あの日、僕は図書室の梯子から落ちた。
それだけなら、ただの学校事故だっただろう。
問題は、その後だった。
僕の名前は
県立
図書委員だ。
七月に入ったばかりの放課後だった。
窓の外では運動部の掛け声が響き、夏を思わせる風が校舎を吹き抜けている。
だが、図書室の中だけは別世界だった。
静寂を破る一声、
「ゴメン、帰山!」
入口のところで、同じ図書委員の男子生徒が両手を合わせた。
「バイトがあるから先帰る! あと頼む!」
「え?」
返事をする頃には、もう鞄を肩にかけている。
「本当にゴメン! 明日埋め合わせするから!」
そう言い残し、彼は走っていった。
廊下に足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
僕は小さくため息をついた。
「……仕方ないか」
別に珍しいことではない。
図書委員の仕事は嫌いじゃないし、急ぎの予定もない。
残った返却本の山を見て、僕は作業を続けることにした。
その時だった。
「帰山」
カウンターの奥から声がした。
学校司書の
提出する書類を抱えながら、困ったように眉を下げている。
「悪いな。私もちょっと事務室へ行かなければならなくなった」
「何かあったんですか?」
「いや。提出する書類を出し忘れていてな」
秋月先生は手にした紙束を軽く持ち上げて見せた。
「すぐ戻るから、それまで留守番を頼めるか」
「大丈夫です」
僕が答えると、秋月先生は安心したように頷いた。
「無理はするなよ」
「はい」
秋月先生は図書室の出口へ向かった。
そして扉の前で一度だけ振り返る。
「本当にすぐ戻るからな」
「分かってます」
僕は苦笑した。
秋月先生は小さく笑い返し、そのまま図書室を出て行った。
扉が閉まる。
図書室は再び静寂に包まれた。
県立白峰高等学校の図書室は少し変わっている。
古い木製の書架。
天井近くまで届く高い棚。
そして上部レール式の書架用移動梯子。
新しい校舎なのに、この部屋だけ時間が止まったような雰囲気があった。
七月の夕陽が窓から差し込み、長い影を床に落としている。
僕はその空気が好きだった。
誰もいない静かな空間。
本の匂い。
ページをめくる音だけが響く時間。
嫌いじゃない。
むしろ落ち着くのだ。
その日も僕は返却された本を棚へ戻していた。
カウンターの横には自分の鞄が置かれている。
帰る時に持っていけばいい。
そう思いながら、一冊ずつ本を元の場所へ戻していく。
「あと一冊……」
手元に残ったのは古い本だった。
何度も貸し出されたらしく、角が少し擦り切れている。
僕は返却票を確認し、目的の棚へ向かった。
書架用の移動梯子に足をかける。
一段。
二段。
三段。
最上段近くまで上り、背伸びをした。
あと少しで本が収まる。
その時だった。
ぐらり。
足元が揺れた。
「あ――」
短い悲鳴。
視界が傾く。
数冊の本が棚から飛び出した。
本が宙を舞う。
次の瞬間。
後頭部に激しい衝撃が走った。
鈍い音が図書室に響く。
そして世界が暗くなった。
⸻
轟音。
耳をつんざくような水音だった。
巨大な滝が白い飛沫を上げながら谷底へ落ちている。
濡れた岩肌。
切り立った断崖。
足を踏み外せば命はない。
そんな場所だった。
二人の男が向かい合っている。
どちらも背が高かった。
次の瞬間。
二人は激しく組み合った。
互いの腕をつかみ、押し合い、岩場の上でもみ合う。
どちらが先だったのかは分からない。
気付けば、一人の男の身体が大きく傾いていた。
男は空をつかむように手を伸ばす。
しかし届かない。
そのまま谷底へ落ちていった。
轟く滝の中へ。
姿はすぐに飛沫の向こうへ消える。
残された男は息を整えながら立ち上がった。
どうやら近くに安全な足場を見つけていたらしい。
