【完結】開幕!春の祭典、ジュノグランプリ   作:金髪ヒュムさん

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長い長い写真判定。審判員をうならせたひとつの結末。

振るわれた風切り音すら気づかせない、最短の軌跡。

水面に揺れる薄氷の稜線、音に潜む蒼い閃影のお話



決着編その柒 ノーグの祝杯

 

 先頭では、マヤノアトルガンとマウラブライアンが、互いに一歩たりとも譲るつもりのないまま黄金と黒の翼を並べ、残された直線を二羽だけの勝負へ塗り替えようとしていた。

 

「マヤノアトルガン先頭! マヤノ先頭! マヤノ先頭だッ!!」

 

「ブライアンも迫ってくる! 迫ってくる!」

 

 深海から獲物を狙い澄ました狩人のように低く沈んだブランが、ほんの一瞬だけマヤの前へ嘴を差し込み、その鋭い動きに観客席から悲鳴にも似た歓声が上がった。

 しかし、自由の翼を広げたマヤもまた、その程度で自分の空を明け渡すような鳥ではなく、並ばれたことさえ楽しむようにもう一度脚を伸ばして押し返していく。

 

「鋭い矢が翼を掠めたッ! ブランがかわしたか?! このまま自由を撃ち落とせるのか?!」

 

「いや、マヤノアトルガン! 一歩も引かないッ!」

 

 二羽の後ろでは、まだ六羽がほとんど脱落することなく追走しており、誰か一羽がわずかに速度を上げればその差がそのまま全体へ波のように伝わるほど、鳥群は残り少ない走路へ向かって次第に密度を増していた。

 

 その集団の中、ティルナノーグは前へ出ようとはしなかった。

 

 前へ出る必要がない、と言った方が正しい。

 

 先頭争いを続けるマヤとブラン。

 その背後で再び風を探しているビーナス。

 三国の名を背負って勝負所を待つグラス、スターオー、サリア。

 

 そして幾重もの鳥体の後ろからなお前方すべてを見渡している黄金の王者ラオーまで、ティルは自分の進路を探すより先に、七羽それぞれの脚の運びと身体の位置、その間に生まれては消えるわずかな空間を、一つずつ確かめるように見ていた。

 

 前にいる。

 横にもいる。

 近い。

 どの鳥も近い。

 

 少し前までは一羽分あった隙間さえ、今では翼を広げれば互いに触れてしまいそうなほど狭まった。

 それでも一羽として遅れることなく、ほとんど同じ速さでゴールへ向かっている。

 

 ティルの蒼い瞳が、わずかに細くなった。

 

 この状況を待っていた。

 

 散らばっていては使えない。

 

 前後の速度差が大きくても使えない。

 

 隠れる相手がいて、その相手が同じ速度で走り続け、さらに次の一羽が近くにいなければ、途中で必ず姿が露出する。

 

 だが今は違う。

 

 七羽すべてが、ティルにとって走り続ける壁になり得た。

 

「外から大きな足音、バストゥークグラスだ!! グラスもきたッ! 大外から跳んできたッ!!」

 

 最初に動いたのは、赤銅の重戦車だった。

 

 グラスの巨体が一段前へ出ようと大地を踏み抜くたび、白砂の表面だけではなく、その下にある固い地面まで揺さぶるような重い足音が走路を伝わった。

 その存在を隠すつもりなど微塵もない豪快なスパートへ、外側を見ていた観客たちの視線が一斉に引き寄せられる。

 

 ティルは、その音を聞いていた。

 

 グラスが一歩を踏み込む。

 

 太い脚が砂へ入る直前、ティルは自分の次の着地点をほんのわずかに前へずらし、赤銅の一歩が白砂を叩いた瞬間に自分の脚もほとんど同時に地面へ置いた。

 

 二羽分の着地。

 

 だが、周囲へ響いたのは一つの轟音だった。

 

 もう一歩。

 

 グラスの脚が落ちる。

 

 ティルも落とす。

 

 重なる。

 

 次も。

 

 さらに次も。

 

 ティルは自分の足音を消したのではなく、遥かに大きなグラスの足音の中へ滑り込ませ、先ほどまで確かに七羽とは別に聞こえていたはずの蒼い一羽の走行音を、赤銅の重戦車が響かせる重低音の一部へ変えていった。

 

 もちろん、それだけで姿まで消えるわけではない。

 

 だからティルは、走る速度を大きく変えないまま全身をゆっくりと沈めていった。

 

 首を下げるだけではない。

 

 非常に柔らかな背を折り畳むように丸め、翼を鳥体へ沿わせ、腹が白砂へ触れるのではないかと思えるほど重心そのものを下げていくと、先ほどまで後方からでも見えていた蒼い頭部が前を走る鳥の胴の高さへ沈み、その輪郭が少しずつ他鳥の身体の中へ重なっていく。

 

「スターオーまだ伸びる!!」

 

 次に観客席の空気をさらったのは、一番星だった。

 

『『『メテオ! がんばれぇぇ!!』』』

 

 子供たちの叫び声が競争場を突き抜け、紫の翼がもう一度光を返した瞬間、先ほどまでグラスを追っていたいくつもの視線が今度はスターオーへ飛んだ。実況席も、三国の応援席も、前を走る競走鳥たちさえも、一番星がここからどこまで伸びるのかをほんの一瞬だけ意識した。

 

 ほんの一瞬。

 

 ティルにとっては、それで十分だった。

 

 前を走る鳥の胴へ自分の身体を完全に重ねたまま、次の着地だけをわずかに内側へ向ける。するりと、その一歩で身体は半羽分にも満たないほど内へ滑り、さらに次の一歩でも同じだけ横方向へ力を逃がす。速度を大きく落とすことなく、それまで走っていた線から静かに離れていく。

 

 誰かがティルだけを見続けていれば、おそらくその動きには気づいただろう。

 

 だが、今この瞬間にティルだけを見続けている者はいなかった。

 

 スターオーが伸びている。

 

 グラスも来ている。

 

 先頭ではマヤとブランがまだ争っている。

 

 それぞれの陣営が、それぞれの勝負へ叫び声を上げていた。

 

「サンデーサンドリア負けじと食い下がる!!」

 

 今度は漆黒の大彗星が動いた。

 

 白い脚が砂を斬り、細く研ぎ澄まされた黒い鳥体が前へ伸びると、サンドリアの観客席から大きな歓声が上がり、その声に押されるように周囲の視線がまた一つ別の方向へ流れていく。

 

 グラス。スターオー。サリア。

 

