二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
元帥閣下が、お成りになる。
その報せが届いてからの丸一日、当家の台所はちょっとした戦であった。ヘートヴィヒは献立を七度改め、地下から十年ものの葡萄酒を掘り出し、鶏を二羽つぶすと言い張る。私が「三羽になさいませ」と申し上げると、家政婦長は感極まった顔で頷いた。元帥閣下がどれほど召し上がる方かは、この家の誰も知らないのである。
一日のうちに銀器は三度磨かれ、客間の敷布は取り替えられ、玄関の敷石には雪掻きの跡が一分の狂いもなく並んだ。屋敷じゅうが、しゃんと背筋を伸ばしている。
当の旦那様はといえば。
「……来るなら、来ればよい」
庭にいる。鍬の柄を、拭いていた。
◇
元帥ヴァルデマール閣下は、馬車ではなく馬で来る。
供は一人。七十の老人が、真冬の街道を三日である。玄関先で外套の雪を払い落としながら、開口一番こう仰った。
「バルタザール! 貴様の家は遠い!」
「……誰も、来いとは言うておらん」
声が、玄関の天井で反響する。ヘートヴィヒが数歩あとずさりした。無理もない。この方は、廊下の端から端まで届く音量で世間話をなさるのである。
応接間に通して、茶をお出しする。
そこから先は、私の予想を越えていた。
老兵二人が、互いの歌を剥がし始めたのである。
「貴様の『三日三晩』は霧だろうが。わしは知っておるぞ、霧そのものは四日出ておった。貴様が伏せておったのが三日だ」
「貴様の『百人斬り』こそ、帳簿係の誤記だと聞いたが」
「誤記ではない。あれは十人だ。十が百になったのは、写しの手が滑ったのよ」
「十人でも、多い。貴様、あの日は腰を痛めておったろう」
旦那様が、湯呑の縁越しに低く言う。
「……痛めておったな」
「三人だ。あとは味方が囲んで取り押さえた」
「言うてくれるな。三人でも、腰は痛い」
元帥が、身を乗り出した。今度はこちらの番だ、という顔である。
「そういう貴様は、三本橋の三本目を自分で落としておらんそうだな」
「落ちた」
「落ちたか」
「古い橋でな。触る前に落ちた」
元帥が卓を叩いて笑い、旦那様は湯呑の中を覗き込んで、聞こえないふりをする。
私は茶を注ごうとして、注ぎ損ねた。
笑いが、止まらないのである。三十年、王国じゅうが有難がって歌ってきた武勇伝が、この応接間で二人がかりで剥がされ、床にぼろぼろ落ちていく。歌の大掃除である。しかも掃除している当人たちが、いちばん楽しそうなのだ。
笑いすぎて、盆の縁を持つ手が震えてきた。
実家の帳場で、私はこういう笑い方をしたことがない。三年、私が笑うのはたいてい誰かを追い返した後だった。腹の底から、意味もなく、ただ可笑しくて笑う。それがこんなに体力を使うものだとは、知らなかったのである。
旦那様が、こちらを一度だけ見る。見て、それから――たぶん、少し嬉しそうな顔をなさった。
◇
ひとしきり剥がし合ったあと、元帥が杯を置く。
声の調子が、変わる。
「……バルタザール。歌がな、金を食っておる」
「金」
「議会よ。英雄がおるなら金は要らん、と言いおる。不敗侯の名が北にあるなら、冬の装具など後回しでよかろう、とな。……この三年、わしはそれで予算を落とされ続けておる」
「……ほう」
「若い者は歌を読んで入ってくる。入って、装具の目録を見て、それから黙るのだ。歌と現物の差を、あれらは着任の三日目に知る」
旦那様の湯呑が、卓の上で止まった。
歌が、
後回し。……その言葉なら、私もよく知っている。
三年、私は屋根を後回しにした。桶ひとつで済むからである。済んでいるうちは、誰も困らない。困り始めたときには、たいてい修繕費が三倍になっている。国も、屋根の話は苦手らしい。
「それでな。貴様の草案の話だ」
「……十二年前の」
「書庫にある。埃を被って、綴じたままよ」
元帥は指を一本立てて、卓を叩いた。
「あれを握りつぶしたのは、わしの前任の参謀本部だ。わしではない。……だが、掘り起こさずに十二年寝かせたのは、わしだ」
この方々は、と私は思う。
どうしてこう、自分の分の責めをきっちり自分で持って帰るのだろう。歌のほうは十人が百人になるほど盛るくせに、悔いのほうは一分も値引きしないのである。
話は、そこから早かった。教官職を正式なものにする。草案は掘り起こして書き直す。予算の話は元帥が引き受ける。その代わり――。
「王都で、講義の披露をやってもらう」
「披露」
「議会と学校の目の前でだ。あれは金を出す前に、必ず『効くのか』と訊く連中でな。……効くところを、見せてやれ」
公開の試験である。三十年、歌に触らずに済ませてきた人が、満場の前で、歌の代わりを立てることになった。
◇
夕餉のあと、元帥がしみじみと茶を啜って、「うまい茶だ」と言う。
すると旦那様が湯呑を置いて、まったく前触れなく、こう仰ったのである。
「……うちの茶は、うまいぞ」
元帥が、吹き出した。葡萄酒が少し卓にこぼれる。
「知っておる! いま飲んだ!」
「……そうか」
私は俯いて、必死に真顔を作っていた。この人の自慢の仕方は、世界一不器用である。台所へ下がると、ヘートヴィヒが両手で口を押さえて震えていた。鶏を三羽つぶした甲斐が、ここにあったらしい。
◇
翌朝、元帥は来たときと同じく馬で発つ。
厩の前で、私にだけ声を落として仰った。
「奥方」
「はい」
「あいつがな。また、前を向いた」
雪を踏む音が、ひとつ。
「三十年ぶりに見る顔だ。……礼を言う」
馬が、坂を下りていく。
私は門の前に立ったまま、しばらく動けずにいた。
嫁いでこのかた、私は貰ってばかりだと思っていたのである。雨漏りのしない屋根と、帳簿のない朝の静けさと、歌より面白い旦那様と。数えないと決めているけれど、貰ったほうが多いのは、たぶん確かだ。
その勘定に、いま、こちら側の欄がひとつできてしまう。
――前を、向かせた。
自分でやった覚えは、まるでない。庭で「ご精が出ますのね」と声をかけただけである。それでも、そう言われたのだ。門柱に手をついて、私は雪の匂いの中で、ひとつ大きく息を吸う。
数日ののち、披露の日取りが届いた。王立士官学校の大講堂で、半月後だという。