帰山湊は先生を見送る   作:宵闇 行方

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第六話 特別教室241

図書館落下事件から三日が過ぎた。

頭の痛みはもう消えていた。

それでも先生は毎朝、

『無理はするな』

と言う。

今日も同じだった。

「分かってるよ」

そう答えながら、長袖のワイシャツに腕を通す。

七月に入ってから暑い日が続いていた。

半袖姿の生徒も増えているが、僕はまだ長袖のままだった。

もっとも、今気になっているのは暑さではない。

数字の落書きだ。

① 校門

② 昇降口

③ 一階廊下

④ 階段

⑤ 二階廊下

⑥ 掲示板

⑦ 図書室の本

⑧ 渡り廊下

ここまでは見つかっている。

数字は順番に並んでいる。

だとすれば、次は⑨なのだろう。

だが、その先があるのかは分からない。

そもそも、この数字が何を意味しているのかさえ分かっていないのだから。

図書室から消えた本も気にはなっていた。

題名だけが思い出せない。

それ以外は覚えているのに。

『気にし過ぎても仕方あるまい』

先生が言う。

消えた本のことを言っているのだろう。

「分かってる」

そう答えたが、気になるものは気になる。

だが今は、それ以上に数字の方が気になっていた

 

 

学校へ向かう道を歩く。

朝から蒸し暑い。

蝉の声も聞こえ始めていた。

『港君』

先生が言った。

「何?」

『数字の件だ』

「うん」

『順番に並んでいる以上、意図はある』

「それは分かる」

『問題は、その意図が何かだ』

僕は苦笑した。

「それが分かれば苦労しない」

『その通りだ』

先生も同意した。

 

 

一時間目は現代文だった。

二時間目は数学Ⅱ。

三時間目は家庭基礎。

どれも特別なことはなかった。

そして四時間目は体育だった。

三時間目の終了チャイムが鳴ると、男子生徒たちは更衣室へ向かった。

僕も教科書をしまい、廊下へ出る。

更衣室はいつも通り蒸し暑かった。

ワイシャツを脱ぎ、体操着に着替える。

「暑いなあ」

誰かがぼやく。

その声に何人かが同意していた。

僕も同感だった。

 

 

男子はグラウンドへ出る。

今日はサッカーだった。

真夏ほどではないにしても、日差しは十分強い。

準備運動をしただけで汗が滲む。

僕は運動が得意というわけではない。

かといって苦手でもない。

普通だ。

『なるほど』

先生が言う。

「何?」

『君は何でも平均的なのだな』

「言い方」

『褒めている』

「本当かな」

先生は答えなかった。

 

 

授業が終わる頃には額に汗が浮いていた。

更衣室へ戻る。

体操着を脱ぎ、タオルで汗を拭く。

それから鞄の中から制汗スプレーを取り出した。

『何だね、それは』

先生が聞く。

「制汗スプレー」

『制汗?』

「汗を抑えたり、臭いを防いだりするやつ」

そう言いながら脇の下へ吹き付ける。

続いて胸元と背中にも軽く使った。

ひんやりとした感覚が広がる。

『香水の一種か』

「まあ、そんな感じかな」

『なるほど』

先生は感心したようだった。

『便利な時代だ』

「先生、それ好きだね」

『便利なのだから仕方あるまい』

思わず笑ってしまう。

それから長袖のワイシャツに袖を通した。

『半袖にはしないのか』

先生が言う。

「まだいいかな」

『暑そうだが』

「慣れてるから」

そんなやり取りをしながら教室へ戻る。

体育の後だったこともあり、弁当はいつもより早く空になった。

 

 

昼休み。

僕は席を立った。

「どこ行くんだよ」

悠真が弁当箱を片付けながら聞いてきた。

「散歩」

「散歩?」

「昼休みくらい歩かないと運動不足になるから」

「四時間目、体育だったろ」

もっともだった。

僕は曖昧に笑う。

「まあ、そうなんだけど」

「変な奴だな」

悠真は呆れたように言った。

 

 

教室を出る。

昼休みの第二校舎は賑やかだった。

僕の二年三組もこの校舎にある。

毎日歩いている場所だ。

だからこそ不思議だった。

数字を探し始めるまで、こんなにも周囲を見ていなかったのかと思う。

掲示物。

窓。

教室札。

階段。

視線を巡らせる。

しかし成果はない。

その時だった。

『港君』

先生が言った。

「何?」

『あれは何だね』

先生の意識が向いている先を見る。

壁に埋め込まれた赤い箱。

「ああ、消火栓」

『消火栓?』

「火事の時に使う設備」

『なるほど』

先生は感心したように言った。

『私の知る消火設備とは随分違うな』

「先生の時代にもあったの?」

『あったとも』

『だが学校の壁の中へ収める発想はなかった』

僕は改めて消火栓を見る。

言われるまで気にしたこともなかった。

『港君』

先生が続ける。

『君は毎日ここを歩いている』

「そうだけど」

『だが、廊下に消火栓が何ヶ所あるかは知らない』

「知らないな」

『掲示板の数も知らない』

「うん」

『窓の枚数も知らない』

僕は苦笑した。

確かにそうだった。

『人は見ているようで見ていない』

先生は静かに言う。

『観察とは意識して見ることだ』

その言葉は妙に印象に残った。

 