慎重にそこへ足を移す。
助かった。
そう思った瞬間だった。
足元の岩が音を立てる。
ひび割れ。
崩落。
男の表情が初めて変わった。
驚きではない。
むしろ計算違いを認めるような冷静な表情だった。
そして。
岩ごと崩れ落ちる。
黒い外套が大きく翻った。
谷底へ。
激流へ。
落ちながら、その男はこちらを見た。
まるで最初から僕の存在を知っていたかのように。
鋭い目だった。
死を目前にしてなお何かを観察しているような目。
その視線とぶつかった瞬間――
世界が砕けた。
⸻
目を開ける。
図書室の天井が見えた。
「気が付いたか」
男の声がした。
すぐ近くで。
だけど誰もいない。
図書室には僕しかいなかった。
「……え?」
「頭を強打したようだな。幸い命に別状はないらしい」
冷静な声だった。
どこか偉そうで、しかし妙な説得力がある。
僕は慌てて倒れたまま、ジンジンと痛む頭だけで周囲を見回した。
誰もいない。
窓際にも。
机の下にも。
書架の陰にも。
誰も。
「探しても無駄だ」
声が言った。
「私は君の頭の中にいる」
沈黙。
五秒。
十秒。
僕は結論を出した。
「保健室へ行った方がよさそうです」
「その判断には賛成だ」
「幻聴が聞こえるんですが」
「その可能性は否定しない」
妙に落ち着いた返答だった。
「だが、もし幻聴なら君の知識だけで会話が成立するはずだ」
「……?」
少し間を置いて、男は言った。
「君は本に囲まれて過ごす時間が長いな」
「え?」
「シャツの袖に紙の粉や埃が付着している。棚の高い場所に手を伸ばす習慣もある。本を扱う機会が多い人間だ」
僕は思わず答えた。
「図書委員だからです」
「図書委員?」
男は聞き返した。
その反応に僕は少し首を傾げる。
「学校の委員会活動です。本の貸し出しとか整理とか」
数秒の沈黙。
「なるほど」
男は納得したように言った。
「そういう制度があるのか」
「知らなかったんですか?」
「少なくとも私の知る名称ではないな」
記憶喪失だからだろうか。
少し不思議だった。
「では推測は正しかったらしい」
男は続けた。
「さらに言えば、君は右利きだ」
「それも分かるんですか?」
「紙の粉や埃は右袖に集中している。棚へ本を戻す際、主に右手を使っている証拠だ」
僕は思わず黙り込んだ。
「なぜですか?」
「観察したからだ」
男は当然のように答えた。
そして少し間を置き、
「三列目の書架。下から四段目」
と言った。
「赤い背表紙の本が逆向きだ」
反射的に視線を向ける。
本当に逆向きだった。
僕の背中に冷たいものが走る。
「なぜ分かるんです?」
「見えているからだ」
「どこから?」
「君の目を通して」
僕はしばらく言葉を失った。
あり得ない。
そんなことはあり得ない。
だけど。
実際に本は逆向きだった。
僕が気付かなかったことを、この声は当ててみせた。
「……名前は?」
気付けば、そんなことを尋ねていた。
少し長い沈黙。
そして男は言った。
「分からない」
「え?」
「思い出せないのだ」
初めて、その声に迷いが混じった。
「自分が誰なのか」
「名前も?」
「覚えていない」
「年齢は?」
「不明だ」
「職業は?」
少し考えてから答えが返ってくる。
「おそらく知的労働者だった」
「雑ですね」
「否定はしない」
僕は思わずため息をついた。
「じゃあ、どう呼べばいいんですか」
返事はない。
しばらく考え込んでいるようだった。
「……先生」
僕は言った。
「先生?」
「なんとなく」
「なんとなくとは」
「物知りですし」
「不満だな」
「でも他に名前がないでしょう?」
「それはそうだ」
少し間が空く。
そして観念したように男は言った。
「まあ、構わない」
こうして僕の頭の中の正体不明の男は、『先生』になった。
とはいえ。