 三国代表が次々と自分の勝負へ踏み込むたび、その動きはティルに新しい影を与える。彼らが白砂へ刻む足音は自分の音を隠す新しい覆いとなり、前へ出ようとする鳥体そのものが、内側へ移動するティルを外から見えなくする壁へ変わっていった。

 

 グラスが動いた瞬間には、まだティルを見ていた者がいる。

 スターオーが伸びたあとまで、蒼い翼の端を捉えていた者もいる。

 サリアへ視線を移したとき、初めてティルを見失った者もいた。

 

 だから、この競争場のどこを探しても、ティルナノーグが「消えた瞬間」など存在しない。

 

 一羽ずつ。

 

 一人ずつ。

 

 別々の瞬間に、ただ見失っていった。

 

「一瞬たりとも気が抜けない好勝負!!」

 

 先頭のマヤとブラン。

 追うビーナス。

 横一線へ近づくメテオ、サリア、グラス。

 その後ろのラオー。

 さらに後方のティル。

 

 八羽の差が急速に圧縮されていく。

 

「アルタユオペラオーはまだ後ろ! まだ後ろだ! 進路がない!」

 

 ラオーの前には、三国の競走鳥が作る壁。

 

 内にはビーナス。外にはグラス。前にはサリアとメテオ。

 

 黄金の王者は首を振らない。無理に割り込もうともせず、前を走る翼の重なりだけを見ている。

 

「アルタユはこないのか!? アルタユはどうする?」

 

 白い飾り羽が、風の中で一度だけ大きく流れた。

 

 実況が黄金の王者へ向けられている、その間にも。

 

 ティルは動いていた。

 

 先頭の二羽は互いしか見ていない。三国代表はすでに自分たちのスパートへ入り、ビーナスは己が纏う風に意識を向け、ラオーは幾重にも重なる翼の向こうにまだ開いていない勝ち筋を探している。

 

 誰もが、自分の前にある勝負へ意識を奪われていた。

 

 そしてティルは、そんな七羽の意識の狭間を縫い、一羽の陰から次の一羽の陰へと走る場所を移しながら、少しずつ、しかし確実に内ラチへ近づいていった。

 

「もう残り三百ヤルムしかありません!!」

 

 残された距離を聞いて、観客の熱がさらに一段上がる。

 

 だがその少し後、実況席が後方の競走鳥たちを確認しようと視線を戻したところで、ようやく異変が表面へ現れた。

 

「ティルナノーグもまだうし……いないッ、消えたッ! どこいったぁ!?」

 

『消えた!?』『どこだ!』『走路から出たのか!?』

 

 驚いた観客たちが一斉に外側や後方を探し始めたが、当然ながらそこにティルはいない。

 彼らが見ているのは、最後に自分がティルを見た場所だった。

 

 ある者はグラスが動き始めた付近を探し、ある者はスターオーがスパートしたときの鳥群の後方へ目を凝らし、別の者はもっと前までいたはずだと主張して違う場所を指差している。

 

 誰も間違ってはいない。

 

 そして、誰も正しくもない。

 

 そのときティル本人は、彼らが必死に探している場所よりも前、さらにずっと内側を走っていた。

 

 前を行く鳥が脚を振り上げれば、その腹の下へ身体を沈める。

 

 翼が開けば、その影へ入る。

 

 白砂が跳ねれば、さらに低くなって砂煙の向こうへ輪郭を沈める。

 

 隠れていた鳥との相対位置が変わり始めれば、次の鳥へと足音を合わせ直し、その着地音へ自分の一歩を重ねながら、外側から内側へ、内側からさらに最内へと少しずつ位置を移していく。

 

 やがて内ラチが、翼をわずかに開いただけでも羽先が触れてしまいそうな距離まで迫った。

 

 通常ならば、そこまで寄せれば次の一歩を置く場所がなくなり、ほんの少し外へ戻るしかない。

 

 だがティルは戻らなかった。

 

 代わりに全身をさらに深く畳み込み、頭の位置を内ラチの下へ潜り込ませそうなほど低くしながら、わずかに残された白砂の帯へ脚を正確に置き続けた。

 

 外から見れば、鳥体の上半分は前を走る競走鳥に隠れ、その下半分は巻き上がった砂煙に飲み込まれ、最内を走っているはずの蒼い一羽は、内ラチと鳥群の狭間にそのまま溶け込んでしまったようにしか見えない。

 

 そのままどれほど進んだのか。

 

 観客には分からない。

 

 実況にも分からない。

 

 他の競走鳥たちでさえ、それぞれが最後に確認したティルの位置を基準に探しているため、すでに実際の位置との間には何羽分ものずれが生じ始めていた。

 

 そして次に蒼い色が視界へ戻ったとき。

 

 それは、誰もが探していた場所とはまるで違うところだった。

 

 水面へ空が映ったような、淡い青。

 

 白砂の中からまず一枚の羽が浮かび、それが翼へ、首へ、競走鳥の輪郭へとつながっていくように、蒼い鳥体がマヤノアトルガンのさらに内側へ姿を現した。

 

『あのチョコボ!?……忍鳥上がりかッ!』

 

 来賓席で立ち上がった男から驚愕の声が飛ぶ。

 

「内だ! 内側からティルナノーグ! マヤノアトルガンのさらに内側から伸びてくる!」

「いったいどこから抜けてきた!?」

 

 その問いに答えられる者は、まだ誰もいない。

 

 ティルはそこで一度、深く伏せていた身体を起こした。

 

 首が戻る。

 背が戻る。

 蒼い鳥体が、再び一羽の競走鳥として輪郭を取り戻す。

 

 それでも、足音だけは七羽の激走の中へ溶けたままだった。

 

 姿を見せた。

 

 だから今度こそ、周囲の誰もがティルナノーグは「ここにいる」と認識した。

 

 マヤも気づいた。

 

 これまで存在しなかったはずの蒼い気配が、自分のさらに内側から肩を並べるように伸びてくるのを感じると、黄金の身体が反射的にほんのわずか外へ動き、それを追っていたブランも獲物を逃がすまいと同じ方向へ寄っていく。

 

 二羽が外へ動いた。

 

 その結果、密集した鳥群の中央に、それまでどこにも存在しなかった一本の細い進路が生まれる。

 

 そして。

 

 それを見逃す王者ではなかった。

 

 ラオーの瞳が開く。

 

 塞がれていたはずの前方に、一瞬だけ道が見えた。

 

 残り百ヤルム。

 

『いけ……』

 

 アルタユ厩舎の装束を纏った人物が手すりを掴む。

 

『いけッ、ラオーッ!!』

 

 黄金の王者の走りが変わった。

 

 堂々と上げていた首を落とし、巨大な鳥体を前へ送り出すために重心を深く沈める。純白の飾り羽が風圧を受けて後方へ流れ、その一歩が白砂へ落ちた瞬間、先ほどまで八羽分の足音に満たされていた走路へ、さらに一段重い衝撃が加わった。

 

 グォン――!

