翌朝、目が覚めた時には頭痛はかなり軽くなっていた。
時計を見る。
午前六時四十二分。
いつも通りの時間だった。
『目覚めは良さそうだな』
先生が言う。
「おはよう」
『おはよう』
もう、このやり取りにも少し慣れ始めている自分がいた。
頭の中に知らない男がいる。
冷静に考えれば異常だ。
だが先生は妙に理性的で、妙に落ち着いていた。
少なくとも今のところ害はない。
それどころか――。
昨日から何度か思っている。
この人は、僕よりずっと頭が良い。
そんな気がしていた。
⸻
朝、リビングへ降りると、既に朝食の匂いが漂っていた。
焼いたベーコンの香り。
味噌汁の湯気。
母はキッチンでフライパンを振っている。
「おはよう」
「おはよう。頭はどう?」
開口一番だった。
「だいぶ良いよ」
「本当?」
「本当」
母は少しだけ安心したようだった。
テーブルには父が座っていた。
新聞を読んでいる。
いつもの朝の光景だ。
「おはよう」
僕が声を掛ける。
恒一郎は新聞から目を上げた。
「頭痛は?」
父も同じことを聞いた。
「大丈夫だって」
「ならいい」
そう言うが、表情を見る限り完全には信用していない。
昨日と同じだった。
『皆、まずそれを聞くのだな』
先生が言う。
「普通だよ」
『そういうものか』
どこか納得したような声だった。
その時、二階から足音が聞こえた。
続いて勢いよくリビングの扉が開く。
「おはよー!」
澪だった。
制服姿のまま椅子へ座る。
そして僕を見るなり言った。
「お兄ちゃん生きてる」
「その確認必要?」
「必要」
即答だった。
「頭痛い?」
「少しだけ」
「ほら痛いんじゃん」
昨日と同じ流れだった。
母が味噌汁を運びながら笑う。
「澪、それ以上は本人が嫌がるから」
「だって心配だし」
そう言って澪は納豆を混ぜ始めた。
『なるほど』
先生が言う。
「何?」
『妹君は昨日から一貫している』
確かにそうだった。
心配していることを隠そうともしていない。
父は黙ったまま湯呑みに手を伸ばした。
そして一言だけ言った。
「無理するな」
短い言葉だった。
だが、その一言に昨日からの心配が全部詰まっている気がした。
父はそう言うと、脇に置いていた新聞へ再び視線を落とした。
そして小さく眉をひそめる。
「どうしたの?」
母が聞く。
「いや」
父は記事を指先で軽く叩いた。
「最近は振り向く。妙な話が多い」
「仕事?」
「まあな」
それだけだった。
父は仕事の話をほとんど家へ持ち込まない。
だから詳しくは聞かなかった。
澪も特に興味を示さない。
いつものことだからだ。
だが先生だけは反応した。
『妙な話、か』
先生が小さく呟く。
「気になるの?」
『ああ』
『言葉を選んでいる人間には理由がある』
それ以上は続かなかった。
父も新聞を脇へ置き、
「冷めるぞ」
とだけ言った。
話はそこで終わった。
『良い家族だな』
先生が静かに言った。
僕は味噌汁を飲みながら、
「そうかな」
とだけ答えた。
けれど少しだけ嬉しかった。
朝食を終え、身支度を整える。
玄関で靴を履くと、母が見送りに出てきた。
「気分悪くなったら保健室行きなさいよ」
「分かってる」
「無理しないこと」
「はいはい」
すると後ろから澪の声が飛んできた。
「また落ちないでね!」
「落ちないよ」
「昨日もそう思ってたでしょ」
反論できなかった。
⸻
学校へ向かう。
夏の朝の空気は少し蒸し暑かった。
校門をくぐり、昇降口へ向かう。
『大きいな』
先生が言った。
「学校?」
『ああ』
昨日も来ていたはずなのに。
『昨日は余裕がなかった』
確かにその通りだった。
頭を打ち、知らない声が聞こえ始めたのだから。
⸻
教室へ入る。
するとすぐに声が飛んできた。
「お、帰山」
振り向く。
同じクラスで、同じ図書委員でもある。
「頭、大丈夫か?」
開口一番だった。
「一応」
「一応って何だよ」
悠真は苦笑した。
「図書室の梯子から落ちたんだろ?」
「そう」
「漫画みたいだな」
「笑い事じゃない」
「生きてるから言えるんだって」
少しだけ笑ってしまった。
その後、悠真は頭をかいた。
「昨日さ」
「うん」
「悪かったな」
少し意外だった。
「何が?」
「図書委員」
悠真は気まずそうに言う。
「俺、バイトで抜けたじゃん」
「ああ」
「だから昨日、図書室ほとんど帰山一人だったろ」
そう言われればそうだった。
「別に気にしてないよ」
「でも俺がいたら、本の整理くらい手伝えたかもしれないし」
「それとこれとは別だろ」
「まあ、そうなんだけどさ」
悠真は苦笑した。
『責任を感じているな』
先生が言った。
「そうかな」
『そうだ』
即答だった。
『君が怪我をしたことを、自分にも関係があると思っている』
僕は悠真を見る。
本人はいつも通り笑っている。
けれど、言われてみればそんな気もした。
「本当に気にしてないって」
僕は言った。
「だからその顔やめろ」
「どんな顔だよ」
悠真は笑った。
けれど少しだけ安心したようにも見えた。
⸻
午前の授業は平穏に進んだ。
ただ一つだけ。
世界史の授業中だった。
教師が黒板に「産業革命」と書く。
イギリスで始まった技術革新。
蒸気機関。
工場制機械工業。
教科書に載っている内容だ。
その時だった。
『教師は間違っていない』
先生が言った。
