車は夜の住宅街を走っていた。
窓の外を街灯の光が流れていく。
僕は助手席にもたれながら、ぼんやりと外を眺めていた。
後頭部はまだ少し痛む。
母は運転に集中している。
ラジオもついていない。
車内は静かだった。
『静かなものだな』
先生が言った。
「何が?」
『町だ』
僕は窓の外を見る。
コンビニの灯り。
信号待ちの車。
歩道を歩く人影。
特に珍しいものはない。
「普通じゃない?」
『そうかもしれない』
先生は少し考えるように言った。
『人は多いのに、騒がしくない』
「そんなものだよ」
『私の知る町とは違うらしい』
その言葉に少しだけ引っかかる。
先生はやはり、自分が現代の人間ではないと思っているのだろう。
『それにしても』
「何?」
『便利だな』
「またその話?」
『気になるんだ』
以前より少し柔らかい声だった。
『電話機が手のひらに収まり、自動車が町中を走っている』
「慣れるよ」
『そういうものか』
信号が青に変わる。
車が再び動き出した。
しばらくして見慣れた住宅街へ入る。
「そうだ」
母が前を向いたまま言った。
「澪には連絡しておいたから」
「え?」
「心配するでしょ」
確かにそうだった。
「大げさじゃない?」
「頭を打ったんだから大げさじゃないの」
反論できなかった。
『妹君か』
先生が言う。
「そう」
『なるほど』
どこか興味深そうな声だった。
やがて車は一軒の二階建て住宅の前で止まった。
見慣れた我が家だった。
玄関の灯りがついている。
母がエンジンを切る。
『あれが君の家か』
「そうだけど」
『興味深いな』
「何が?」
『君という人間を形作った場所の一つだ』
「そんな大げさな」
『大げさではない』
先生は静かに言った。
『人は環境から逃れられない』
何だか難しい話だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
「ただいまー」
母が続く。
するとすぐに足音が聞こえた。
軽い足音だ。
次の瞬間。
「お兄ちゃん!」
中学一年生の妹は、ほとんど駆けるように玄関までやって来た。
「聞いた!」
開口一番だった。
「何を」
「図書室の梯子から落ちたんでしょ!?」
やっぱり知っていた。
「母さんから?」
「うん」
澪は即答した。
「迎えに行く前に連絡来た」
後ろで靴を脱いでいた母が、
「心配すると思ったから」
と言う。
「大丈夫なの?」
澪が不安そうに聞く。
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「頭打ったんでしょ?」
「打った」
「それ大丈夫じゃないじゃん」
正論だった。
『賢いな』
先生が言った。
「誰が?」
『妹君だ』
思わず苦笑する。
澪はまだ心配そうに僕を見上げている。
『君は愛されているらしい』
先生がぽつりと言った。
僕は返事をしなかった。
少しだけ照れ臭かったからだ。
その時だった。
リビングの方から足音が聞こえた。
今度はゆっくりした足音だった。
「帰ったか」
低い声。
父――
部屋着姿のまま廊下へ出てくる。
そして僕の顔を見る。
「どうした?」
どうやらまだ話は聞いていないらしい。
僕は母を見る。
母は肩をすくめた。
「あなたにはまだ言ってなかったもの」
「何の話だ」
父が眉をひそめる。
その瞬間、澪が口を開いた。
「お兄ちゃん、図書室の梯子から落ちたの」
恒一郎の表情が止まった。
「……落ちた?」
低い声だった。
「図書室の梯子から」
僕が答える。
父は僕の頭を見た。
次に足元を見る。
そして母を見る。
「病院は?」
「行ってないわ」
千尋が答えた。
「保健室で診てもらったの。特に問題ないって」
恒一郎は眉をひそめた。
「頭を打ったんだろう」
「後頭部を少しね」
「少しか」
父は納得していない顔だった。
『なるほど』
先生が言った。
『彼は心配している』
「見れば分かる」
『そうだな』
珍しく素直に同意された。
恒一郎は腕を組む。
父さんは普段あまり感情を表に出さない。
だからこそ、今は心配しているのがよく分かった。
「今日は早く寝ろ」
「分かってる」
「本は読むな」
「えっ」
「読むな」
即答だった。
「スマートフォンもほどほどにしろ」
「厳しくない?」
「頭を打った人間への指示としては普通だ」
反論できなかった。
隣で澪がうんうんと頷いている。
味方がいない。
「とりあえず夕飯にしましょう」
千尋が言った。
「冷めちゃう」
その一言で会話は終わった。
帰山家ではよくあることだった。
⸻
僕たちはリビングへ向かった。
食卓には既に夕飯が並んでいた。
味噌汁。
サラダ。
そして大きめのハンバーグ。
どうやら今日は僕の好きな献立だったらしい。
「本当はもっと早く食べる予定だったんだけどね」
母が苦笑する。
「ごめん」
「湊のせいじゃないでしょ」
そう言いながら母は皿を並べていく。
澪は席に座ると、まだこちらを気にしていた。
「頭、本当に痛くない?」
「少しは痛いよ」
「やっぱり痛いんじゃん」
「少しだけ」
「それを痛いって言うんだよ」
妙に説得力があった。
父は向かいの席に座りながら、
「澪」
とだけ言った。
「何?」