 

 白砂が円形に爆ぜる。

 

 黄金の身体が、光となって鳥群の中央へ突っ込んできた。

 

『ラオーッ!!』

『来たッ!』

『王者が来るぞぉぉぉ!!』

 

 ここまで進路を失い、後方に閉じ込められていた王者がついに動いた。その事実だけで競争場の視線が一斉に黄金へ引き寄せられ、実況席も、観客も、前を行く競走鳥たちも、あの位置から本当にすべてを飲み込めるのかと、ほんの一瞬だけラオーの追撃へ意識を奪われる。

 

 そして、その瞬間を。

 

 ティルだけが、別の意味で待っていた。

 

 せっかく一度姿を見せた蒼い鳥体が、再びゆっくりと沈んでいく。

 

 先ほどと同じように背を折り畳み、翼を身体へ沿わせ、頭を前を行く鳥の胴より低い位置まで落とすと、今度はラオーの巨大な一歩が巻き上げた白砂と、マヤとブランが競り合いながら蹴り散らす砂煙、その向こうでグラスたちが鳴らす激しい足音のすべてが、ティルの存在を包み隠す幕へ変わった。

 

 第一の消失では、まだ誰かがティルを探していた。

 

 だが二度目は違う。

 

 消えたことにすら気づかせない。

 

「ここでセルビナスカイ! ……スカイがきたッ、ここにきて再加速だッ! スリップストリームから抜け出した! まだ諦めていないぞぉ!」

 

 ビーナスが風から飛び出す。

 ラオーは中央を突く。

 グラスが外から伸びる。

 スターオーとサリアも止まらない。

 マヤとブランは先頭を譲らない。

 

 七羽がそれぞれの勝ち筋へ全力で脚を伸ばす中、そのすべてから視線を外されたティルだけが、内ラチに羽が触れそうな最短の線を、超低空のまま静かに走り続けていた。

 

 速さだけなら、ここにいる七羽の誰かを圧倒しているわけではない。

 

 力で押し退けた鳥もいない。

 

 前を塞いだ相手もいない。

 

 ティルが奪ったものは、ほんの少しずつの距離と、一瞬ずつの注意だった。

 

 他の七羽が互いの強さを警戒し、誰かが仕掛ければ誰かが反応し、一歩でも前へ出ようと競り合うたび、その裏側で空いたわずかな最短距離だけを拾い続け、誰にも進路を塞がれることなく、蒼い鳥体はゴールへ向かって滑るように進んでいく。

 

「アルタユきたッ!」「届くのかッ?!」

 

 一羽を抜く。

 

「アルタユきたッ!」「ここからッ?!」

 

 さらに一羽。

 

「アルタユきたッ!」「本当にッッ?!」

 

 実況席の二人が同時に立ち上がる。

 

「「あの位置から届くのかぁぁぁぁ!!」」

 

 競争場の熱はラオーへ、グラスへ、マヤへ、ブランへ、ビーナスへ、三国代表へと目まぐるしく移り続ける。

 

 その誰の視線にも、ティルはいない。

 

 ただ内ラチ際を舞う白砂の中で、ときおり蒼い羽根の端だけが覗き、それさえ次の瞬間には他鳥の脚と砂煙の向こうへ消えていた。

 

「譲らない! 譲らない! マヤノとブライアンがまったく譲らない!!」

「誰が抜ける! 誰が抜ける! 誰が抜けるんだッ!!」

 

 ゴール板が迫る。

 

 八羽の身体がほとんど一つに重なり、前へ伸ばされた嘴も、広がった翼も、激しく上下する脚も、巻き上がる白砂も、どこまでが誰のものなのか判別できないほど密集していく中、ティルは最後まで身体を起こさない。

 

 十ヤルム。

 

「マヤが逃げ切るか?! ブランが差し切るか?!」

 

 五ヤルム。

 

「アルタユきたッ! グラスも伸びてくるッ! 一塊で突っ込んできたぁぁぁぁぁ!!」

 

 ティルの視界の先には、白いゴール板だけが残った。

 このまま低く走り抜けても届くかもしれない。

 だが八羽の差は、そんな曖昧な勝負を許すほど開いてはいない。

 

 羽根一枚。

 

 いや、それより小さな差で勝敗が決まる。

 

 ならば最後に必要なのは、もう一歩の加速でも、他鳥を押し退ける力でもない。

 

 身体のどこを、どこまで前へ送れるか。

 

 ティルは深く伏せた姿勢を崩さないまま、最後の着地へ合わせて背から首へ通る力の向きを前方へ揃える。これまで輪郭を隠すために畳んでいた身体の先端だけを、白いゴール線へ向けて解き放った。

 

 ――"今!……御首、頂戴いたします"

 

 低く伏せた鳥体が、刃先だけを滑り込ませる。

 

 蒼い嘴が、匕首のようにゴール板を斬り裂いた。

 

「大接戦だぁぁぁぁぁ―――」

 ―――ドゴォォォォーン!!

 

 実況の絶叫を飲み込むように、ゴール板の上で巨大な花火が爆ぜた。

 

「……気の早い祝砲が鳴り響いたぁぁぁ!」

 

『誰だ!?』

『見えなかった!』

『マヤか!?』

『ブランだ!』

『ラオーじゃないのか!?』

 

 問い掛ける声に答えられる者はいなかった。

 

 先ほどまで八羽の名を叫び、それぞれの勝利を信じていた観客たちでさえ、いざゴール板を越えたその瞬間について尋ねられれば、自分が何を見たのか確信を持って答えることができなかった。

 マヤノアトルガンが最後まで先頭を守ったようにも、マウラブライアンがぎりぎりで差し切ったようにも見える。

 後方から一気に伸びてきたラオーがすべてを呑み込んだようにも、大外から赤銅の巨体を押し込んだグラスが最後の最後で前へ出たようにも見えたという。

 互いに矛盾するはずの証言ばかりが競争場のあちらこちらから飛び交っていた。

 

