帰山湊は先生を見送る   作:宵闇 行方

6 / 17
第六話 特別教室241

図書館落下事件から三日が過ぎた。

頭の痛みはもう消えていた。

それでも先生は毎朝、

『無理はするな』

と言う。

今日も同じだった。

「分かってるよ」

そう答えながら、長袖のワイシャツに腕を通す。

七月に入ってから暑い日が続いていた。

半袖姿の生徒も増えているが、僕はまだ長袖のままだった。

もっとも、今気になっているのは暑さではない。

数字の落書きだ。

① 校門

② 昇降口

③ 一階廊下

④ 階段

⑤ 二階廊下

⑥ 掲示板

⑦ 図書室の本

⑧ 渡り廊下

ここまでは見つかっている。

数字は順番に並んでいる。

だとすれば、次は⑨なのだろう。

だが、その先があるのかは分からない。

そもそも、この数字が何を意味しているのかさえ分かっていないのだから。

図書室から消えた本も気にはなっていた。

題名だけが思い出せない。

それ以外は覚えているのに。

『気にし過ぎても仕方あるまい』

先生が言う。

消えた本のことを言っているのだろう。

「分かってる」

そう答えたが、気になるものは気になる。

だが今は、それ以上に数字の方が気になっていた

 

⸻

 

学校へ向かう道を歩く。

朝から蒸し暑い。

蝉の声も聞こえ始めていた。

『港君』

先生が言った。

「何?」

『数字の件だ』

「うん」

『順番に並んでいる以上、意図はある』

「それは分かる」

『問題は、その意図が何かだ』

僕は苦笑した。

「それが分かれば苦労しない」

『その通りだ』

先生も同意した。

 

⸻

 

一時間目は文学国語だった。

二時間目は数学Ⅱ。

三時間目は家庭基礎。

どれも特別なことはなかった。

そして四時間目は体育だった。

三時間目の終了チャイムが鳴ると、男子生徒たちは更衣室へ向かった。

僕も教科書をしまい、廊下へ出る。

更衣室はいつも通り蒸し暑かった。

ワイシャツを脱ぎ、体操着に着替える。

「暑いなあ」

誰かがぼやく。

その声に何人かが同意していた。

僕も同感だった。

 

⸻

 

男子はグラウンドへ出る。

今日はサッカーだった。

真夏ほどではないにしても、日差しは十分強い。

準備運動をしただけで汗が滲む。

僕は運動が得意というわけではない。

かといって苦手でもない。

普通だ。

『なるほど』

先生が言う。

「何?」

『君は何でも平均的なのだな』

「言い方」

『褒めている』

「本当かな」

先生は答えなかった。

 

⸻

 

授業が終わる頃には額に汗が浮いていた。

更衣室へ戻る。

体操着を脱ぎ、タオルで汗を拭く。

それから鞄の中から制汗スプレーを取り出した。

『何だね、それは』

先生が聞く。

「制汗スプレー」

『制汗?』

「汗を抑えたり、臭いを防いだりするやつ」

そう言いながら脇の下へ吹き付ける。

続いて胸元と背中にも軽く使った。

ひんやりとした感覚が広がる。

『香水の一種か』

「まあ、そんな感じかな」

『なるほど』

先生は感心したようだった。

『便利な時代だ』

「先生、それ好きだね」

『便利なのだから仕方あるまい』

思わず笑ってしまう。

それから長袖のワイシャツに袖を通した。

『半袖にはしないのか』

先生が言う。

「まだいいかな」

『暑そうだが』

「慣れてるから」

そんなやり取りをしながら教室へ戻る。

体育の後だったこともあり、弁当はいつもより早く空になった。

 

⸻

 

昼休み。

僕は席を立った。

「どこ行くんだよ」

悠真が弁当箱を片付けながら聞いてきた。

「散歩」

「散歩?」

「昼休みくらい歩かないと運動不足になるから」

「四時間目、体育だったろ」

もっともだった。

僕は曖昧に笑う。

「まあ、そうなんだけど」

「変な奴だな」

悠真は呆れたように言った。

 

⸻

 

教室を出る。

昼休みの第二校舎は賑やかだった。

僕の二年三組もこの校舎にある。

毎日歩いている場所だ。

だからこそ不思議だった。

数字を探し始めるまで、こんなにも周囲を見ていなかったのかと思う。

掲示物。

窓。

教室札。

階段。

視線を巡らせる。

しかし成果はない。

その時だった。

『港君』

先生が言った。

「何?」

『あれは何だね』

先生の意識が向いている先を見る。

壁に埋め込まれた赤い箱。

「ああ、消火栓」

『消火栓?』

「火事の時に使う設備」

『なるほど』

先生は感心したように言った。

『私の知る消火設備とは随分違うな』

「先生の時代にもあったの?」

『あったとも』

『だが学校の壁の中へ収める発想はなかった』

僕は改めて消火栓を見る。

言われるまで気にしたこともなかった。

『港君』

先生が続ける。

『君は毎日ここを歩いている』

「そうだけど」

『だが、廊下に消火栓が何ヶ所あるかは知らない』

「知らないな」

『掲示板の数も知らない』

「うん」

『窓の枚数も知らない』

僕は苦笑した。

確かにそうだった。

『人は見ているようで見ていない』

先生は静かに言う。

『観察とは意識して見ることだ』

その言葉は妙に印象に残った。

 