「じゃあ何なの」
心の中で返す。
『省略しすぎている』
僕は少しだけ眉をひそめた。
『産業革命は蒸気機関だけで起きたわけではない』
先生は続ける。
『資本、貿易、輸送網、植民地。様々な要因が絡み合っている』
「詳しいんだな」
『多少はな』
当然のような返事だった。
『歴史というものは、単純な原因一つで動くほど単純ではない』
僕は教科書を見る。
そんなことは考えたこともなかった。
授業で覚えるのは年号や出来事ばかりだ。
けれど先生は、その裏側まで見ている。
『事実だけを見ても、本質は見えない』
先生は静かに言った。
『人間も同じだ』
その言葉は妙に印象に残った。
僕にはただの授業だった。
だが先生には違うものが見えているらしい。
少しだけ。
本当に少しだけだが。
僕は先生に対して尊敬のような感情を抱き始めていた。
同時に思う。
僕にはそこまで見えない。
同じ景色を見ているはずなのに。
見えているものが違う。
その差が少し悔しかった。
⸻
昼休み。
僕は教室で弁当を広げていた。
悠真は購買のパンを食べている。
教室は賑やかだった。
振り向く。友達同士で話す者。
スマートフォンを見る者。
机を囲んで笑う者。
どこにでもある昼休みの光景だった。
『面白い』
先生が言う。
「また?」
『右前方の男子生徒』
僕はそちらを見る。
クラスメイトの一人だった。
「それが?」
『昨夜ほとんど眠っていない』
「何で分かるんだ」
『目の下の隈』
先生は即答した。
『制服の皺。髪も整っていない』
言われてみればそうだった。
『昼食も急いでいる』
「だから?」
『昼休みに寝るつもりだろう』
確かに弁当を異様な速さで食べている。
『左側の女子生徒は機嫌が悪そうだ』
「それも分かるの?」
『分かる』
当然のように言う。
『友人と話しているが、一度も笑っていない』
僕はそちらを見る。
確かにそうだった。
『朝、何かあった可能性が高い』
「そんなことまで分かるのか」
『推測だ』
先生は言った。
『だが根拠のない想像ではない』
僕は黙った。
周囲を見る。
僕には普通の昼休みにしか見えない。
先生には違う景色が見えている。
それが少し悔しかった。
『君は見ている。ただ観察していない』
「ひどくない?」
『事実だ』
『だが普通でもある』
「どっちなんだよ」
『大半の人間は観察していない』
『だから観察には価値がある』
僕は卵焼きを口に運ぶ。
その言葉に反論できなかった。
⸻
放課後。
授業が終わる。
部活へ向かう生徒たちの声が廊下に響いていた。
「じゃあな」
悠真が手を振る。
「おう」
僕は教室を出た。
向かう先は図書室だった。
⸻
図書室の扉を開く。
静かな空気。
紙の匂い。
昨日と変わらない光景。
秋月先生はカウンターの向こうで作業をしていた。
「お、帰山」
顔を上げる。
「体は大丈夫か?」
「はい」
「無理するなよ」
それだけ言うと、また仕事へ戻った。
昨日の事故を思い出して少し気まずい。
僕は返却カートへ目を向けた。
自然と視線が向いてしまう。
本が並んでいる。
いつも通りだ。
だが。
あの本はない。
題名も思い出せない本。
なぜか気になって仕方がない本。
『また考えているな』
先生が言った。
「そりゃね」
『良い傾向だ』
「そうなの?」
『違和感を無視しないことは重要だ』
先生は静かに続けた。
『人は気になることを忘れようとする』
「面倒だから?」
『その通りだ』
少し笑ったような気がした。
『だが違和感には理由がある』
僕は返却カートを見る。
書架を見る。
図書室を見回す。
何か手掛かりはないだろうか。
まだ分からない。
何を調べればいいのかも分からない。
それでも。
昨日の僕なら、ここで諦めていた気がする。
『どうした?』
先生が聞く。
「いや」
僕は小さく首を振った。
「先生なら、こういう時どうするのかなって」
少しの沈黙。
そして。
『まず事実を集める』
先生は答えた。
『推測はその後だ』
その言葉は簡単だった。
けれど妙に説得力があった。
僕には何も分からない。
先生には見えている。
その差は大きい。
だが。
だからこそ。
少しでも近づいてみたいと思った。
「事実か」
僕は返却カートへ近付いた。
当然だが、返却カートの中身はすっかり入れ替わっている。
それでも、僕が落ちた場所は変わらない。
『まず確認だ』
先生が言う。
『君は何を知っている?』
「え?」
『事実だけを挙げろ』
僕は少し考える。
「返却カートに本があった」
『うむ』
「今はない」
『うむ』
「題名だけ思い出せない」
『うむ』
「それ以外は……」
言葉が止まる。
先生は静かに言った。
『それで良い』
「良いの?」
『分からないことを分からないと言えるのは重要だ』
妙な言い方だった。
僕は返却カートを見つめる。
すると視界の端に貸出用パソコンが入った。
バーコード管理用の端末だ。
『あれは?』
先生が聞く。
「貸出記録とかを見るやつ」
『見られるのか』
「たぶん」
僕はカウンターの方を見る。
秋月先生は別の作業中だった。
少し迷う。
だが、
『事実を集めるのだろう?』
先生が言った。
その通りだった。
僕は意を決してカウンターへ向かった。
何が分かるのかは分からない。
それでも――。
初めて自分から謎を追おうとしていることだけは確かだった。