族サービス嫌なん?」
「嫌ではありません」
「楽しみ?」
「人類滅亡予告を二件、昨夜のうちに処理したので、予定どおり行けることには安堵しています」
「楽しい?」
「……まだ水族館へ着いてもいません」
「楽しみ?」
大安はコーヒーを一口飲んだ。
「少しは」
キュウの赤い眼が細くなる。
「ワイも」
大安はカップの蓋へ、ごく少量のコーヒーを注いだ。
「今日の一口です」
「まだ朝やで?」
「さっき欲しがったでしょう」
「交渉早すぎたわ」
「契約は成立しました」
「とーちゃん、日曜でも公務員やなあ」
◇
午前九時二十七分。
警視庁広域情報統括室前。
三嶋あかねは、普段の戦闘服でも制服でもなく、ジーンズに薄手のジャケットという格好で立っていた。
肩には小さなリュックサック。
その上にツーが乗っている。
「おかーちゃん、今日は銃ないん?」
「持ってる」
「あるんや」
「見える所には出してない」
大安は三嶋の腰回りを一瞥した。
「家族交流ですよ」
「警察官が言うな。お前も拳銃を持ってるだろ」
「職務上の携帯です」
「私もだ」
「今日は有給では?」
「緊急招集に備えているだけだ」
「それを休暇とは言いません」
三嶋は大安の服装を見る。
白いシャツ。
紺色のジャケット。
黒いズボン。
普段とほとんど変わらない。
「お前、私服それしかないのか?」
「色違いが三着あります」
「同じだろ」
「組み合わせが違います」
「誤差だ」
キュウが大安の肩から、三嶋を見る。
「おかーちゃん、いつもと違うな」
「何が?」
「戦う服やない」
「休みだからな」
「可愛いで」
三嶋の動きが一瞬止まった。
「……そうか」
「おとーちゃんも思うやろ?」
「どうして俺に振るんです?」
「家族やから」
「関係ありません」
三嶋が大安を見る。
「で?」
「何がです?」
「違うと言うなら、それでいい」
「似合っていますよ」
「先に言え」
「聞かれなかったので」
「そういう所だぞ」
統括室の扉が開いた。
遠藤真実が、書類の束を抱えて出てくる。
彼女も今日は私服だった。
淡い色のブラウスに、細身のスラックス。髪は普段より柔らかくまとめられている。
「全員揃っていますね」
「遠藤さんも来るんですか?」
大安が尋ねた。
「緊急時の代替保護者です」
「叔母や」
キュウが言った。
「代替保護者です」
「叔母ちゃん」
「違います」
「遠藤さん」
大安が止める。
「今日は家族交流ですから、細かいことはいいでしょう」
「細かくありません」
三嶋が笑う。
「諦めろ。書類上も代替保護者だ」
「私は保護支援担当者です」
「呼び方の違いやな」
キュウが頷く。
「違います」
エレベーターが到着した。
扉が開く。
中には成井舜佐が立っていた。
外套姿。
腰には長剣。
右手には、猫用のキャリーケースを持っている。
「成井さん」
大安はケースを見る。
「何です?」
「猫です」
中から、灰色の猫が顔を出した。
「地下神殿にいた猫ですか?」
「はい。飼い主へ返却する途中です」
「どうして水族館へ?」
「依頼人が水族館の職員です」
「猫を職場へ連れてくるんですか?」
「本日は休暇なので、自宅にいるはずです」
「では、どうしてこちらに?」
「皆さんが水族館へ行くと聞き、同乗しようと思いまして」
三嶋が眉を寄せる。
「お前も家族交流に来るのか?」
「私は近所の変なおじさんです」
成井は真顔で答えた。
「自覚あったんですね」
「キュウから与えられた社会的役割です」
「受け入れないでください」
遠藤が予定表を確認する。
「車両の定員には余裕があります。ただし猫の入館は認められません」
「返却してから入館します」
「入るんですか?」
「せっかくですので」
大安は何か言おうとして、やめた。
成井を一人で都内へ放つより、視界へ入れておいた方が安全だった。
◇
午前十時四十一分。
東京湾沿岸にある大型水族館。
休日ということもあり、入口前には家族連れと観光客が列を作っていた。
「人、多いな」
ツーが三嶋のリュックから顔を出す。
「日曜日だからです」
遠藤が答えた。
「全員、家族?」
「そうとは限りません」
「恋人?」
「そういう人もいるでしょう」
「とーちゃんとおかーちゃんは?」
「保護責任者です」
大安と三嶋が同時に答えた。
