【完結】開幕!春の祭典、ジュノグランプリ   作:金髪ヒュムさん

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長い長い写真判定の先に、それぞれの結末を迎えた八羽。

熱狂の余韻が残るジュノ競争場で、貴方は老人たちの昔話に耳を傾ける。

競走鳥はどこから来て、どこへ行くのか。
遠い昔を駆けた名鳥たちと、バタリア丘陵で羽を休める競走鳥。そして、まだ誰も知らない次の世代。

 -Race for Visionaries-
 これから始まる未来のレースに思いを馳せる者たち

終わりを告げた物語と、これから始まる物語のお話。



終幕 -Race for Visionaries-

 

 レースは終わった。それでも、ジュノ競争場を埋め尽くしていた観客たちは、なかなか席を立とうとはしなかった。

 

 写真判定の末に勝者の名は告げられ、気の早い祝砲まで空へ上がったというのに、白砂の走路を見下ろす観客席にはまだ熱が残っている。ほんの少し前まで八羽の競走鳥が駆け抜けていた直線には、無数の足跡が重なり合い、最後の百ヤルムで蹴り上げられた砂がところどころ荒れたままになっていた。そこを眺めながら、誰もがつい先ほど目にしたばかりの光景を、もう昔話のように語り始めている。

 

『いや、俺は最後までグラスだと思ったぞ。大外からあれだけ伸びてきたんだぞ』

『内を見てなかったのか? ティルなんて、いつの間にか最内にいたじゃないか』

『いつの間にかっていうか、俺は途中で見失ったままゴールまで見つけられなかったんだが』

『メテオも止まってないぞ。あの子供たちの声が上がってから、もう一段伸びた』

『マヤとブランなんか、最後まで二羽でやり合ってただろ。あいつら自分たちだけ別のレースしてなかったか?』

『ビーナスだって変だぞ。ずっとふらふらしてたくせに、最後だけ妙に真っ直ぐ飛んできやがった』

『ふらふらって言うな。あれがあいつの走りなんだろ』

『サリアも最後に抜いたぞ。あの一歩、見たか?』

『ラオーは……あいつ、最後まで全部見てたんじゃないか?』

『やめろよ。なんか怖くなってきた』

 

 笑い声が広がった。

 

 誰がどこで仕掛けた。あの一歩が早かった。いや、あそこまで待ったから最後まで伸びた。あの進路を選ばなければどうなっていた。もしもう半歩外だったら。もし風向きが違っていたら。そんな話があちらこちらで始まっては、いつの間にか別の観客まで混ざり、気づけば誰が誰と話しているのかさえ分からなくなっている。

 

 普段は依頼を受けて各地を巡り、ときには魔物と剣を交える貴方も、今日この場所ではただの観客だった。

 

 特別な席にいるわけではない。競走鳥の関係者でも、記者でも、競鳥史を語れるほどの古参でもない。ただ今日ここへ来て、八羽の走りを見て、声を上げ、最後には誰が勝ったのか分からなくなって写真判定を待った、数え切れない観客の一人だった。

 

 帰り支度を始めた者たちの間に立ちながら、貴方はもう一度、ゴール板へ目を向ける。

 

 さっきまで、あそこへ向かって八羽が走っていた。

 

 今はもう、誰もいない。

 

『しかしまあ……いい競走鳥だったなあ』

 

 少し離れた席から、年老いた男の声が聞こえてきた。

 

『一羽みたいに言うな。八羽じゃ、八羽』

 

『分かっとるわい。言葉のあやじゃ』

 

『お前は昔からそうやって適当なことを言う』

 

『お前が細かすぎるんじゃ』

 

 二人の老人の間に座っていた子供が、何度目かになる言い争いを聞き流しながら、まだ走路の方を見ていた。どうやら家族ではないらしい。レースが始まる前には別々に座っていたはずなのに、いつの間にか老人二人と子供一人で、ずいぶん仲良く話すようになっている。

