【完結】開幕!春の祭典、ジュノグランプリ 作:金髪ヒュムさん
柔らかに包む暖かな風、背後から迫る巨大な息吹。
賑やかな風たちとの遊戯、春風と一期一会の友のお話
セルビナスカイは、前を見ていなかった。
いや。
正確には、競走鳥を見ていなかった。
前にはマヤノアトルガンがいる。
そのすぐ傍にはマウラブライアン。
外からバストゥークグラスが迫り、サンデーサンドリアとウィンダスターオーが脚を伸ばし、その後ろには黄金の王者アルタユオペラオーがいる。
さらに後方。
いつの間にか姿を見失いかけている、蒼い水鳥。
七羽。
だがビーナスの淡い瞳に映っているものは、そのどれとも少し違っていた。
――"今日は、いろんな風がいっぱい"
楽しい。
こんな日は、滅多にない。
外側。
赤銅色の巨体が一歩を踏み込むたび、大量の空気が押し退けられ、巻き上げられた白砂ごと周囲へ吹き散らされる。
大きい。
重い。
近づけば身体まで持っていかれそうな風。
――"台風"
「外から大きな足音、バストゥークグラスだ!! グラスもきたッ! 大外から跳んできたッ!!」
実況が叫ぶ。
けれどビーナスが感じているのは、その名よりも先に頬へ届く空気の震えだった。
台風が近づいてくる。
その少し前。
漆黒の鳥体が白砂を切り裂けば、そこから生まれる風まで細く、鋭くなる。
触れれば羽毛を一枚だけ綺麗に切り取っていきそうな風。
――"かまいたち"
「サンデーサンドリア負けじと食い下がる!!」
かまいたちが走る。
その内側。
いまビーナスが最も近くで感じている風だけは、まるで違った。
「スターオーまだ伸びる!!」
『『『メテオ! がんばれぇぇ!!』』』
紫の翼が動くたび、その後ろに柔らかな流れが生まれている。
強引に引っ張るわけでもない。
押し退けるわけでもない。
春の日差しを受けた海辺を渡ってくるような、少しだけ暖かい風。
ビーナスは、その中へ身体を預けていた。
――"あったかい薫風"
脚が軽い。
呼吸も乱れない。
メテオが前へ進むほど、その背後に空気の道ができ、ビーナスはそこへ身体を置くだけでいい。
――"もうちょっと、ここにいようかな"
別に決めていたわけではない。
何ヤルムまで後ろにつく。
どこで抜け出す。
誰が動いたら仕掛ける。
そんなものを、ビーナスは数えていなかった。
まだ暖かい。
まだ気持ちいい。
だから、ここにいる。
ただそれだけだった。
先頭では、二つの風がぶつかり続けている。
一つは、くるくると形を変える。
右へ膨らんだかと思えば、次には左へ跳ね、突然前へ飛び出したかと思えば、何かを見つけたようにまた違う方向へ揺れる。
捕まえようとすれば、その瞬間にはもう別のところへいる。
――"つむじ風!"
「マヤノアトルガン先頭! マヤノ先頭! マヤノ先頭だッ!!」
そのすぐ傍。
黒い一羽が纏う風は、ほとんど広がらない。
低い。
細い。
他鳥と他鳥の間、翼と翼の間、ほんのわずかに残された場所へ入り込むような風。
――"隙間風だね"
「ブライアンも迫ってくる! 迫ってくる!」
つむじ風が逃げる。
隙間風が追う。
つむじ風が笑うように跳ねる。
隙間風がそこへ滑り込む。
そんな二つの流れを眺めているだけで、ビーナスの口元まで何となく楽しくなってくる。
そして。
もう一つ。
ずっと気になっている風があった。
小さい。
あまりにも小さい。
意識していなければ、七羽が巻き起こす風の中へ、そのまま紛れてしまいそうなほど。
――"さっきまで、あそこにあったよね?瞬きのような風だ"
蒼い鳥の風。
ティルナノーグ。
台風が吹く。
暖かい風が伸びる。
かまいたちが走る。
つむじ風と隙間風が競り合う。
そのたび。
わずかな風だけが、少しずつ場所を変えていた。
消えたわけではない。
ビーナスには、そんな気がしていた。
ほんの少し。
羽毛の先へ触れるか触れないかくらいの流れが、鳥群の中を静かに移っている。
――"あっち?"
