図書館の梯子から落ちて、二日が過ぎた。
頭痛はほとんど消えていた。
学校生活も、表面上は元通りだった。
ただ一つだけ。
あの本のことだけは進展がなかった。
返却カートにあったはずの本。
題名だけが思い出せない本。
図書室へ行くたびに気になってしまうが、手掛かりは見つかっていない。
秋月先生に聞くべきかとも思った。
だが、
『事実が足りない』
と先生は言った。
『今の段階では質問する理由すら説明できない』
それもその通りだった。
だから僕は、とりあえず保留にしていた。
分からないものは分からない。
先生の言葉を借りれば、それも一つの事実だった。
⸻
その朝。
僕はいつも通り学校へ向かっていた。
夏の空は高い。
蝉の声が遠くから聞こえる。
校門が見えてくる。
その時だった。
『湊君』
先生が言った。
「ん?」
『少し止まれ』
僕は足を止めた。
「どうしたの?」
『右側の支柱だ』
校門の鉄製の支柱。
何の変哲もない。
僕にはそう見えた。
『近付いてみたまえ』
言われるまま近付く。
すると、
「あれ?」
支柱の内側。
人目につきにくい場所に、小さな黒い印があった。
丸で囲まれた数字。
①
直径は三センチほど。
近付かなければ気付かない大きさだった。
「落書き?」
『そう見えるな』
僕は眉をひそめた。
学校の落書きなんて珍しくもない。
それだけだ。
そのまま歩き出そうとした時だった。
『覚えておきたまえ』
先生が言う。
「何で?」
『何となくだ』
「適当だな」
『観察は記録から始まる』
僕は肩をすくめた。
だが一応、頭の片隅には残した。
⸻
昇降口へ着く。
下駄箱で上履きに履き替える。
その時。
『まただ』
先生が言った。
「え?」
『左側』
視線を向ける。
下駄箱列の端。
金属フレームの側面。
そこにも小さな黒い落書きがあった。
②
僕は思わず近付く。
「同じだ」
『そのようだ』
数字。
丸。
大きさも同じ。
「偶然かな」
『さて』
先生は答えなかった。
⸻
一時間目が始まる前。
教室へ向かう一階廊下。
『湊君』
まただった。
今度は僕の方が先に足を止める。
「どこ?」
『窓側の柱』
見ればあった。
③
やはり三センチ程度。
黒いマジック。
僕は思わず息を吐いた。
「三つ目か」
『連番だな』
先生の声は落ち着いていた。
だが少しだけ興味を持っているようにも聞こえた。
⸻
二時間目の移動教室。
階段を上がる。
『手すり』
先生が言う。
僕は立ち止まった。
支柱の裏側。
④
「うわ」
思わず声が漏れる。
『どうした?』
「本当に続いてる」
『そのようだ』
僕は数字を見つめる。
誰が書いたのか。
何のために書いたのか。
全く分からない。
だが。
少しだけ気になり始めていた。
⸻
二階廊下。
掲示板の横を通り過ぎた時だった。
今度は僕自身が気付いた。
「先生」
『うむ』
掲示板の木枠。
その端。
⑤
先生が少し笑った気がした。
『観察できるようになってきたな』
「うるさい」
『事実だ』
少し悔しい。
だが確かに、昨日までなら見落としていただろう。
⸻
昼休み。
僕は弁当を食べながら考えていた。
①
②
③
④
⑤
順番通り。
場所も学校内。
偶然だろうか。
『偶然なら連番にはならない』
先生が言う。
「だよね」
『少なくとも意図はある』
「何のために?」
『それはまだ分からない』
先生は即答した。
『分からないことを勝手に補うな』
その言葉に僕は黙る。
確かにそうだった。
推測は後。
まず事実。
最近は少しだけ、その考え方が分かるようになってきた気がする。
⸻
放課後。
僕は図書室へ向かった。
図書委員の仕事がある。
秋月先生はいつものようにカウンターの向こうにいた。
「お、帰山」
柔らかな笑顔。
「体調はどう?」
「もう大丈夫です」
「それなら良かった」
秋月先生は安心したように頷いた。
「でも無理はするなよ」
「はい」
「梯子は当分禁止だからな」
「分かってます」
先生は笑った。
僕も苦笑する。
当然だった。
二日前に落ちたばかりなのだから。
⸻
返却本を棚へ戻している時だった。
ふと。
違和感を覚えた。
「あれ?」
一冊の本。
背表紙近く。
透明フィルムの下。
黒い印。
僕は本を手に取った。
丸で囲まれた数字。
⑦
思わず固まる。
『なるほど』
先生が静かに言った。
『これは興味深い』
「⑦……」
校門の①。
昇降口の②。
一階廊下の③。
階段の④。
二階廊下の⑤。
そして今。
図書室の⑦。
僕は本を見つめた。
数字は確かに存在している。
誰かが書いた。
意図的に。
順番に。
だが。
「待って」
『どうした?』
僕は数字を頭の中で並べる。
①
②
③
④
⑤
⑦
そして気付いた。
「⑥がない」
先生は何も言わなかった。
代わりに、
『本当に無いのかね?』
とだけ聞いた。
僕は言葉に詰まる。
確かにそうだ。
見つかっていないだけかもしれない。
「まだ探してない」
『その通りだ』
先生は静かに言った。
『事実を整理しよう』
僕は頷く。