⸻

 

昼休み終了のチャイムが鳴った。

結局、成果はなかった。

教室へ戻る。

「散歩どうだった?」

悠真が聞く。

「暑かった」

「知ってる」

即答だった。

それで会話は終わった。

 

⸻

 

午後の授業も平穏だった。

五時間目は世界史探究。

産業革命の続きをやっている。

先生は相変わらず時々口を挟んできた。

『そこは少々単純化し過ぎているな』

とか、

『その説明では一部が省かれている』

とか。

もっとも、声に出しているわけではない。

僕にしか聞こえない。

六時間目はLHRだった。

担任が進路希望調査票の説明をしている。

文化祭準備の話も出た。

クラスメイトたちは聞いたり聞き流したりしている。

僕も表向きは聞いていた。

だが意識は別のところにあった。

①から⑧。

数字は順番に並んでいる。

だとすれば、次は⑨のはずだ。

その先も続くのかもしれない。

だが確証はない。

そこには何か意味がある。

そんな気がしてならなかった。

『考えても答えは出ん』

先生が言う。

「分かってる」

『ならば探せ』

その通りだった。

 

⸻

 

放課後。

終礼が終わる。

「じゃあな」

悠真が手を振る。

「おう」

僕も手を上げる。

そして教室を出た。

第二校舎の廊下へ出る。

毎日歩いている場所だ。

だが今日は違う。

探しながら歩く。

観察しながら歩く。

 

⸻

 

夕方の校舎は静かだった。

部活へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえる。

西日が廊下を橙色に染めていた。

昼間とは印象が違う。

窓ガラスが光り、床の傷が長い影を作っている。

『光で見え方が変わる』

先生が言う。

「同じ場所なのに?」

『同じ場所だからだ』

先生は続けた。

『人は慣れた景色ほど見なくなる』

僕はゆっくり歩く。

左右へ視線を動かす。

掲示物。

教室札。

窓。

清掃用具入れ。

何もない。

また何もない。

 

⸻

 

「やっぱり見つからないな」

そう呟いた時だった。

『昼に見た設備に似ているな』

先生が言う。

「ああ、消火器」

『なるほど』

『随分小型になったものだな』

そして先生は一瞬黙り込んだ。

先生の時代にも消火器があったのか。

そんなことを考えながら、僕は消火器の横を通り過ぎた。

『待て』

先生の声が響いた。

いつになく鋭い。

僕は反射的に立ち止まる。

『三歩戻りたまえ』

「え?」

『良いから』

僕は言われた通り後ろへ下がった。

そして振り返る。

壁際。

赤い消火器。

どこの学校にもある、ごく普通の消火器だ。

『下だ』

先生が言う。

僕は視線を落とした。

最初は分からなかった。

だが。

次の瞬間。

息が止まる。

あった。

消火器の下部。

床に近い位置。

黒い油性ペンで描かれた丸。

その中に数字。

⑨

間違いない。

今まで見つけたものと同じ筆跡。

同じ大きさ。

三センチほどの小さな数字だった。

「見つけた……」

思わず声が漏れる。

『ああ』

先生も静かだった。

『これで九つ目だ』

 

⸻

 

僕はしゃがみ込んだ。

改めて⑨を見る。

探していなければ気付かなかっただろう。

だが、隠そうとしているわけでもない。

『面白いな』

先生が言った。

「何が?」

『見つけてほしい』

『だが目立たせたくもない』

先生は続ける。

『そんな印象を受ける』

確かにそうだった。

①もそうだ。

⑦もそうだ。

どれも絶妙な場所にある。

偶然とは思えない。

 

⸻

 

僕はスマートフォンを取り出した。

写真を撮る。

これで①から⑨まで揃った。

順番に続いているなら、次は⑩になる。

だが、本当にそこまで続くのかは分からない。

『さて』

先生が言う。

「次があるなら、だね」

『その通りだ』

先生は少し愉快そうだった。

 

⸻

 

その時だった。

ふと視線の先に教室札が見えた。

特別教室241

旧二年四組。

僕たちの一つ上の代までは存在していたクラスだ。

だが少子化の影響で、僕たちの代から二年生は三クラスになった。

その結果、使われなくなった教室が特別教室として残されている。

普段は僕のような文系の生徒はあまり近付かない場所だ。

僕は何となく足を止めた。

『港君』

先生が静かに言う。

「何?」

『あの教室だ』

僕も同じことを考えていた。

なぜ気になるのかは分からない。

だが。

視線が離れない。

夕陽が廊下へ長く差し込み、閉ざされた扉を照らしている。

その向こうに何があるのか。

まだ分からない。

けれど。

次があるのなら、⑩だ。

なぜか僕は、その答えが特別教室241の向こうにあるような気がしていた。

僕はゆっくりと特別教室241を見上げた。

そして無意識に、一歩だけ扉へ近づいた。

 