違う。
――"こっち?"
それも少し違う。
ビーナスは首を傾けそうになったが、走っている最中なのでやめた。
――"変なの"
「一瞬たりとも気が抜けない好勝負!!」
先頭のマヤとブラン。
追うビーナス。
横一線へ近づくメテオ、サリア、グラス。
その後ろのラオー。
さらに後方のティル。
八羽の差が急速に圧縮されていく。
「アルタユオペラオーはまだ後ろ! まだ後ろだ! 進路がない!」
その声とほとんど同時に。
ビーナスの羽毛が、大きく揺れた。
今までとは違う。
後ろから押されたわけでもないのに、周囲の空気が少しずつ引かれていく。
暖かい風でもない。
台風でもない。
もっと大きい。
周囲にある風そのものを巻き込みながら、一か所へ集めていくような流れ。
――"たつまき"
黄金。
ビーナスは鳥体そのものをほとんど見ていなかったが、その風だけはずっと分かっていた。
大きな風だった。
まだ後ろにいる。
前も塞がれている。
なのに、そこにいるだけで周囲の流れが少しずつ変わる。
そして妙なことに。
そのたつまきは、先ほどから何度かビーナスの近くへ風を伸ばしてきていた。
右へ行こうかなと思えば、右側の空気が少し重くなる。
なら左かなと思った頃には、今度は左側へ黄金の流れが膨らんでくる。
――"むむ?"
ビーナスは右を見る。
風がある。
左を見る。
そちらにもある。
――"たつまき、忙しいね"
もちろん。
ラオーにそんなつもりがないわけではなかった。
前方を塞ぐ三国代表。
内側のビーナス。
その先のマヤとブラン。
王者の瞳は、開かぬ進路だけを眺めていたわけではない。
動く鳥。
動かない鳥。
次に空く場所。
そこへ誰が入るのか。
そのすべてを見ていた。
セルビナスカイも、その一羽だった。
だが。
読もうとするたび。
灰白の一羽は、ほんのわずかに予測から外れる。
外へ出るかと思えば出ない。
まだメテオの背後に残ると見れば、ふらりと身体の向きだけを変える。
進路を探しているように見えて。
次の瞬間には、まるで何も考えていなかったように元の場所へ戻る。
ラオーが見ている。
ビーナスは気づかない。
ラオーが読む。
ビーナスは読まれていることさえ知らない。
ただ。
――"こっちの風、ちょっと重くなった"
それだけだった。
「アルタユはこないのか!? アルタユはどうする?」
たつまきが、まだ後ろにいる。
ビーナスはもう一度、暖かい風へ身体を預けた。
――"こっちはまだ気持ちいい"
メテオの翼が動く。
その背後に生まれた空気が、ビーナスの胸元から腹、翼の下を抜けていく。
楽だ。
もう少し。
ほんの少し。
――"まだ、ここ"
「もう残り三百ヤルムしかありません!!」
観客席から巨大な声が降ってくる。
その声さえ風になる。
何万人もの歓声が走路へ落ち、七羽の翼がそれをかき混ぜ、白砂の上にはもう、どこから来たものなのか分からないほど多くの流れが重なっていた。
――"今日は、いろんな風がいっぱい"
楽しいな。
台風。
かまいたち。
薫風。
つむじ風。
隙間風。
わずかな瞬き。
そして。
後ろで大きく渦を巻いている、たつまき。
全部違う。
一つとして同じものがない。
そのときだった。
「ティルナノーグもまだうし……いないッ、消えたッ! どこいったぁ!?」
『消えた!?』
『どこだ!?』
観客が騒ぎ始める。
ビーナスの耳にも、その声は届いた。
――"消えた?"