『①から⑤までは登校経路上にあった』
「うん」
『⑦は図書室』
「うん」
『なら⑥はどこにあると思う?』
「その間?」
『可能性は高い』
僕は図書室を見回した。
静かな空間。
本棚。
机。
窓。
夕方の光。
二日前までなら。
こんなことを気にもしなかった。
だが今は違う。
先生の言葉が頭に残る。
違和感を無視するな。
事実を集めろ。
推測はその後だ。
僕は本を閉じた。
そして決める。
まずは⑥を探そう。
その先に何があるのかは分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
この数字は、まだ終わっていない。
⸻
返却本に書かれた⑦を見つけた翌日。
僕は朝から落ち着かなかった。
①
②
③
④
⑤
⑦
数字は六つ見つかっている。
だが⑥だけがない。
『気になるかね』
登校中、先生が言った。
「そりゃ気になるよ」
『良い傾向だ』
「そればっかりだな」
『違和感を放置しなくなった』
少しだけ嬉しそうだった。
⸻
昇降口へ向かう途中。
僕は昨日までとは違い、周囲を注意して見ていた。
壁。
柱。
掲示物。
消火栓。
階段。
何もかもだ。
『観察とは意識の問題だ』
先生が言う。
『同じ景色でも見えるものは変わる』
確かにそうだった。
今まで何百回も通った場所なのに。
知らないことだらけだった。
⸻
昼休み。
僕は弁当を食べ終えると教室を出た。
「どこ行くんだ?」
悠真が聞く。
「ちょっと」
適当に誤魔化す。
説明しても信じないだろう。
僕自身、半信半疑なのだから。
⸻
一階廊下。
二階廊下。
階段。
渡り廊下。
見つからない。
『焦るな』
先生が言う。
『見つからないという事実も情報だ』
「そんなもの?」
『ああ』
先生は平然としていた。
⸻
その時だった。
二階の掲示板前を通った時。
何かが目に入った。
学校行事のポスター。
文化祭の案内。
進路説明会。
その隅。
画鋲の近く。
黒い小さな印。
僕は足を止めた。
「……あった」
丸で囲まれた数字。
⑥
『なるほど』
先生が静かに言った。
僕は思わず周囲を見回した。
誰も気付いていない。
近付かなければ見えない。
直径三センチほど。
今までと同じだった。
「見つかった」
『欠番ではなかったな』
「うん」
僕は少しだけ安心した。
だが同時に別の疑問が生まれる。
「誰がやったんだろう」
『まだ早い』
先生は即座に言った。
『事実を整理したまえ』
僕は数字を頭の中に並べた。
① 校門
② 昇降口
③ 一階廊下
④ 階段
⑤ 二階廊下
⑥ 掲示板
⑦ 図書室の本
順番になっている。
まるで道順だ。
その考えが浮かんだ瞬間、
『同感だ』
先生が言った。
僕は驚いた。
「今言おうと思ったのに」
『顔に書いてあった』
少し悔しい。
⸻
放課後。
僕は図書室へ向かった。
秋月先生は返却本の整理をしていた。
「帰山」
柔らかな声だった。
「最近よく周りを見て歩いてるな」
思わず固まる。
「え?」
「何か探し物?」
秋月先生は笑った。
鋭いわけではない。
だが人をよく見ている。
学校司書らしい観察眼だった。
「まあ、ちょっと」
「見つかるといいな」
それ以上は聞いてこなかった。
⸻
返却作業を終えた頃。
窓の外は夕暮れだった。
その時。
『湊君』
先生が言った。
「何?」
『外を見たまえ』
窓の向こう。
渡り廊下。
第二校舎へ続く通路。
僕は何気なく目を向ける。
そして。
思わず立ち上がった。
「あった」
『見えるか』
渡り廊下の金属製支柱。
その内側。
小さな黒い数字。
⑧
心臓が少しだけ速くなる。
⑧があった。
つまり。
まだ続いている。
『追うかね』
先生が聞いた。
僕は黙った。
昨日までなら答えは決まっていた。
面倒だからやめる。
関係ないからやめる。
そう考えただろう。
だが今は違う。
①から⑧まで。
数字は学校を横断するように並んでいる。
偶然とは思えなかった。
「追う」
僕は言った。
『理由は?』
先生が聞く。
少し考える。
そして答えた。
「気になるから」
先生は少しだけ笑った。
『それで十分だ』
⸻
夕陽が渡り廊下を赤く染めていた。
僕は⑧を見つめる。
その先には第二校舎がある。
まだ見つかっていない数字。
⑨。
そして⑩。
どこかにある。
間違いなく。
誰かが残した痕跡。
意味は分からない。
目的も分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
図書室の梯子から落ちる前なら。
僕はこんなものを見逃していただろう。
今は違う。
観察する。
事実を集める。
推測はその後。
それが先生のやり方だった。
そして少しずつ。
僕もそのやり方に引き込まれ始めていた。
渡り廊下の向こうを見つめながら、
僕は小さく呟く。
「⑨はどこだろうな」
すると先生は静かに答えた。
『さて』
『探してみたまえ、湊君』
夕暮れの校舎に蝉の声が響いていた。
そして数字の列は、まだ終わっていなかった。