⸻

 

夕陽が廊下を赤く染めている。

部活動へ向かった生徒たちの声が遠くから聞こえてきた。

目の前の扉は閉まっていた。

この教室は理系科目用の特別教室として使われている。

主に物理、化学、生物、数学ⅢCの授業で利用される教室だ。

文系の僕にはあまり縁がない場所だった。

『気になるかね』

先生が言った。

「少しね」

『ならば調べる価値はある』

僕は頷いた。

そして引き戸に手を掛ける。

横へ滑らせようとする。

だが動かない。

鍵が掛かっていた。

「やっぱり駄目か」

『当然だろう』

先生が言う。

『授業が終われば施錠される』

「そうだよね」

僕は苦笑した。

少し期待していた自分がいたらしい。

 

⸻

 

帰ろうかと思った、その時だった。

『待ちたまえ』

先生が言う。

「何?」

『教室の中を見たまえ』

僕は顔を上げた。

特別教室241の廊下側には大きなガラス窓が並んでいる。

教室の様子は外からでも見ることができた。

夕陽が差し込んだ教室の中には、授業を終えたままの机と椅子が並んでいた。

黒板。

教卓。

天井のプロジェクター。

理系科目で使われる以外は、ごく普通の教室だった。

『旧二年四組か』

「今は特別教室だけどね」

『君たちの代から三クラスになったと言っていたな』

「うん」

『奇妙な話だ』

先生は少し考えるようだった。

『私の時代には教育を受けられない子供も珍しくなかった』

「そんな時代だったんだ」

『教育を受けられること自体が特権だった』

百年以上前の話だ。

けれど先生が言うと妙な現実味があった。

 

⸻

 

僕は改めて教室の中を見回した。

特に変わったところはない。

机。

椅子。

黒板。

窓。

どれも普通だ。

「やっぱり気のせいかな」

『いや』

先生が静かに言う。

「え?」

『黒板を見たまえ』

 

⸻

 

僕は視線を向けた。

黒板自体は普通に見える。

だが最初は何も分からなかった。

「黒板がどうかした?」

『右下だ』

先生が言う。

『何か白いものが見える』

僕は目を細めた。

確かに黒板の右下に白い点のようなものがある。

「……あれか」

『私にもそう見える』

「でも読めないな」

『文明の利器を使いたまえ』

「わかった」

僕はスマートフォンを取り出した。

カメラを起動する。

教室の中へ向ける。

そして画面を拡大した。

黒板の右下。

白い跡。

さらに拡大する。

次の瞬間。

思わず息を呑んだ。

 

⸻

 

⑩

 

⸻

 

小さな丸。

その中に書かれた数字。

間違いない。

今まで見つけた数字と同じだった。

「⑩……」

思わず声が漏れる。

先生も黙っていた。

僕は画面を見つめる。

確かにそこにある。

黒板の右下。

白いチョークで書かれた⑩。

「チョークか」

『黒板だからな』

「確かに」

特別教室の黒板なのだから、チョークで書かれていても不思議ではない。

だが、それが⑩だったことだけは見過ごせなかった。

 

⸻

 

これで数字は十個になった。

校門。

昇降口。

一階廊下。

階段。

二階廊下。

掲示板。

図書室の本。

渡り廊下。

消火器。

そして特別教室241の黒板。

順番に並んでいる。

だが意味はまだ分からない。

「結局、何なんだろう」

僕は呟く。

『分からんな』

先生も珍しく即答した。

『だが、ここまで続いている以上、意味はあるのだろう』

「そうだよね」

僕は頷く。

十個も続いている。

偶然で済ませるには出来過ぎていた。

 

⸻

 

『少なくとも⑩までは続いていたようだな』

先生が言う。

「そうだね」

「誰かが順番に書いていたのは間違いなさそうだ」

『そのようだ』

だが、それ以上はまだ分からない。

今あるのは数字だけだ。

数字の意味。

書いた人物。

目的。

何もかも不明のままだった。

 

⸻

 

夕陽がさらに傾く。

黒板の⑩が橙色の光を受けていた。

僕はスマートフォンを下ろす。

これ以上ここにいても、新しいことは分からないだろう。

「帰ろうか」

『賛成だ』

先生も言った。

僕は最後にもう一度だけ教室を見た。

誰もいない特別教室241。

静かな教室だった。

その黒板の隅にだけ、小さな⑩が残されている。

 

⸻

 

廊下を歩きながら、僕は考える。

①から⑩。

十個の数字。

意味はまだ分からない。

けれど、ただの落書きとは思えなかった。

『焦る必要はない』

先生が言う。

「そうかな」

『謎は逃げん』

先生らしい言葉だった。

僕は少しだけ笑う。

そして西日に染まる廊下を歩き続けた。

⑩が終点なのか。

それともまだ続きがあるのか。

その時の僕は、まだ知らなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。