羽毛の先へ意識を向ける。
たくさんの風。
その間に。
ほんの少しだけ。
かすかな流れ。
――"……いるよ?"
どこにいるのかは、分からない。
見てもいない。
ただ。
七羽の大きな風に混じって、今まで感じていた小さな流れが完全になくなったわけではない。
だから。
――"たぶん"
ビーナスはそれ以上考えなかった。
だって今は、他にも面白い風がたくさんある。
やがて。
そのわずかな風が、急に形を持った。
「内だ! 内側からティルナノーグ! マヤノアトルガンのさらに内側から伸びてくる!」
「いったいどこから抜けてきた!?」
蒼い鳥体が、マヤの内側へ現れる。
――"あ。いた"
つむじ風が動いた。
内側から現れた蒼に気づき、ほんのわずかに外へ膨らむ。
隙間風が、すぐ追いかけた。
二つの風が同時に外へ寄る。
その瞬間。
鳥群の中央。これまで幾重にも重なっていた流れの中に、細い空白が生まれた。
ビーナスにも分かった。
風が抜ける。
一本の道。
そして。たつまきが、それを見逃さなかった。
ラオーの瞳が開く。
残り百ヤルム。
『いけ……』
『いけッ、ラオーッ!!』
黄金の王者の首が落ちる。
巨大な鳥体が沈み。
その一歩が白砂へ触れた。
グォン――!
空気が変わる。
ビーナスの翼が、びくりと揺れる。
先ほどまで後方で大きく渦を巻いていただけの流れが、一気に前へ膨張し、周囲にあった風を巻き込みながら鳥群の中央へ押し寄せてくる。
――"むむ、たつまきが……"
もう一歩。黄金が近づく。さらに風が膨らむ。
――"おおきくなった!?"
ビーナスの瞳が、ぱっと開いた。
怖くはない。驚いた。
そして。
少し、嬉しい。
――"すごい"
こんな風は初めてだった。
大きい。
強い。
台風とも違う。
グラスの風は外へ押し広げる。
この風は、周囲の流れそのものを自分の中へ巻き込み、それごと前へ運んでくる。
しかも。
こちらへ来る。
――"来る来る"
ビーナスは、まだメテオの後ろにいた。
暖かい風。
気持ちのいい場所。
けれど。
たつまきが大きくなった瞬間、その風の形が変わった。
メテオの後ろへ綺麗に流れていた暖かな道へ、横から別の流れが触れる。
揺れる。
乱れる。
少しだけ冷たくなる。
――"あ"
ビーナスには分かった。
この風は。
もう、終わる。
誰かに教えられたわけではない。
何ヤルムまで利用できると計算したわけでもない。
ただ身体を包んでいた空気が、そう言っているように感じた。
――"そっか"
ほんの少しだけ名残惜しい。
気持ちよかったから。
長いこと運んでもらったから。
だから。
――"ありがと"
そして次の瞬間。
灰白の身体が、メテオの背後から外れた。
「ここでセルビナスカイ! ……スカイがきたッ、ここにきて再加速だッ! スリップストリームから抜け出した! まだ諦めていないぞぉ!」
芦毛の鳥体が、自分の風へ飛び出す。
借りていた流れがなくなった瞬間、胸元へ強い空気の壁がぶつかった。
重い。
さっきまでより脚へ負担がかかる。
それでも。
ビーナスは笑っていた。
――"今度は、自分の風"
翼を締める。
首を少し前へ。
白砂を蹴る。
脚が回るたび、自分の胸で空気を割り、翼の横から後ろへ新しい流れが生まれていく。
そのすぐ後ろでは。
たつまきも進んでいた。
「アルタユきたッ!」「届くのかッ?!」
一羽を抜く。
「アルタユきたッ!」「ここからッ?!」
さらに一羽。
「アルタユきたッ!」「本当にッッ?!」
「「あの位置から届くのかぁぁぁぁ!!」」
黄金の風が膨らむ。
前へ。さらに前へ。
ビーナスが進もうとしていた場所へ、巨大な流れが届く。
――"あれ?"