近くにいた親子連れが、少しだけ距離を取った。
「声を揃えるから余計に怪しいんです」
遠藤が言う。
「遠藤さんが訂正してくださいよ」
「事実を説明すると長くなります」
「皆、そうやって諦めるんですね」
入館手続きは事前に済ませてあった。
一般来館者用の入口ではなく、職員通用口へ案内される。
待っていたのは、館長と警備責任者、飼育部門の主任だった。
「本日はご来館ありがとうございます」
館長が深く頭を下げる。
「こちらこそ、特別な対応をしていただき申し訳ありません」
大安も頭を下げた。
「対象個体については、内閣官房及び東京都から説明を受けております」
館長はキュウとツーを見た。
二体も触手と翼を下げて頭を下げる。
「お世話になります」
「なります」
「礼儀正しいですね」
「昨日、練習させました」
三嶋が答える。
「人間の言葉を完全に理解しているのでしょうか」
飼育主任が興味深そうに尋ねた。
「大体は」
キュウが答える。
「大人が誤魔化しとる時も分かるで」
「それは便利ですね」
「不便ですよ」
大安は即答した。
館長は館内図を広げた。
「一般来館者との接触を避けるため、開館エリアとは別の経路も用意しております。ただ、お二人からは普通の水族館を経験させたいとの要望があったと」
「俺は出していません」
大安が遠藤を見る。
「児童相談センターの支援計画です」
「一般的な家族交流を経験させるには、一般来館者と同じ空間で行動する必要があります」
「世界が終わった場合、一般的な経験も何もなくなりますよ」
「そのための監視体制です」
遠藤は周囲を示した。
館内警備員。
私服警察官。
自衛隊の特殊作戦要員。
壁面の監視カメラへ接続した統括室の遠隔監視班。
水族館へ遊びに来た家族の体制ではない。
「遠藤」
三嶋が言う。
「これは監視されてる方が落ち着かないぞ」
「緊急時の被害を考えれば必要です」
「でも、叔母ちゃんも楽しみやろ?」
キュウが尋ねる。
「私は任務です」
「イルカ見たい?」
「……見たことはあります」
「見たい?」
「業務上、確認します」
「見たいんやな」
「違います」
大安は館長へ頭を下げた。
「何か問題が起きた場合は、すぐ俺たちへ連絡してください」
「承知しました」
「特に電子制御設備へは近づけないようにします」
「一部の水槽は、生命維持装置が完全に電子制御されています」
「食べた場合は?」
ツーが尋ねた。
「魚が死にます」
飼育主任は、はっきり答えた。
ツーの翼が止まった。
「食べへん」
「偉いですね」
三嶋が頭を撫でる。
「生き物が困るなら、食べへん」
キュウも頷いた。
「約束です」
大安が言う。
「うん」
「水槽にも入りません」
「うん」
「展示生物を連れて帰りません」
「うん」
「勝手に宇宙へ繋ぎません」
「……うん」
「今、間がありましたね」
「気のせいや」
◇
最初の展示は、熱帯魚の大水槽だった。
青い水の中を、無数の魚が群れになって泳いでいる。
色鮮やかな小魚。
ゆっくり進むエイ。
底を這うサメ。
岩陰に隠れるウツボ。
キュウとツーは、水槽の前で動かなくなった。
「すごいな」
「きれい」
普段なら落ち着きなく周囲の物へ触手を伸ばす二体が、ただ静かに魚を見ている。
大安は少し離れた場所から、その様子を見た。
「こういうのも見るんですね」
「当たり前だろ」
三嶋が言う。
「子どもなんだから」
「地球外生命体ですよ」
「子どもだ」
「両立するんですね」
「するだろ」
キュウが水槽へ触手を近づけた。
大安は反射的に止めようとする。
だが触手はガラスへ触れず、その手前で止まった。
「とーちゃん」
「何です?」
「魚って、ずっとここにおるん?」
「種類によります」
「狭ない?」
「野生より狭いでしょうね。ただ、水質と餌は管理され、外敵もいません」
「幸せ?」
大安は答えに詰まった。
「魚に聞かないと分かりません」
「聞けるで」
「聞けるんですか?」
「ちょっとだけ」
キュウの赤い眼が淡く光る。
水槽の魚たちが、同時に動きを止めた。
遠藤が端末を見る。
「微弱な精神共鳴を確認」
「止めさせた方がいいですか?」
三嶋が尋ねる。
「出力は安定しています。現時点で異常なし」
数秒後。
魚たちが一斉にキュウの前へ集まった。