 

 やがて子供が、何かに気づいたように顔を上げた。

 

『ねえ』

 

『なんじゃ』

 

『競走鳥って、鳥なんだよね?』

 

『見たまんまじゃろ』

 

『じゃあさ。なんで“きょうそうちょう”じゃないの?』

 

 老人が一度瞬きをした。

 

『……ん?』

 

『競走鳥って書くんでしょ? でもみんな、“きょうそうば”って言ってるじゃん。なんで鳥なのに“ば”なの?』

 

『ああ、それか』

 

 一人が納得したように頷いた横で、もう一人は腕を組み、難しい顔をした。

 

『今の子は、そういうことも知らんのか』

『知るわけなかろう。わしらだって誰かに習ったわけじゃない』

『競鳥場に来るなら知っておくべきじゃ』

『だから、どこで覚えるんじゃ。学校で競鳥史でも教えるのか』

 

『あってもよかろう』

 

『ないわ』

 

 子供が二人を見比べながら、早く続きを話してくれと言わんばかりに頬を膨らませる。

 

 それに気づいた老人の一人が咳払いをすると、白砂の向こうへ視線をやった。

 

『Baは知っとるか?』

 

『Ba?』

 

『バタリア丘陵なんかにおるじゃろ。鳥みたいなやつじゃ』

 

 子供は少し考えてから、『ああ、いる!』と声を上げた。

 

『あれがどうしたの?』

 

『昔から競鳥好きの間ではな、競走鳥は一生を走り終えたあと、Baになると言われとるんじゃよ』

 

『……死んだら?』

 

 子供の声が少しだけ小さくなった。

 

『そうじゃ。走って、競って、勝ったり負けたりしながら長い一生を終えたら、今度はBaになって羽を休める。競走鳥だった頃には何度も誰かと競い合ったんじゃから、Baでいる間くらいはのんびりしたいんじゃろう、なんて昔の連中は言っとったらしい』

 

『だからBaって襲ってこないの?』

 

『こちらから手を出さん限りはな』

 

『じゃあ、本当に休んでるんだ』

 

『本当かどうかは知らん』

 

『えー』

 

 老人があまりにもあっさり答えたので、子供は露骨に不満そうな顔をした。

 

『だって確かめようがないじゃろ。Baに、お前は昔どこの競走鳥だったんじゃと聞いて答えてくれるなら話は早いが』

 

『話せないの?』

 

『わしはBaの言葉を習ったことがない』

 

『僕も』

 

『なら無理じゃな』

 

 隣の老人が吹き出し、周囲で話を聞いていた者たちからも小さな笑いが漏れた。

 

『じゃあ、ただのお話?』

 

『そうじゃな。昔から残っとる話じゃ。ただ、Baというもの自体、ずっと昔から命だとか、人を形作るものだとか、そういうものと結びつけて語られてきたらしい。だから競走鳥を愛した昔の者たちが、そこへ自分たちの好きな話を重ねたのかもしれん』

 

『ふーん……』

 

 難しい部分はよく分からなかったらしい。子供はしばらく考えていたが、ふと別の疑問にたどり着いた。

 

『でも、BaになったらずっとBaなの?』

 

『いや。競鳥場に伝わっとる話じゃ、その先がある』

 

『その先?』

 

『Baとしてしばらく休んだあと、いつかまた新しい競走鳥として生まれてくるんじゃと』

 

 子供の目が大きくなった。

 

『また走るの?』

 

『そういう話じゃ』

 

『同じ鳥になる?』

 

『知らん』

 

『同じ名前?』

 

『知らん』

 

『同じ色?』

 

『知らん』

 

『何なら知ってるの?』

 

『昔話にそこまで求めるな!』

 

 とうとう老人が声を上げ、観客席にまた笑いが起こった。

 