右側。
さっきまであった風が、たつまきへ引かれる。
なら。
左。
ビーナスの身体がわずかに傾く。
その瞬間。
黄金の流れも、少し形を変えた。
左側の空気まで膨らんでくる。
――"むむ"
右。
たつまき。
左。
たつまき。
前。
つむじ風と隙間風。
外には台風とかまいたち。
さらに暖かい風もまだ伸びている。
――"いっぱい"
ビーナスは困ったように。
それでも楽しそうに、ほんの少し首を傾けた。
黄金の王者は、その動きを見ている。
右へ行くのか。
左へ行くのか。
前へ割るのか。
それとも一度待つのか。
ラオーが一つの可能性を潰す。
ビーナスが別の流れへ身体を向ける。
そこも読む。
また流れを変える。
だが。
ビーナスはラオーを見ていない。
読んでいない。
黄金の王者が何を考えているのかなど、知りもしない。
ただ。
――"たつまき、またこっち来た"
それだけ。
なら。
――"こっちは?"
ひらり。
半歩。
その程度の変化。
黄金の王者から見れば、こちらの意図を察して進路を変えたようにしか見えない。
けれど。
ビーナス自身は、その一瞬前まで、自分がそちらへ行くことすら知らなかった。
空気が変わった。
だから動いた。
ただ、それだけだった。
ラオーが読む。
ビーナスが変わる。
ラオーがさらに読む。
またビーナスが変わる。
互いの位置は近づいていく。
なのに。
二羽の間には、一度として同じ読み合いが成立していなかった。
「譲らない! 譲らない! マヤノとブライアンがまったく譲らない!!」
つむじ風と隙間風。
まだ前。
台風が来る。かまいたちが伸びてくる。
薫風も諦めない。
瞬きのような風は、どこか内側を静かに進んでいる。
そして。
たつまき。
大きい。
どんどん大きくなる。
――"楽しい"
ビーナスの呼吸が弾む。
苦しい。
脚も重くなっている。
肺も熱い。
それなのに。
こんなにたくさんの風に囲まれて走ることが、どうしようもなく楽しかった。
「誰が抜ける! 誰が抜ける! 誰が抜けるんだッ!!」
ゴール板が迫る。
十ヤルム。
風が重なる。
台風が外から押す。
かまいたちが切る。
薫風が最後まで伸びる。
つむじ風が逃げる。
隙間風が追う。
瞬きが内を滑る。
そして、たつまきが、そのすべてを呑み込もうとする。
七つ。
そして。
ビーナス自身の風。
八つの流れが、同じ白い板へ殺到する。
「マヤが逃げ切るか?! ブランが差し切るか?!」
五ヤルム。
その瞬間。
ビーナスの頬から。
風が消えた。
――"あれ?"
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
七羽が生み出した風が互いにぶつかり、押し合い、巻き込み、引き合った結果、その狭間に何もない場所が生まれた。
凪。
無風。
誰の風でもない場所。
ラオーが作ったものでもない。
メテオから借りたものでもない。
グラスも、サリアも、マヤも、ブランも、ティルも。
誰のものでもない。
紫の翼が、ほんのわずかに揺れた。
黄金の覇気が、一瞬だけ紫へ向く。
ビーナスの瞳が輝いた。
――"みつけた"
たつまきがそこへ届くより早く。
台風が膨らむより早く。
かまいたちが切り込むより早く。
ビーナスの身体が動いた。
考えたわけではない。
選んだわけでもない。
風がない。
だから。
――"ここなら、僕の風がいちばん最初"
白砂を蹴った。
――"勝負だ! たつまき!"