「何て言うてる?」
ツーが聞く。
「飯まだか、やて」
飼育主任が時計を見る。
「給餌時間は十一時半です」
「合ってますね」
大安が感心する。
「もう一つ言うとる」
「何です?」
「人間、こっち見すぎ」
水槽前に並ぶ来館者たちを、魚が見返している。
「展示されていますから」
「魚からしたら、人間が展示物かもしれへんな」
成井が頷いた。
「観測者と被観測者の関係は、視点によって反転します」
「家族交流中なので、難しい話は後でお願いします」
「一般人にも分かる説明ですが」
「分かりやすさの基準が違います」
◇
ペンギン展示。
ツーはペンギンの歩き方を真似し始めた。
空中に浮いているので、足はない。
それでも身体を左右へ揺らしながら進んでいる。
「似てる?」
「足がありません」
遠藤が答える。
「雰囲気は似てるぞ」
三嶋が言った。
「おかーちゃんもやって」
「やらない」
「家族交流」
「その言葉を便利に使うな」
キュウが大安を見る。
「とーちゃんは?」
「やりません」
「保護責任者の模範行動」
「どういう模範です?」
羽柴信彦たち五人も、少し遅れて水族館へ到着していた。
正確には、キュウとツーが同級生を誘いたいと言い出したため、学校側と保護者の許可を取り、一般の友人枠で参加している。
胡蝶わかばが、左右へ身体を揺らしながら歩いた。
「こんな感じやろ」
「似てない」
猪俣睦が即答する。
「何がや!」
「ペンギンは、もっと可愛い」
「喧嘩売っとるんか!」
「事実を言っただけよ」
二人の感情に反応し、キュウの周囲へ黒い霧が浮かんだ。
大安が二人の間へ入る。
「喧嘩するなら、別行動にしますよ」
「うちは悪ない!」
「胡蝶が先に絡んだんでしょ!」
「どちらも静かに」
「大安さん」
羽柴が言った。
「最近、本当に引率の先生みたいですね」
「警察官です」
「保護者でもありますよね」
「それは否定しません」
羽柴が目を丸くした。
「否定しなくなった」
「保護責任者であることは事実ですから」
「父親は?」
「否定します」
「そこは残ってるんですね」
天野ひすいは、ガラス越しに泳ぐペンギンを見つめていた。
「空を飛んでいるみたいですね」
「水の中を?」
羽柴が隣へ立つ。
「はい。わたしたちは、空気の海にいるのかもしれません」
「ひすいちゃん、時々成井さんみたいなこと言うね」
「失礼ですね」
成井が背後から言った。
「聞いてたんですか?」
「近くにいましたので」
「急に出てこないでください!」
◇
午後零時二十六分。
館内レストラン。
大安たちは、窓際の長いテーブルを囲んでいた。
キュウとツーには、特別食として廃棄予定の小型電子機器と、人工的に生成された情報物質が用意されている。
飼育主任と統括室技術班が協力して作ったものだ。
透明な皿に、薄い銀色の板が三枚。
「いただきます」
二体が触手を合わせる。
「ちゃんと挨拶できましたね」
遠藤が記録する。
「何でも記録するんですね」
大安が尋ねる。
「養育支援記録です」
「叔母ちゃん、褒めて」
「私は叔母ではありません」
「挨拶、偉かった?」
「……偉かったです」
二体が嬉しそうに食べ始める。
三嶋は魚介カレー。
大安はサンドイッチとコーヒー。
遠藤はパスタ。
成井はイカ墨料理を注文していた。
「それ、真っ黒ですね」
羽柴が言う。
「イカ墨です」
「知ってますけど、成井さんが食べると儀式みたいで怖いんですよ」
「これは予兆です」
「何の?」
「巨大な頭足類が現れます」
全員の動きが止まった。
大安はサンドイッチを皿へ戻した。
「いつ?」
「近いうちに」
「どこへ?」
「ここです」
「根拠は?」
「イカ墨パスタを注文した時から、厨房の排水が逆流しています」
「それは設備故障では?」
「逆流した水から、深海の匂いがします」
「成井さん」
大安は真顔で言った。
「どうして注文した時点で言わなかったんです?」
「料理が来るまで確信がありませんでした」
「今は?」
「九割です」
三嶋が立ち上がる。
「警備へ連絡する」
「待ってください」
遠藤が館内システムへ接続する。
「現時点で、水質、圧力、排水系統に異常は――」
館内の照明が一度だけ消えた。
数秒後、非常灯が点灯する。
警報が鳴った。