 子供自身も笑っていたが、しばらくすると両手を膝の上で組み、老人の話を頭の中で順番に並べ直すように指を折り始めた。

 

『競走鳥が死んだらBaになるんだよね』

 

『そういう話じゃ』

 

『それでBaが、また競走鳥になるんだよね』

 

『うむ』

 

『だったらさ』

 

 子供は両手で小さな丸を作った。

 

『Baって、競走鳥の卵みたいなものなの?』

 

 老人たちが黙った。

 

 競走鳥として走り終えたものが、Baとなって休む。だが同時に、そのBaは、まだ姿も名前も決まっていない次の競走鳥でもある。終わったものが休む場所であり、これから始まるものが出番を待つ場所でもある。

 

『……卵か』

 

『なるほどな』

 

 二人の老人が顔を見合わせる。

 

『そう言われると、案外悪くないな』

 

『じゃろ?』

 

 なぜか子供が得意そうに胸を張った。

 

『じゃあさ、バタリアにいるBaの中にも、昔すごく速かった競走鳥がいるかもしれないの?』

 

『いるかもしれんな』

 

『これからすごく速くなる競走鳥も?』

 

『それも、いるかもしれん』

 

『じゃあ、どっちなの?』

 

『分からんから面白いんじゃよ』

 

 老人は笑いながら、誰もいなくなった走路へ顎を向けた。

 

『昔ここを走った鳥なのかもしれんし、これからここを走る鳥なのかもしれん。どちらにせよ、競走鳥はBaから来て、走り終えればまたBaへ帰る。だから競走する鳥を“ば”と呼ぶようになった――なんて話も、昔から競鳥場には残っとる』

 

『それが“きょうそうば”なの?』

 

『本当の語源なんぞ、わしが生まれるずっと前のことじゃから知らん。ただ、わしはその話が好きじゃ』

 

『僕も好き』

 

 子供が即答すると、老人は満足そうに頷いた。

 

 そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた別の老人が、それまで黙っていた口を開いた。

 

『そうか。なら……TTGも、今ごろBaになっとるのかねえ』

 

 その一言に、先ほどまで話していた老人たちの顔が一斉にそちらへ向いた。

 

 だが、子供だけはきょとんとしている。

 

『……TTGってなぁに?』

 

『なにぃ!?』

『TTGを知らんのか!?』

『お前ら、この子が生まれる何年前の話だと思っとるんじゃ!』

『それでも競鳥好きなら知っておくべきじゃろ!』

『だから、いつからこの子が競鳥好きになったんじゃ』

『今日からかもしれん!』

 

 老人たちが勝手に言い争いを始めた横で、子供は『てぃーてぃーじー?』と何度か口の中で繰り返している。

 

 やがて最初の老人が、昔の友人でも紹介するように、一羽ずつその名を口にした。

 

『テンプルポイント』

 

 隣の老人が続ける。

 

『テンショウボーイ』

 

 そして少し離れていた老人が、杖を握ったまま静かに言った。

 

『グロウベルグラス。“緑の刺客”じゃ』

 

『テンプルポイントのT、テンショウボーイのT、グロウベルグラスのG。三羽まとめて、TTGと呼ばれとった』

 

『強かったの?』

 

『強かったなんてもんじゃない』

 

『一番はテンショウボーイじゃったがな』

 

『何を言っとる。テンプルポイントじゃ』

 

『お前らは昔から二羽しか見とらん。グロウベルグラスを忘れるな』

 

『また始まった……』

 

 Baの話をしていた老人が呆れた顔をする。

 

 子供はしばらく三人を眺めていたが、誰も譲る様子がないと分かると、単純な疑問をぶつけた。

 

『じゃあ、誰が一番強かったの?』

 

『テンショウボーイ』『テンプルポイント』『グロウベルグラス』

 

 三人がほとんど同時に答えた。

 

『バラバラじゃん』

 

『だから今でも揉めとるんじゃ』

『自慢するな』

 

