土日は特に何もなかった。
――と言えば嘘になる。
数字のことばかり考えていた。
土曜日の午前中は部屋で本を読もうとした。
だが気付けば頭の中では①から⑩までの数字が並んでいる。
校門の①。
昇降口の②。
図書室の⑦。
特別教室241の⑩。
何度考えても意味は分からなかった。
先生も珍しく決定的なことは言わない。
『情報不足だな』
その一言ばかりだった。
日曜日になると、さすがに少し落ち着いた。
家族と買い物へ出掛けたり、澪の相手をしたりして過ごした。
それでも夜になると、また数字のことを考えてしまう。
答えは出ないまま、週末は終わった。
そして月曜日が来た。
目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。
眠気は残っていたが、二度寝をする気にはなれない。
理由は分かっていた。
先週、特別教室241で見つけた⑩のことが頭から離れなかった。
特別教室241。
黒板の右下。
小さく書かれた⑩。
①から順番に続いてきた数字。
あれが終点なのか。
それとも続きがあるのか。
答えはまだ出ていない。
『眠れたかね』
先生が言った。
「まあ、それなりに」
『それは眠れていない者の返答だな』
「うるさいな」
僕は苦笑しながら起き上がった。
⸻
学校へ向かう道を歩く。
朝から蒸し暑い。
蝉の声も日に日に大きくなっている気がした。
『湊君』
先生が言う。
「何?」
『数字を書いた人物は、見つけてほしいのだろう』
「僕もそう思う」
『だが大々的に知らせたいわけでもない』
先生は続ける。
『だからあの位置なのだ』
確かにそうだった。
図書室で見つけた数字も、本を手に取らなければ気付かなかった。
消火器の側面に書かれていた数字も、先生に指摘されなければ見逃していただろう。
どれも隠されているわけではない。
だが、探していなければ見過ごしてしまう場所ばかりだった。
「宝探しみたいだね」
『少なくとも書いた人物はそう考えているかもしれん』
僕は空を見上げた。
数字の先に誰かがいる。
そんな気がしていた。
⸻
一時間目は古典だった。
助動詞の活用。
教師は黒板へ次々に板書していく。
僕はノートを取りながら話を聞いていた。
先生は特に何も言わない。
どうやら古典は専門外らしい。
⸻
二時間目は数学Ⅱだった。
二次関数の最大値と最小値。
『論理の積み重ねだな』
先生が言う。
「数学が?」
『答えへ至る道筋が明確だ』
「好きそうだね」
『嫌いではない』
それだけ言うと、先生は静かになった。
⸻
三時間目は日本史だった。
今日の範囲は江戸時代後期。
教師が黒板へ大きく書く。
天保の改革。
その文字を見た瞬間だった。
『湊君』
先生が言った。
「何?」
『これは何だね』
「天保の改革」
『それは見れば分かる』
思わず吹き出しそうになる。
「じゃあ何が聞きたいの」
『誰が行った』
「水野忠邦」
『ほう』
先生は黙った。
「知らないの?」
『知らん』
「先生、物知りなのに」
先生は淡々と言った。
『人間や社会については覚えていることが多い』
『だが日本史は空白に近いな』
なるほどと思った。
先生にも知らないことはある。
「株仲間解散とか」
『ほう』
「人返し令とか」
『なるほど』
先生は感心したようだった。
『君は歴史が好きなのだな』
「まあね」
少しだけ得意になって答える。
『教わる側になるのは新鮮だ』
その言葉に思わず笑ってしまった。
⸻
四時間目は英語コミュニケーションⅡだった。
教科書の本文を音読する授業だった。
教師が英文を読み、生徒たちが後に続く。
その途中だった。
『湊君』
先生が言った。
「何?」
『発音が少し違うな』
「違う?」
