知らない名前だった。
僕も。
三枝も。
聞いたことがない。
けれど。
その名前が。
この金庫の中に残されていた。
それだけで十分だった。
⸻
資料倉庫は静かだった。
僕は古いノートを机の上へ置いた。
三枝が向かい側へ座る。
開いたままの金庫は空っぽだった。
中に入っていたのは。
このノート一冊だけ。
⸻
僕は最初のページをめくった。
名前の下に日付がある。
二〇一一年十月三日。
十五年前。
僕は次のページを開いた。
⸻
十月三日
特別取材のため、新聞部の金庫を使った。
過去の記事や資料を確認するためだ。
中には歴代の部員が残した資料が入っている。
顧問からは、必要な時に自由に使っていいと言われている。
⸻
僕は思わず顔を上げた。
「使ってた?」
三枝も驚いている。
「普通に開いていたってことですよね」
僕は頷く。
開かずの金庫ではなかった。
少なくとも。
藤堂史也が新聞部員だった頃は。
⸻
ページをめくる。
⸻
十月十日
金庫の中から気になる資料を見つけた。
過去の新聞部の発行物。
文化祭の議事録。
写真。
学校の記録と一致しないものがある。
最初は記載ミスだと思った。
だが違う。
何かが意図的に抜け落ちている。
⸻
『なるほど』
先生が言った。
『ここまでは神谷君と同じだな』
僕もそう思った。
神谷先輩が追っていたもの。
藤堂史也が追っていたもの。
出発点は同じだった。
学校資料に残された空白。
その正体。
⸻
さらに読み進める。
そして。
あるページで。
文章の雰囲気が変わった。
⸻
十月二十九日
調べれば調べるほど分からなくなる。
このまま残せば。
誰かが同じ場所へ辿り着く。
だから残す。
だが簡単には見つからない形で残す。
顧問には話した。
部員たちにも。
全員が賛成した。
⸻
僕と三枝は顔を見合わせた。
「全員……?」
三枝が呟く。
顧問。
部員たち。
つまり。
藤堂一人ではなかった。
⸻
次のページを開く。
そこに書かれていた一文で。
僕は息を止めた。
⸻
今日で金庫を閉じる。
以後、この金庫は使わない。
開け方を知る者も残さない。
必要になった時だけ。
辿り着けるようにする。
⸻
僕は無意識に金庫を見る。
先生も黙っていた。
そして。
ようやく理解する。
この金庫は。
最初から開かなかったわけじゃない。
誰かが閉じたのだ。
意図的に。
未来の誰かのために。
⸻
藤堂史也。
その人物は。
ただ謎を追っていたのではない。
自ら謎を残した側だった。
⸻
僕は次のページをめくった。
紙は少し黄ばんでいる。
端も傷んでいた。
十五年。
その時間の長さを感じる。
⸻
十一月三日
確認した。
やはり記録が一致しない。
生徒数が合わない。
名前の数が合わない。
文化祭実行委員の資料には残っている。
生徒名簿にも残っている。
だが学校要覧だけ一致しない。
一箇所だけ説明できない空白がある。
⸻
僕は顔を上げた。
「一致しない?」
三枝も首を傾げている。
「誤植じゃないんですか」
僕はそう言いかけた。
けれど。
先生の声が先に聞こえた。
『誤植なら一度きりだ』
『複数の資料で同じ現象は起こらん』
僕は黙る。
確かにそうだった。
名簿。
学校要覧。
文化祭実行委員の資料。
全部違う。
それは偶然ではない。
⸻
ページをめくる。
⸻
十一月五日
存在していた痕跡はある。
だが資料によって扱いが違う。
残っている記録と消えている記録がある。
単なる誤りなのか。
意図的なものなのか。
まだ判断できない。
⸻
十一月六日
文化祭実行委員会の副委員長と会計に聞いた。
どちらも曖昧な反応だった。
話したくないのか。
口止めされているのか。
判断できない。
⸻
僕はノートから顔を上げた。
「誰かについて調べていた……?」
三枝が言う。
僕も同じことを考えていた。
人数が合わない。
名前がない。
存在の痕跡だけが残る。
それは。
誰か一人について調べているようにしか思えなかった。
⸻
『湊君』
先生が言う。
「うん」
『藤堂君は記録を調べている』
『そして』
『人を探している』
僕はゆっくり頷いた。
その結論は自然だった。
ノートの内容が。
全部そちらへ向かっている。
⸻
さらにページをめくる。
⸻
十一月八日
今日、写真を見た。
人数が合わない。
説明できない。