 周囲で笑いが起こる。

 

 しかし、その笑いが静まっていくにつれて、三人の老人の表情からも少しずつ戯れの色が消えていった。

 

『まあ……誰が一番だったかはともかくな』

 

 杖を持った老人が、遠いものを見るように目を細めた。

 

『あの最後の直線だけは、今でも忘れられん』

 

『どんなだったの?』

 

 子供が尋ねる。

 

 老人はすぐには答えなかった。

 

 握っていた杖から片手を離し、競争場の手すりへ置く。皺の刻まれたその手が触れた先にあるのは、今日八羽が駆け抜けたばかりの白い走路だった。

 

 けれど、その老人が見ているのは、もう今日の走路ではなかった。

 

 話を聞いていた貴方の耳からも、今の観客たちの声が少しずつ遠のいていく。

 

 代わりに聞こえてきたのは、ずっと昔の歓声だった。

 

――――――――

 

「テンプルポイント先頭! テンプルポイント先頭だ!」

 

 最後の直線へ入っても、二羽は離れなかった。

 

 先頭を走るテンプルポイントのすぐ外に、テンショウボーイがいる。最後の曲線から続いてきた競り合いは直線へ入ってさらに激しさを増し、テンプルポイントがわずかに前へ出るたび、テンショウボーイがその差を許さぬように身体を沈めて追いすがった。

 

『ポイントォォォ!!』

 

『テンショウ! まだだ! まだいけるぞぉぉぉ!!』

 

「テンショウボーイも離れない! 再び並びかける!」

 

 一度はテンプルポイントが抜け出したように見えた。だが次の瞬間にはテンショウボーイが差を詰め、二羽の嘴がまたほとんど並ぶ。ならばとテンプルポイントがもう一度脚を伸ばし、その身体を半歩だけ前へ押し出した。

 

 それでもテンショウボーイは諦めない。

 

 もう一度。

 

 さらにもう一度。

 

 決まったと思うたびに戻ってくる。

 

 テンプルポイントが前へ出れば、テンショウボーイが追う。テンショウボーイが並べば、テンプルポイントが押し返す。互いに相手がいるからこそ最後の一歩を絞り出しているような競り合いに、観客席の視線も声も、いつしか二羽だけへ集まっていた。

 

『ポイント!』

 

『テンショウ!!』

 

『行けぇぇぇぇ!!』

 

 テンプルポイントがまたわずかに前へ出た。

 

 テンショウボーイも食らいつく。

 

 二羽の脚が同じ白砂を激しく蹴り上げ、互いの翼が巻き起こす風が直線の上でぶつかり合う。後続の姿など、もう誰も見ていなかった。

 

 誰もが、この二羽で決まると思っていた。

 

 少なくとも、最初に大外へ目を向けた誰かが声を上げるまでは。

 

『……外』

 

 その声は、歓声の中へ簡単に飲み込まれた。

 

 だが、すぐにもう一度。

 

『外を見ろ!』

 

 観客席の端から端へ、視線が連鎖するように動いた。

 

 大外。

 

 二羽からまだ離れた場所に、緑の鳥体がいた。

 

『グラスだ……』

 

 グロウベルグラス。

 

 前を行く二羽に比べれば、まだ距離はある。それでも、その差が一完歩ごとに目に見えて縮まっていた。

 

 グロウベルグラスの走りは、前を行く二羽のように激しく白砂を巻き上げるものではなかった。踏み込んだ脚が大地から受け取った反力を横へも上へも逃がさず、その鳥体の中心へ細く集め、次の一歩へそのまま送り込んでいく。身体はぶれない。進む線も変わらない。大外を選んだ緑の鳥体は、ただ一点へ照準を定めたように、まっすぐ前だけを射抜いていた。

 

 その姿を見ていると、鳥が走っているというより、一本の長い銃身から放たれた弾丸が、標的へ向かって飛んでいるようだった。

 