『私の知る英語と完全には一致しない』
僕は少し驚いた。
「そんなに変わるものなの?」
『時代の変化もあるだろう』
先生は少し考える。
『だが、それだけではない気がする』
「どういうこと?」
『米国の影響を受けているように聞こえる』
「ああ、アメリカ英語とイギリス英語みたいな?」
『そのような分類があるのか』
「あるよ」
『なるほど』
先生は少し考え込んだ。
『確かに綴りや発音に覚えのない違いがある』
「英語得意だったんだ」
『そうらしい』
「そうらしいって」
『残念ながら記憶がないのでな』
「それもそうか」
先生は小さく笑ったようだった。
『もっとも通じぬわけではない』
『同じ言語だからな』
僕は少し考えた。
先生は日本史をほとんど知らない。
けれど英語には妙に詳しい。
発音の違いまで聞き分けるくらいだ。
もしかすると。
先生はイギリスか、その近くの国の人だったのかもしれない。
もっとも。
それを確かめる方法はない。
本人ですら、自分が何者なのか覚えていないのだから。
先生が授業に興味を示すのは珍しい気がした。
⸻
昼休みを挟み、
五時間目は情報だった。
情報科の教師が表計算ソフトの使い方を説明している。
セルへの入力。
関数の利用。
グラフの作成。
そんな内容だった。
『帳簿のようなものか』
先生が言う。
「まあ、近いかな」
『便利になったものだ』
先生は感心していた。
⸻
六時間目は総合だった。
地域調査についての探究活動が行われていた。
生徒たちは班ごとに資料を集めたり、発表用の原稿をまとめたりしている。
僕の班は白峰市周辺の史跡について調べていた。
本来ならもう少し真面目に参加するべきなのだろう。
だが意識は何度も数字の方へ向いてしまう。
①から⑩。
順番に並んだ数字。
考えれば考えるほど気になった。
特に変わったことはなかった。
⸻
終礼が終わる。
放課後だった。
「じゃあな」
悠真が手を振る。
「おう」
僕も手を上げる。
そして教室を出た。
向かう先は決まっていた。
特別教室241。
先週見つけた⑩を、もう一度確認したかった。
⸻
職員室へ向かう。
入口の前で少し立ち止まる。
そして近くにいた教師へ声を掛けた。
「すみません」
「どうした?」
「特別教室241の鍵を借りたいんですけど」
教師は怪訝そうな顔をした。
「何のために?」
「ちょっと確認したいことがあって」
「駄目だな」
即答だった。
「ですよね……」
「生徒には貸せない」
当然だった。
分かっていた。
だが少しだけ期待していたのも事実だった。
『予想通りだな』
先生が言う。
「分かってたなら先に言ってよ」
『経験は大切だ』
全く慰めにならない。
⸻
僕は職員室の前で立ち尽くした。
さてどうしよう。
その時だった。
「あれ、帰山?」
聞き慣れた声がした。
振り向く。
秋月先生だった。
学校司書の秋月先生である。
「こんにちは」
「こんにちは。どうしたんだ?」
僕は少し迷った。
だが、ここまで来たら話してみるしかない。
「実は、変な数字を追っているんです」
「数字?」
秋月先生が首を傾げる。
「はい」
僕は先週見つけた⑩の話をした。
特別教室241。
黒板の右下。
小さく書かれた数字。
そして続ける。
「それだけじゃないんです」
「うん?」
「前に図書室の本にも⑦がありました」
秋月先生の表情が少し変わった。
「図書室の本に?」
「はい」
「どの本だ?」
「返却棚にあった本です」
「落書きじゃなくて?」
「たぶん違います」
僕はこれまでの出来事を簡単に説明した。
校内で見つかる数字。
順番に続いていること。
そして⑩に辿り着いたこと。
秋月先生は腕を組んだ。
「なるほどな」
しばらく考え込む。