 

昼休み終了のチャイムが鳴った。

結局、成果はなかった。

教室へ戻る。

「散歩どうだった?」

悠真が聞く。

「暑かった」

「知ってる」

即答だった。

それで会話は終わった。

 

 

午後の授業も平穏だった。

五時間目は世界史B。

産業革命の続きをやっている。

先生は相変わらず時々口を挟んできた。

『そこは少々単純化し過ぎているな』

とか、

『その説明では一部が省かれている』

とか。

もっとも、声に出しているわけではない。

僕にしか聞こえない。

六時間目はLHRだった。

担任が進路希望調査票の説明をしている。

文化祭準備の話も出た。

クラスメイトたちは聞いたり聞き流したりしている。

僕も表向きは聞いていた。

だが意識は別のところにあった。

①から⑧。

数字は順番に並んでいる。

だとすれば、次は⑨のはずだ。

その先も続くのかもしれない。

だが確証はない。

そこには何か意味がある。

そんな気がしてならなかった。

『考えても答えは出ん』

先生が言う。

「分かってる」

『ならば探せ』

その通りだった。

 

 

放課後。

終礼が終わる。

「じゃあな」

悠真が手を振る。

「おう」

僕も手を上げる。

そして教室を出た。

第二校舎の廊下へ出る。

毎日歩いている場所だ。

だが今日は違う。

探しながら歩く。

観察しながら歩く。

 

 

夕方の校舎は静かだった。

部活へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえる。

西日が廊下を橙色に染めていた。

昼間とは印象が違う。

窓ガラスが光り、床の傷が長い影を作っている。

『光で見え方が変わる』

先生が言う。

「同じ場所なのに?」

『同じ場所だからだ』

先生は続けた。

『人は慣れた景色ほど見なくなる』

僕はゆっくり歩く。

左右へ視線を動かす。

掲示物。

教室札。

窓。

清掃用具入れ。

何もない。

また何もない。

 

 

「やっぱり見つからないな」

そう呟いた時だった。

『昼に見た設備に似ているな』

先生が言う。

「ああ、消火器」

『なるほど』

『随分小型になったものだな』

そして先生は一瞬黙り込んだ。

先生の時代にも消火器があったのか。

そんなことを考えながら、僕は消火器の横を通り過ぎた。

『待て』

先生の声が響いた。

いつになく鋭い。

僕は反射的に立ち止まる。

『三歩戻りたまえ』

「え?」

『良いから』

僕は言われた通り後ろへ下がった。

そして振り返る。

壁際。

赤い消火器。

どこの学校にもある、ごく普通の消火器だ。

『下だ』

先生が言う。

僕は視線を落とした。

最初は分からなかった。

だが。

次の瞬間。

息が止まる。

あった。

消火器の下部。

床に近い位置。

黒い油性ペンで描かれた丸。

その中に数字。

間違いない。

今まで見つけたものと同じ筆跡。

同じ大きさ。

三センチほどの小さな数字だった。

「見つけた……」

思わず声が漏れる。

『ああ』

先生も静かだった。

『これで九つ目だ』

 

 

僕はしゃがみ込んだ。

改めて⑨を見る。

探していなければ気付かなかっただろう。

だが、隠そうとしているわけでもない。

『面白いな』

先生が言った。

「何が?」

『見つけてほしい』

『だが目立たせたくもない』

先生は続ける。

『そんな印象を受ける』

確かにそうだった。

①もそうだ。

⑦もそうだ。

どれも絶妙な場所にある。

偶然とは思えない。

 

 

僕はスマートフォンを取り出した。

写真を撮る。

これで①から⑨まで揃った。

順番に続いているなら、次は⑩になる。

だが、本当にそこまで続くのかは分からない。

『さて』

先生が言う。

「次があるなら、だね」

『その通りだ』

先生は少し愉快そうだった。

 

 

その時だった。

ふと視線の先に教室札が見えた。

特別教室241

旧二年四組。

僕たちの一つ上の代までは存在していたクラスだ。

だが少子化の影響で、僕たちの代から二年生は三クラスになった。

その結果、使われなくなった教室が特別教室として残されている。

普段は僕のような文系の生徒はあまり近付かない場所だ。

僕は何となく足を止めた。

『港君』

先生が静かに言う。

「何?」

『あの教室だ』

僕も同じことを考えていた。

なぜ気になるのかは分からない。

だが。

視線が離れない。

夕陽が廊下へ長く差し込み、閉ざされた扉を照らしている。

その向こうに何があるのか。

まだ分からない。

けれど。

次があるのなら、⑩だ。

なぜか僕は、その答えが特別教室241の向こうにあるような気がしていた。

僕はゆっくりと特別教室241を見上げた。

そして無意識に、一歩だけ扉へ近づいた。

 

