静かな夜だった。とっても静かで、どこかもの哀しくて。
今日は虫の声も、風のささやきも聞こえない。探偵事務所のバルコニーから聞こえるコンサート、今日はお休みの日らしい。
ちょっぴりつまらないなと、星空を見上げるみくるの瞳には大きな満月。月光だけは煌々としていて、音もないのに少しうるさい。
視線を下ろすと、「キュアット探偵事務所」の看板が月の光に照らされて、ひっそりと佇んでいる。
「キュアット探偵事務所」とふいに声にだして、その名を呼んでみる。
思えば、信じられない話だ。ついこの間まで、畏れ多く、この建物の前を歩くときには歩幅を狭くしていたこのわたしが、いまやこの事務所の探偵として、そして、プリキュアとして難事件を次々と解決している。
今はこの事務所で寝泊まりしているだなんて、去年の自分が知ったらどんな顔をするんだろう。そう考えると、ふいに口端が吊り上がってしまう。でもそれは少し下品だと思って、閉じた口を揉む。
信じられないな、本当に信じられない。急にふっと目が覚めて、今まで見ていたのは全部夢でした、なんて言われるんじゃないかとさえ時折思ってしまう。なので、眠るのがちょっと嫌だなと思う日があるのだ。眠ってしまうと、この夢が覚めてしまうかもしれないから。
そういう時は、このバルコニーで夜のまことみらいを眺める。気のすむまでゆったりと。夜は、わたしを否定しない。いい意味でも、悪い意味でも。悩ましいことがあるときは、そんな夜に甘えてしまうのだ。
でも、もうそろそろこの夜ともお別れしなくては。あんなより朝寝坊はできないのだから。
バルコニーの窓を閉めて、鍵をかける。夜の世界とお別れだ。
電気は付けずに、暗闇に慣れた夜目を使ってみくるは自分の部屋へと向かう。あんなを起こさないように、足音に気をつけながら。
すると、ず、ず、と微かな音が聞こえる。
普段なら気付かないであろう程に小さい音。静かな夜であったからこそ気付いた、か細い音。
ジェット先輩がまた夜通し何か作業をしているのかと思ったが、そういう工具類から発せられる機械音とはまた違った音質。
どこか生々しくて、少し湿っている。そんな音。
どこからだろう、何の音だろう。興味と好奇心に吸い寄せられるように辿り着いたのは……あんなの部屋。
扉に耳を預けると、やはりあの、ず、ずという音が聞こえる。それと一緒に「う……うぅ……」と呻くような、少女の声。……まるで、泣いているかのような声。
「あんな?」
呼びかけても何も返事がない。なので、悪いなと思いつつあんなの部屋を開けた。
部屋に変わった様子はない。ただ、あんなのベッドが大きく盛り上がっているだけ。
お布団に包まってるあんな。ず、ず、という音はここから鳴っている。
「あんな、どうしたの?」
ゆっくりと布団をはがすと、そこに、顔を真っ赤に腫らして、涙で顔を濡らしたあんながいた。
「ちょ、どうしちゃったのあんな!?」
あんなは、喉の奥から込み上げてくるような引っ掛かりを何度もこらえながら、一粒一粒、涙をこぼしていた。
「お腹痛い? それとも……」
あんなは首を激しく横に振る。
「違うのみくる……なんでもないの……ごめんね……ごめんね……」
「なんでもなくないよ! なんでもないんだったら、そんな風になんかならない……」
いつも素直で正しく、嘘を吐かないあんな。だけど、みくるは知っている。
彼女は、自分のことになると、たまに嘘をついてしまう。「大丈夫」だとか、「大したことない」とか。周りを心配させないために、そういうことを言ってしまう癖があるのだ。
……だとすれば、この涙は、自身のキャパシティを超えてしまった彼女の悲鳴なんだろうか。
「あんな、嘘はだめ……お願い。ちゃんと話して。わたしきっと、力になってあげられるから」
