図書館落下事件から三日が過ぎた。
頭の痛みはもう消えていた。
それでも先生は毎朝、
『無理はするな』
と言う。
今日も同じだった。
「分かってるよ」
そう答えながら、長袖のワイシャツに腕を通す。
七月に入ってから暑い日が続いていた。
半袖姿の生徒も増えているが、僕はまだ長袖のままだった。
もっとも、今気になっているのは暑さではない。
数字の落書きだ。
① 校門
② 昇降口
③ 一階廊下
④ 階段
⑤ 二階廊下
⑥ 掲示板
⑦ 図書室の本
⑧ 渡り廊下
ここまでは見つかっている。
数字は順番に並んでいる。
だとすれば、次は⑨なのだろう。
だが、その先があるのかは分からない。
そもそも、この数字が何を意味しているのかさえ分かっていないのだから。
図書室から消えた本も気にはなっていた。
題名だけが思い出せない。
それ以外は覚えているのに。
『気にし過ぎても仕方あるまい』
先生が言う。
消えた本のことを言っているのだろう。
「分かってる」
そう答えたが、気になるものは気になる。
だが今は、それ以上に数字の方が気になっていた
⸻
学校へ向かう道を歩く。
朝から蒸し暑い。
蝉の声も聞こえ始めていた。
『港君』
先生が言った。
「何?」
『数字の件だ』
「うん」
『順番に並んでいる以上、意図はある』
「それは分かる」
『問題は、その意図が何かだ』
僕は苦笑した。
「それが分かれば苦労しない」
『その通りだ』
先生も同意した。
⸻
一時間目は現代文だった。
二時間目は数学Ⅱ。
三時間目は家庭基礎。
どれも特別なことはなかった。
そして四時間目は体育だった。
三時間目の終了チャイムが鳴ると、男子生徒たちは更衣室へ向かった。
僕も教科書をしまい、廊下へ出る。
更衣室はいつも通り蒸し暑かった。
ワイシャツを脱ぎ、体操着に着替える。
「暑いなあ」
誰かがぼやく。
その声に何人かが同意していた。
僕も同感だった。
⸻
男子はグラウンドへ出る。
今日はサッカーだった。
真夏ほどではないにしても、日差しは十分強い。
準備運動をしただけで汗が滲む。
僕は運動が得意というわけではない。
かといって苦手でもない。
普通だ。
『なるほど』
先生が言う。
「何?」
『君は何でも平均的なのだな』
「言い方」
『褒めている』
「本当かな」
先生は答えなかった。
⸻
授業が終わる頃には額に汗が浮いていた。
更衣室へ戻る。
体操着を脱ぎ、タオルで汗を拭く。
それから鞄の中から制汗スプレーを取り出した。
『何だね、それは』
先生が聞く。
「制汗スプレー」
『制汗?』
「汗を抑えたり、臭いを防いだりするやつ」
そう言いながら脇の下へ吹き付ける。
続いて胸元と背中にも軽く使った。
ひんやりとした感覚が広がる。
『香水の一種か』
「まあ、そんな感じかな」
『なるほど』
先生は感心したようだった。
『便利な時代だ』
「先生、それ好きだね」
『便利なのだから仕方あるまい』
思わず笑ってしまう。
それから長袖のワイシャツに袖を通した。
『半袖にはしないのか』
先生が言う。
「まだいいかな」
『暑そうだが』
「慣れてるから」
そんなやり取りをしながら教室へ戻る。
体育の後だったこともあり、弁当はいつもより早く空になった。
⸻
昼休み。
僕は席を立った。
「どこ行くんだよ」
悠真が弁当箱を片付けながら聞いてきた。
「散歩」
「散歩?」
「昼休みくらい歩かないと運動不足になるから」
「四時間目、体育だったろ」
もっともだった。
僕は曖昧に笑う。
「まあ、そうなんだけど」
「変な奴だな」
悠真は呆れたように言った。
⸻
教室を出る。
昼休みの第二校舎は賑やかだった。
僕の二年三組もこの校舎にある。
毎日歩いている場所だ。
だからこそ不思議だった。
数字を探し始めるまで、こんなにも周囲を見ていなかったのかと思う。
掲示物。
窓。
教室札。
階段。
視線を巡らせる。
しかし成果はない。
その時だった。
『港君』
先生が言った。
「何?」
『あれは何だね』
先生の意識が向いている先を見る。
壁に埋め込まれた赤い箱。
「ああ、消火栓」
『消火栓?』
「火事の時に使う設備」
『なるほど』
先生は感心したように言った。
『私の知る消火設備とは随分違うな』
「先生の時代にもあったの?」
『あったとも』
『だが学校の壁の中へ収める発想はなかった』
僕は改めて消火栓を見る。
言われるまで気にしたこともなかった。
『港君』
先生が続ける。
『君は毎日ここを歩いている』
「そうだけど」
『だが、廊下に消火栓が何ヶ所あるかは知らない』
「知らないな」
『掲示板の数も知らない』
「うん」
『窓の枚数も知らない』
