図書室の扉が開いた。
「おや」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、秋月先生が立っていた。
どうやら事務室から戻ってきたらしい。
「帰山くん。まだいたのか」
「あ、秋月先生」
『彼が君の言う先生か』
頭の中から声がした。
「今は黙ってて」
『了解した』
秋月先生はカウンターへ向かおうとして、ふと足を止めた。
視線が書架の脇へ向く。
そこには六冊の本が積まれていた。
僕が梯子から落ちた時に落とした本だ。
保健室へ行く前、一冊ずつ拾い集めて脇へ寄せておいたままになっている。
「……これは?」
嫌な予感がした。
「実は、さっき梯子から落ちまして」
秋月先生の動きが止まった。
「何だって?」
「書架の梯子です」
「落ちた?」
「はい」
数秒の沈黙。
秋月先生は積まれた本と僕を見比べた。
「怪我は」
「頭を少し打ちました。あと、左足も打撲したみたいです」
秋月先生の表情がわずかに曇る。
「頭はどこを?」
「後頭部です」
「保健室には行ったのかい」
「行きました」
「養護の先生は何と?」
「今日は仕事をしないで帰るようにって」
秋月先生は目を閉じた。
そして小さくため息をつく。
「なるほど」
そう言うと、積まれていた本へ歩み寄った。
僕も反射的に動こうとする。
「手伝います」
「いいよ」
秋月先生は首を横に振った。
「でも」
「頭を打ったばかりなんだから、今日は座っていて」
穏やかな口調だった。
けれど反論は許さない響きがある。
僕は仕方なく立ち止まった。
秋月先生は本を一冊手に取り、背表紙を確認する。
それから慣れた手つきで棚へ戻した。
「棚には私が戻しておくから」
「すみません」
「気にしなくていい」
二冊目。
三冊目。
次々と本が元の場所へ戻されていく。
『なるほど』
先生が言った。
『彼はこの図書室を把握しているらしい』
「学校司書だからね」
『背表紙を確認しただけで場所が分かるのか』
「たぶん長年の経験」
『有能だな』
少しだけ誇らしい気持ちになった。
秋月先生は最後の一冊を棚へ戻す。
「それで」
振り返った。
「君は何をしに戻ったんだい」
「あ……鞄を取りに」
閲覧席の横に置いたままの鞄を見る。
嘘ではない。
本当に取りに来たのだ。
それだけではなかったけれど。
「そうかい」
秋月先生は頷いた。
その言葉に少しだけ胸が痛んだ。
本当はそれだけじゃない。
あの本のことが気になっていた。
だけど、それはうまく説明できなかった。
「家族には連絡したかい」
「あ」
完全に忘れていた。
「まだです」
「先に連絡しなさい」
正論だった。
⸻
僕は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
母の連絡先を開く。
発信。
数回の呼び出し音。
すぐに繋がった。
『もしもし?』
「母さん」
『湊? どうしたの?』
「図書室の梯子から落ちた」
数秒の沈黙。
『えっ』
予想通りの反応だった
『大丈夫なの!?』
「大丈夫。大怪我とかしてないから」
『どこを打ったの?』
「後頭部」
『保健室は?』
「行った」
『気持ち悪くない?』
「大丈夫」
『そう……』
少しだけ安堵したような声になる。
『今ちょうど仕事が終わったところだから、少し待ってて』
「うん」
『迎えに行くから』
「分かった」
通話が切れる。
スマートフォンをポケットへ戻した。
「迎えは来るかい?」
秋月先生が聞く。
「はい」
「それなら安心だ」
そう言って微笑んだ。
「お母さんが来るまで座って待っていなさい」
「はい」
⸻
僕は閲覧席へ向かった。
椅子に腰を下ろす。
図書室は静かだった。
窓の外は薄闇に包まれ始めている。
校庭から聞こえていた運動部の声も、もうほとんど聞こえない。
『待ちたまえ』
不意に先生が言った。
「何?」
『それだ』
「どれ?」
『君が今使っていたものだ』
どうやらスマートフォンのことらしい。
『あれは何かね』
僕は思わずため息をついた。
「スマートフォン」
『電話機か?』
「電話もできるし、それ以外もできる」
『電話も?』
先生の声が少し変わった。
興味を持った時の声だ。
『では本来は別の用途なのか』
「いや、そういうわけでもないけど」
『見せてくれ』
どうやら母が来るまで、退屈はしなさそうだった。
⸻
僕はスマートフォンを取り出した。
もちろん先生が直接触れるわけではない。
頭の中の存在なのだから。
だから見えるように持ち上げる。
時刻が表示される。
先生はしばらく黙っていた。