「図書室の本と校内の別の場所に同じような数字があるなら、確かに気になる」
「ですよね」
「生徒だけに確認させるわけにもいかないな」
そして少し笑った。
「私が一緒に行こうか」
「え?」
「教員が同行するなら問題ないだろう」
思わず顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「本当だ」
秋月先生は笑った。
「ただし変なことはするなよ」
「しません」
⸻
数分後。
僕と秋月先生は特別教室241の前に立っていた。
鍵が回る。
カチリ。
静かな音。
そして扉が開いた。
夕方の教室には誰もいない。
机。
椅子。
教卓。
黒板。
先週見たままの光景だった。
『ようやく中へ入れるな』
先生が言う。
「うん」
僕はゆっくり教室へ足を踏み入れた。
⸻
黒板へ近付く。
右下。
先週、スマートフォン越しに見た場所。
そこには確かに⑩が残っていた。
白いチョークで書かれた小さな数字。
秋月先生も黒板を覗き込む。
「これか」
「はい」
「確かに数字だな」
僕はさらに近付いた。
その時だった。
「あれ?」
違和感に気付く。
⑩の下。
何かある。
先週は見えなかった。
黒板に近付いたから分かる。
かすれたチョークの跡。
『何か書いてあるな』
先生が言う。
「うん」
僕は目を凝らした。
だが読めない。
ほとんど消えかけている。
「何だろう」
秋月先生は黒板へ近付いた。
しばらく無言で眺める。
そして教卓の上にあったチョークを手に取った。
「帰山、ちょっと見てろ」
そう言うと、黒板の空いている場所へ数字を書き始めた。
3。
横線。
4。
「ほら」
秋月先生は今書いた数字と、消えかけた跡を交互に指差した。
「形が似てないか?」
僕は見比べた。
言われてみればそうだった。
消えかけた跡は確かに、
3。
横線。
4。
そう読める。
「3-4……」
僕は思わず呟いた。
教室の中は静かだった。
窓の外から運動部の声だけが聞こえてくる。
⑩の下に残された3-4。
数字なのか。
記号なのか。
意味は分からない。
だが。
先週まで見えなかったものが、今ここに現れた。
「何だろう、これ」
僕が言う。
秋月先生は少し考え込んでいた。
そして静かに口を開く。
「もしかすると――」
僕は顔を上げた。
秋月先生は黒板を見つめたまま言う。
「三年四組、かもしれないな」
その言葉に、僕は思わず息を止めた。
三年四組。
そんな発想は思いつかなかった。
『なるほど』
先生が小さく呟く。
『それは面白い』
僕も同じだった。
もし本当に三年四組を意味するのなら。
この数字は。
そして⑩は。
僕たちが思っている以上に、誰かの意思を含んでいるのかもしれない。
夕陽が黒板を赤く染めていた。
その下に残された⑩と3-4。
僕はその二つを見つめながら、次の手掛かりのことを考えていた。
⸻
特別教室241を出た後も、僕の頭の中は「三年四組」という言葉でいっぱいだった。
夕方の廊下を歩きながら、何度も黒板の下に残されていた3-4を思い返す。
『考え込んでいるな』
先生が言った。
「だって気になるだろ」
『確かにな』
三年四組。
もし本当にそれを意味しているのなら。
⑩は終点ではない。
次の手掛かりへの案内だったことになる。
僕は校舎の窓から見える夕焼けを眺めた。
数字はどこまで続いているのだろう。
そして、その先には何があるのだろう。
⸻
帰宅途中。
先生は珍しく黙っていた。
僕も同じだった。
頭の中では数字が並び続けている。
①。
②。
③。
④。
⑤。
⑥。
⑦。
⑧。
⑨。
⑩。
そして3-4。
『湊君』
先生が言った。
「何?」
『数字は順番に発見されたのか』
「いや」
僕は首を振る。
「見つけた順番と数字の順番は違う」
『ふむ』
