帰山湊は先生を見送る   作:宵闇 行方

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第三話 帰山家

車は夜の住宅街を走っていた。

窓の外を街灯の光が流れていく。

僕は助手席にもたれながら、ぼんやりと外を眺めていた。

後頭部はまだ少し痛む。

母は運転に集中している。

ラジオもついていない。

車内は静かだった。

『静かなものだな』

先生が言った。

「何が?」

『町だ』

僕は窓の外を見る。

コンビニの灯り。

信号待ちの車。

歩道を歩く人影。

特に珍しいものはない。

「普通じゃない?」

『そうかもしれない』

先生は少し考えるように言った。

『人は多いのに、騒がしくない』

「そんなものだよ」

『私の知る町とは違うらしい』

その言葉に少しだけ引っかかる。

先生はやはり、自分が現代の人間ではないと思っているのだろう。

『それにしても』

「何?」

『便利だな』

「またその話?」

『気になるんだ』

以前より少し柔らかい声だった。

『電話機が手のひらに収まり、自動車が町中を走っている』

「慣れるよ」

『そういうものか』

 

信号が青に変わる。

車が再び動き出した。

しばらくして見慣れた住宅街へ入る。

「そうだ」

母が前を向いたまま言った。

「澪には連絡しておいたから」

「え?」

「心配するでしょ」

確かにそうだった。

「大げさじゃない?」

「頭を打ったんだから大げさじゃないの」

反論できなかった。

『妹君か』

先生が言う。

「そう」

『なるほど』

どこか興味深そうな声だった。

やがて車は一軒の二階建て住宅の前で止まった。

見慣れた我が家だった。

玄関の灯りがついている。

母がエンジンを切る。

『あれが君の家か』

「そうだけど」

『興味深いな』

「何が?」

『君という人間を形作った場所の一つだ』

「そんな大げさな」

『大げさではない』

先生は静かに言った。

『人は環境から逃れられない』

何だか難しい話だった。

 

玄関を開ける。

「ただいま」

「ただいまー」

母が続く。

するとすぐに足音が聞こえた。

軽い足音だ。

次の瞬間。

「お兄ちゃん!」

(みお)だった。

中学一年生の妹は、ほとんど駆けるように玄関までやって来た。

「聞いた!」

開口一番だった。

「何を」

「図書室の梯子から落ちたんでしょ!?」

やっぱり知っていた。

「母さんから?」

「うん」

澪は即答した。

「迎えに行く前に連絡来た」

後ろで靴を脱いでいた母が、

「心配すると思ったから」

と言う。

「大丈夫なの?」

澪が不安そうに聞く。

「大丈夫」

「本当に?」

「本当に」

「頭打ったんでしょ?」

「打った」

「それ大丈夫じゃないじゃん」

正論だった。

『賢いな』

先生が言った。

「誰が?」

『妹君だ』

思わず苦笑する。

澪はまだ心配そうに僕を見上げている。

『君は愛されているらしい』

先生がぽつりと言った。

僕は返事をしなかった。

少しだけ照れ臭かったからだ。

 

その時だった。

リビングの方から足音が聞こえた。

今度はゆっくりした足音だった。

「帰ったか」

低い声。

父――恒一郎(こういちろう)だった。

部屋着姿のまま廊下へ出てくる。

そして僕の顔を見る。

「どうした?」

どうやらまだ話は聞いていないらしい。

僕は母を見る。

母は肩をすくめた。

「あなたにはまだ言ってなかったもの」

「何の話だ」

父が眉をひそめる。

その瞬間、澪が口を開いた。

「お兄ちゃん、図書室の梯子から落ちたの」

恒一郎の表情が止まった。

「……落ちた?」

低い声だった。

「図書室の梯子から」

僕が答える。

父は僕の頭を見た。

次に足元を見る。

そして母を見る。

「病院は?」

「行ってないわ」

千尋が答えた。

「保健室で診てもらったの。特に問題ないって」

恒一郎は眉をひそめた。

「頭を打ったんだろう」

「後頭部を少しね」

「少しか」

父は納得していない顔だった。

『なるほど』

先生が言った。

『彼は心配している』

「見れば分かる」

『そうだな』

珍しく素直に同意された。

恒一郎は腕を組む。

父さんは普段あまり感情を表に出さない。

だからこそ、今は心配しているのがよく分かった。

「今日は早く寝ろ」

「分かってる」

「本は読むな」

「えっ」

「読むな」

即答だった。

「スマートフォンもほどほどにしろ」

「厳しくない?」

「頭を打った人間への指示としては普通だ」

反論できなかった。

隣で澪がうんうんと頷いている。

味方がいない。

「とりあえず夕飯にしましょう」

千尋が言った。

「冷めちゃう」

その一言で会話は終わった。

帰山家ではよくあることだった。

 

 