「アルタユきたッ! グラスも伸びてくるッ! 一塊で突っ込んできたぁぁぁぁぁ!!」
灰白の翼が伸びる。
その一歩で初めて生まれた小さな風が、ビーナスの尾羽を後ろへ流す。
ゴール板。
もう目の前。
左右から七羽の風が殺到する。
それでも、そのほんの一瞬だけ。
ビーナスの前には。
誰のものでもない空があった。
――"いい風、これが今日の僕の風。いいぞ!"
自分で作ったばかりの風へ。
ビーナスは最後の一歩を預けた。
――"風は止まらないんだ! 今日も吹き抜ける!"
灰白の嘴が。
七羽より、ほんのわずか。
羽根一枚にも満たないほど前へ出る。
「大接戦だぁぁぁぁぁ―――」
―――ドゴォォォォーン!!
ゴール板の真上で、巨大な花火が爆ぜた。
赤。 青。 緑。 黄金。
色とりどりの光が白砂へ降り注ぎ、八羽の鳥体がほとんど一つの塊となってゴール線を駆け抜ける。
「……気の早い祝砲が鳴り響いたぁぁぁ!」
誰が勝ったのか。
まだ誰にも分からない。
マヤが残したようにも。
ブランが差したようにも。
内からティルが届いたようにも。
外からグラスが押し込んだようにも。
メテオも、サリアも。
そして黄金のラオーも。
誰一羽として譲らないまま、八羽すべてがゴールへ雪崩れ込んだ。
ただ。
その中で。
セルビナスカイだけが。
ゴール板を越えた瞬間に頬へ戻ってきた風を感じて、ほんの少しだけ嬉しそうに瞳を細めていた。
――"ふふっ"
後ろから。
横から。
前から。
また、たくさんの風が戻ってくる。
――"やっぱり今日は、いろんな風がいっぱい"
ゴールを越えた八羽は、すぐには止まれない。
先ほどまで勝利だけを求めて回り続けていた脚を少しずつ緩めながら、それでもしばらくは白砂の上を駆け続け、重なっていた鳥体が一羽、また一羽と離れていくにつれて、ゴール前ではあれほど激しく絡み合っていた風も、それぞれが本来の形を取り戻していった。
ビーナスは荒くなった呼吸を整えながら、ゆっくりと周囲を見回した。
いや。
やはり見ているのは、競走鳥ではない。
最初に感じたのは、すぐ近くをふらふらと流れていく、まだ落ち着く気のない風だった。
前へ行ったかと思えば少し横へ。
速度を落としたと思った次の瞬間には、また軽く跳ねる。
レースが終わったというのに、どこへ行くのか最後まで分からない。
「写真判定です! まだ勝者は分かりません! 皆さん、落ち着いて投票券はまだ捨てないでください!」
実況席から声が響いた。
途端に。
『ビーナスだ!』
『最後、灰色が出てたぞ!』
『いやラオーだ!』
『マヤが残してる!』
『グラスも来てたぞ!』
『八羽全部並んでたじゃねぇか!』
止みかけていた観客席の熱が、再び一気に膨れ上がる。
巨大な表示板にも。
――写真判定中。
白い文字が浮かんだ。
けれど。
ビーナスはほとんど見ていなかった。
勝ったのか。
負けたのか。
もちろん、気にならないわけではない。
でも。
今はまだ。
今日出会った風の方が面白かった。
――"つむじ風、おつかれさま"
黄金の翼が揺れた。
もちろんマヤには、その声は届かない。
けれどビーナスは満足そうに小さく頷くと、そのすぐ後ろへまとわりつく黒い流れへ意識を向けた。
細い。
狭いところへ入り込み。
今もなお、つむじ風の行く先を追いかけるようについていく。
――"隙間風も、おつかれさま。ずっと追いかけてたね"
黒い狩人は前だけを見たまま、歩調を緩めていく。
つむじ風が少し離れれば。
隙間風も、またそちらへ流れていった。
――"ふふっ"
やっぱり面白い。
次に。
外側から、大きな空気の塊が押し寄せた。
レース中のような凄まじい勢いはもうない。それでも巨体が一歩進むだけで周囲の空気がゆっくりと押し退けられ、白砂の上を低く、重い風が這ってくる。
――"台風"
最後まで大きかった。
最後まで重かった。
あの風が外側から押してきたから、ゴール前では他の風も何度も形を変えた。
ビーナスは少し感心したように目を丸くして。
――"どーん!って感じのすごい迫力だったね。おつかれさま"
赤銅の巨体が、どっしりと白砂を踏みしめる。
その少し向こうには。
細い風。
もう勝負中のように羽毛を切り裂きそうな鋭さはなくなっていたが、それでも漆黒の鳥体が脚を運ぶたび、周囲の空気には一本の細い線が残っていく。
――"かまいたち"
ビーナスは自分の羽毛を一度見た。
ちゃんと全部ついている。
それを確認したのかどうか。
眠たげだった瞳を少しだけ細める。
――"おつかれさま。最後、すっごく綺麗でかっこよかった!"