 その混乱をさらに覆い隠すように、ゴール板の上空では勝者を迎えるために用意されていた花火が次々と弾け、赤、青、緑、黄金と色とりどりの光が夜空の代わりに白砂の走路へ降り注ぐ。

 つい今しがた八羽が駆け抜けた場所を鮮やかに照らしていったが、その華やかさとは裏腹に、そこにいた誰一人として最も知りたいはずの答え――いったいどの嘴が最初にゴール線へ届いたのか――だけは見ることができなかった。

 

 八羽は、確かにゴール板を駆け抜けた。

 

 だが、その到達はあまりにも近かった。

 

 嘴が重なり、翼が重なり、互いの脚が蹴り上げた白砂が鳥体の輪郭を覆い、さらに外から追い込んできた鳥と内を走っていた鳥が最後の数歩でほとんど一つの塊となったため、正面から見ても横から見ても、どこまでが誰の身体で、どの嘴が誰のものなのかを瞬時に見分けられる状態ではなく、観客の目に残ったのは八羽それぞれの色と、最後の一歩へ全力を注ぎ込んだ競走鳥たちの姿が一斉にゴールへ飛び込んだという、巨大な一枚の残像だけだった。

 

「写真判定です! まだ勝者は分かりません! 皆さん、落ち着いて投票券はまだ捨てないでください!」

 

 実況席から判定を待つよう告げる声が響いた瞬間、競争場を包んでいた歓声は一度途切れたかと思うと、今度は勝者を断定しようとする無数の声へ姿を変えた。ある者は自分が見たマヤの嘴が一番前だったと主張し、ある者はブランの方が確実に出ていたと言い張る。また別の者は最後に飛び込んできたラオーの勢いなら間違いなく差し切っているはずだと、まだ何一つ確定していないゴールの続きを言葉の上で争い始めた。

 

『また写真か!』

『誰が出た!?』

『マヤだろ! 残してる!』

『いやブランだ!』

『最後のラオー見ただろ!?』

『グラスだって並んでたぞ!』

『ティルは!?』

『内にいたぞ! 最後に蒼いのが見えた!』

『いたのは見えた! でもいつそこまで来たんだ!?』

『マヤの内に出たあと、また見失ったぞ!』

 

 そこでようやく、別の疑問が浮かんだ。

 誰が勝ったのか、という問いとは少し違う。

 ティルナノーグは、いったいどこにいたのか。

 

 途中で一度その姿を見失い、マヤノアトルガンの内側から突然現れたところまでは、誰もが驚きとともに覚えている。

 

 ところがその後、ラオーが中央へ飛び込み、ビーナスがスリップストリームから抜け出し、グラスやサリアやスターオーまで一斉にゴールへ殺到してから先のこととなると、不思議なほど記憶が曖昧だった。

 

『ティル、途中でまた見えなくなってなかったか?』

『いや、いたぞ。マヤの内に』

『それはその前だろ』

『じゃあゴールでは?』

『……どこだ?』

 

 見ていたはずなのに、答えられない。

 

 一度目に消えたときには実況が叫び、観客も必死に姿を探した。

 

 だが二度目は違った。

 

 ラオーが動いた。

 ビーナスが出た。

 三国代表が伸びた。

 マヤとブランが譲らなかった。

 

 次々と起こる勝負に視線を奪われているうちに、ティルナノーグという一羽だけが、いつの間にか観客たちの記憶から抜け落ちていた。

 

 そして。

 

 その問いに答えられる者がいないまま、走路の先では八羽の競走鳥がようやく速度を落とし始めていた。

 

 全力疾走から急に止まることなどできるはずもなく、ゴールを越えたあともしばらくは惰性に任せるように白砂を蹴り続けていた鳥たちは、次第に脚の回転を落とし、互いの距離を取りながら、それぞれ荒い呼吸とともに熱を帯びた身体を落ち着かせていく。

 

 その中で。

 

 ティルナノーグもようやく身体を起こした。

 

 ゴール直前まで白砂へ吸い付くように沈め続けていた背が、ゆっくりと本来の高さへ戻り、身体へ沿わせていた翼を一度だけ大きく開いて熱を逃がすように風を受けると、極端な低姿勢を長く保った反動なのか、首を軽く左右へ振ってから、深く、長く息を吐いた。

 

 さすがに疲れている。

 

 呼吸は荒い。

 

 脚にもはっきりと重さが残っている。

 

 何より、普段の競走では使わないほど身体を深く沈めたまま、ほとんど余裕のない内ラチ沿いを長く走り続けた負担は小さくなく、最後の一歩へ力を通した脚には、いまになって鈍い疲労がじわじわと押し寄せていた。

 

 それでも。

 

 ティルの瞳に浮かんでいたものは、写真判定の結果を待つ他の競走鳥たちとは、ほんの少し違っていた。

 

 勝ったか。

 

 負けたか。

 

 もちろん、それも気にならないわけではない。

 

 だがティルが頭の中で確かめていたのは、ゴール線の向こうにある着順ではなく、そこへ至るまでに自分が何を行い、何が成功し、何がまだ足りなかったのかという、一つ前の時間だった。

 

 最初に使ったのは、グラスの足音。

 

 赤銅の巨体が白砂を踏み抜くたびに響く轟音へ自分の着地を重ね、二羽分あったはずの足音を一つへ溶かした。

 

 その直後、スターオーが伸びた。

 

 子供たちの声援が一番星へ集まり、競争場の視線が紫の翼を追った一瞬を使って、自分は前を走る鳥の陰へ身体を重ねながら内へ寄った。

 

 サリアが動けば、また視線が流れた。

 

 その間にも身体を沈め、鳥体の陰と砂煙を渡り歩き、一羽の後ろから次の一羽の後ろへと位置を変え続けた結果、観客も実況も、そして競走鳥たち自身でさえ、それぞれ違う瞬間にティルを見失った。

 

 あの最初の潜入。

 

 足音。

 鳥体の陰。

 わずかな横移動。

 内ラチへ近づくために選び続けた一歩。

 

 そして。

 

 一度姿を現したマヤの内側。

 そこまでなら、ほぼ狙い通りだった。

 だが本当に確かめたかったのは、そのあと。

 

 ティルが一度姿を見せたことで、マヤがわずかに外へ寄り、それを追うようにブランも動いた。その結果、鳥群の中央にほんの一瞬だけ生まれた進路へ、あの黄金の王者が迷うことなく踏み込んだ。

 

 ラオーが動いた瞬間。

 

 競争場のすべてが黄金を見る。

 

