帰山湊は先生を見送る   作:宵闇 行方

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第四話 違和感

翌朝、目が覚めた時には頭痛はかなり軽くなっていた。

時計を見る。

午前六時四十二分。

いつも通りの時間だった。

『目覚めは良さそうだな』

先生が言う。

「おはよう」

『おはよう』

もう、このやり取りにも少し慣れ始めている自分がいた。

頭の中に知らない男がいる。

冷静に考えれば異常だ。

だが先生は妙に理性的で、妙に落ち着いていた。

少なくとも今のところ害はない。

それどころか――。

昨日から何度か思っている。

この人は、僕よりずっと頭が良い。

そんな気がしていた。

 

 

朝、リビングへ降りると、既に朝食の匂いが漂っていた。

焼いたベーコンの香り。

味噌汁の湯気。

母はキッチンでフライパンを振っている。

「おはよう」

「おはよう。頭はどう?」

開口一番だった。

「だいぶ良いよ」

「本当?」

「本当」

母は少しだけ安心したようだった。

テーブルには父が座っていた。

新聞を読んでいる。

いつもの朝の光景だ。

「おはよう」

僕が声を掛ける。

恒一郎は新聞から目を上げた。

「頭痛は?」

父も同じことを聞いた。

「大丈夫だって」

「ならいい」

そう言うが、表情を見る限り完全には信用していない。

昨日と同じだった。

『皆、まずそれを聞くのだな』

先生が言う。

「普通だよ」

『そういうものか』

どこか納得したような声だった。

その時、二階から足音が聞こえた。

続いて勢いよくリビングの扉が開く。

「おはよー!」

澪だった。

制服姿のまま椅子へ座る。

そして僕を見るなり言った。

「お兄ちゃん生きてる」

「その確認必要?」

「必要」

即答だった。

「頭痛い?」

「少しだけ」

「ほら痛いんじゃん」

昨日と同じ流れだった。

母が味噌汁を運びながら笑う。

「澪、それ以上は本人が嫌がるから」

「だって心配だし」

そう言って澪は納豆を混ぜ始めた。

『なるほど』

先生が言う。

「何?」

『妹君は昨日から一貫している』

確かにそうだった。

心配していることを隠そうともしていない。

父は黙ったまま湯呑みに手を伸ばした。

そして一言だけ言った。

「無理するな」

短い言葉だった。

だが、その一言に昨日からの心配が全部詰まっている気がした。

父はそう言うと、脇に置いていた新聞へ再び視線を落とした。

そして小さく眉をひそめる。

「どうしたの?」

母が聞く。

「いや」

父は記事を指先で軽く叩いた。

「最近は振り向く。妙な話が多い」

「仕事?」

「まあな」

それだけだった。

父は仕事の話をほとんど家へ持ち込まない。

だから詳しくは聞かなかった。

澪も特に興味を示さない。

いつものことだからだ。

だが先生だけは反応した。

『妙な話、か』

先生が小さく呟く。

「気になるの?」

『ああ』

『言葉を選んでいる人間には理由がある』

それ以上は続かなかった。

父も新聞を脇へ置き、

「冷めるぞ」

とだけ言った。

話はそこで終わった。

『良い家族だな』

先生が静かに言った。

僕は味噌汁を飲みながら、

「そうかな」

とだけ答えた。

けれど少しだけ嬉しかった。

 

朝食を終え、身支度を整える。

玄関で靴を履くと、母が見送りに出てきた。

「気分悪くなったら保健室行きなさいよ」

「分かってる」

「無理しないこと」

「はいはい」

すると後ろから澪の声が飛んできた。

「また落ちないでね!」

「落ちないよ」

「昨日もそう思ってたでしょ」

反論できなかった。

 

 

学校へ向かう。

夏の朝の空気は少し蒸し暑かった。

校門をくぐり、昇降口へ向かう。

『大きいな』

先生が言った。

「学校?」

『ああ』

昨日も来ていたはずなのに。

『昨日は余裕がなかった』

確かにその通りだった。

頭を打ち、知らない声が聞こえ始めたのだから。

 

 

教室へ入る。

するとすぐに声が飛んできた。

「お、帰山」

振り向く。

榊原悠真(さかきばら ゆうま)だった。

同じクラスで、同じ図書委員でもある。

「頭、大丈夫か?」

開口一番だった。

「一応」

「一応って何だよ」

悠真は苦笑した。

「図書室の梯子から落ちたんだろ?」

「そう」

「漫画みたいだな」

「笑い事じゃない」

「生きてるから言えるんだって」

少しだけ笑ってしまった。

その後、悠真は頭をかいた。

「昨日さ」

「うん」

「悪かったな」

少し意外だった。

「何が?」

「図書委員」

悠真は気まずそうに言う。

「俺、バイトで抜けたじゃん」

「ああ」

「だから昨日、図書室ほとんど帰山一人だったろ」

そう言われればそうだった。

「別に気にしてないよ」

「でも俺がいたら、本の整理くらい手伝えたかもしれないし」

「それとこれとは別だろ」

「まあ、そうなんだけどさ」

悠真は苦笑した。

『責任を感じているな』

先生が言った。

「そうかな」

『そうだ』

即答だった。

『君が怪我をしたことを、自分にも関係があると思っている』

僕は悠真を見る。

本人はいつも通り笑っている。

けれど、言われてみればそんな気もした。

「本当に気にしてないって」

僕は言った。

「だからその顔やめろ」

「どんな顔だよ」

悠真は笑った。

けれど少しだけ安心したようにも見えた。

 

 

