帰山湊は先生を見送る   作:宵闇 行方

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第五話 数字

図書館の梯子から落ちて、二日が過ぎた。

頭痛はほとんど消えていた。

学校生活も、表面上は元通りだった。

ただ一つだけ。

あの本のことだけは進展がなかった。

返却カートにあったはずの本。

題名だけが思い出せない本。

図書室へ行くたびに気になってしまうが、手掛かりは見つかっていない。

秋月先生に聞くべきかとも思った。

だが、

『事実が足りない』

と先生は言った。

『今の段階では質問する理由すら説明できない』

それもその通りだった。

だから僕は、とりあえず保留にしていた。

分からないものは分からない。

先生の言葉を借りれば、それも一つの事実だった。

 

 

その朝。

僕はいつも通り学校へ向かっていた。

夏の空は高い。

蝉の声が遠くから聞こえる。

校門が見えてくる。

その時だった。

『湊君』

先生が言った。

「ん?」

『少し止まれ』

僕は足を止めた。

「どうしたの?」

『右側の支柱だ』

校門の鉄製の支柱。

何の変哲もない。

僕にはそう見えた。

『近付いてみたまえ』

言われるまま近付く。

すると、

「あれ?」

支柱の内側。

人目につきにくい場所に、小さな黒い印があった。

丸で囲まれた数字。

直径は三センチほど。

近付かなければ気付かない大きさだった。

「落書き?」

『そう見えるな』

僕は眉をひそめた。

学校の落書きなんて珍しくもない。

それだけだ。

そのまま歩き出そうとした時だった。

『覚えておきたまえ』

先生が言う。

「何で?」

『何となくだ』

「適当だな」

『観察は記録から始まる』

僕は肩をすくめた。

だが一応、頭の片隅には残した。

 

 

昇降口へ着く。

下駄箱で上履きに履き替える。

その時。

『まただ』

先生が言った。

「え?」

『左側』

視線を向ける。

下駄箱列の端。

金属フレームの側面。

そこにも小さな黒い落書きがあった。

僕は思わず近付く。

「同じだ」

『そのようだ』

数字。

丸。

大きさも同じ。

「偶然かな」

『さて』

先生は答えなかった。

 

 

一時間目が始まる前。

教室へ向かう一階廊下。

『湊君』

まただった。

今度は僕の方が先に足を止める。

「どこ?」

『窓側の柱』

見ればあった。

やはり三センチ程度。

黒いマジック。

僕は思わず息を吐いた。

「三つ目か」

『連番だな』

先生の声は落ち着いていた。

だが少しだけ興味を持っているようにも聞こえた。

 

 

二時間目の移動教室。

階段を上がる。

『手すり』

先生が言う。

僕は立ち止まった。

支柱の裏側。

「うわ」

思わず声が漏れる。

『どうした?』

「本当に続いてる」

『そのようだ』

僕は数字を見つめる。

誰が書いたのか。

何のために書いたのか。

全く分からない。

だが。

少しだけ気になり始めていた。

 

 

二階廊下。

掲示板の横を通り過ぎた時だった。

今度は僕自身が気付いた。

「先生」

『うむ』

掲示板の木枠。

その端。

先生が少し笑った気がした。

『観察できるようになってきたな』

「うるさい」

『事実だ』

少し悔しい。

だが確かに、昨日までなら見落としていただろう。

 

 

昼休み。

僕は弁当を食べながら考えていた。

順番通り。

場所も学校内。

偶然だろうか。

『偶然なら連番にはならない』

先生が言う。

「だよね」

『少なくとも意図はある』

「何のために?」

『それはまだ分からない』

先生は即答した。

『分からないことを勝手に補うな』

その言葉に僕は黙る。

確かにそうだった。

推測は後。

まず事実。

最近は少しだけ、その考え方が分かるようになってきた気がする。

 

 

放課後。

僕は図書室へ向かった。

図書委員の仕事がある。

秋月先生はいつものようにカウンターの向こうにいた。

「お、帰山」

柔らかな笑顔。

「体調はどう?」

「もう大丈夫です」

「それなら良かった」

秋月先生は安心したように頷いた。

「でも無理はするなよ」

「はい」

「梯子は当分禁止だからな」

「分かってます」

先生は笑った。

僕も苦笑する。

当然だった。

二日前に落ちたばかりなのだから。

 

 

返却本を棚へ戻している時だった。

ふと。

違和感を覚えた。

「あれ?」

一冊の本。

背表紙近く。

透明フィルムの下。

黒い印。

僕は本を手に取った。

丸で囲まれた数字。

思わず固まる。

『なるほど』

先生が静かに言った。

『これは興味深い』

「⑦……」

校門の①。

昇降口の②。

一階廊下の③。

階段の④。

二階廊下の⑤。

そして今。

図書室の⑦。

僕は本を見つめた。

数字は確かに存在している。

誰かが書いた。

意図的に。

順番に。

だが。

「待って」

『どうした?』

僕は数字を頭の中で並べる。

そして気付いた。

「⑥がない」

先生は何も言わなかった。

代わりに、

『本当に無いのかね?』

とだけ聞いた。

僕は言葉に詰まる。

確かにそうだ。

見つかっていないだけかもしれない。

「まだ探してない」

『その通りだ』

先生は静かに言った。

『事実を整理しよう』

僕は頷く。

『①から⑤までは登校経路上にあった』

「うん」

『⑦は図書室』

「うん」

『なら⑥はどこにあると思う?』

「その間?」

『可能性は高い』

僕は図書室を見回した。

静かな空間。

本棚。

机。

窓。

夕方の光。

二日前までなら。

こんなことを気にもしなかった。

だが今は違う。

先生の言葉が頭に残る。

違和感を無視するな。

事実を集めろ。

推測はその後だ。

僕は本を閉じた。

そして決める。

まずは⑥を探そう。

その先に何があるのかは分からない。

ただ一つだけ確かなことがあった。

この数字は、まだ終わっていない。

 