だが確かに写っている。
⸻
十一月九日
名前がない。
しかし写真にはいる。
記録には残っていない。
だが存在していた。
⸻
十一月十一日
ようやく確信した。
空白は記録ではない。
人だ。
⸻
僕はそこで読むのを止めた。
三枝も黙っている。
資料倉庫は静かだった。
⸻
「人……」
三枝が呟く。
僕も同じだった。
学校資料に残された空白。
消された記録。
未掲載になった記事。
全部。
一人の人間へ繋がっている。
藤堂史也はそう考えていた。
⸻
『面白い』
先生が言った。
「面白い?」
『記録を追っていたと思わせて』
『実際には人物へ辿り着いている』
先生の声は静かだった。
『つまり』
『問題の中心は資料ではない』
『人間だ』
⸻
僕は再びノートを見る。
藤堂史也は。
何を見つけたのか。
誰を追っていたのか。
まだ分からない。
けれど。
一つだけ確かなことがある。
その人物は。
学校の記録から消えている。
⸻
ページをめくる。
すると。
これまでより短い文章が目に入った。
⸻
十一月十二日
ようやく確信した。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が空白の人物だ。
⸻
僕は思わず息を止めた。
三枝も身を乗り出す。
何かが書かれていた。
だが。
そこだけ。
黒いペンで塗り潰されていた。
⸻
「え……」
思わず声が漏れる。
名前が読めない。
誰かが後から消したようだった。
『違う』
先生が言う。
「違う?」
『筆跡が同じだ』
僕は目を凝らす。
確かに。
ノート本文と同じ筆圧。
同じ癖。
同じインク。
⸻
『藤堂君自身が消した』
先生は静かに言った。
資料倉庫の空気が少し重くなる。
僕は塗り潰された箇所を見つめた。
せっかく辿り着いた名前。
なのに。
藤堂史也は。
自分でそれを隠していた。
⸻
そして。
その下に。
もう一行だけ。
短い文章が残されていた。
⸻
まだ早い。
⸻
僕はその言葉を見つめた。
十五年前。
藤堂史也が残した言葉。
それはまるで。
未来の誰かに向けたメッセージのようだった。
⸻
「どういう意味なんでしょう」
三枝が言う。
僕は首を振った。
分からない。
名前を見つけた。
なのに隠した。
しかも。
わざわざ自分で塗り潰している。
普通なら逆だ。
見つけた事実を書く。
証拠を残す。
そうするはずだ。
⸻
『湊君』
先生が言う。
「うん」
『藤堂君は隠そうとしたのではない』
「え?」
『残そうとした』
僕は眉をひそめる。
先生は続けた。
『本当に隠したいなら』
『名前そのものを書かなければいい』
『あるいはページを破れば済む』
確かにそうだった。
わざわざ書く。
そして塗り潰す。
その行動には意味がある。
⸻
『つまり』
先生は言う。
『誰かがここへ辿り着くことを前提にしている』
僕は塗り潰された部分を見る。
『その上で』
『今はまだ読むべきではないと判断した』
「……だから」
「まだ早い」
『そういうことだ』
⸻
僕は黙った。
正直なところ。
納得はできない。
名前を見つけたなら教えてほしい。
その方がずっと楽だ。
けれど。
藤堂史也はそうしなかった。
⸻
ページをめくる。
次のページにも日付があった。
⸻
十一月十三日
⸻
僕は動きを止めた。
「神谷……?」
三枝も驚いた顔をしている。
神谷。
その名前が。
初めてノートの中に現れた。
⸻
『ほう』
先生が言う。
『面白いな』
「何が?」
『年代から考えて、現在の神谷君ではない』
先生は静かに言った。
『藤堂君が指している神谷は、現在の神谷君とは別の人物だろう』
僕はノートを見る。
確かにそうだった。
僕が知っている神谷先輩は、最近の卒業生だ。
十五年前。
まだこの学校で新聞部の活動をしていた時代とは一致しない。
なら。
藤堂史也が書いた神谷は――
別の人物なのかもしれない。
⸻
僕はもう一度その行を読む。
十一月十三日。
神谷なら辿り着くかもしれない。
⸻
「違う」
僕は呟いた。
「これ、神谷先輩のことじゃない」
三枝が顔を上げる。
「え?」
「だって時代が合わない」
神谷先輩は最近の卒業生だ。
藤堂史也が調べていた十五年前の出来事に、本人が関わっているはずがない。
なら。
ここで書かれている神谷は。
別人だ。
⸻