 観客も。

 実況も。

 前を行く六羽も。

 

 あれほど目立つ存在が、あれほど派手に勝負へ入れば、誰も見ないはずがない。

 

 ならば。

 

 そのすぐ隣にいる自分を、見る者はいなくなる。

 

 ティルはそこでもう一度身体を沈めた。

 一度目より深く。

 一度目より静かに。

 

 そして今度は、「消えた」と叫ばせることさえなく。

 

 ラオーが巻き上げた砂煙へ入り、七羽が鳴らす足音へ自分の音を混ぜ、内ラチぎりぎりの最短距離へ身体を滑り込ませたまま、最後まで姿勢を起こすことなく走り切った。

 

 思い返せば、危ういところはいくつもある。

 

 グラスとの着地は、まだ完全には揃っていない。

 鳥体を壁として使う瞬間にも、あとわずかに自然な入り方ができたはずだ。

 内へ寄る際の横移動も、もっと小さな動きで済ませられる。

 姿勢を沈める速度も。

 次の壁へ移るタイミングも。

 砂煙へ身体を重ねる位置も。

 

 そして、あの極端な低姿勢を維持したまま、最後まで速度を落とさず走り切るための身体の使い方も。

 

 試したからこそ見えた粗がある。

 

 成功したからこそ、次に直すべきところが分かる。

 

 完璧ではない。

 

 完成とも、まだ言い切れない。

 

 だが。

 

 マヤがいた。

 ブランがいた。

 グラスがいた。

 スターオーがいた。

 サリアがいた。

 ビーナスがいた。

 

 そして、ラオーがいた。

 

 これほどの競走鳥たちが互いに一歩も譲らず、最後の最後まで密集したまま全力でゴールを目指す、他ではそう簡単に再現できないほど苛烈な状況の中で、それでも自分のやり方は最後まで通った。

 

 七羽の強さが壁になった。

 七羽の足音が音を隠した。

 七羽が巻き上げた砂が姿を覆った。

 七羽が互いを警戒して動くたびに、誰も見ていない一瞬が生まれた。

 もし誰か一羽でも大きく遅れていれば。

 もし誰か一羽だけが飛び抜けて速ければ。

 

 隠れるための壁は途中で途切れ、足音を重ねる相手も、次へ渡る影も失っていただろう。

 

 つまり、今日の相手がこの七羽だったからこそ。

 

 あの走りは、最後まで成立した。

 

 ティルはまだ荒い呼吸を整えながら、少しだけ後ろを振り返った。

 

 ゴール板。

 

 そこへ殺到した七羽。

 

 そして、いまなお結果を待ちながら騒ぎ続けている観客たち。

 

 その光景を眺めているうちに、鋭く細められていた蒼い瞳がほんの少しだけ柔らかくなる。

 

 ――"よい戦場でした……ひとまずの完成を迎えられそうですね"

 

 忍びとして覚えた技。

 姿を隠すため。

 気配を消すため。

 敵の目を欺き、見つからないまま目的の場所へ辿り着くために磨いてきたもの。

 

 それを競走鳥として走るための技へ変えようと試し続けてきたティルにとって、このジュノグランプリは勝敗だけでは語れないほど多くの答えを与えてくれた。

 

 もちろん。

 

 その答えを得たからといって。

 

 写真判定で負けていれば、別の問題が残るわけで。

 

 ティルはそこで初めて、巨大な表示板に浮かんだまま変わらない文字へ目を向けた。

 

 ――写真判定中。

 

 しばらく眺める。

 

 まだ変わらない。

 

 もう少し待つ。

 

 やはり変わらない。

 

 先ほどまで新しい走りの手応えを真剣に確かめていた蒼い競走鳥の表情から、少しずつ緊張とは違う何かが抜けていき。

 

 やがて。

 

 ティルは大きく息を吐いた。

 

 ――"ふ~、ハラキリは免れそうです~。ヨカッタ~♪"

 

 そのあまりにも本人らしい感想を聞ける者は、もちろん誰もいない。

 

 観客たちはまだ勝者を予想している。

 

 各陣営は表示板から目を離さない。

 

 実況席では、これまでの直線を振り返りながら判定結果が届くのを待っている。

 

 そして。

 

 当のティルが、写真判定の結果よりも自分の新しい走りの手応えを先に確かめ、ひとまず満足そうにしていた、その頃。

 

 競争場の奥。

 

 歓声も。

 応援も。

 誰が人気だったかも。

 誰が勝ってほしいという願いも届かない場所で。

 

 一枚の写真を前にした者たちが、まだ誰も知らないもう一つの問題に気づいていた。

 

 八羽の着順を決める以前に。

 

 まず。

 

 八羽目を、見つけなければならない。

 

 写真判定室では。

 

 レースが終わってなお、ティルナノーグを探すための別の戦いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 ――――――――

 

 

「……待て」

 

 ゴール写真を見つめていた判定員の一人が、呟いた。

 

 八羽がほとんど一つの塊となってゴール線へ飛び込んだ瞬間を映し出す巨大な写真を前に、先ほどまでそれぞれの嘴の先端を追っていた判定員の一人が、不意に何かを見失った者のように眉を寄せて指を止めた。その声に気づいた周囲の者たちも手元の記録から顔を上げ、競争場を揺らす歓声が厚い壁を通して遠い地鳴りのように響いてくる室内で、誰もが彼の視線の先へ目を向けた。

 

「どうした?」

 

「……ティルナノーグは、どれだ?」

 

 一瞬、質問の意味を理解できなかったのか、隣にいた判定員は怪訝そうな顔をしたものの、すぐに「最内だろう」と当然のように写真の内ラチ側へ目を移したが、そこにあるはずの蒼い鳥体を探そうとした視線は、伸びきった首、重なった翼、前へ投げ出された脚、八羽が同時に蹴り上げた白砂の向こうで行き場を失い、やがて先ほど質問した男とほとんど同じ場所で止まった。

 

「最内の……どれだ?」

 

 八羽がいることは分かっている。

 

 ゴール直前の記録にも、蒼い羽根らしきものや、脚らしきものは断片的に残っている。だが、それらが一羽のティルナノーグとしてどうつながっているのかが分からない。

 

 マヤノアトルガンの内側へ姿を現したことまでは実況にも記録にも残っている以上、このゴール写真のどこかにも必ずいるはずなのに、最も内側だけは蒼い断片が幾つも覗いているだけで、一羽の競走鳥としての輪郭をどうしても結ぶことができなかった。

「この蒼い部分ではないか?」

 