『館内設備に異常が発生しました。係員の指示に従い――』
アナウンスの途中で音声が途切れた。
レストランの大型モニターへ、水槽監視映像が映る。
深海生物展示区域。
巨大ダイオウイカの標本展示室。
標本だったはずのダイオウイカが、動いている。
十本の腕がゆっくりと広がり、保存液の入った巨大水槽の内壁を押していた。
「標本ですよね?」
大安が飼育主任へ尋ねる。
「はい。死亡後、特殊保存処理を施した個体です」
「生き返っています」
「見れば分かります!」
水槽の表面へ亀裂が走る。
三嶋が大安を見る。
「どうする?」
「館内の避難を最優先。遠藤さんは警備システムを掌握。三嶋さんは現場封鎖。成井さんは原因を」
キュウの触手が止まっていた。
赤い眼が、食事用の銀色の板へ向いている。
皿は空だった。
その隣。
壁面に設置されていた水槽制御用の端末が、半分なくなっている。
「キュウ」
大安の声が低くなる。
「何を食べました?」
「……間違えた」
「何を?」
「皿の横に、似たのあったから」
「水槽の制御端末を食べましたね?」
「一口だけ」
「一口で半分ありません!」
遠藤が消失した端末を調べる。
「深海展示区域の環境制御系に接続されています。安全装置の一部が停止」
「でも、標本が生き返る理由にはならないでしょう」
「端末内に、展示生物の生体情報が記録されていました」
成井が説明する。
「キュウは情報と機械を同時に摂取し、一部を周囲へ放出した。その結果、記録上の生体状態が現実へ反映されたのでしょう」
「一般人にも分かるように!」
羽柴が叫ぶ。
「キュウが食べたせいで、イカが生き返りました」
「最初からそう言ってください!」
モニターの中で、水槽が破裂した。
大量の保存液とともに、巨大なダイオウイカが展示室へ滑り出す。
腕を床へ叩きつけ、壁を破壊。
館内通路へ進入した。
「きいてくれよぉ」
低い声が、館内放送から響く。
大安がモニターを見る。
「喋った」
「生体情報だけでなく、キュウの言語構造も転写されています」
遠藤が言った。
「余計なものまで!」
「腹減ったぁ」
巨大ダイオウイカの腕が、通路の売店へ伸びる。
展示案内板。
券売機。
監視カメラ。
電子機器だけを器用に掴み、口へ運んでいく。
「キュウと食性まで同じですね」
「感心してる場合ではありません」
大安は通信端末を取った。
「全館避難。巨大生物は電子機器を優先して摂取します。携帯電話を捨てる必要はありませんが、電源を切ってください。刺激しないように」
『室長』
遠藤が通信へ割り込む。
『来館者の一部が撮影を続けています』
「止めさせてください」
『映えるそうです』
「命より映像を優先しないで!」
◇
巨大ダイオウイカは、中央大水槽の前まで移動していた。
全長は十五メートルを超えている。
床を這う巨大な腕が、案内表示や照明設備へ伸びる。
幸い、人間を襲う様子はない。
ただし館内設備は、順調に食べられている。
「被害額、現時点で一億円を超えました」
遠藤が報告する。
「児童相談センターへ何と報告すればいいんです?」
大安が尋ねる。
「保護対象が水族館の設備を摂取し、展示標本を蘇生させたと」
「そのままですね」
「事実です」
三嶋が拳銃を構えた。
「目を撃てば止まるか?」
「生き返った直後です。殺すのは最後の手段で」
飼育主任が懇願する。
「貴重な個体なんです!」
「人が襲われたら撃つ」
「それは当然です」
猪俣睦が剣を抜く。
「腕を切ればいいんでしょ」
「館内で刃物を振り回さないでください」
「非常時でしょ!」
「切断した腕も動く可能性があります」
成井が言う。
「増えるんですか?」
羽柴が青ざめる。
「タコやイカの腕には、かなりの自律性があります」
「宇宙的な意味じゃなくて、普通に怖い!」
胡蝶わかばが拳を鳴らす。
「ほな、頭を殴る」
「胡蝶さんの拳で止まる大きさではありません」
「やってみな分からんやろ」
「分かります」
天野ひすいは、巨大ダイオウイカを静かに見つめていた。
「怒ってはいません」
「分かるんですか?」
大安が尋ねる。
「混乱しています。目を覚ましたら、知らない場所にいて、お腹が空いていて……帰りたいのだと思います」
「帰る場所は深海か」
三嶋が水槽を見る。