まず確認しなければならないことがある。
僕が正気かどうかだ。
「とりあえず保健室へ行きます」
「賢明な判断だ」
先生は即答した。
「否定しないんですね」
「頭を強打した直後に正体不明の声が聞こえているのだ。疑うのは当然だろう」
それはそうだ。
床に倒れたまま、しばらく天井を見上げる。
幸い、近くには閲覧席用の長机があった。
僕はその縁に手をかけながら、ゆっくりと身体を起こした。
その瞬間だった。
「左足」
先生が言った。
「え?」
「少し痛めているな」
言われてみれば違和感がある。
激痛ではない。
だが体重をかけると鈍い痛みが走る。
「本当だ……」
「転落したのだから当然だろう」
「なんで分かったんですか」
「立ち上がる際、無意識に右足へ体重を寄せた」
先生はさらりと言う。
「そんなので分かるんですか」
「見れば分かる」
本気で不思議そうだった。
⸻
僕はゆっくり起き上がり、図書室を見回した。
移動梯子は依然としてそこにあった。ついさっきまで、僕はあそこにいたのだ。
床には落ちた本が数冊散らばっている。
だが片付ける気にはなれなかった。
今はそれどころではない。
カウンターの横には僕の鞄が置かれたままだ。
貸出・返却手続きを行う図書委員席の脇に置いていたもので、事故の前からそのままになっている。
だが保健室へ行くだけなら必要ない。
帰ってきてから持っていけばいい。
そう考え、僕は図書室の扉へ向かった。
⸻
廊下へ出る。
夕方の校舎は静かだった。
運動部の掛け声が遠くから聞こえる。
吹奏楽部の音も混じっていた。
窓の外は赤く染まり始めている。
いつもの放課後だ。
たった一つ。
頭の中に知らない男がいることを除けば。
⸻
階段の前まで来たところで、先生が言った。
「慎重に下りたまえ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ではない」
即座に否定された。
「頭部外傷直後だ。平衡感覚が乱れている可能性がある」
「……はい」
少しだけ素直に従う。
一段ずつ階段を下りる。
その様子を見て先生は満足そうだった。
「よろしい」
「先生、意外と心配性ですね」
「観察した結果を述べているだけだ」
「それを世間では心配って言うんです」
数秒の沈黙。
やがて先生が言った。
「なるほど」
さらに少し考えてから、
「勉強になった」
僕は思わず吹き出しそうになった。
⸻
階段を下りきったところで、前方から女子生徒が歩いてきた。
一年生だろうか。
見覚えがある。
図書室によく来る生徒だ。
本を借りる時も返す時も、いつも丁寧な印象があった。
彼女は僕を見るなり足を止めた。
「帰山先輩?」
「ああ、こんにちは」
僕が返事をすると、彼女はほっとしたような表情を浮かべた。
「よかったです」
「え?」
「図書室の方から大きな音が聞こえて……」
彼女は少し言いづらそうに続けた。
「何かあったのかと思って」
なるほど。
それで様子を見に来たのか。
「ちょっと梯子から落ちただけだよ」
「えっ!? それってちょっとじゃないですよ」
思ったより強い口調だった。
彼女は自分でも驚いたらしく、すぐに目を逸らした。
「あ……すみません」
「いや、大丈夫」
「本当に?」
「今から保健室で診てもらうところ」
それを聞いた彼女は少し考えた。
そして、
「私も行きます」
と言った。
「え?」
「頭を打ったんですよね?」
「そうだけど」
「だったら一人じゃ危ないです」
反論しようとして、やめた。
確かに僕は数分前に梯子から落ちたばかりだ。
⸻
「なるほど」
先生が言った。
「何ですか」
「彼女はかなり心配しているらしい」
「聞こえてますよ」
「事実を述べているだけだ」
便利な言葉だな、それ。
⸻
結局、彼女と並んで保健室へ向かうことになった。