『その可能性が高い』
先生が言う。
『同じ名字の人物だろう』
僕はページを見つめる。
神谷。
偶然なのか。
それとも。
何か意味があるのか。
まだ分からない。
⸻
さらに読み進める。
⸻
十一月十四日
資料を整理した。
記事を残した。
場所も決めた。
見つかる可能性は低い。
だがゼロではない。
それでいい。
⸻
十一月十五日
私は一人ではない。
同じ結論へ辿り着いた人間がいる。
顧問も知っている。
だから記録を残す。
だが今は公開しない。
公開するべきではない。
⸻
僕は思わず顔を上げた。
「顧問」
三枝も同じ箇所を見ている。
「新聞部の顧問ですよね」
「多分」
藤堂だけではなかった。
顧問も。
少なくとも一部始終を知っていた。
⸻
さらにページをめくる。
残りは少なくなっていた。
そして。
最後から二枚目。
そこにはこれまでとは違う文字が書かれていた。
大きく。
強く。
まるで自分へ言い聞かせるように。
⸻
忘れるな。
記録は消せても。
存在は消えない。
⸻
資料倉庫の空気が張り詰める。
僕も。
三枝も。
言葉を失った。
⸻
その人物は誰なのか。
なぜ記録から消されたのか。
藤堂史也は何を知ったのか。
そして。
どうして神谷という名前が出てきたのか。
金庫は開いた。
だが。
謎は増える一方だった。
⸻
最後のページへ。
僕はゆっくり手を伸ばした。
紙をめくる。
古い紙の擦れる音だけが響く。
資料倉庫は静まり返っていた。
⸻
最後のページには。
文章はほとんどなかった。
日記でもない。
記録でもない。
ただ。
数行だけ。
短い文章が残されていた。
⸻
もしここまで辿り着いたなら。
未掲載の記事を探してほしい。
記事だけでは足りない。
写真。
レイアウト。
本文原稿。
全部揃った時。
意味が見える。
⸻
僕は息を止めた。
三枝も黙ったまま読んでいる。
⸻
未掲載の記事。
写真。
レイアウト。
本文原稿。
僕たちが集めたものだった。
図書室。
印刷室。
新聞部室。
そして。
この金庫。
ここまでの行動が。
全部この文章に書かれている。
まるで。
僕たちが来ることを知っていたみたいに。
⸻
その下に。
さらに文章が続いていた。
⸻
私は真実を残す。
だが答えは残さない。
答えは自分で見つけるべきだ。
⸻
「答えは残さない……」
三枝が呟く。
僕も同じ箇所を見る。
確かに。
ここまで読んでも。
肝心な部分は分からない。
消された人物。
空白期間。
記録改ざん。
全部。
輪郭しか見えていない。
⸻
先生が言った。
『当然だな』
「当然?」
『答えを書けば終わる』
先生の声は静かだった。
『だが』
『藤堂君が残したかったのは結論ではない』
『過程だ』
僕は黙る。
確かに。
このノートには推理の跡が残っている。
発見。
疑問。
確認。
考察。
そして。
また疑問。
藤堂史也自身が辿った道筋だった。
⸻
最後の一行へ目を向ける。
そこには。
これまでで最も短い文章が書かれていた。
⸻
新聞は鍵だった。
⸻
それだけだった。
⸻
僕はノートを閉じた。
しばらく誰も喋らない。
やがて。
三枝が小さく息を吐いた。
「終わり……ですかね」
「うん」
僕は答えた。
確かに終わっている。
最後のページだった。
これ以上の記録はない。
⸻
けれど。
何も終わっていなかった。
むしろ逆だった。
未掲載新聞。
学校資料の空白。
神谷の調査。
藤堂史也の記録。
全部が一本の線で繋がった。
だが。
その先にある肝心なものだけが見えていない。
⸻
消された人物は誰なのか。
なぜ記録から消されたのか。
どうして未掲載になったのか。
そして。
藤堂史也は何を知ったのか。
⸻
僕は机の上のノートを見る。
十五年前の新聞部員。
名前だけが分かっている人物。
その人が残した最後の言葉。
⸻
新聞は鍵だった。
⸻
「先生」
僕は小さく言った。
「僕たち、まだ入口なんだね」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
先生は静かに答えた。
『ああ』
『ようやく入口だ』
⸻
資料倉庫の窓から夕陽が差し込んでいた。
開いた金庫。
机の上のノート。
そして。
まだ見えない真実。
僕はその全てを見つめながら。
次に何を調べるべきかを考えていた。