「でも、ここから海へ出すのは無理だぞ」
水族館は海に近い。
しかし巨大ダイオウイカを安全に海まで移動させる経路はない。
そもそも、生き返った個体が通常の海中で生存できる保証もなかった。
「キュウ」
大安が呼ぶ。
キュウは、彼の肩の後ろへ隠れている。
「……何?」
「話せますか?」
「たぶん」
「謝ってください」
「今?」
「今です」
「イカに?」
「あなたが原因でしょう」
キュウはゆっくりと前へ出た。
巨大ダイオウイカの正面へ浮かぶ。
赤い眼と、巨大なイカの眼が向き合った。
「ごめんなさい」
「腹減ったぁ」
「勝手に起こして、ごめん」
「帰りたい」
「どこへ?」
「暗いところ」
館内の照明がちらつく。
「深い海か?」
「もっと暗いところ」
成井が目を細めた。
「この個体が求めているのは、海ではありません」
「では?」
「死です」
周囲が静まり返った。
「死んどったのに、起こされた」
巨大ダイオウイカの声が、館内へ響く。
「眠りたい」
キュウの触手が萎れる。
「ワイ、悪いことした」
「そうですね」
大安は否定しなかった。
「でも、元に戻す方法を考えましょう」
「殺すん?」
「分かりません」
「とーちゃん、何でも知っとるんやないの?」
「知らないことの方が多いです」
「どうするん?」
「助けを求めます」
大安は成井を見る。
「戻せますか?」
「生命と死の境界を再度固定すれば」
「どうやって?」
「キュウが取り込んだ生体情報を回収し、元の記録へ戻します」
「キュウは?」
「一時的に存在が不安定になります」
「危険性は?」
「消滅する可能性があります」
キュウの赤い眼が揺れた。
三嶋が成井を睨む。
「他の方法は?」
「ダイオウイカを生かしたまま維持することも可能です。ただし、現在の状態は高次元情報によって無理に生命活動を再現しています。長期間の安定は保証できません」
「苦しいんか?」
キュウが尋ねた。
「苦しい」
巨大ダイオウイカが答えた。
「眠りたい」
キュウは大安を見た。
「ワイ、返す」
「危険です」
「ワイが食べたんや」
「それでも」
「悪いことしたら、叱るんやろ?」
「はい」
「直せるなら、直すんやろ?」
大安は言葉を失った。
自分が教えたことだった。
悪いことをした。
なら、謝る。
直せるものは直す。
責任を取る。
それは大安文徳が、世界を救う時にも、報告書を書く時にも、変えずに守ってきた原則だった。
「消えたら、どうするんです」
「とーちゃんが名前呼んで」
「それで戻れる保証は?」
「家族やから」
「宇宙的根拠になってませんよ」
「宇宙では、それで十分や」
三嶋が大安の肩へ手を置いた。
「やらせろ」
「三嶋さん」
「私たちが戻す」
「方法がありません」
「成井がいる。遠藤がいる。私もいる。お前もいる」
「それで何ができると?」
「何とかする。それが仕事だろ」
「今日は休暇です」
「なら家族の仕事だ」
大安は三嶋を見た。
彼女は笑っていない。
だが迷ってもいなかった。
「……成井さん」
「準備します」
成井が長剣を抜く。
遠藤は統括システムへ接続した。
「館内の電子設備をすべて遮断。キュウとダイオウイカの情報接続だけを抽出します」
「ツー」
三嶋が呼ぶ。
「キュウを支えられるか?」
「できる」
ツーはキュウへ触手を伸ばした。
「兄ちゃん、帰ってきて」
「弟やろ?」
「今日は弟でええ」
「何で上からやねん」
二体の赤い眼が、わずかに細くなった。
巨大ダイオウイカが、ゆっくりと腕を広げる。
「眠りたい」
「うん」
キュウが近づく。
「おやすみ」
成井の剣が、空間を横へ切り裂いた。
ダイオウイカとキュウの間に、無数の光の糸が現れる。
遠藤が叫ぶ。
「生体情報の流出を確認!」
「キュウ!」
大安が手を伸ばす。
キュウの身体から、黒い霧が抜けていく。
巨大ダイオウイカの身体も、少しずつ透明になる。
「とーちゃん」
「ここにいます」
「名前、呼んで」
「キュウ」
「もう一回」
「キュウ」
「もう一回」
「キュウ!」
赤い眼が消えかける。
ツーがキュウへ巻きつく。
「兄ちゃん!」
三嶋もツーの身体を掴んだ。
「離すな!」
「うん!」
大安は両手でキュウを抱えた。
触感はない。
冷たい霧だけが指の間から抜けていく。