廊下を歩く。
向こうが歩幅を合わせてくれているみたいだ。
少し気まずい。
特に話題もない。
すると彼女の方から口を開いた。
「頭、痛くないですか?」
「後頭部が少しだけ」
「保健室の先生にちゃんと診てもらってくださいね」
「そのつもり」
「絶対ですよ」
念押しされた。
先生が小さく呟く。
「信用されているな」
「どうしてそうなるんです」
「彼女は君の返答を聞いて安心した」
「普通じゃないですか」
「普通ではない」
即答だった。
「人は信用していない相手の言葉で安心したりしない」
僕にはよく分からなかった。
⸻
やがて保健室が見えてくる。
白いプレートに『保健室』の文字。
女子生徒はそこで足を止めた。
「着きましたよ」
「ありがとう」
彼女は少し安心したように笑った。
その時だった。
「君は周囲から信頼されているようだな」
先生が言った。
「そんなことないと思いますけど」
「少なくとも彼女は君を好意的に評価している」
「それくらいなら否定しませんけど」
「興味深い」
「何がですか」
「私には分からない感覚だからな」
その言葉は妙に印象に残った。
⸻
僕は保健室の扉に手をかけた。
「付き添ってくれてありがとう」
彼女は小さく首を振る。
「いえ」
そして少しだけ微笑んだ。
「お大事にしてください」
「うん、ありがとう」
彼女は会釈すると、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は保健室の扉をノックし、開けた。
⸻
「失礼します。二年三組の帰山です」
消毒液の匂いが鼻をつく。
窓際には白いベッド。
棚には薬品や救急用品が並んでいる。
奥の机で書類を整理していた養護教諭の
そして僕を見るなり眉をひそめる。
「帰山くん?」
白石先生は椅子から立ち上がった。
「どうしたの、その顔」
どうやら顔色も悪かったらしい。
僕は少し考え、
「図書室で転びました」
と答えた。
すると頭の中で先生が呟く。
「正確ではないな」
「うるさいですよ」
「事実を述べているだけだ」
白石先生は怪訝そうな顔をした。
「どうしたの? 大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
危ない。
危うく先生との会話を聞かれるところだった。
⸻
「転んだって、どこで?」
「図書室です」
「どんなふうに?」
僕は少し迷った。
「梯子から落ちました」
白石先生の表情が固まった。
「……何段目くらい?」
「結構上です」
「結構上って何」
「最上段近くです」
数秒の沈黙。
そして白石先生は額を押さえた。
「それを最初に言いなさい」
⸻
すぐに椅子へ座らされる。
「頭は?」
「後頭部が少し痛いです」
「吐き気は?」
「ありません」
「気分は悪くない?」
「大丈夫です」
「視界は?」
「普通です」
質問が続く。
僕は一つずつ答えていった。
⸻
「なるほど」
先生が言う。
「何ですか」
「彼女は手慣れているな」
「白石先生は養護教諭ですから」
「症状の確認をしている」
「当たり前でしょう」
「いや、当たり前ではない」
先生は少し考えるように言った。
「少なくとも私の知る医療とはだいぶ違う」
僕は首を傾げた。
また妙なことを言っている。
⸻
白石先生はペンライトを取り出した。
「目を見るね」
光が瞳を照らす。
眩しい。
反射的に目を細める。
「我慢して」
「はい」
数秒後、白石先生は頷いた。
⸻
「今のところ大きな異常はなさそう」
ほっと息を吐く。
だが、
「ただし」
と続いた。
「今日は無理をしないこと」
「はい」
「帰宅したら安静」
「はい」
「もし頭痛が強くなる、吐き気が出る、意識がぼんやりする。そういう症状が出たらすぐ病院」
「分かりました」