「でも全部ちゃんと繋がってる」
先生は少し考え込んだ。
『ならば最初から計画されていた可能性が高い』
「計画か」
『思いつきでは十個も続かん』
確かにそうだった。
一つや二つなら落書きかもしれない。
だが十個も続けば話は別だ。
⸻
翌日。
朝から落ち着かなかった。
三年四組。
その言葉が頭から離れない。
『焦るな』
先生が言う。
「分かってる」
『分かっている者はそういう声にならん』
「うるさい」
⸻
一時間目は現代文だった。
評論文の読解。
筆者の主張と、その根拠を読み取る授業である。
教師が問い掛ける。
「この一文から何が読み取れる?」
生徒たちがそれぞれ意見を述べる。
その様子を見て先生が言った。
『面白いな』
「何が?」
『同じ文章を読んでいるのに解釈が分かれる』
「国語だからね」
『事実だけではなく、人の考え方まで読む必要があるらしい』
先生は少し感心しているようだった。
『人間を理解する訓練にもなるのだな』
⸻
二時間目は保健だった。
生活習慣と健康についての授業。
睡眠不足。
ストレス。
脳の働き。
そんな話が続く。
『興味深い』
先生が言った。
「保健が?」
『人体についてここまで体系的に整理されているとは思わなかった』
教師は脳の構造について説明している。
僕は無意識に後頭部へ触れた。
図書室から落ちて一週間。
痛みはもうない。
だが、あの日から先生がいる。
それだけは変わらなかった。
⸻
三時間目は英語コミュニケーションⅠだった。
教科書の本文を音読する授業だった。
教師が英文を読み、生徒たちが後に続く。
僕も特に問題なく授業を受けていた。
ただ、意識の一部は別の場所にあった。
三年四組。
3-4。
あの数字の意味が頭から離れない。
『授業へ集中したまえ』
先生が呆れたように言った。
「努力はしてる」
『努力している者の顔ではないな』
「うるさい」
先生は小さく笑った。
⸻
四時間目は数学Bだった。
数列の単元である。
教師が黒板へ数字を書き並べる。
1。
2。
3。
4。
規則性を探す問題だった。
僕は問題集を開いた。
だが集中できない。
数字を見るたびに別の数字が浮かぶ。
①。
②。
③。
④。
⑤。
⑥。
⑦。
⑧。
⑨。
⑩。
『湊君』
先生が呆れたように言った。
「分かってる」
『授業へ集中したまえ』
「無理」
『正直だな』
思わず苦笑した。
⸻
昼休みになった瞬間だった。
僕は席を立った。
「帰山?」
悠真が声を掛ける。
「どこ行くんだ?」
「ちょっとな」
それだけ言って教室を出た。
向かう先は三年棟だった。
⸻
三年生のフロアは二年生のフロアとは空気が違う。
進路関係の掲示物。
模試の日程表。
大学案内。
受験を意識したものばかりだった。
僕は三年四組の前まで来た。
昼休みなので教室の中は賑やかだった。
弁当を食べている生徒。
友人同士で話している生徒。
購買のパンを広げている生徒。
知らない顔ばかりだ。
『入らんのかね』
先生が言った。
「いや……」
僕は教室の中を覗き込む。
さすがに気後れする。
二年生が突然やって来て、
「変な数字知りませんか」
と聞いて回るのは勇気が要る。
『確かにな』
先生も納得したようだった。
「放課後にしよう」
僕はそう決めた。
教室の様子だけ確認すると、その場を離れた。
⸻
午後の授業はあまり頭に入らなかった。
三年四組。
3-4。
その二つの言葉が頭の中をぐるぐる回り続けていた。
⸻
終礼が終わる。
僕は誰よりも早く席を立った。
「おいおい」
悠真が笑う。
「今日はやけに急ぐな」
「ちょっと用事」
そう言い残して教室を出た。
⸻
三年四組へ着いた時には、教室に残っている生徒は少なくなっていた。