『小さいな』
第一声はそれだった。
『なるほど。それが電話機か』
「うん」
僕がスマートフォンへ視線を向ける。
その瞬間だった。
表示が切り替わった。
『待て』
先生の声が飛ぶ。
「何?」
『君は触れていないな』
「うん」
『ならば、なぜ表示が変化した』
「ああ、顔認証だから」
『顔認証?』
「僕の顔を見て本人だって判断した」
沈黙。
『電話機が?』
「そう」
さらに沈黙。
『説明すると長いか』
「長い」
また数秒の沈黙が続いた。
『理解はできる』
先生が言う。
『しかし、それを手のひらに収まる大きさで実現しているという事実が理解できん』
「僕も詳しくは知らない」
『正直で結構だ』
僕は苦笑しながらスマートフォンを操作した。
ホーム画面が表示される。
先生がまた黙り込む。
『何だこれは』
「アプリ」
『あぷり?』
「機能の一覧」
『電話機にか?』
「だから電話だけじゃないんだって」
先生は考え込む。
そして、
『写真機』
『時計』
『電話』
『書類入れ』
『辞書』
『地図』
『それらを一つにまとめたのか』
と言った。
「そんな感じ」
『狂気じみた発想だな』
「褒めてる?」
『最大級にな』
少しだけ笑ってしまった。
⸻
その時だった。
カウンターの向こうで電子音が鳴る。
ピッ。
秋月先生が本を一冊手にしていた。
返却処理らしい。
先生の意識がそちらへ向く。
『今の音は何だ』
「バーコードリーダー」
『何だそれは』
説明すると長い。
そう思ったが、説明しなければ終わらない気もした。
僕は立ち上がった。
「少しだけだよ」
秋月先生に断ってカウンターへ近づく。
「どうした?」
「見学です」
秋月先生は少し笑った。
そして手元を見せてくれる。
本の裏表紙には細い線の集まりが貼られている。
バーコードだ。
『その模様は何だ』
「本の番号」
『模様で?』
「機械が読む」
先生が黙る。
秋月先生はバーコードリーダーを向けた。
ピッ。
再び音が鳴った。
『今ので認識したのか』
「そう」
『貸出記録を管理している?』
「そう」
『返却票ではなく?』
「返却票も使ってる」
先生の興味がさらに強まった気配がした。
『どういうことだ』
⸻
僕は説明した。
今年からバーコード管理が始まったこと。
ただし蔵書が多すぎて移行が終わっていないこと。
古い本にはまだ返却票しかないこと。
だから今は両方が混在していること。
先生はしばらく考えていた。
『なるほど』
やがて言った。
『旧方式と新方式の併用か』
「そんなところ」
『合理的ではないが、現実的だな』
妙に納得している。
秋月先生は今度はパソコンへ向かった。
画面に貸出情報が表示される。
先生がまた黙った。
『それは何だ』
「パソコン」
『計算機か』
「近いけど違う」
『先ほどから君の説明は曖昧だな』
「説明すると長いから」
先生はしばらく貸出情報を見つめていた。
その沈黙は長かった。
⸻
やがて、
『今は何年だ』
と尋ねた。
突然だった。
「二〇二六年」
『そうか』
落ち着いた声だった。
「驚かないの?」
『驚いているさ』
先生は言った。
『だが結論は既に出ていた』
「結論?」
『私の知る常識は、この時代の常識ではない』
⸻
図書室の時計が時を刻む。
静かな声だった。
『携帯できる電話機』
『人の顔を識別する機械』
『電子的な図書管理』
『あの計算機』
『私の知る技術水準とは明らかに異なる』
僕は少し考えた。
「自分がどこの時代の人間か分からないのに?」
『分からない』
先生は即答した。
『だが少なくとも現代人ではないらしい』
その言葉に、妙な重みがあった。
「怖くないの?」
『なぜ』
「自分が誰か分からないんだぞ」
しばらく返事がない。
そして、
『もちろん不快だ』
と先生は言った。
初めて聞く声だった。
少しだけ感情が混じっている。
『だが事実は事実だ』
『不快だからといって変わりはしない』
それは妙に先生らしい答えだった。
少し間を置いてから、
『ただ、気になる』
と言う。
「何が」
『君だ』
思わず顔をしかめた。
「僕?」
『私が最初に出会った人間だからな』
「ひどい理由だ」
『十分な理由だと思うが』
⸻
その時だった。
図書室の時計が六時四十分を指した。
ほぼ同時に、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
急いでいる。
だが走ってはいない。
規則正しい足音だった。
僕は立ち上がった。
『母君か』
先生が言う。
「たぶん」
足音は図書室の前で止まった。
次の瞬間。
扉が開く。
「湊!」