「戻ってきてください」
「命令?」
「お願いです」
「とーちゃんが?」
「そうです」
「珍しいな」
「いいから戻ってこい!」
巨大ダイオウイカの身体が、最後に一度だけ動いた。
「ありがとう」
その声を残し、光の粒となって消える。
床には、元の標本だけが横たわっていた。
保存処理された、動かない巨大ダイオウイカ。
キュウの姿もない。
「キュウ?」
大安の手の中には、何も残っていなかった。
館内に、静かな水音だけが響く。
◇
「情報接続は切断されました」
遠藤が端末を操作する。
「キュウの反応は?」
「検出できません」
三嶋が成井を見る。
「消えたのか?」
「分かりません」
「分からないで済ませるな!」
「高次元生命体の消滅と、地球側から観測できない状態は区別できません」
「一般人にも分かるように!」
羽柴が叫ぶ。
「どこかにいる可能性があります」
大安は動かなかった。
両手を開いたまま、そこに立っている。
ツーが周囲を飛び回る。
「兄ちゃん!」
返事はない。
「キュウ!」
水槽の中。
天井裏。
床下。
何度呼んでも、赤い眼は現れない。
「とーちゃん」
ツーが大安を見る。
「兄ちゃん、帰ってこない」
「探します」
「どこを?」
「全部です」
「宇宙全部?」
「必要なら」
大安は通信端末を取った。
「統括室へ。全観測網を高次元生命反応の捜索へ切り替えてください」
『対象範囲は?』
「国内全域」
『検出されない場合は?』
「地球全域」
『それでも見つからない場合は?』
「観測可能な宇宙全域」
遠藤が大安を見る。
「システムの設計目的を超えています」
「拡張してください」
「時間が必要です」
「何時間?」
「最短でも八時間」
「三時間で」
「無理です」
「六か月で全国警察情報統合システムを作りました。できます」
「室長が基準なのは不適切です」
「俺もやります」
「今日は休暇です」
「終わりました」
三嶋が大安の腕を掴んだ。
「待て」
「何です?」
「お前、今の顔で仕事する気か?」
「キュウを探します」
「それは分かる。だが落ち着け」
「落ち着いています」
「嘘だ」
「根拠は?」
「眉間を押さえてない」
大安の手が止まった。
「隠す余裕すらない時は、そうなるんだろ」
三嶋は大安の胸元を軽く叩く。
「私たちも探す。勝手に全部背負うな」
遠藤が端末を持ち直した。
「統括室だけではなく、内閣情報網、防衛省宇宙監視網、民間天文台へ協力を要請します」
成井は目を閉じた。
「私は存在の痕跡を追います」
羽柴が携帯電話を取り出す。
「僕たちは?」
「学校へ戻ってください」
「嫌です」
「危険です」
「キュウは友達です」
猪俣が頷く。
「異世界でも、行方不明者の捜索は人手が必要だった」
「魔法の痕跡なら探せるかもしれない」
宇佐美も言う。
「電子機器に残った情報なら、私が追える」
天野ひすいは静かに目を閉じる。
「地球にいるなら、わたしには分かるかもしれません」
胡蝶が拳を握る。
「見つけたら、一発どつく」
「どうしてです?」
「心配かけた分や」
「理不尽では?」
「帰ってきたら抱きしめたる。その後や」
大安は全員を見た。
「……お願いします」
その言葉に、誰も茶化さなかった。
◇
捜索開始から四十七分後。
反応は見つからなかった。
一時間三十二分後。
国内観測網に異常なし。
二時間十八分後。
地球周辺軌道にも、高次元生命反応なし。
水族館の一室は、臨時の指揮所へ変わっていた。
大安は端末の前から動かない。
コーヒーにも手をつけていない。
三嶋はツーを肩に乗せ、館内を何度も歩いた。
遠藤は各機関との通信を続ける。
成井はダイオウイカの標本の前に座り込み、剣を床へ立てていた。
羽柴たちは、キュウが立ち寄った展示を順番に調べている。
「反応なし」
宇佐美が言った。
「水槽の制御端末にも?」
「食べた痕跡はある。でも、その後の接続は切れてる」
「魚には聞けない?」
羽柴が尋ねる。
「キュウがいないと無理」
天野ひすいが、大水槽の前で立ち止まった。
魚たちは普段どおり泳いでいる。
だが一匹だけ。
小さな青い魚が、ガラスの前から動かない。
「どうしました?」
ひすいが手を近づける。
魚は彼女を見ている。
次いで、水槽の底へ向かって泳いだ。
岩陰へ入る。