部活動へ向かう生徒が次々に教室を出ていく。
僕は教室の中へ目を向けた。
その時だった。
ふと視線が黒板へ向いた。
黒板の左下。
チョーク受けの少し上。
白い小さな文字が見える。
最初は汚れかと思った。
だが違う。
そこには、
⑪
と書かれていた。
僕は思わず息を呑んだ。
『見つけたな』
先生が静かに言う。
「本当に続いてた」
⑩で終わりではなかった。
3-4は手掛かりだったのだ。
『少なくとも秋月先生の推測は正しかった』
先生が言う。
僕は小さく頷いた。
『湊君』
先生が続けた。
「何?」
『記録しておきたまえ』
「記録?」
『写真だ』
僕は一瞬だけ迷った。
だが確かにその通りだった。
今までは数字を見つけることばかり考えていた。
「そうだね」
僕はスマートフォンを取り出した。
黒板の左下。
小さく書かれた⑪。
画面越しに確認してからシャッターを切る。
カシャッ。
写真が保存される。
『よろしい』
先生は満足そうに言った。
「大げさじゃない?」
『証拠というものは、必要になってからでは遅い』
「証拠って……」
『何が起こるか分からんのでな』
僕は肩をすくめた。
その時の僕は、先生の言葉の意味をまだ理解していなかった。
⸻
教室にはまだ数人の生徒が残っていた。
勉強している者。
雑談している者。
帰る準備をしている者。
僕は少し緊張しながら声を掛けた。
「あの、すみません」
近くにいた男子生徒が振り向く。
「ん?」
「この教室に変な数字とかありませんでした?」
「数字?」
怪訝そうな顔をされる。
当然だった。
「例えば⑪とか」
「いや?」
男子生徒は首を振った。
「見たことないな」
近くにいた女子生徒も首を傾げる。
「何それ?」
どうやら知らないらしい。
『少なくとも公然の秘密ではないな』
先生が言う。
僕もそう思った。
もし全員が知っているなら、とっくに話題になっているはずだ。
⸻
教室を出た後。
僕は廊下の窓際で立ち止まった。
夕方の風が少しだけ涼しい。
「十一は見つけた」
『だが意味は分からん』
先生が言う。
その通りだった。
手掛かりは増えた。
だが謎も増えた。
その時だった。
『待て』
先生の声が少し鋭くなった。
「何?」
『十一の位置だ』
「位置?」
『黒板の左下だったな』
「うん」
『教師は黒板全体を見る』
『だが生徒は授業中、中央ばかり見る』
『意識して探さなければ見逃す位置だ』
「確かに」
『数字を書いた人物は、その加減をよく理解している』
僕は黙った。
確かに今まで見つけた数字もそうだった。
隠されてはいない。
だが、探さなければ見つからない。
『そしてもう一つだ』
先生が続ける。
「何?」
『三年四組の生徒は、本当に誰も気付いていないのかね』
その一言で思考が止まった。
気付いていなかった。
そう決めつけていた。
だが。
もし気付いている人間がいたとしたら。
『湊君』
先生が静かに言う。
『三年四組の中に、この数字の意味を知る者がいるかもしれん』
僕は息を呑んだ。
その発想はなかった。
数字だけを追っていた。
だが。
数字を書いた人間がいるなら。
それを知る人間がいてもおかしくない。
夕陽が校舎を赤く染めていた。
僕は三年四組の黒板を振り返る。
左下に残された小さな⑪。
それはまるで、
次の謎の入口のように見えた。
⸻
翌日の昼休みだった。
僕は弁当を食べ終わると、すぐに教室を出た。
向かう先は三年四組。
昨日見つけた⑪をもう一度確認したかった。
念のためスマートフォンで撮った写真もある。
だから消えていても証拠は残る。
そんなことまで考えている自分に少し苦笑した。
『慎重になったな』
先生が言う。
「昨日のうちに撮っておいて正解だったかもしれないし」
『消されると思っているのかね』