 一人が、マヤの腹の下からわずかに覗いている羽根を指したが、別の者は写真へ顔を近づけたまま首を横に振り、その羽根の根元から伸びているはずの翼の角度と、一つ手前の映像に残された鳥体の位置を照合する。これはティルのものではなく前を横切った別の鳥の翼が重なって蒼く見えているだけだと指摘し、ではこちらはどうだと今度は砂煙の向こうから突き出した細い嘴らしきものを示されても、嘴から首、首から胴体へと続くはずの線が途中で完全に途切れているため、それだけを根拠に着順を決めるわけにはいかなかった。

 

「ゴール写真だけでは追えん。少し戻してくれ」

 

 操作卓の上で指が動き、ゴールへ飛び込むほんのわずか前の映像が表示されたが、そこに答えはなかった。

 

 八羽の鳥体はすでに激しく重なり合い、翼の隙間から覗く蒼い羽毛らしきものはあっても、それがどの身体から伸びたものなのかを断定できず、さらに数枚時間を遡っても状況はほとんど変わらないどころか、ある映像では砂煙の中に蒼い羽根が見え、別の映像では内ラチ際に脚らしきものが残り、その次ではそのどちらも他鳥の陰へ消えているという具合に、一羽の競走鳥として追おうとするたびに輪郭だけが指の間から抜け落ちていった。

 

「もっと前だ」

 

 さらに戻す。

 

「まだだ。全身が確認できるところまで戻せ」

 

 ゴールから時間が離れていくにつれて、八羽の密集は少しずつほどけていった。

 

 だが、それでもティルナノーグは見つからない。

 

 いや。

 

 蒼い色なら、何度も見つかる。

 

 鳥体の腹の下。

 

 翼の向こう。

 

 巻き上げられた白砂の隙間。

 

 見る角度を変えるたび、いる場所さえ違って見える。

 

 誰かが一枚を止めようとすると、その隣にいた判定員が首を振り、そこでは身体まで追えない、もう一つ前だと映像を戻させる。

 

 そうして何度目かの巻き戻しを繰り返したとき。

 

「止めろ」

 

 今度の声は、それまでより強かった。

 

 映像の中央。

 

 マヤノアトルガンのさらに内側。

 

 そこに、ようやく誰の目にも疑いようのない蒼い鳥体があった。

 

 首。

 

 背。

 

 翼。

 

 白砂を蹴る二本の脚。

 

 他鳥の影でもなければ、砂煙の向こうへ覗いた羽根の断片でもない。

 

 一羽の競走鳥として輪郭のすべてを確認できる、ティルナノーグだった。

 

「ここだな」

「ああ。少なくとも、ここまでは間違いない」

 

 判定員の一人が、そこでようやくゴール写真から目を離した。

 

「なら、ここから追う」

 

 今までとは逆だった。

 

 ゴールから過去へ遡ってティルを探すのではない。

 

 確実にティルナノーグだと断定できる一羽を基準に置き、その鳥がゴールまでの残された距離をどう進んだのか、時間を前へ送りながら一枚ずつ追跡する。

 

 一枚進む。

 

 マヤの内側。

 

 まだいる。

 

 次。

 

 マヤがわずかに外へ動き、それを追うようにブランも外へ寄り、鳥群の中央に細い進路が生まれる。

 次。

 

 黄金の王者がその道を捉えた。

 

「ラオーが動くぞ」

 

 映像の中でアルタユオペラオーが身体を沈め、鳥群の中央へ飛び込もうとする。

 

 その大きな動きのすぐ傍で。

 

 ティルにも変化があった。

 

「……低いな」

 

「さっきより沈んでいる」

 

 もう一枚。

 

 さらに低い。

 

 脚の運びには乱れがない。

 

 転びかけたわけでも、速度を失って崩れたわけでもなく、明らかに自分から身体を白砂へ近づけている。

 

 次の一枚では、頭部が他鳥の胴の高さより下へ沈んだ。

 

 その次では背中の一部が翼に隠れる。

 

 さらに次では、ラオーが蹴り上げた白砂と、先頭を争う鳥たちの脚が重なり、先ほどまで確かに一羽として見えていた蒼い身体が、突然いくつもの断片へ分かれた。

 

「止めろ」

 

 映像が止まる。

 

「ティルは?」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 つい一枚前までそこにいた。

 

 にもかかわらず、今の一枚では翼の端らしき蒼が見えるだけで、首から胴へ、胴から脚へという一羽の輪郭が続かない。

 

「戻せ」

 

 戻す。

 

 いる。

 

「進めろ」

 

 進める。

 

 いない。

 

「もう一度」

 

 戻す。

 

 確かにティルナノーグ。

 

 進める。

 

 やはり鳥体としては捉えられない。

 

 だが、今度は先ほどまでとは違った。

 

 彼らには基準点がある。

 

 どこから来たのか分からない蒼を探しているのではなく、一枚前まで確実にそこにいた一羽が、次の瞬間にどこへ進めるのかを調べればいい。

 

「別角度を出せ」

 

 正面。

 

 側面。

 

 高所。

 

 同じ時間を切り取った映像が並べられる。

 

 正面から見ると、前を走る鳥の腹の下に蒼い羽根が覗いている。

 

 側面からは、白砂の向こうに脚の一部が見える。

 

 高所から確認すれば、その位置は一枚前よりもわずかに内ラチ側へ寄っている。

 

「……いるぞ」

 

「どこだ?」

 

「ここだ。この羽根と、この脚。別々に見えるが位置が合う」

 

 次の一枚。

 

 蒼い羽根は消える。

 

 代わりに、別の鳥の翼の下から脚先だけが現れる。

 

 さらに次。

 

 今度はその脚も砂煙へ隠れるが、内ラチ際にほんのわずかな蒼が残っている。

 

 一つの映像だけを見れば、どれもティルナノーグだと断言できるものではなかった。

 

 だが。

 

 時間を前へ送り。

 

 正面、側面、高所から同じ場所を確かめ。

 

 内ラチとの距離と、前後を走る競走鳥との位置関係を一つずつ照合していくと、ばらばらだった痕跡は途切れることなく次の痕跡へつながっていった。

 

 蒼い羽根。

 

 脚の先。

 

 砂煙の中の影。

 

 翼の下に覗く背。

 

 そして、内ラチぎりぎりを前へ進み続ける位置。

 

「……つながっている」

 

 誰かがそう呟いた。

 

 ティルナノーグが消えた一点など、どこにもなかった。

 