僕たちはリビングへ向かった。

食卓には既に夕飯が並んでいた。

味噌汁。

サラダ。

そして大きめのハンバーグ。

どうやら今日は僕の好きな献立だったらしい。

「本当はもっと早く食べる予定だったんだけどね」

母が苦笑する。

「ごめん」

「湊のせいじゃないでしょ」

そう言いながら母は皿を並べていく。

澪は席に座ると、まだこちらを気にしていた。

「頭、本当に痛くない?」

「少しは痛いよ」

「やっぱり痛いんじゃん」

「少しだけ」

「それを痛いって言うんだよ」

妙に説得力があった。

父は向かいの席に座りながら、

「澪」

とだけ言った。

「何?」

「食事中だ」

「はーい」

澪は素直に引き下がる。

もっとも、その表情を見る限り納得したわけではなさそうだった。

「学校はどうだった?」

母が話題を変える。

「普通」

澪が答えた。

「その普通が分からないのよ」

「テスト返ってきた」

「どうだった?」

「英語は良かった」

「英語は?」

母が聞き返す。

澪は視線を逸らした。

どうやら他は聞かれたくないらしい。

「なるほどね」

母はそれ以上追及しなかった。

父も何も言わない。

帰山家ではよくあるやり取りだった。

そんな様子を見ていた先生が、小さく呟いた。

『面白いな』

「また?」

『家族というものは興味深い』

「そう?」

『会話の量以上に、多くの情報を交換している』

言われてみれば、そうかもしれなかった。

母は澪の成績を大体把握している。

父も口数は少ないが、家族の様子を見ている。

そして僕も、それが当たり前だと思っていた。

『なるほど』

先生は少し感心したように言った。

『悪くない』

 

 

テーブルを囲みながら、父は何度かこちらを見た。

「本当に大丈夫なんだな」

三回目だった。

「大丈夫だって」

「ならいい」

と言いながら、まったく安心していない。

『なるほど』

『君の父君の性格が少し見えてきた』

先生が言う。

「また観察してる」

『癖のようなものだ』

自分が何者かも分からないと言っていたのに。

だが、そこは突っ込まないでおいた。

『言葉は少ないが、家族をよく見ている』

先生は続ける。

『先ほどから何度も君を確認している』

言われてみればそうだった。

父は食事をしながらも、ちらちらと僕を見ている。

「心配性なんだよ」

『良いことだ』

意外な返事だった。

「そう思う?」

『誰にも気に掛けられないよりは』

その言葉は妙に静かだった。

ただの皮肉屋ではないのかもしれない。

そんなことを、ふと思った。

僕は少しだけ黙った。

先生も、それ以上は何も言わなかった。

 

 

食後。

風呂は今日はやめろと父に言われた。

頭を打った直後だかららしい。

その代わりに濡れタオルで済ませる。

そこまで大げさな怪我ではないと思うのだが、家族は誰も同意してくれなかった。

 

午後九時過ぎ。

ようやく自室へ戻る。

ベッドに腰を下ろした。

本棚。

机。

参考書。

読みかけの歴史小説。

見慣れた部屋だった。

『ここが君の部屋か』

先生が言う。

「そう」

『なるほど』

しばらく沈黙。

『思ったより整頓されている』

「失礼だな」

『学生の部屋としては、だ』

どういう基準なのだろう。

僕は机の上へスマートフォンを置いた。

 

時計を見る。

午後九時二十三分。

長い一日だった。

本当に。

『そうだな』

先生も同じことを考えていたらしい。

僕は天井を見上げた。

そして――ふと思い出す。

返却カート。

消えた本。

思い出せない題名。

『また考えているな』

先生が言った。

「分かる?」

『考えていることが顔に出ている』

無意識だった。

『気になるのは理解できる』

先生は言う。

『私も気になる』

「だろうね」

『だが今は材料が少なすぎる』

その通りだった。

本の題名も分からない。

著者も分からない。

色すら思い出せない。

覚えているのは、

返却カートにあったこと。

そして、

今はないこと。

それだけだ。

『奇妙だな』

先生が呟く。

「何が?」

『本が消えたことではない』

僕は先生の次の言葉を待った。

『君が題名だけ思い出せないことだ』

部屋が静かになる。

エアコンの音だけが聞こえていた。

確かにそうだ。

本がなくなること自体はあり得る。

誰かが借りたのかもしれない。

棚へ戻されたのかもしれない。

だが――。

題名だけが抜け落ちている。

そこだけが不自然だった。

 

『君』

先生が静かに言う。

「何?」

『その本は、本当に今日初めて気になったのか?』

僕は少し考えた。

「たぶん」

『たぶん?』

「事故の前は気にしたこともなかったと思う」

『思う、か』

先生はそれ以上は言わない。

僕も言葉を探した。

「でも」

『うん?』

「事故の後からなんだ」

先生は黙っている。

「気付いたら気になってた」

『なるほど』

短い返事だった。

肯定も否定もしない。

ただ事実として受け取っただけのようだった。

しばらく沈黙が続く。

やがて先生が言った。

『ならば現時点で分かることは一つだ』

「何?」

『君はその本が気になっている』

思わず苦笑した。

「当たり前だろ」

『当たり前ではない』

先生は静かに言う。

『人は普通、理由もなく一冊の本に執着したりはしない』

その言葉は妙に引っかかった。

 

理由。

そうだ。

僕はその本の題名すら思い出せない。

なのに気になっている。

それは確かに妙な話だった。

『理由の分からない興味には価値がある』

先生は続けた。

『少なくとも私はそう思う』

 

僕はベッドに横になる。

天井を見上げた。

消えた本。

思い出せない題名。

そして、理由の分からない興味。

気付けば僕は、そのことばかり考えていた。

窓の外では虫の声が聞こえている。

長い一日が終わろうとしていた。

 

けれど、本当に始まったのは――むしろここからなのかもしれなかった。

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