「分からない」
僕は階段を上った。
「でも、もし誰かが書いたものなら」
「その誰かが消すこともあるかもしれない」
先生は何も答えなかった。
⸻
三年四組の前へ着く。
昼休みなので教室の中は賑やかだった。
僕は廊下側から黒板を見る。
そして――
立ち止まった。
「……ない」
『どうした』
「消えてる」
昨日あったはずの場所。
黒板の左下。
そこには何もなかった。
⑪は綺麗に消されていた。
チョークの粉の跡すら残っていない。
『ふむ』
先生の声が低くなる。
僕はスマートフォンを取り出した。
昨日撮影した写真を開く。
そこには確かに写っている。
黒板の左下。
小さな⑪。
見間違いではない。
「昨日はあった」
『写真が証明しているな』
「誰かが消したんだ」
『その可能性は高い』
僕はしばらく黒板を見つめた。
胸の奥がざわつく。
偶然ではない。
昨日見つけた数字が。
翌日には消えている。
そこには誰かの意思がある。
そんな気がした。
⸻
放課後。
僕は図書室へ向かった。
秋月先生はカウンターの奥で貸出処理をしていた。
「秋月先生」
「ん?」
「ちょっといいですか」
先生は僕の顔を見る。
「何か見つかったか?」
「それが」
僕はスマートフォンを差し出した。
昨日撮った写真。
三年四組の黒板。
⑪。
秋月先生は写真を見る。
「これが先週のやつか」
「はい」
「それで?」
「今日見たら消えてました」
秋月先生の眉が少し動いた。
「消えていた?」
「綺麗に」
僕は頷いた。
秋月先生はしばらく考え込む。
そして静かに言った。
「帰山」
「はい」
「その三年四組なんだが」
「うん」
「一つ心当たりがある」
⸻
僕は秋月先生の向かいに座った。
図書室には他に利用者はいない。
窓から夕方の光が差し込んでいる。
「心当たりですか」
「ああ」
秋月先生は少し言葉を選んでいた。
そして続ける。
「二年一組に
「相原蓮」
初めて聞く名前だった。
「不登校だ」
僕は黙った。
秋月先生は続ける。
「正確には留年している」
「留年」
「本来なら三年生になっていた」
先生は一度区切る。
「進級していれば、今頃三年四組だったはずだ」
僕は息を呑んだ。
『なるほど』
先生が小さく呟く。
三年四組。
3-4。
そして⑪。
偶然とは思えなくなってきた。
「その人が数字を書いたんですか」
「そこまでは分からない」
秋月先生は首を振る。
「ただ、無関係とも思えない」
⸻
僕はさらに話を聞いた。
相原蓮。
二年一組。
留年。
長期不登校。
だが完全に学校へ来ていないわけではない。
「図書室登校だ」
秋月先生が言った。
「図書室登校?」
「ああ」
「教室には入れないが、図書室で勉強することは認められている」
僕は思わず周囲を見回した。
この図書室。
ここに来ていたのか。
「今も?」
「最近は来ていない」
秋月先生は静かに答えた。
「ここだけの話だが、転校を考えているらしい」
⸻
帰り道。
僕は考え続けていた。
相原蓮。
三年四組。
転校。
数字。
全部がどこかで繋がっている気がする。
『湊君』
先生が言った。
「何?」
『会ってみたいな』
僕は少し考える。
「難しいかもしれない」
『なぜ』
「転校するんだろ」
『それでもだ』
先生は静かだった。
『数字を書いた人物かもしれない』
『ならば話を聞きたい』
僕もそう思った。
だが。
どこかで違和感もあった。
数字を書いた本人が。
本当に会いたいと思っているのだろうか。
その答えは分からなかった。
⸻
翌日から僕は少しずつ話を聞き始めた。
まずは二年一組の生徒。
相原蓮を知っている人。
しかし返ってくる答えはどれも似ていた。
「そんなに話したことない」
「静かな人だった」
「本ばっかり読んでたかな」