探偵は謎を解くだけが仕事じゃない。目の前に困っている人がいれば、全力で助けに行く。それが相棒であったとしても、例外ではない。
固まって動かないあんなの手を握る。微かに震えているその手を、優しくほどいていく。
手を握って少しすると、人の肌に触れたからなのか、あんなの呼吸が少しずつ落ち着いてくるのが分かった。
「大丈夫だよあんな。わたし、ここにいるよ」
「うん……」
吸って、吐いて、吸って、吐いてとみくるの言葉をガイドにして、あんなは呼吸を繰り返す。
「……ありがとう。ごめんね、みくる」
大分落ち着きを取り戻したのか、あんながそう言った。
「だめ……だよね。わたし、探偵なのに。もう、14歳なのに」続けてそう言った。
「だめ? どうして? あんなはこんなにも頑張ってるのに、どうしてダメなの。泣いちゃうことくらい、わたしにだってあるもの。ううん、わたしだけじゃない。あの有名な名探偵だって、こんな風に泣いちゃう日はあったんじゃないかな。泣かない人なんて、いないよ」
「うん……ねぇ、みくる」
「うん?」
「今日……一緒にいて欲しい」
それが、子供と大人の間に挟まれた、そして憔悴に溺れたヤングアダルトのアンサー。
みくるは頷くまでもなく、あんなのベッドへ。
ベッドの中で、あんなはみくるの胸に額をよせる。みくるは何もいわずに、彼女の頭を抱えてあげる。
とくん、とくん、とくん、とくん……と一定に打ち続ける、みくるの鼓動。
それはどうしても、あんなの心を優しく満たしてしまう。
あんなは、この鼓動の唄をしっている。生まれてくるよりもずっと前から、この音を知っている。
生々しい臓器の音のはずなのに、どうしても優しくて、暖かい音。そして、また声が漏れてしまう。
「……おかあさん」と。
……みくるは思う。この短い間で、信じられないことと幾つも出会ってきた。その中でも、あんなの存在は一番信じられないものだ。
遠い未来からやってきた、14歳の少女。身寄りも戸籍もなく、靴すらないままこの世界に放り出された。
辛いだろう。辛くない筈がない。自分がその立場だったら、そんなこと、耐えられるだろうか……きっと、無理だ。
それでもあんなは、みくるや、学校の友人、街の人たちに笑顔を見せている。だけど、その笑顔の下にきっと、恐怖哀しみ孤独不安が混ざりあった、ドロドロとした負の感情があったに違いない。
それらをあんなは「大丈夫」の一言で済ませて来た。それが、この静かな夜に瓦解した。
わたしは、とみくるは思う。そんなあんなのことを、真剣に考えてあげられたことがあっただろうか、と。探偵になって、プリキュアになって、随分と気分のいい日々を過ごしてきた。その中でどこか、あんなのことを、都合のいい相棒だと思ったりしてなかったんだろうかと。これだけ異常な状況に身を置きながらも「大丈夫」だと言ってくれていた。だから、それより深くを考えなかった。
こんな状況の「大丈夫」が、大丈夫なワケがないくらい、本当は気付いていたはずなのに。彼女の強さと優しさに、甘えてしまっていた。
「ごめんね、あんな」
あんなはもう、深い眠りの底へと堕ちてしまっている。だからその言葉は届かない。でも、それでもいい。
「あんな、わたしきっと、あんなを助けるからね。だから、もう泣かないで」
あんなを抱きしめる手をもう少し強めて。あんなから発せられる、どこか懐かしい香りに抱かれて。
二人で闇夜の底へと堕ちていく。
その刹那に、あんなが再び「おかあさん」と言った。
ならば、今だけは、あんなのお母さんでいてあげよう。彼女の求める誰かになってあげよう。
そんなことをぼんやりと思いながら眠りに落ちる時に、みくるは思った。
――未来のわたしは、だれかのお母さんになっているのかな。と。