 巨大な何かを押し退けながら迫る砲弾ではない。

 

 狙った一点だけを撃ち抜く、細く鋭い弾丸。

 

『グロウベルグラスだ!』

 

 ようやく名前が叫ばれた。

 

『緑が来るぞぉぉぉぉ!!』

 

「大外からグロウベルグラス! グロウベルグラスが猛追する!」

 

 その声で、二羽だけだった勝負に三羽目が加わった。

 

 テンプルポイントが先頭。

 

 テンショウボーイがまだ離れない。

 

 その外から、グロウベルグラス。

 

 一完歩。

 

 また一完歩。

 

 緑の弾丸が、二羽との差を削っていく。

 

『押し切れ!押し切るんだポイントォォォ!!』

『いけっ!あと一歩だテンショウボーイ!!』

『グラス! 届くぞ!!』

 

 先頭では、テンプルポイントがまた前へ出た。

 

 テンショウボーイが食らいつく。

 

 しかし今度は、その二羽の外へ、グロウベルグラスの嘴が確実に近づいていた。

 

「三羽だ! 三羽の争いになった!」

 

 もう後ろは遠い。

 

 先頭を争う三羽だけが、他の競走鳥を大きく置き去りにしていた。

 

 テンプルポイント。

 テンショウボーイ。

 グロウベルグラス。

 

 互いに違う走りで、互いに違う場所から、同じ白い線だけを目指している。

 

 テンプルポイントが伸びる。

 

 テンショウボーイが最後の力で食らいつく。

 

 そして大外から、緑の刺客が二羽をまとめて射抜こうと、最後の一発を――。

 

 

――『それで、誰が勝ったの?』

 

 

 子供の声だった。

 

 歓声が消えた。

 

 白砂を蹴り上げていた三羽も、二羽を追って一直線に伸びていた緑の弾丸も、瞬く間に遠い昔へ帰っていった。

 

 目の前には、今日のジュノグランプリを終えたばかりの競争場がある。

 

 続きを待つ子供を見て、老人はようやく手すりから手を離した。

 

『……テンプルポイントじゃ』

 

『勝ったの?』

 

『ああ。テンプルポイントが一着。テンショウボーイが二着で、グロウベルグラスが三着じゃ』

 

 子供は少し考えたあと、不思議そうに首を傾げた。

 

『じゃあ、グロウベルグラスは負けたんだ』

 

『そうじゃな』

 

『でも、すごかったの?』

 

『すごかったとも』

 

 老人は即座に答えた。

 

『競走なんじゃから、順位はある。一着がいて、二着がいて、三着がいる。テンプルポイントが勝ったという結果まで曖昧にしたら、それはもう競走ではない。じゃがな、競走鳥が人の記憶に残る理由は、着順だけじゃないんじゃよ』

 

 隣の老人も、昔の走路を思い返すように頷いた。

 

『あの日、三羽より後ろは大きく離れとった。最後の直線では、あの三羽だけが別の場所を走っとるように見えたくらいじゃ』

 

『もともとはテンプルポイントとテンショウボーイの二羽を、TTなんて呼ぶ者も多かった。それくらい二羽の争いが注目されとったんじゃ』

 

『じゃあ、Gは?』

 

 子供が尋ねる。

 

 杖の老人が笑った。

 

『最後に飛んできた』

 

『グロウベルグラス?』

 

『そうじゃ。“緑の刺客”がな。あの二羽の勝負へ割って入って、誰もが三羽を同じ場所で見るようになった。だからわしらの記憶に残っとるのは、TTだけじゃない。TTGなんじゃ』

 

『それで、誰が一番強かったの?』

 

『テンショウボーイ』『テンプルポイント』『グロウベルグラス』

 

 また三人の声が重なった。

 

『だからバラバラじゃん!』

 

『何十年経っても決着がつかんのじゃ。名勝負なんぞ、だいたいそんなもんじゃよ』

 