「途中から来なくなった」
それだけだった。
悪口は出てこない。
恨みも出てこない。
強い敵意もない。
だが。
好意も感じられなかった。
『妙だな』
先生が言った。
僕もそう思う。
何かが欠けている。
そんな印象だった。
⸻
今度は三年四組の生徒に話を聞く。
別の生徒。
また別の生徒。
だが結果は変わらない。
「よく知らない」
「話したことない」
「覚えてない」
そればかりだった。
そして僕は少しずつ気付き始めていた。
相原蓮は、
嫌われていたわけではない。
けれど。
誰からも見られていなかったのかもしれない。
⸻
聞き込みを続けても状況は変わらなかった。
二年一組、三年四組の生徒たちは皆、
似たようなことを言う。
「静かな人だった」
「話したことはあまりない」
「途中から来なくなった」
それだけだった。
誰も悪口を言わない。
誰も敵意を見せない。
それなのに。
相原蓮は学校へ来られなくなった。
『おかしいな』
先生が言った。
放課後。
僕は図書室でノートを開いていた。
聞き込みで得た内容を整理している。
「何が?」
『原因が見えん』
先生は低く言う。
『誰かが主導したはずだ』
『そうでなければ、このような結果にはならん』
僕は黙った。
先生の言うことは分かる。
誰かが始めた。
誰かが広げた。
誰かが追い詰めた。
普通ならそう考える。
だが。
聞けば聞くほど。
そんな人物は見当たらなかった。
⸻
翌日。
秋月先生にも話を聞いた。
「相原はな」
秋月先生は静かに言う。
「最初は普通だった」
「普通?」
「ああ」
「成績も悪くない」
「問題も起こさない」
「本好きの生徒だった」
僕は頷いた。
想像通りだった。
「ただ」
秋月先生は続ける。
「少しずつ孤立していった」
「いじめですか」
「……そう呼べるかもしれない」
秋月先生は難しい顔をした。
「ただ、典型的ないじめではない」
「どういうことですか」
「誰かが殴ったわけじゃない」
「金を取ったわけでもない」
「グループで攻撃したわけでもない」
僕は首を傾げた。
「じゃあ」
「誰も話しかけなくなった」
秋月先生は静かに言った。
「誰も席を隣に選ばなくなった」
「班決めで余るようになった」
「昼休みも一人だった」
「気付いたら孤立していた」
僕は何も言えなかった。
秋月先生の話が終わる。
僕はしばらく言葉を失っていた。
それは確かに苦しい。
苦しいはずなのに。
どこにも決定的な加害行為が見当たらない。
「先生」
僕は心の中で呼んだ。
『うむ』
「これって、いじめなのかな」
少し間があった。
『私にも分からん』
珍しい返答だった。
先生は続ける。
『私の知る限り、いじめには加害者がいる』
『脅迫する者』
『嘲笑する者』
『暴力を振るう者』
『あるいは集団を扇動する者』
僕は黙って聞いていた。
『だが今の話には、それが見当たらん』
先生の声は低かった。
『誰か一人を指差して、この人物が原因だと言えない』
「うん」
『それなのに、一人の人間は学校へ来られなくなった』
僕は窓の外を見た。
夕陽が校庭を赤く染めている。
『奇妙だな』
先生が言う。
『結果だけが存在している』
『だが原因が霧のように散っている』
その表現が妙に胸に残った。
原因がないわけではない。
けれど掴めない。
誰も責任を負わない。
誰も悪人ではない。
それなのに、一人だけが消えていく。
『私の時代なら』
先生がぽつりと言った。
『誰かが首謀者だっただろう』
『あるいは明確な敵意があった』
『だがこれは違う』
僕は小さく頷いた。
先生は人間観察の専門家だ。
そんな先生ですら、この状況を理解できずにいる。
それが逆に恐ろしく感じられた。
『湊君』
「何?」