そして。
その風を感じたあと。
ビーナスの表情が、少しだけ柔らかくなった。
紫の翼。
その後ろに、もう先ほどまでのような強い流れはない。
スリップストリームとして形を整えていた空気は、速度が落ちるにつれてゆっくりとほどけ、白砂の上へ溶けるように消えていく。
それでも。
近づけば。
ほんの少しだけ暖かい。
――"薫風"
ビーナスは今日、長いあいだこの風に運んでもらった。
無理に脚を使わず。
焦って前へ出ず。
ただ気持ちよく、その後ろへ身体を預けていた。
最後には自分から離れたけれど。
嫌になったわけではない。
あの風が終わることが分かったから。
だから。
――"ありがと。あったかくて気持ちよかったよ"
紫の羽毛が風に揺れる。
その向こうから、子供たちの声がまだ何度も飛んできていた。
メテオ。
メテオ。
その名を呼ぶ声が競争場を渡るたび、残った暖かな空気まで嬉しそうに揺れているような気がして、ビーナスもつられるように笑った。
そして。
あと二つ。
そのうち一つは。
探さなければ、また分からなくなりそうだった。
――"瞬きは……"
右。
いない。
左。
やっぱり見えない。
少しだけ後ろ。
――"あ"
いた。
深い蒼。
何事もなかったように、他の競走鳥たちと一緒に速度を落としている。
風もある。
わずかに。
今度はもう七羽の激流へ紛れる必要がないためか、レース中よりも少しだけ分かりやすい。
けれど。
ビーナスが一度瞬きをすると。
やっぱり、どこにあるのか少し分からなくなる。
――"やっぱり瞬きだ"
不思議。
今日いちばん小さかった風。
でも。
なくなってはいなかった。
最後までずっと。
――"おつかれさま。またね"
蒼い水鳥が、その言葉を聞いたはずもないのに。
ほんの一瞬だけ。
こちらへ顔を向けたような気がした。
ビーナスはぱちりと瞬きをする。
もう前を向いている。
――"やっぱり変なの"
少し笑った。
そして。
最後に残った風へ。
ビーナスはゆっくりと首を巡らせた。
黄金。
まだそこにいる。
あれだけ巨大だったたつまきも、全力疾走を終えた今では勢いを失い、純白の飾り羽を揺らす程度の流れへ戻りつつあった。
けれど。
近くにいるだけで分かる。
他の風とは違う。
空気の方が、この鳥を避ける。
いや。
この鳥を中心に、新しい流れを作ろうとしている。
――"たつまき"
ビーナスの瞳が、少しだけ輝く。
何度も来た。
右へ行けば右へ。
左へ行けば左へ。
こちらが風を探すたびに、なぜかその先へ黄金の流れが伸びてきた。
最後には、とても大きくなった。
あんな風は初めてだった。
そして。
楽しかった。
――"強かったね"
黄金の王者が、こちらを見る。
そこで初めて。
セルビナスカイとアルタユオペラオーの視線が、はっきりと交わった。
レース中。
ラオーは何度もビーナスを見ていた。
その動きを読み。
進む先を予測し。
次に選ぶ場所を探り続けていた。
けれど。
ビーナスがラオー自身を見ることは、ほとんどなかった。
見ていたのは。
たつまきだけ。
その風がどこへ流れ。
どこを巻き込み。
どこへ届こうとしているのか。
それだけだった。
だから今になって。