僕は苦笑した。
確かにそうだった。
『人は見ているようで見ていない』
先生は静かに言う。
『観察とは意識して見ることだ』
その言葉は妙に印象に残った。
⸻
昼休み終了のチャイムが鳴った。
結局、成果はなかった。
教室へ戻る。
「散歩どうだった?」
悠真が聞く。
「暑かった」
「知ってる」
即答だった。
それで会話は終わった。
⸻
午後の授業も平穏だった。
五時間目は世界史B。
産業革命の続きをやっている。
先生は相変わらず時々口を挟んできた。
『そこは少々単純化し過ぎているな』
とか、
『その説明では一部が省かれている』
とか。
もっとも、声に出しているわけではない。
僕にしか聞こえない。
六時間目はLHRだった。
担任が進路希望調査票の説明をしている。
文化祭準備の話も出た。
クラスメイトたちは聞いたり聞き流したりしている。
僕も表向きは聞いていた。
だが意識は別のところにあった。
①から⑧。
数字は順番に並んでいる。
だとすれば、次は⑨のはずだ。
その先も続くのかもしれない。
だが確証はない。
そこには何か意味がある。
そんな気がしてならなかった。
『考えても答えは出ん』
先生が言う。
「分かってる」
『ならば探せ』
その通りだった。
⸻
放課後。
終礼が終わる。
「じゃあな」
悠真が手を振る。
「おう」
僕も手を上げる。
そして教室を出た。
第二校舎の廊下へ出る。
毎日歩いている場所だ。
だが今日は違う。
探しながら歩く。
観察しながら歩く。
⸻
夕方の校舎は静かだった。
部活へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえる。
西日が廊下を橙色に染めていた。
昼間とは印象が違う。
窓ガラスが光り、床の傷が長い影を作っている。
『光で見え方が変わる』
先生が言う。
「同じ場所なのに?」
『同じ場所だからだ』
先生は続けた。
『人は慣れた景色ほど見なくなる』
僕はゆっくり歩く。
左右へ視線を動かす。
掲示物。
教室札。
窓。
清掃用具入れ。
何もない。
また何もない。
⸻
「やっぱり見つからないな」
そう呟いた時だった。
『昼に見た設備に似ているな』
先生が言う。
「ああ、消火器」
『なるほど』
『随分小型になったものだな』
そして先生は一瞬黙り込んだ。
先生の時代にも消火器があったのか。
そんなことを考えながら、僕は消火器の横を通り過ぎた。
『待て』
先生の声が響いた。
いつになく鋭い。
僕は反射的に立ち止まる。
『三歩戻りたまえ』
「え?」
『良いから』
僕は言われた通り後ろへ下がった。
そして振り返る。
壁際。
赤い消火器。
どこの学校にもある、ごく普通の消火器だ。
『下だ』
先生が言う。
僕は視線を落とした。
最初は分からなかった。
だが。
次の瞬間。
息が止まる。
あった。
消火器の下部。
床に近い位置。
黒い油性ペンで描かれた丸。
その中に数字。
⑨
間違いない。
今まで見つけたものと同じ筆跡。
同じ大きさ。
三センチほどの小さな数字だった。
「見つけた……」
思わず声が漏れる。
『ああ』
先生も静かだった。
『これで九つ目だ』
⸻
僕はしゃがみ込んだ。
改めて⑨を見る。
探していなければ気付かなかっただろう。
だが、隠そうとしているわけでもない。
『面白いな』
先生が言った。
「何が?」
『見つけてほしい』
『だが目立たせたくもない』
先生は続ける。
『そんな印象を受ける』
確かにそうだった。
①もそうだ。
⑦もそうだ。
どれも絶妙な場所にある。
偶然とは思えない。
⸻
僕はスマートフォンを取り出した。
写真を撮る。
これで①から⑨まで揃った。
順番に続いているなら、次は⑩になる。
だが、本当にそこまで続くのかは分からない。
『さて』
先生が言う。
「次があるなら、だね」
『その通りだ』
先生は少し愉快そうだった。
⸻
その時だった。
ふと視線の先に教室札が見えた。
特別教室241
旧二年四組。
僕たちの一つ上の代までは存在していたクラスだ。
だが少子化の影響で、僕たちの代から二年生は三クラスになった。
その結果、使われなくなった教室が特別教室として残されている。
普段は僕のような文系の生徒はあまり近付かない場所だ。
僕は何となく足を止めた。
『港君』
先生が静かに言う。
「何?」
『あの教室だ』
僕も同じことを考えていた。
なぜ気になるのかは分からない。
だが。
視線が離れない。
夕陽が廊下へ長く差し込み、閉ざされた扉を照らしている。
その向こうに何があるのか。
まだ分からない。
けれど。
次があるのなら、⑩だ。