 三人の老人が笑う。

 

 子供もつられて笑ったが、やがて何かを思い出したように、『あ』と声を上げた。

 

『じゃあ、その三羽も今はBaなの?』

 

 その問いには、三人ともすぐには答えなかった。

 

 テンプルポイント。

 

 テンショウボーイ。

 

 グロウベルグラス。

 

 かつて競争場を沸かせ、何十年も経った今なお、老人たちにどの鳥が一番だったのかと言い争わせている三羽。

 

 杖の老人は空を見上げ、それから穏やかな声で答えた。

 

『さてなあ。あの話が本当なら、どこかでのんびり羽を休めとるかもしれん』

 

『バタリアに?』

 

『そうかもしれん』

 

『三羽一緒に?』

 

『それは困る』

 

『なんで?』

 

『Baになってまで三羽で競走を始められたら、バタリアの冒険者が巻き込まれるじゃろ』

 

『Baは襲ってこないって言ったじゃん』

 

『襲わなくても三羽並んで全力で走られたら十分危ないわい』

 

『お前はBaに何をさせる気じゃ』

 

 また笑いが起きた。

 

『それとも、もうBaとしての休みは終わったかもしれんな』

 

 最初の老人が言った。

 

『もう?』

 

『新しい競走鳥になって、どこかを走っとるかもしれん』

 

『今日の八羽の中にいたりする?』

 

『さてな』

 

『またそれ』

 

『分からん方がいいんじゃよ』

 

 老人は、今日のレースの跡が残る白砂を眺めながら笑った。

 

『あのBaは昔どこの競走鳥だったんじゃろう。誰と走って、どんな勝負をしたんじゃろう。そう考えることもできる。それと同じように、あのBaはこれからどんな競走鳥になるんじゃろう、どんな走りを見せてくれるんじゃろうと考えることもできる。昔とこれからの間で羽を休めとると思えば、Baを見るのも少し楽しくなるじゃろ』

 

『俺、今度からバタリアのBaを殴りにくくなるな……』

 

 近くで話を聞いていた冒険者が、妙に深刻な顔で呟いた。

 

『分かる』

 

 すぐ隣から合いの手が入った。

 

『今までは、そこらを飛んでるモンスターくらいにしか思ってなかったけどな。Baが昔の名競走鳥かもしれないとか、これからどこかの競争場を走る鳥かもしれないとか聞かされたら、ちょっと考えちまう』

 

『だろ? 次にバタリアを通ったとき、こいつ昔は速かったのかな、とか考えちまいそうだ』

 

『その横のやつは、これからすごい競走鳥になるかもしれないぞ』

 

『やめろよ。ますます手を出せなくなるだろ』

 

『お前ら、今までそんなにBaを殴っとったのか』

 

 老人が呆れたように口を挟む。

 

『向こうから来ないから、用がなければ放っとくよ』

 

『俺もだ。ただまあ、冒険者やってればバタリアを走り回ることなんて珍しくないだろ。今まで何度見ても気にも留めなかった相手が、次からちょっと違って見えそうだって話さ』

 

 その言葉に、貴方も小さく頷いた。

 バタリア丘陵を歩いたことなら、貴方にもある。

 

 草原の向こうを気ままに歩くBaも、これまで何度となく目にしてきた。こちらから手を出さなければ、向こうも特に気にすることなく、ただ自分の時間を過ごしている。それを見ても、昨日までは「あそこにBaがいる」としか思わなかった。

 

 けれど次に出会ったときは。

 その鳥影を見ながら、ほんの少しだけ考えてしまうかもしれない。

 

 このBaは、昔どこかの競争場を走っていたのだろうか。

 

 それとも。

 

 いつか、まだ誰も知らない名前を与えられて、競走鳥として白砂の上を駆けるのだろうか。

 

『……まあ、俺はしばらく殴れんな』

 