 

返却本に書かれた⑦を見つけた翌日。

僕は朝から落ち着かなかった。

数字は六つ見つかっている。

だが⑥だけがない。

『気になるかね』

登校中、先生が言った。

「そりゃ気になるよ」

『良い傾向だ』

「そればっかりだな」

『違和感を放置しなくなった』

少しだけ嬉しそうだった。

 

 

昇降口へ向かう途中。

僕は昨日までとは違い、周囲を注意して見ていた。

壁。

柱。

掲示物。

消火栓。

階段。

何もかもだ。

『観察とは意識の問題だ』

先生が言う。

『同じ景色でも見えるものは変わる』

確かにそうだった。

今まで何百回も通った場所なのに。

知らないことだらけだった。

 

 

昼休み。

僕は弁当を食べ終えると教室を出た。

「どこ行くんだ?」

悠真が聞く。

「ちょっと」

適当に誤魔化す。

説明しても信じないだろう。

僕自身、半信半疑なのだから。

 

 

一階廊下。

二階廊下。

階段。

渡り廊下。

見つからない。

『焦るな』

先生が言う。

『見つからないという事実も情報だ』

「そんなもの?」

『ああ』

先生は平然としていた。

 

 

その時だった。

二階の掲示板前を通った時。

何かが目に入った。

学校行事のポスター。

文化祭の案内。

進路説明会。

その隅。

画鋲の近く。

黒い小さな印。

僕は足を止めた。

「……あった」

丸で囲まれた数字。

『なるほど』

先生が静かに言った。

僕は思わず周囲を見回した。

誰も気付いていない。

近付かなければ見えない。

直径三センチほど。

今までと同じだった。

「見つかった」

『欠番ではなかったな』

「うん」

僕は少しだけ安心した。

だが同時に別の疑問が生まれる。

「誰がやったんだろう」

『まだ早い』

先生は即座に言った。

『事実を整理したまえ』

僕は数字を頭の中に並べた。

① 校門

② 昇降口

③ 一階廊下

④ 階段

⑤ 二階廊下

⑥ 掲示板

⑦ 図書室の本

順番になっている。

まるで道順だ。

その考えが浮かんだ瞬間、

『同感だ』

先生が言った。

僕は驚いた。

「今言おうと思ったのに」

『顔に書いてあった』

少し悔しい。

 

 

放課後。

僕は図書室へ向かった。

秋月先生は返却本の整理をしていた。

「帰山」

柔らかな声だった。

「最近よく周りを見て歩いてるな」

思わず固まる。

「え?」

「何か探し物?」

秋月先生は笑った。

鋭いわけではない。

だが人をよく見ている。

学校司書らしい観察眼だった。

「まあ、ちょっと」

「見つかるといいな」

それ以上は聞いてこなかった。

 

 

返却作業を終えた頃。

窓の外は夕暮れだった。

その時。

『湊君』

先生が言った。

「何?」

『外を見たまえ』

窓の向こう。

渡り廊下。

第二校舎へ続く通路。

僕は何気なく目を向ける。

そして。

思わず立ち上がった。

「あった」

『見えるか』

渡り廊下の金属製支柱。

その内側。

小さな黒い数字。

心臓が少しだけ速くなる。

⑧があった。

つまり。

まだ続いている。

『追うかね』

先生が聞いた。

僕は黙った。

昨日までなら答えは決まっていた。

面倒だからやめる。

関係ないからやめる。

そう考えただろう。

だが今は違う。

①から⑧まで。

数字は学校を横断するように並んでいる。

偶然とは思えなかった。

「追う」

僕は言った。

『理由は?』

先生が聞く。

少し考える。

そして答えた。

「気になるから」

先生は少しだけ笑った。

『それで十分だ』

 

 

夕陽が渡り廊下を赤く染めていた。

僕は⑧を見つめる。

その先には第二校舎がある。

まだ見つかっていない数字。

⑨。

そして⑩。

どこかにある。

間違いなく。

誰かが残した痕跡。

意味は分からない。

目的も分からない。

だが一つだけ確かなことがあった。

図書室の梯子から落ちる前なら。

僕はこんなものを見逃していただろう。

今は違う。

観察する。

事実を集める。

推測はその後。

それが先生のやり方だった。

そして少しずつ。

僕もそのやり方に引き込まれ始めていた。

渡り廊下の向こうを見つめながら、

僕は小さく呟く。

「⑨はどこだろうな」

すると先生は静かに答えた。

『さて』

『探してみたまえ、湊君』

夕暮れの校舎に蝉の声が響いていた。

 

そして数字の列は、まだ終わっていなかった。

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