 ラオーが動いた瞬間に身体を深く沈め、そのまま他鳥の翼と白砂の陰へ潜り込んだことで、一枚ごとの映像からは一羽の鳥として輪郭を結べなくなっていただけで、複数の角度と時間を重ねて追えば、その位置は少しずつ内へ移りながら、やがて内ラチ際の最短距離へ入り、そこからゴールへ向けて途切れることなく続いている。

 

「では……ゴールまで追えるか?」

 

「やってみよう」

 

 さらに映像を進める。

 

 ラオーが前へ出る。

 

 ビーナスがスリップストリームから飛び出す。

 

 三国代表が伸びる。

 

 マヤとブランが先頭を争う。

 

 鳥群はゴールへ近づくほど再び一つの塊となり、ティルの全身が一枚の映像に収まることは最後までなかったが、それでも今度は誰もその蒼い断片を見失わなかった。

 

 一枚。

 

 また一枚。

 

 内ラチ際。

 

 位置は続いている。

 

 そして。

 

 ゴール写真。

 

「……ここか」

 

 最初の一枚へ戻ってきた。

 

 先ほどまでは意味の分からない色の断片にしか見えなかったものが、今度はまるで違って見えた。

 

 内ラチぎりぎり。

 

 他の競走鳥よりはるかに低い場所。

 

 白砂と翼と脚が幾重にも重なった、その最奥。

 

 鳥体そのものは、ほとんど見えない。

 

 しかし。

 

 そこまで一枚ずつ追ってきた者たちには、その先端がどの一羽につながっているのか、もう分かっていた。

 

「拡大を」

 

 映像が大きくなる。

 

 蒼い線。

 

 さらに大きく。

 

 砂の粒と羽毛の重なりの中から、細く鋭い輪郭が浮かび上がる。

 

 嘴だった。

 

 根元は白砂と他鳥の身体へ隠れ、首も胴体も一枚の写真では追うことができない。

 

 まるで一羽の競走鳥がゴールへ飛び込んだのではなく、白砂の底から刃先だけが滑り込んできたかのように。

 

 蒼い嘴だけが、ゴール線へ向けて伸びている。

 

「身体の位置と一致するか?」

「一致する。ここまで追ってきた軌跡の先だ」

「別角度では?」

「同じ位置だ。嘴の先端しか残っていないが、矛盾はない」

「羽根の色だけで判断していないな?」

「違う。内ラチからの距離、直前の脚の位置、移動量、全部つながっている」

 

 それでも、最後の確認は省かなかった。

 

 マヤの内側へ姿を現し、誰の目にも一羽の競走鳥として確認できたティルナノーグを基準点に、ラオーが仕掛けた瞬間に身体を沈め、他鳥の陰へ入り、砂煙の中を内へ進み、内ラチ際へ到達してからゴールまで走り続けた軌跡を、正面、側面、高所、それぞれの映像でもう一度最初から照合していく。

 

 どこにも飛んだ場所はない。

 どこにも消えた場所はない。

 見えなくなった瞬間は、いくつもある。

 

 だが、そのすべての前後に残された痕跡は、一つの軌跡としてつながっている。

 

 長い確認の末。

 

 一人の判定員がようやく背もたれへ身体を預け、張り詰めていた息をゆっくりと吐いた。

 

「……間違いない。ティルナノーグだ」

 

 しかし、ティルを見つけただけでは着順は決まらない。

 

 今度は、ようやく正体を突き止めたその蒼い嘴の先端を基準に、マヤ、ブラン、グラス、メテオ、サリア、ビーナス、ラオー、それぞれの嘴の最前部を一本ずつ確定し、角度による見え方の差を別映像で補正しながらゴール線との位置関係を比較していく作業が始まった。

 八羽の差は肉眼なら同着としか思えないほど小さく、倍率を上げれば上げるほど羽毛の一本、砂の一粒さえ判定を邪魔するため、室内には再び先ほどとは別種の長い沈黙が降りた。

 

「マヤより……前」

 

「ブランも越えている」

 

「グラスは?」

 

「届いていない」

 

「ラオー」

 

「……わずかに後ろだ」

 

 最後に八羽の先端を示す線だけが写真の上へ残され、それらがほとんど一本に重なって見えるほどの僅差を前に、判定員たちは誰一人として口を開かず、拡大率を変え、角度を変え、また元へ戻し、それでも結果が変わらないことを確認してから、ようやく最も内側、最も低い位置から伸びた蒼い線へ視線を止めた。

 

 低く伏せた身体から最後の一瞬だけ滑り込ませた嘴は、七羽のどれよりもほんのわずか――羽根一枚にも満たないほどの差で先へ出ており、レース中には誰も、その一差しが七羽より先へ届いたと見極めることはできなかったというのに、歓声も思惑も何も映さない無機質な写真だけが、白砂の中に隠されていた蒼い匕首の先端が最初にゴール線を斬ったことを、冷徹なほど明瞭に記録していた。

 

「……一着」

 

 長い時間をかけてようやくその言葉を口にした判定員は、もう一度だけ写真へ目を落とし、七羽の間をすり抜け、誰にも全身を捉えさせないまま最後の刃先だけを残した蒼い競走鳥を確かめてから、静かに続けた。

 

「ティルナノーグ」

 

 誰も歓声を上げなかった。

 

 判定室で求められているのは喜びでも驚きでもなく、起きた事実を間違いなく記録へ変えることだけなのだから、確認を終えた者たちはそれぞれ小さく頷き、着順を書き込み、正式な結果を競争場へ送るための手続きを進めていった。

 

 

 

 

 ――――――――

 

 巨大な表示板には、判定室から正式な結果が届くその瞬間まで、ただ一つの文字が変わることなく浮かび続けていた。

 

 ――写真判定中。

 

 観客は待っていた。

 

 先ほどまで喉が潰れるほど叫び続けていた者も、握り締めた投票券を開いてはまた閉じる者も、自分の応援していた鳥が絶対に前だったと隣の客へ何度も主張する者も、結局は誰一人として答えを持っていない以上、最後には巨大な表示板を見上げるしかなく、八羽の陣営も、実況席も、そして走路の先で息を整えている競走鳥たちも、それぞれの場所で同じ結果が示されるのを待ち続けていた。

 

 それにしても。

 

 長い。

 

 先ほどまでの数百ヤルムが一瞬で過ぎ去ったように感じられたのとは正反対に、レースが終わってからの時間だけが妙に引き延ばされ、誰かが「もう出るだろう」と言えば出ず、「今度こそ」と声が上がっても変わらず、白い文字は頑固なほど同じ場所へ居座り続けている。