 最初の冒険者が、改めて結論を出した。

 

『しばらくなのかよ』

『素材が必要になったら分からん』

『台無しじゃねぇか』

『冒険者にも生活があるんだよ!』

 

 周囲から笑いが起きた。

 

『なら、用がないときくらい放っといてやれ』

 

 老人も笑いながら言う。

 

『休んどるんじゃからな』

 

『……そうするか』

『俺もそうする』

 

 貴方も、二人の冒険者と同じ気持ちだった。

 

『単純じゃのう』

 

 競争場のあちらこちらで、ようやく人の流れが出口へ向かい始めていた。

 

 今日ここを走った八羽にも、いつか走らなくなる日は来るだろう。名前が出走表から消え、競争場へ姿を見せなくなり、今日の走りを直接知っている者の方が少なくなっていく日も、いつかは来る。

 

 それでも、走ったことまで消えるわけではない。

 

 何十年も前の最後の直線を、老人たちが今でも目の前にあるもののように語ったように、今日ここで八羽を見た誰かも、きっといつか同じことをする。

 

 大地を味方につけた赤銅の巨体がいた。

 子供たちの声を受けて走った紫の一番星がいた。

 好きな場所を好きなように駆け回る一羽と、その一羽だけを最後まで追い続けた狩人がいた。

 誰にも縛れない灰白の風がいた。

 見ているはずなのに、気づけばどこにもいない蒼い幻影がいた。

 最後まで刃を研ぎ続けた漆黒の競走鳥がいた。

 

 そして、そのすべてを盤面へ置きながら、最後には己の力で勝利へ向かった黄金の王者がいた。

 

 誰が一番強かった。

 あの日は誰が勝った。

 いや、あの一歩が違っていれば。

 あそこで風が変わらなければ。

 あの進路を選んでいたら。

 

 そんなことを何度も言いながら、きっと今日の八羽も、誰かの中で何度でも同じ走路を走る。

 

 そして、その話を聞いた子供が、まだ見たことのない次の競走鳥を想像する。

 

『ねえ』

 

 出口へ向かいかけた子供が、最後にもう一度だけ走路を振り返った。

 

『次は、どんな競走鳥が出てくるのかな』

 

『次?』

 

『うん。今日の八羽じゃなくて、まだ誰も知らない競走鳥』

 

 子供の目の前にある走路には、もう一羽の競走鳥もいない。

 けれど、その目にはきっと、何もない白砂とは違うものが見えている。

 

 まだ名前のない競走鳥。

 

 まだ誰にも知られていない走り。

 

 前へ行くのか、後ろから追うのか。風のように軽やかに走るのか、大地を踏み締めて進むのか。誰より大きな身体を持つのか、それとも鳥群の隙間へ入り込めるほど小さな鳥なのか。

 

 今はまだ誰にも分からない。

 

 もしかすると、その競走鳥はまだ生まれてすらいないのかもしれない。

 

 あるいはバタリア丘陵のどこかで、Baとして静かに羽を休めながら、自分がいつか競争場を走ることなど何も知らずにいるのかもしれない。

 

 それでも人は、その姿を見る前から次の競走を思い描く。

 昔走った競走鳥を語りながら。

 今日走った競走鳥を思い返しながら。

 そして、まだ見ぬ競走鳥が走る未来を楽しみにしながら。

 

 観客席を離れていく貴方の後ろで、係員たちが少しずつ片付けを始めていた。八羽が残した無数の足跡も、荒れた白砂も、次の競走が行われる頃には綺麗に均されているのだろう。

 

 新しい競走鳥が、新しい一歩を刻むために。

 

 前を歩いていた誰かが、名残惜しそうに競争場を振り返った。

 

『……来年のジュノグランプリも楽しみだな』

 

『ははっ、気が早いな』

 




(=゚ω゚)ノ 最後まで読んでくれてありがとうございました!
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