聞き慣れた声だった。
母――
肩には仕事用のバッグ。
額にはうっすら汗が浮かんでいる。
本当に仕事を終えて、そのまま来たのだろう。
「大丈夫なの?」
図書室へ入ってくるなり言った。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「本当」
「気持ち悪くない?」
「大丈夫」
「吐き気は?」
「ない」
「めまいは?」
「ない」
矢継ぎ早の質問だった。
僕が答えるたびに、母は少しだけ安心したような顔になる。
⸻
その時だった。
『湊』
先生が言った。
「何?」
『それが君の名前か』
思わず間が空く。
「ああ」
『なるほど』
先生は納得したようだった。
『誰も教えてくれなかったのでな』
「聞かれなかったから」
『確かに』
妙なところで素直だった。
⸻
母は僕の前まで来ると、頭を覗き込むように見る。
「後頭部だったわね」
「うん」
「痛む?」
「少し」
「少しね」
母は眉をひそめた。
⸻
その時だった。
「お母さんですね」
秋月先生がカウンターから出てきた。
「はい。湊の母です」
千尋は軽く頭を下げる。
秋月先生も会釈を返した。
「保健室では異常なしとのことでしたが、頭を打っていますので、今日はゆっくり休ませてあげてください」
「分かりました」
二人の会話を聞きながら、僕は少し居心地が悪くなる。
何だか自分だけ子供扱いされている気がした。
実際、高校生だから子供なのだが。
『興味深いな』
先生が呟く。
「何が」
『母君と彼だ』
「秋月先生?」
『ああ』
先生は続ける。
『互いに初対面だろう』
「たぶん」
『だが会話に無駄がない』
言われてみればそうだった。
必要なことだけを確認している。
先生らしい観察だった。
⸻
「それじゃあ帰山くん」
秋月先生が言った。
「今日は本当に何もしないこと」
「はい」
「図書委員の仕事もだ」
「はい」
「本当に?」
「はい」
秋月先生は少しだけ疑わしそうな顔をした。
どうやら信用はあまりされていないらしい。
それは仕方ない。
実際、保健室から戻ってきたのだから。
「お大事に」
「ありがとうございます」
母も頭を下げた。
「ありがとうございました」
秋月先生は穏やかに笑った。
「また明日」
⸻
図書室を出る。
廊下にはもう誰もいなかった。
蛍光灯だけが静かに光っている。
窓の外はすっかり夜だった。
昇降口へ向かいながら、僕はふと思い出す。
あの本のことだ。
返却カートから消えた本。
題名も思い出せない本。
なぜか記憶だけが抜け落ちている本。
『気になるかい』
先生が言った。
「まあね」
『当然だ』
先生の声は落ち着いていた。
『私でも気になる』
「だろうね」
『だが今日は考えるだけにしておきたまえ』
「珍しいな」
『後頭部を打った人間に無理を勧める趣味はない』
思わず苦笑する。
「意外とまともなんだな」
『失礼な』
そのまま昇降口を出る。
夜の空気が頬を撫でた。
駐車場には母の軽自動車が停まっている。
「乗って」
「うん」
助手席へ座る。
ドアが閉まる。
その瞬間だった。
『ほう』
先生が言った。
「何?」
『これが自動車か』
「知ってるの?」
『名前はな』
先生はしばらく周囲を観察していた。
『なるほど』
『実物を見るのは初めてだ』
母が運転席に乗り込む。
ドアが閉まる音。
シートベルトの金具が鳴る。
エンジンが始動した。
車体がわずかに震える。
先生は黙ったまま、その感覚を確かめているようだった。
やがて車が動き出す。
校門へ向かってゆっくり進む。
『思ったより静かだな』
先生が言った。
「そう?」
『もっと騒々しいものだと想像していた』
街灯の光が窓を流れていく。
『興味深い』
「何が」
『馬より速く、休息も要らない』
「まあね」
『人類は随分と便利になったものだ』
その言い方が妙に年寄り臭くて、少し笑ってしまった。
⸻
母がちらりとこちらを見る。
「何?」
「別に」
「変な子」
そう言って前を向く。
車は校門を出た。
⸻
夜の住宅街を走っていく。
『ところで』
先生が言った。
「何?」
『私は君の家へ行くのか』
「当たり前だろ」
『そうか』
少し間があった。
『湊君の家か』
「僕の家だよ」
『同じことだ』
その声は、どこか楽しそうだった。
僕は窓の外を見る。
流れていく夜の景色。
頭の中には先生がいる。
消えた本の謎もある。
今日の朝までは想像もしなかった状況だった。
だけど――。
『湊君』
「何?」
『退屈はしなさそうだな』
その言葉に、僕は少しだけ笑った。
確かに、その通りかもしれない。