 

『まだか!?』

『何を確認してるんだ!?』

『あれだけ並んだんだぞ、時間かかるに決まってるだろ!』

『それにしたって長いぞ!』

『早くしてくれぇぇ!』

 

 もちろん彼らは知らない。

 

 判定員たちが八羽の嘴を比較する以前に、まず八羽目の競走鳥を写真の中から探し出し、途中で何度も姿を失いながら、蒼い羽根の断片と脚の位置と内ラチからの距離を一枚ずつ拾い集めて、その走行軌跡を最初から復元する羽目になっていたことなど、知るはずもない。

 

 そして。

 

 その騒ぎの原因となった当のティルナノーグはといえば、そんなことは露ほども知らず、先ほどまで真剣に自分の走りを振り返っていたのが嘘のような顔で、時折表示板を眺めては首を傾げながら、結果が出るのを妙にのんびりと待っていた。

 

 やがて。

 

 長く競争場を焦らし続けていた白い文字が、不意に消えた。

 

『――!』

 

 最初に気づいた誰かの息を呑む音が、周囲へ伝わる。

 

 あれほど騒がしかった観客席から少しずつ声が消え、巨大な波が沖へ引いていくようにざわめきが静まっていくと、実況席でも判定結果を受け取ったらしく、拡声器の向こうから大きく息を吸い込む音が競争場全体へ響いた。

 

『判定だ!判定が出たぞ!!』

 

 数万人が待っていた一言。

 

 その直後。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 ジュノ競争場が静まり返った。

 

「一着――ティルナノーグ!! 二着――」

 

『『『うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!』』』

 

 二着以下の発表は、完全に吹き飛んだ。

 

 競争場全体が爆発したような歓声が実況を飲み込み、つい先ほどまでマヤだ、ブランだ、ラオーだ、グラスだと言い争っていた者たちまで、一斉に蒼い勝者の名を叫び始める。

 

『ティルだぁぁぁ!!』

『蒼いのが勝ったぞ!!』

『ティルナノーグ!』

『あいつかよ!?』

『最後どこ走ってたんだよ!?』

『写真にいたのか!?』

『いたから一着なんだろ!』

『だからどこにいたんだよ!!』

 

 もっともな疑問だった。

 

 実況席でも、判定結果を伝えながら先ほどまでの映像を必死に思い返しているらしく、ティルが途中で一度姿を消し、マヤの内側から現れたところまでは分かるものの、それから先の記憶となると、どうにも黄金の王者の猛追と八羽が一塊になったゴールばかりが強く残っている。

 

 だが、写真は嘘をつかなかった。

 

 誰もその瞬間をはっきり見ていなかったとしても。

 

 ティルナノーグは確かにそこを走り。

 七羽の間を抜け。

 白砂の底から蒼い匕首を滑り込ませ。

 最初にゴール線を斬った。

 

 ならば。

 

 勝者はティルナノーグ。

 

 それで決着である。

 

 ――はずだった。

 

『で、ティルは!?』

 

 誰かが叫んだ。

 

 その一言で。

 

 今度は別のざわめきが広がった。

 

『……あれ?』

『どこだ?』

『ティルナノーグ!』

『勝った本人どこいった!?』

 

 観客席のあちこちで首が伸びる。

 走路を見る。

 八羽がいる辺りを見る。

 厩舎関係者が集まり始めた場所を見る。

 少し離れたところまで目を凝らす。

 

 いない。

 

 いや。

 

 正確には、いるはずなのだ。

 

 つい先ほどまで八羽一緒に速度を落としていたのだから、この短い間に競争場から消えてしまったなどということはあり得ない。

 

 ましてや。

 

 ほんの少し前には写真判定員たちが、途方もない手間をかけた末にゴール写真の中からようやくその姿を探し出し、嘴の先端まで確認したばかりである。

 

 にもかかわらず。

 

 勝者が正式に発表された途端。

 

 今度は競争場中の人間が、揃ってその勝者を探している。

 

『また消えたぞ!?』

『おいおいおい!』

『さっきもこれやっただろ!』

『勝ったんだから出てこいよ!』

『表彰どうすんだよ!』

 

 ついには実況席からまで困惑した声が漏れ始め、係員らしき者たちも周囲を見回し、先ほどまでティルがいたはずの場所を確認している。

 

 写真判定であれほど時間をかけて見つけたというのに。

 

 結果を発表した途端に、また見失った。

 

 もし判定室の者たちがこの光景を見ていれば、さすがに一言くらい文句を言いたくなったかもしれない。

 

 そんな周囲の混乱を。

 

 ティルナノーグは、少し離れたところから眺めていた。

 

 別に今度は足音を消していたわけでもない。

 身体を白砂すれすれまで沈めていたわけでもない。

 誰かの鳥体を壁にしていたわけでもなければ、砂煙へ潜り込んでいたわけでもない。

 

 ただ。

 

 皆が「勝者ティルナノーグ」を探そうとして一斉に遠くへ視線を向けた、そのほんの少し手前。

 最初から見えていた場所にいる。

 

 なのに。

 

 誰もこちらを見ない。

 

 ティルは右を見る。

 

 係員が向こうを探している。

 

 左を見る。

 

 観客が走路の奥へ目を凝らしている。

 

 実況席まで何やら慌ただしい。

 

 蒼い瞳が、ぱちりと瞬いた。

 

 それから。

 

 ゆっくりと。

 

 口元が緩んだ。

 

 何もしていない。

 

 今度は本当に、何もしていない。

 

 それなのに。

 

 また誰も気づいていない。

 

 先ほどまで「ひとまずの完成を迎えられそうですね」と真面目に自分の走りを検証していた忍鳥上がりの競走鳥にとって、この状況はどうやら少々おかしく、そして何より――見過ごすには惜しいものだったらしい。

 

 ティルは騒ぎ立てる観客にも。

 

 必死に探す係員にも。

 

 実況席にも声を掛けなかった。

 

 ただ一度だけ。

 

 楽しそうに目を細めると。

 

 その視線が、貴方のほうへと振り向いた。

 

 ――"ふふっ、隙ありってね! 応援ありがとう"

 




(=゚ω゚)ノ お待たせしました。ティル推しの方、おめでとうございます!

 おみごと! ティルナノーグの勝利でした。ノーグにいるだろうオカシラにもきっと満足してもらえる結果でしょう。

 長い長い写真判定の真相! 審判員さんたちオツカレサマデシタッ!
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