『私は今、少しばかり気味の悪いものを見ている気がする』
「気味の悪いもの?」
『ああ』
短い沈黙。
そして先生は静かに言った。
『誰も悪人にならずに、人を追い詰める仕組みだ』
⸻
帰り道だった。
夕暮れ。
住宅街を歩く。
先生も珍しく黙っている。
やがて、
『湊君』
と声がした。
「何?」
『理解できん』
「何が」
『誰も悪人ではない』
『だが被害者はいる』
先生の声は真剣だった。
『結果だけが存在する』
『原因が見当たらん』
僕はしばらく考えた。
そして。
ふと口を開く。
「先生」
『うむ』
「もしかして」
僕は空を見上げた。
赤く染まった雲が流れている。
「誰もいなかったんじゃないかな」
『何?』
「犯人」
先生は黙った。
僕は続ける。
「みんな少しずつだったんだと思う」
「一人じゃない」
「だから誰も犯人にならない」
「でも」
僕は立ち止まる。
「誰も止めなかった」
沈黙。
先生は何も言わなかった。
長い沈黙だった。
やがて。
『……なるほど』
小さく呟く。
『そういう形の悪意もあるのか』
僕は首を振った。
「悪意ですらないのかもしれない」
『何だと』
「無関心だよ」
先生は再び黙った。
⸻
その週の終わりだった。
秋月先生から話を聞いた。
相原蓮は、
正式に転校が決まったらしい。
僕は不思議な気持ちだった。
結局。
一度も会わなかった。
数字を書いた本人。
そのはずなのに。
顔も知らない。
声も知らない。
それでも。
妙に近く感じていた。
⸻
数日後。
放課後の図書室。
秋月先生が言った。
「帰山」
「はい」
「あそこ」
窓際を指差す。
「相原がよく座っていた席だ」
僕はその方向を見た。
特別な席には見えない。
普通の机。
普通の椅子。
ただ窓から光が入る。
静かな場所だった。
「そうなんですか」
「ああ」
秋月先生は頷いた。
「本を読む時は大体あそこだった」
僕は席へ近付いた。
誰もいない。
もう使われることもない席。
しばらく眺めていると、
椅子が少し傾いていることに気付いた。
何となく引く。
ギギッ。
椅子が動く。
その時だった。
「あれ」
椅子の裏側。
脚の内側。
そこに何かが見えた。
⸻
僕はしゃがみ込んだ。
黒い油性ペンで書かれた小さな文字。
普段なら気付かない。
椅子を引いて、しゃがみ込んで初めて見える場所だった。
そこに書かれていたのは――
⑫
そして、その下に。
ありがとう
⸻
僕はしばらく動けなかった。
先生も何も言わない。
図書室は静かだった。
窓の外から聞こえるのは、
遠くの運動部の声だけ。
⑫。
ありがとう。
たったそれだけ。
それだけなのに。
今までの数字の意味が全部変わった気がした。
⸻
「先生」
僕は小さく言った。
『うむ』
「見つけてほしかったんだね」
長い沈黙。
そして。
『そのようだ』
先生は静かに答えた。
『犯人を探していたわけではない』
『自分を見つけてほしかったのだろう』
僕は椅子を見つめた。
①から⑫まで。
校内中に残された数字。
あれは暗号ではなかった。
助けを求める声だった。
あるいは。
誰かへ向けた手紙だった。
⸻
「先生」
『何だね』
「結局、犯人はいなかったね」
先生は少し考えた。
そして。
『いや』
と言った。
僕は顔を上げる。
先生は静かに続ける。
『いたのかもしれん』
『全員が少しずつな』
その言葉に、
僕は何も返せなかった。
⸻
窓の外では夕陽が沈み始めていた。
相原蓮とは、
結局一度も会わなかった。
けれど。
確かにそこにいた。
この図書室に。
この学校に。
そして。
最後に残された言葉は、
恨みでも怒りでもなかった。
⸻
⑫
ありがとう
⸻
僕はそっと椅子に手を触れた。
そして心の中だけで答えた。
――ちゃんと見つけたよ。