また出てきて、ひすいを見る。
「何かあるみたいです」
羽柴たちが集まる。
宇佐美が水槽の監視カメラへ接続した。
「岩陰に、小さい反応がある」
「何?」
「分からない。電子信号じゃない」
天野ひすいがガラスへ手を当てる。
地面の奥。
水の底。
もっと深い場所。
そこに、ごく小さな揺らぎがあった。
「眠っています」
「キュウが?」
「たぶん」
連絡を受けた大安たちが駆けつける。
飼育主任が潜水用装備を準備しようとしたが、成井が止めた。
「物理的な水槽内にはいません」
「では、どこへ?」
「魚たちが認識する、水槽の外側です」
「一般人にも分かるように」
「魚の夢の中です」
大安はガラスを見た。
「入れます?」
「キュウと強い因果関係を持つ者なら」
全員が大安を見る。
「俺ですか」
「とーちゃんやからな」
ツーが言った。
「どうすれば?」
「眠ってください」
大安は時計を見る。
「ここで?」
「はい」
「三時間以内に起こしてください」
「寝る時まで予定を気にするな」
三嶋が呆れる。
「職業病です」
水族館側が用意した簡易ベッドへ横になる。
三嶋が上着を丸め、大安の頭の下へ置いた。
「何です?」
「枕」
「ありますよ」
「薄いだろ」
「ありがとうございます」
「早く寝ろ」
「眠れると思います?」
成井が大安の額へ指を置いた。
「眠れます」
「何を――」
そこで意識が途切れた。
◇
大安は暗い海の底に立っていた。
正確には、立っている感覚があるだけで、足元は見えない。
周囲には小さな魚たちが浮かんでいる。
遠くには、巨大ダイオウイカの影。
だが、もう苦しんではいない。
深い闇の中で、静かに沈んでいる。
「キュウ」
呼ぶ。
返事はない。
「いるんでしょう」
暗闇の奥に、小さな赤い光が見えた。
キュウが丸くなっている。
「とーちゃん」
「見つけました」
「何で来たん?」
「迎えに来ました」
「ワイ、帰ったら怒られる」
「怒ります」
「やっぱり」
「設備を食べたこと。勝手に生体情報を広げたこと。危険だと分かっていながら、一人で消えたこと」
「ごめんなさい」
「はい」
「イカ、眠れた?」
「眠れました」
「よかった」
「よくありません」
「何が?」
「あなたが帰ってきていません」
キュウの赤い眼が揺れる。
「ワイ、もう戻れへんかもしれん」
「戻れます」
「根拠は?」
「俺が迎えに来たからです」
「宇宙的根拠になってへんで」
「家族なら十分なんでしょう?」
キュウが黙った。
大安は手を伸ばす。
「帰りますよ」
「怒る?」
「怒ります」
「コーヒーなし?」
「明日はなしです」
「厳しいなあ」
「明後日は一口」
「ほんま?」
「約束します」
キュウの触手が、大安の指へ巻きついた。
「とーちゃん」
「何です?」
「怖かった」
「そうですか」
「消えると思った」
「俺もです」
「とーちゃんも怖かった?」
「とても」
大安はキュウを持ち上げた。
冷たい霧が腕へ絡む。
「帰りましょう」
「うん」
暗い海の向こうで、巨大ダイオウイカの影がわずかに動いた。
「ありがとう」
その声とともに、海の底へ一筋の光が差した。
◇
大安が目を開いた。
最初に見えたのは、三嶋あかねの顔だった。
「近いです」
「死んだかと思ったんだ。文句言うな」
胸元に、重みがある。
黒い霧。
二本の角。
一つの赤い眼。
「とーちゃん」
キュウが乗っている。
ツーが、その上から抱きついていた。
「兄ちゃん!」
「重いわ」
「帰ってきた!」
「弟、泣いとるん?」
「泣いてへん!」
三嶋は大きく息を吐き、大安の肩を殴った。
「痛いです」
「心配かけた分だ」
「俺が?」
「お前もだ!」
胡蝶がキュウを掴む。
「次はうちや」
「何するん?」
「一発どつく」
「聞いてへん!」
「その後、抱きしめる」
「順番逆やない?」
猪俣がキュウを取り上げた。
「本当に心配したんだから」
「ごめん」
天野ひすいは、何も言わずキュウへ触れた。
宇佐美美琴は、携帯電話で反応を確認する。
「情報構造、安定してる」
羽柴は床へ座り込んだ。
「良かった……」
遠藤は端末へ記録していた。
だが目元が少し赤い。
「遠藤さん」
大安が呼ぶ。
「何でしょう」
「泣きました?」
「疲労による眼精疲労です」