 

夕陽が廊下を赤く染めている。

部活動へ向かった生徒たちの声が遠くから聞こえてきた。

目の前の扉は閉まっていた。

この教室は理系科目用の特別教室として使われている。

主に物理、化学、数学ⅢCの授業で利用される教室だ。

文系の僕にはあまり縁がない場所だった。

『気になるかね』

先生が言った。

「少しね」

『ならば調べる価値はある』

僕は頷いた。

そして引き戸に手を掛ける。

横へ滑らせようとする。

だが動かない。

鍵が掛かっていた。

「やっぱり駄目か」

『当然だろう』

先生が言う。

『授業が終われば施錠される』

「そうだよね」

僕は苦笑した。

少し期待していた自分がいたらしい。

 

 

帰ろうかと思った、その時だった。

『待ちたまえ』

先生が言う。

「何?」

『教室の中を見たまえ』

僕は顔を上げた。

特別教室241の廊下側には大きなガラス窓が並んでいる。

教室の様子は外からでも見ることができた。

夕陽が差し込んだ教室の中には、授業を終えたままの机と椅子が並んでいた。

黒板。

教卓。

天井のプロジェクター。

理系科目で使われる以外は、ごく普通の教室だった。

『旧二年四組か』

「今は特別教室だけどね」

『君たちの代から三クラスになったと言っていたな』

「うん」

『奇妙な話だ』

先生は少し考えるようだった。

『私の時代には教育を受けられない子供も珍しくなかった』

「そんな時代だったんだ」

『教育を受けられること自体が特権だった』

百年以上前の話だ。

けれど先生が言うと妙な現実味があった。

 

 

僕は改めて教室の中を見回した。

特に変わったところはない。

机。

椅子。

黒板。

窓。

どれも普通だ。

「やっぱり気のせいかな」

『いや』

先生が静かに言う。

「え?」

『黒板を見たまえ』

 

 

僕は視線を向けた。

黒板自体は普通に見える。

だが最初は何も分からなかった。

「黒板がどうかした?」

『右下だ』

先生が言う。

『何か白いものが見える』

僕は目を細めた。

確かに黒板の右下に白い点のようなものがある。

「……あれか」

『私にもそう見える』

「でも読めないな」

『文明の利器を使いたまえ』

「わかった」

僕はスマートフォンを取り出した。

カメラを起動する。

教室の中へ向ける。

そして画面を拡大した。

黒板の右下。

白い跡。

さらに拡大する。

次の瞬間。

思わず息を呑んだ。

 

 

 

 

小さな丸。

その中に書かれた数字。

間違いない。

今まで見つけた数字と同じだった。

「⑩……」

思わず声が漏れる。

先生も黙っていた。

僕は画面を見つめる。

確かにそこにある。

黒板の右下。

白いチョークで書かれた⑩。

「チョークか」

『黒板だからな』

「確かに」

特別教室の黒板なのだから、チョークで書かれていても不思議ではない。

だが、それが⑩だったことだけは見過ごせなかった。

 

 

これで数字は十個になった。

校門。

昇降口。

一階廊下。

階段。

二階廊下。

掲示板。

図書室の本。

渡り廊下。

消火器。

そして特別教室241の黒板。

順番に並んでいる。

だが意味はまだ分からない。

「結局、何なんだろう」

僕は呟く。

『分からんな』

先生も珍しく即答した。

『だが、ここまで続いている以上、意味はあるのだろう』

「そうだよね」

僕は頷く。

十個も続いている。

偶然で済ませるには出来過ぎていた。

 

 

『少なくとも⑩までは続いていたようだな』

先生が言う。

「そうだね」

「誰かが順番に書いていたのは間違いなさそうだ」

『そのようだ』

だが、それ以上はまだ分からない。

今あるのは数字だけだ。

数字の意味。

書いた人物。

目的。

何もかも不明のままだった。

 

 

夕陽がさらに傾く。

黒板の⑩が橙色の光を受けていた。

僕はスマートフォンを下ろす。

これ以上ここにいても、新しいことは分からないだろう。

「帰ろうか」

『賛成だ』

先生も言った。

僕は最後にもう一度だけ教室を見た。

誰もいない特別教室241。

静かな教室だった。

その黒板の隅にだけ、小さな⑩が残されている。

 

 

廊下を歩きながら、僕は考える。

①から⑩。

十個の数字。

意味はまだ分からない。

けれど、ただの落書きとは思えなかった。

『焦る必要はない』

先生が言う。

「そうかな」

『謎は逃げん』

先生らしい言葉だった。

僕は少しだけ笑う。

そして西日に染まる廊下を歩き続けた。

⑩が終点なのか。

それともまだ続きがあるのか。

その時の僕は、まだ知らなかった。

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