午前の授業は平穏に進んだ。

ただ一つだけ。

世界史の授業中だった。

教師が黒板に「産業革命」と書く。

イギリスで始まった技術革新。

蒸気機関。

工場制機械工業。

教科書に載っている内容だ。

その時だった。

『教師は間違っていない』

先生が言った。

「じゃあ何なの」

心の中で返す。

『省略しすぎている』

僕は少しだけ眉をひそめた。

『産業革命は蒸気機関だけで起きたわけではない』

先生は続ける。

『資本、貿易、輸送網、植民地。様々な要因が絡み合っている』

「詳しいんだな」

『多少はな』

当然のような返事だった。

『歴史というものは、単純な原因一つで動くほど単純ではない』

僕は教科書を見る。

そんなことは考えたこともなかった。

授業で覚えるのは年号や出来事ばかりだ。

けれど先生は、その裏側まで見ている。

『事実だけを見ても、本質は見えない』

先生は静かに言った。

『人間も同じだ』

その言葉は妙に印象に残った。

僕にはただの授業だった。

だが先生には違うものが見えているらしい。

少しだけ。

本当に少しだけだが。

僕は先生に対して尊敬のような感情を抱き始めていた。

同時に思う。

僕にはそこまで見えない。

同じ景色を見ているはずなのに。

見えているものが違う。

その差が少し悔しかった。

 

 

昼休み。

僕は教室で弁当を広げていた。

悠真は購買のパンを食べている。

教室は賑やかだった。

振り向く。友達同士で話す者。

スマートフォンを見る者。

机を囲んで笑う者。

どこにでもある昼休みの光景だった。

『面白い』

先生が言う。

「また?」

『右前方の男子生徒』

僕はそちらを見る。

クラスメイトの一人だった。

「それが?」

『昨夜ほとんど眠っていない』

「何で分かるんだ」

『目の下の隈』

先生は即答した。

『制服の皺。髪も整っていない』

言われてみればそうだった。

『昼食も急いでいる』

「だから?」

『昼休みに寝るつもりだろう』

確かに弁当を異様な速さで食べている。

『左側の女子生徒は機嫌が悪そうだ』

「それも分かるの?」

『分かる』

当然のように言う。

『友人と話しているが、一度も笑っていない』

僕はそちらを見る。

確かにそうだった。

『朝、何かあった可能性が高い』

「そんなことまで分かるのか」

『推測だ』

先生は言った。

『だが根拠のない想像ではない』

僕は黙った。

周囲を見る。

僕には普通の昼休みにしか見えない。

先生には違う景色が見えている。

それが少し悔しかった。

『君は見ている。ただ観察していない』

「ひどくない?」

『事実だ』

『だが普通でもある』

「どっちなんだよ」

『大半の人間は観察していない』

『だから観察には価値がある』

僕は卵焼きを口に運ぶ。

その言葉に反論できなかった。

 

 

放課後。

授業が終わる。

部活へ向かう生徒たちの声が廊下に響いていた。

「じゃあな」

悠真が手を振る。

「おう」

僕は教室を出た。

向かう先は図書室だった。

 

 

図書室の扉を開く。

静かな空気。

紙の匂い。

昨日と変わらない光景。

秋月先生はカウンターの向こうで作業をしていた。

「お、帰山」

顔を上げる。

「体は大丈夫か?」

「はい」

「無理するなよ」

それだけ言うと、また仕事へ戻った。

昨日の事故を思い出して少し気まずい。

僕は返却カートへ目を向けた。

自然と視線が向いてしまう。

本が並んでいる。

いつも通りだ。

だが。

あの本はない。

題名も思い出せない本。

なぜか気になって仕方がない本。

『また考えているな』

先生が言った。

「そりゃね」

『良い傾向だ』

「そうなの?」

『違和感を無視しないことは重要だ』

先生は静かに続けた。

『人は気になることを忘れようとする』

「面倒だから?」

『その通りだ』

少し笑ったような気がした。

『だが違和感には理由がある』

僕は返却カートを見る。

書架を見る。

図書室を見回す。

何か手掛かりはないだろうか。

まだ分からない。

何を調べればいいのかも分からない。

それでも。

昨日の僕なら、ここで諦めていた気がする。

『どうした?』

先生が聞く。

「いや」

僕は小さく首を振った。

「先生なら、こういう時どうするのかなって」

少しの沈黙。

そして。

『まず事実を集める』

先生は答えた。

『推測はその後だ』

その言葉は簡単だった。

けれど妙に説得力があった。

僕には何も分からない。

先生には見えている。

その差は大きい。

だが。

だからこそ。

少しでも近づいてみたいと思った。

「事実か」

僕は返却カートへ近付いた。

当然だが、返却カートの中身はすっかり入れ替わっている。

それでも、僕が落ちた場所は変わらない。

『まず確認だ』

先生が言う。

『君は何を知っている?』

「え?」

『事実だけを挙げろ』

僕は少し考える。

「返却カートに本があった」

『うむ』

「今はない」

『うむ』

「題名だけ思い出せない」

『うむ』

「それ以外は……」

言葉が止まる。

先生は静かに言った。

『それで良い』

「良いの?」

『分からないことを分からないと言えるのは重要だ』

妙な言い方だった。

僕は返却カートを見つめる。

すると視界の端に貸出用パソコンが入った。

バーコード管理用の端末だ。

『あれは?』

先生が聞く。

「貸出記録とかを見るやつ」

『見られるのか』

「たぶん」

僕はカウンターの方を見る。

秋月先生は別の作業中だった。

少し迷う。

だが、

『事実を集めるのだろう?』

先生が言った。

その通りだった。

僕は意を決してカウンターへ向かった。

何が分かるのかは分からない。

それでも――。

初めて自分から謎を追おうとしていることだけは確かだった。

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