「叔母ちゃん、泣いとったで」
「記録上、不正確です」
「嘘や」
「キュウ」
遠藤の声が低くなる。
「帰還直後に他人をからかわないでください」
「怒られた」
「当然です」
成井は大水槽を見つめていた。
「ダイオウイカの情報は、完全に沈静化しました」
「もう起きませんか?」
「恐らく」
「恐らく?」
「生命と死は、本来それほど明確に分けられるものではありません」
「今日くらいは、はっきり答えてください」
「もう起きません」
「最初からそう言ってください」
◇
午後六時四十分。
閉館後の水族館。
大安たちは、館長室で被害報告を受けていた。
「水槽制御端末一台」
「館内案内端末七台」
「券売機二台」
「監視カメラ十二台」
「売店レジ一台」
「照明設備の一部」
「床及び壁面の損傷」
「被害総額は、概算で一億六千八百万円です」
大安は書類を見た。
「誰が払うんです?」
「東京都、警視庁、内閣府で協議することになります」
遠藤が答える。
「キュウの保護責任者として、俺の賠償責任は?」
「高次元生命体による損害について、民法上の監督義務者責任が適用されるかは不明です」
「適用されたら?」
「個人で一億六千八百万円です」
大安は椅子の背へ身体を預けた。
「公務員を辞めても返せないなぁ」
「とーちゃん」
キュウが心配そうに見上げる。
「ワイ、働く」
「何ができます?」
「情報食べる」
「それが原因です」
「宇宙で稼ぐ」
「通貨は?」
「ない」
「労働になりませんね」
三嶋が書類を取り上げた。
「公的な養育支援中の事故だ。個人には来ないだろ」
「来たら?」
「私も半分払う」
「何で?」
「共同責任だろ」
「三嶋さん」
「夫婦やから?」
ツーが尋ねた。
「違う!」
大安と三嶋の声が重なった。
館長が小さく笑った。
「本日は大変な一日でしたが」
「申し訳ありません」
大安が頭を下げる。
「いえ。人的被害はありませんでした。それに、ダイオウイカの標本から、これまで確認できなかった生体反応の記録も得られました」
「研究に使うんですか?」
「はい。ただし、あの個体が最後に望んだことは尊重します。蘇生を試みることはありません」
「お願いします」
キュウも頭を下げた。
「ごめんなさい」
「次からは、制御端末を食べないでくださいね」
「うん」
「展示物も」
「うん」
「また来てもええ?」
「もちろんです」
キュウの赤い眼が明るくなる。
大安はすぐに付け加えた。
「一年後くらいにしましょう」
「来週は?」
「駄目です」
「来月」
「被害の修繕が終わってからです」
「いつ?」
「一年後くらいですね」
「最初に戻った」
◇
午後七時十五分。
水族館の出口。
辺りはすでに暗くなっていた。
家族交流時間としては、大幅な延長である。
「予定では十六時解散でした」
遠藤が言った。
「三時間十五分超過」
「残業ですか?」
三嶋が尋ねる。
「家族交流なので、残業には該当しません」
「最悪だな」
「公務扱いになりませんからね」
大安は眠そうに歩いている。
キュウは肩の上。
ツーは三嶋のリュックの中。
羽柴たち五人も、少し後ろからついてくる。
「とーちゃん」
「何です?」
「水族館、楽しかった?」
大安は少し考えた。
設備被害一億六千八百万円。
蘇生した巨大ダイオウイカ。
消えたキュウ。
魚の夢への侵入。
通常なら、二度と行きたくない一日だった。
「楽しかったですよ」
「ほんま?」
「はい」
「ワイも」
三嶋が大安を見る。
「素直に言えるようになったな」
「今日は疲れているので」
「疲れた方が素直になるのか?」
「判断力が落ちます」
「それは素直とは言わない」
キュウが大安の頬へ触手を当てた。
「帰ったらコーヒー飲む?」
「今日はもう飲みません」
「ワイも?」
「明日まで禁止です」
「厳しいなあ」
「約束でしょう」
「ほな、一緒に水飲む」
「それなら構いません」
「家族の食卓や」
「水だけですけどね」
その日も、日本は滅びなかった。
ただし東京湾沿岸の水族館では、以後すべての制御端末に、
食べ物ではありません
という注意書きが貼られることとなった。
なお、その注意書きを読んだキュウが、
「読める食べ物もあるんやな」
と誤解し、翌月の再訪を禁止されたのは、また別の話である。