「保護者にもちゃんと伝える」
「分かりました」
⸻
白石先生は机の上の記録簿に何かを書き込む。
「それと」
白石先生は顔を上げた。
「今日はもう図書室の仕事は禁止」
「え」
「禁止です」
即答だった。
「でも途中で――」
「禁止」
「本が――」
「禁止」
取り付く島もない。
⸻
「合理的だ」
先生が言う。
「先生まで」
「頭部外傷直後の労働は推奨できない」
「味方してくださいよ」
「私は事実の味方だ」
便利な言葉である。
⸻
診察が終わる。
椅子から立ち上がると、白石先生が言った。
「帰山くん」
「はい」
「今日は本当に無理しないこと」
その声は教師というより、大人としての心配に近かった。
僕は素直に頷く。
「ありがとうございます」
⸻
保健室を出る。
扉が閉まる。
廊下にはもう誰もいなかった。
付き添ってくれた女子生徒の姿もない。
部活へ向かったのか、帰宅したのか。
もう見当たらなかった。
⸻
「帰ったようだな」
先生が言う。
「そうみたいですね」
「最後まで礼儀正しい生徒だった」
「そうですね」
僕は少し笑った。
⸻
そのまま昇降口へ向かおうとして――
ふと足が止まった。
⸻
「どうした?」
先生が尋ねる。
僕は眉をひそめる。
何かが引っかかる。
小さな違和感。
だが無視できない違和感だった。
⸻
「思い出せないんです」
「何を?」
「最後の一冊です」
⸻
図書室で棚へ戻そうとしていた本。
確かに持っていた。
確かに返却本の山の最後の一冊だった。
だから梯子を上った。
そこまでは覚えている。
⸻
だが。
その本のことだけが思い出せない。
⸻
表紙。
題名。
色。
厚さ。
どんな本だったのか。
何も。
⸻
まるで、その本だけが記憶から切り取られてしまったかのように。
⸻
先生はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「奇妙だな」
「ですよね」
「普通の物忘れではない」
僕もそう思う。
本当に何も思い出せないのだ。
⸻
数秒の沈黙。
やがて先生が言った。
「図書室へ戻ろう」
僕は小さく頷いた。
どうせ一度戻らなければならない。
鞄も置いたままだ。
白石先生には仕事をするなと言われたが、荷物を取りに行くくらいなら問題ないだろう。
それに――
どうしても気になる。
最後の一冊のことが。
⸻
先生は静かに言った。
「普通の物忘れならば気にする必要はない」
「はい」
「だが、君自身がそこまで違和感を覚えている」
僕は歩き出す。
夕暮れの廊下は静かだった。
「確認する価値はあるだろう」
その声は。
これまでで一番真剣だった。
⸻
図書室へ戻る道は、さっきよりも長く感じた。
保健室へ向かう時は、頭の中に知らない男がいることに気を取られていた。
だが今は違う。
先生の存在にも少し慣れ始めていた。
その代わり。
別の疑問が頭から離れない。
消えた本だ。
⸻
「君はその本を確かに持っていたのだな」
先生が尋ねた。
「はい」
僕は即答した。
「返却カートに最後まで残っていました」
「表紙は?」
「思い出せません」
「色は?」
「分かりません」
「大きさは?」
「それも」
先生は黙った。
「普通ではないな」
「ですよね」
「普通の物忘れなら、断片くらいは残る」
僕もそう思う。
何かを忘れても、青い本だったとか、厚かったとか、そういう印象は残るものだ。
だが今回は違う。
何もない。
不自然なほど何もない。
⸻
図書室の前まで来る。
扉は閉まったままだった。
僕はゆっくり開ける。
夕方の図書室は薄暗い。
窓から差し込む光も弱くなっていた。
誰もいない。
秋月先生もまだ戻ってきていないようだ。
聞こえるのは時計の音だけだった。
⸻
「まず現場を確認しよう」
先生が言う。