「食事中だ」
「はーい」
澪は素直に引き下がる。
もっとも、その表情を見る限り納得したわけではなさそうだった。
「学校はどうだった?」
母が話題を変える。
「普通」
澪が答えた。
「その普通が分からないのよ」
「テスト返ってきた」
「どうだった?」
「英語は良かった」
「英語は?」
母が聞き返す。
澪は視線を逸らした。
どうやら他は聞かれたくないらしい。
「なるほどね」
母はそれ以上追及しなかった。
父も何も言わない。
帰山家ではよくあるやり取りだった。
そんな様子を見ていた先生が、小さく呟いた。
『面白いな』
「また?」
『家族というものは興味深い』
「そう?」
『会話の量以上に、多くの情報を交換している』
言われてみれば、そうかもしれなかった。
母は澪の成績を大体把握している。
父も口数は少ないが、家族の様子を見ている。
そして僕も、それが当たり前だと思っていた。
『なるほど』
先生は少し感心したように言った。
『悪くない』
⸻
テーブルを囲みながら、父は何度かこちらを見た。
「本当に大丈夫なんだな」
三回目だった。
「大丈夫だって」
「ならいい」
と言いながら、まったく安心していない。
『なるほど』
『君の父君の性格が少し見えてきた』
先生が言う。
「また観察してる」
『癖のようなものだ』
自分が何者かも分からないと言っていたのに。
だが、そこは突っ込まないでおいた。
『言葉は少ないが、家族をよく見ている』
先生は続ける。
『先ほどから何度も君を確認している』
言われてみればそうだった。
父は食事をしながらも、ちらちらと僕を見ている。
「心配性なんだよ」
『良いことだ』
意外な返事だった。
「そう思う?」
『誰にも気に掛けられないよりは』
その言葉は妙に静かだった。
ただの皮肉屋ではないのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
僕は少しだけ黙った。
先生も、それ以上は何も言わなかった。
⸻
食後。
風呂は今日はやめろと父に言われた。
頭を打った直後だかららしい。
その代わりに濡れタオルで済ませる。
そこまで大げさな怪我ではないと思うのだが、家族は誰も同意してくれなかった。
午後九時過ぎ。
ようやく自室へ戻る。
ベッドに腰を下ろした。
本棚。
机。
参考書。
読みかけの歴史小説。
見慣れた部屋だった。
『ここが君の部屋か』
先生が言う。
「そう」
『なるほど』
しばらく沈黙。
『思ったより整頓されている』
「失礼だな」
『学生の部屋としては、だ』
どういう基準なのだろう。
僕は机の上へスマートフォンを置いた。
時計を見る。
午後九時二十三分。
長い一日だった。
本当に。
『そうだな』
先生も同じことを考えていたらしい。
僕は天井を見上げた。
そして――ふと思い出す。
返却カート。
消えた本。
思い出せない題名。
『また考えているな』
先生が言った。
「分かる?」
『考えていることが顔に出ている』
無意識だった。
『気になるのは理解できる』
先生は言う。
『私も気になる』
「だろうね」
『だが今は材料が少なすぎる』
その通りだった。
本の題名も分からない。
著者も分からない。
色すら思い出せない。
覚えているのは、
返却カートにあったこと。
そして、
今はないこと。
それだけだ。
『奇妙だな』
先生が呟く。
「何が?」
『本が消えたことではない』
僕は先生の次の言葉を待った。
『君が題名だけ思い出せないことだ』
部屋が静かになる。
エアコンの音だけが聞こえていた。
確かにそうだ。
本がなくなること自体はあり得る。
誰かが借りたのかもしれない。
棚へ戻されたのかもしれない。
だが――。
題名だけが抜け落ちている。
そこだけが不自然だった。
『君』
先生が静かに言う。
「何?」
『その本は、本当に今日初めて気になったのか?』
僕は少し考えた。
「たぶん」
『たぶん?』
「事故の前は気にしたこともなかったと思う」
『思う、か』
先生はそれ以上は言わない。
僕も言葉を探した。
「でも」
『うん?』
「事故の後からなんだ」
先生は黙っている。
「気付いたら気になってた」
『なるほど』
短い返事だった。
肯定も否定もしない。
ただ事実として受け取っただけのようだった。
しばらく沈黙が続く。
やがて先生が言った。
『ならば現時点で分かることは一つだ』
「何?」
『君はその本が気になっている』
思わず苦笑した。
「当たり前だろ」
『当たり前ではない』
先生は静かに言う。
『人は普通、理由もなく一冊の本に執着したりはしない』
その言葉は妙に引っかかった。
理由。
そうだ。
僕はその本の題名すら思い出せない。
なのに気になっている。
それは確かに妙な話だった。
『理由の分からない興味には価値がある』
先生は続けた。
『少なくとも私はそう思う』
僕はベッドに横になる。
天井を見上げた。
消えた本。
思い出せない題名。
そして、理由の分からない興味。
気付けば僕は、そのことばかり考えていた。
窓の外では虫の声が聞こえている。
長い一日が終わろうとしていた。
けれど、本当に始まったのは――むしろここからなのかもしれなかった。