ビーナスはようやく、たつまきの中心にいる黄金の一羽をまじまじと見つめる。
――"君だったんだ"
何のことだ、とでも言いたげに。
黄金の王者の瞳が、ほんのわずかに細くなった。
ビーナスは気にしない。
むしろ嬉しそうに嘴を開く。
――"最後の勝負、楽しかったよ"
そして。
少し考えて。
――"また遊ぼうね、たつまき"
黄金の飾り羽が、一度だけ大きく風に流れた。
結果を待つ時間は長かった。
観客たちにとっては。
けれどビーナスにとっては、七つの風を思い返しているだけで、いつの間にか過ぎてしまう程度の時間だった。
つむじ風。
隙間風。
台風。
かまいたち。
薫風。
瞬き。
たつまき。
一つずつ思い出す。
全部違った。
どれも同じではなかった。
その全部がぶつかって。
最後の最後。
ほんの一瞬だけ。
何もない場所が生まれた。
誰の風も存在しなかった、あの純白の空間。
そして。
そこへ最初に吹いたのは。
――"僕の風"
ビーナスは満足そうに目を細めた。
やがて。
巨大な表示板から文字が消える。
競争場を包んでいた声が、波が引くように静まっていった。
「判定が出ました!」
実況が大きく息を吸い込む。
「一着――セルビナスカイ!! 二着――」
『『『うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!』』』
二着以下は聞こえなかった。
セルビナの応援席から上がった歓声だけではない。
あれほど最後まで誰が勝ったのか分からなかった大接戦。
そこから灰白の逃げ鳥の名が告げられた瞬間、競争場全体が一斉に沸き上がり、旗が振られ、投票券が舞い、先ほどの祝砲にも負けないほどの音が白砂の上へ降ってくる。
『ビーナスだぁぁぁ!』
『最後に残したぞ!』
『あそこから勝ったのか!?』
『スカイ! セルビナスカイ!!』
自分の名前が呼ばれている。
そこでようやく、ビーナスは表示板を見上げた。
一着。
セルビナスカイ。
しばらく眺める。
それから。
――"あ。僕なんだ"
驚いたように一度だけ瞬きをして。
次には。
いつもの眠たげな瞳が、嬉しそうに弧を描いた。
勝った。
もちろん嬉しい。
最後に見つけた場所へ誰より先に入り。
自分の風を吹かせ。
あの大きなたつまきよりも、ほんの少しだけ先へ届いた。
けれど。
ビーナスが最初にしたことは、胸を張ることでも。
七羽を振り返って勝ち誇ることでもなかった。
ふわり。
競争場を、一陣の風が吹き抜けた。
レース中に八羽が作り出したどの風とも違う。
どこからともなくやってきて。
ゴールを越え。
八羽の間を通り抜け。
熱くなった羽毛を優しく撫でながら、そのまま競争場の向こうへ走り去っていく。
ビーナスは、その風を追わなかった。
ただ。
頬を撫でていった感触を嬉しそうに受け止めると。
風が去っていった先へ、そっと言葉を返した。
――"ありがとう! 今日もいい風だったね"
(=゚ω゚)ノ お待たせしました。ビーナス推しの方、おめでとうございます!
おみごと! いろんな風と遊べて、今日もご機嫌なセルビナスカイ。
きっと明日も風たちと一緒に楽しそうに走っているでしょう。