なぜか僕は、その答えが特別教室241の向こうにあるような気がしていた。
僕はゆっくりと特別教室241を見上げた。
そして無意識に、一歩だけ扉へ近づいた。
⸻
夕陽が廊下を赤く染めている。
部活動へ向かった生徒たちの声が遠くから聞こえてきた。
目の前の扉は閉まっていた。
この教室は理系科目用の特別教室として使われている。
主に物理、化学、数学ⅢCの授業で利用される教室だ。
文系の僕にはあまり縁がない場所だった。
『気になるかね』
先生が言った。
「少しね」
『ならば調べる価値はある』
僕は頷いた。
そして引き戸に手を掛ける。
横へ滑らせようとする。
だが動かない。
鍵が掛かっていた。
「やっぱり駄目か」
『当然だろう』
先生が言う。
『授業が終われば施錠される』
「そうだよね」
僕は苦笑した。
少し期待していた自分がいたらしい。
⸻
帰ろうかと思った、その時だった。
『待ちたまえ』
先生が言う。
「何?」
『教室の中を見たまえ』
僕は顔を上げた。
特別教室241の廊下側には大きなガラス窓が並んでいる。
教室の様子は外からでも見ることができた。
夕陽が差し込んだ教室の中には、授業を終えたままの机と椅子が並んでいた。
黒板。
教卓。
天井のプロジェクター。
理系科目で使われる以外は、ごく普通の教室だった。
『旧二年四組か』
「今は特別教室だけどね」
『君たちの代から三クラスになったと言っていたな』
「うん」
『奇妙な話だ』
先生は少し考えるようだった。
『私の時代には教育を受けられない子供も珍しくなかった』
「そんな時代だったんだ」
『教育を受けられること自体が特権だった』
百年以上前の話だ。
けれど先生が言うと妙な現実味があった。
⸻
僕は改めて教室の中を見回した。
特に変わったところはない。
机。
椅子。
黒板。
窓。
どれも普通だ。
「やっぱり気のせいかな」
『いや』
先生が静かに言う。
「え?」
『黒板を見たまえ』
⸻
僕は視線を向けた。
黒板自体は普通に見える。
だが最初は何も分からなかった。
「黒板がどうかした?」
『右下だ』
先生が言う。
『何か白いものが見える』
僕は目を細めた。
確かに黒板の右下に白い点のようなものがある。
「……あれか」
『私にもそう見える』
「でも読めないな」
『文明の利器を使いたまえ』
「わかった」
僕はスマートフォンを取り出した。
カメラを起動する。
教室の中へ向ける。
そして画面を拡大した。
黒板の右下。
白い跡。
さらに拡大する。
次の瞬間。
思わず息を呑んだ。
⸻
⑩
⸻
小さな丸。
その中に書かれた数字。
間違いない。
今まで見つけた数字と同じだった。
「⑩……」
思わず声が漏れる。
先生も黙っていた。
僕は画面を見つめる。
確かにそこにある。
黒板の右下。
白いチョークで書かれた⑩。
「チョークか」
『黒板だからな』
「確かに」
特別教室の黒板なのだから、チョークで書かれていても不思議ではない。
だが、それが⑩だったことだけは見過ごせなかった。
⸻
これで数字は十個になった。
校門。
昇降口。
一階廊下。
階段。
二階廊下。
掲示板。
図書室の本。
渡り廊下。
消火器。
そして特別教室241の黒板。
順番に並んでいる。
だが意味はまだ分からない。
「結局、何なんだろう」
僕は呟く。
『分からんな』
先生も珍しく即答した。
『だが、ここまで続いている以上、意味はあるのだろう』
「そうだよね」
僕は頷く。
十個も続いている。
偶然で済ませるには出来過ぎていた。
⸻
『少なくとも⑩までは続いていたようだな』
先生が言う。
「そうだね」
「誰かが順番に書いていたのは間違いなさそうだ」
『そのようだ』
だが、それ以上はまだ分からない。
今あるのは数字だけだ。
数字の意味。
書いた人物。
目的。
何もかも不明のままだった。
⸻
夕陽がさらに傾く。
黒板の⑩が橙色の光を受けていた。
僕はスマートフォンを下ろす。
これ以上ここにいても、新しいことは分からないだろう。
「帰ろうか」
『賛成だ』
先生も言った。
僕は最後にもう一度だけ教室を見た。
誰もいない特別教室241。
静かな教室だった。
その黒板の隅にだけ、小さな⑩が残されている。
⸻
廊下を歩きながら、僕は考える。
①から⑩。
十個の数字。
意味はまだ分からない。
けれど、ただの落書きとは思えなかった。
『焦る必要はない』
先生が言う。
「そうかな」
『謎は逃げん』
先生らしい言葉だった。
僕は少しだけ笑う。
そして西日に染まる廊下を歩き続けた。
⑩が終点なのか。
それともまだ続きがあるのか。
その時の僕は、まだ知らなかった。