「現場って……」
「君が転落した場所だ」
その物言いは、まるで事件を調べる刑事のようだった。
⸻
僕は移動梯子の前まで歩いた。
床には落ちた本が数冊散らばったままだった。
保健室へ行くのを優先したので、そのままになっている。
僕は一冊ずつ拾い上げた。
歴史資料集。
旅行記。
辞典。
文芸評論。
どれも見覚えがある。
だが。
その中に『最後の一冊』はなかった。
⸻
「数はどうだ」
先生が言う。
「たぶん合わないです」
「たぶん?」
「正確な冊数は覚えてません」
「なるほど」
先生は少し残念そうだった。
⸻
僕は移動梯子を見上げた。
上部レール式の梯子は静かに書架へ掛かっている。
さっきまで自分がそこから落ちていたとは思えない。
「上るのか?」
先生が聞いた。
「上ります」
「慎重に」
「先生、また心配してます?」
「観察した結果を述べているだけだ」
「はいはい」
「その返事は感心しないな」
少しだけ笑った。
⸻
僕はゆっくり梯子を上る。
後頭部が少し痛む。
だが問題はない。
問題の棚へ手を伸ばした。
そして。
「あ……」
思わず声が漏れた。
⸻
そこには空間があった。
本一冊分。
きれいに。
不自然なくらいきれいに。
空いている。
⸻
「見つけたか」
先生が言う。
「ここです」
「そのようだな」
僕は棚を見つめる。
確信があった。
あの本はここへ入るはずだった。
間違いない。
⸻
だが。
ない。
どこにも。
⸻
「誰かが持って行ったんでしょうか」
僕は呟く。
「可能性はある」
先生は答えた。
「だが問題がある」
「問題?」
「君は落下した直後に気を失った」
「はい」
「図書室には誰もいなかった」
確かにそうだ。
少なくとも僕が作業していた時は。
⸻
「仮に誰かが本を持ち去ったとして」
先生は続ける。
「その人物は偶然そこへ現れ、偶然床に倒れている君を見つけ、偶然その本だけを持ち去ったことになる」
「……確率は低そうですね」
「極めて低い」
⸻
僕は空いた棚に触れた。
冷たい木の感触。
そこに本があった気がする。
確かに。
間違いなく。
⸻
その瞬間だった。
頭の奥に鈍い痛みが走る。
ズキッ。
思わず顔をしかめた。
⸻
「無理に思い出そうとするな」
先生の声が低くなる。
「しかし」
「今はやめておけ」
珍しく強い口調だった。
「頭部外傷直後だ」
「……分かりました」
⸻
しばらく沈黙が続く。
時計の針だけが動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
⸻
「君」
先生が言った。
「はい」
「質問だ」
「なんですか」
「君は落ちる直前、何か違和感を覚えなかったか」
僕は考える。
梯子。
本。
夕陽。
静かな図書室。
そして――
⸻
「あ」
記憶の断片が浮かぶ。
ほんの一瞬。
一秒にも満たない。
⸻
「何だ?」
先生の声が鋭くなる。
⸻
「誰かいた気がします」
「誰か?」
「分からないです」
僕は目を閉じる。
そこから先が曖昧だった。
人影だったのか。
それとも――。
「ただ、誰かと目が合った気がするんです」
⸻
図書室の空気が少しだけ冷たく感じた。
先生は何も言わない。
⸻
やがて静かに言った。
「興味深いな」
「そうですか?」
「ああ」
先生の声は落ち着いていた。
だが。
どこか楽しそうでもあった。
⸻
「どうやら」
先生は言った。
「ただの転落事故ではないかもしれない」
⸻
図書室の時計が六時を告げる。
重い鐘の音が響く。
僕は空白の残る棚を見つめた。
消えた本。
思い出せない題名。
謎の視線。
そして頭の中の先生。
⸻
その時の僕はまだ知らなかった。
消えた一冊の本と、思い出せない視線の正体が、
やがて県立白峰高等学校で起こる奇妙な事件の始まりだったことを。