『――でも⋯どうしても頭をよぎるの。あの子が生まれてこなければ、私もっと幸せだったんじゃないかって』
じきに動かなくなる肉体と朦朧とする意識。
死へと至るわずかな猶予の中、母の言葉が脳裏に浮かんだ。
18年間一人で育ててくれた母の本音。
私はただ、傷つき見捨てられた母の助けになりたかっただけ。
痛みや苦しみをかき消すくらいの幸せで満たしたいと思っただけ。
だから必死になって、やるべきことをこなしてきた。
遊びにかまける暇なんてないほどに。
家事をこなし、バイトをして、資格を取り、ついには有名企業の内定まで勝ち取った。
これからは、やっとお母さんを幸せにできると、喜びに満ちていたーーそのはずなのに。
(ごめんなさい……ごめんなさい)
胸を満たしていたのは、消えない後悔と謝罪。
せっかく安定した収入を得られるようになって、助けになれるはずだったのに。こんなにも簡単に生を諦めてしまったことへの後悔。
そして何より――私が生まれてきてしまったことへの謝罪。
(ごめんなさい、ごめんなさい。⋯生まれてきてごめんなさい)
意識は深い闇へと沈んでいく。
暗闇の底で、私は強く願った。
どうか、来世なんて来ないで。と
もう、誰の迷惑にもなりたくない。と
私という存在すべてが、消えてなくなってほしい。と
意識が途切れるその瞬間まで、何度も、何度も願い続けた。
「――・・ー・・」
「―――・・・ーー」
周囲から響く声で、自分がまだ生きていることを悟った。
(……そっか、死ねなかったんだ)
生きることを諦めた身としては、素直に嬉しいとは思えなかった。けれど、もしかしたらお母さんともう一度話せるかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが晴れた。
光に遮られながら重い瞼を開くと、こちらを覗き込む4人の人物が見えた。知らない人たちばかりだが、誰もが母のように輝いて見えた。
「ー・・、・ー・・ー!」
「ーー・・ー・ーー」
聞いたこともない言語が交わされたかと思うと、猛烈な目眩に襲われる。次の瞬間、その声は聞き慣れた言葉へと変わっていた。
「おはよう、ノエル」
「改めて、ご出産おめでとうございます。ゼニス様」
「あうー」
ゼニスと呼ばれた女性の胸元に抱かれながら自分の手を見ると、まるで赤ん坊のように小さく、口も上手く動かせない。
(?私が⋯赤ちゃん?何で?)
意味が分からなくて頭を悩ませたけど、すぐに一つの仮説にたどり着いた。
これはきっと、夢なんだ。
現実での私は、生死を彷徨う状態で、夢を見ているに違いない。
知らない人たちの家族になっていた夢は初めてだけど。
――とりあえず、私がすべきことは決まった。
夢を見ているのなら、いつもと同じ手段で目を覚ませばいい。
「うー! んきゃ!んっきゃ!」
私は必死に体を揺さぶり、腕の中から飛び降りようとした。
体を激しく動かすと、自然と声と涙が溢れ出てくる。
本当に赤ちゃんになったような不思議な感覚。
まあ、そんなことは気にしたって意味がない。
今は早くあの窓から飛び降りて死なないと。
死んでしまえば、目は覚める。
今まで繰り返してきたことと何も変わらない。
それに、ここが仮に現実だとしても、ここには自分以外の息子がいて、メイドさんまでいる。裕福な家庭なら私がいる必要はないし、存在しているだけで迷惑がかかるかもしれない。
だから、死ぬ。
死んだら目を覚まして、またお母さんに会えるかもしれない――そんな淡い希望を抱きながら。
「わっ! この子ったら、すごく元気ね! よしよし、大丈夫よ。何も怖くないからね」
「……はっ! ここは俺の出番じゃないか!? ルディの時は披露できなかったが、今なら……! ほぉっ、ほっ! それ!」
この作戦は無理だと悟り、騒ぐのをやめて息を整える。
一休みしながら、ブンブンと音を立てる男に目をやると、
ちょうど空中に浮かぶ紙が、鮮やかな剣さばきで斬り刻まれ、紙吹雪のように綺麗に舞っていた。
(もしかして⋯あれって、本物の剣?)
おもちゃみたいな偽物の剣じゃない。
紙を切り裂いたあの鋭い刃の輝き、それはまるで研ぎ澄まされた包丁そのもの。
間違いない、あれは本物だ。
一歩間違えれば簡単に命を奪う凶器――けれど今の私にとっては、それこそが救いの光。
あれさえあれば、私は死ぬことができる!
「んぎゃ! んぎゃ!」
「お! ノエルは剣に興味があるのか! いいぞ、さすが俺の娘だ! それじゃあパパも張り切っちゃうぞ〜!」
男が振り回す剣のスピードが上がる。
いつの間にかその軌道を視線で捉えていた私は、迷わず手を伸ばした。
「あい」
「うわっと!?」
「ちょっと、あなた!危ないでしょ! この子が触れて大怪我したらどうするの!?」
「そうですよ父様! 危険すぎます!
ここは……兄である僕に任せてください!
それ〜、ベロベロばぁ〜!」
剣を持った男が「す、すまない、つい。だが今⋯」とぶつぶつと言いながら離れていく。
落ち込むくらいなら、その剣を貸してほしかったのに。
去っていく剣に向かって必死に手を伸ばす。
「んっきゃ! んきゃ!」
「あら。ノエルったら剣に夢中でルディに気づいてないみたい。ノエル、こっちがお兄ちゃんのルディよ。ほら、お手てを握ってあげて」
「……あい」
お願いをされて、跳ね上がっていた興奮が一瞬で冷めていく。
正気に戻った私は騒ぐのをやめて、差し出された小さな手を握りしめていた。
どうやら長年染み付いていた習慣は、夢の中でも健在らしい。
「わぁ⋯! すっごくモチモチでお餅みたいです!」
「ルディも赤ちゃんの時はモチモチだったのよ?今も十分ぷにぷにだけどね」
ゼニスに頬を揉まれて顔を赤くするルディと呼ばれていた少年。
照れと嬉しさが混ざった可愛らしい表情をしていた。
「で、こっちがうちのメイドのリーリャよ」
「初めまして、ノエル様」
今度はリーリャと呼ばれたメイドさんの胸の中に抱き上げられ、よしよしとあやされる。
「…あい……」
人肌の温もりが心地よくて、自然と瞼が重くなっていく。
(気持ちいい⋯)
私は、まだ目的が達成出来ていないと抵抗を見せたが、
3秒程で限界を迎えて目を閉じた。
結局、死ぬことはできなかった。
けれど――とても温かくて、穏やかな夢だったと思う。
ありがとう、夢の人達。
こんなにも優しく包んでくれて。
そしてごめんなさい、お母さん。
一度も幸せにすることが出来なくて。
どうか夢が覚めた時、『ありがとう』と『ごめんなさい』が言えたらいいな。
「……もう寝てしまったようですね」
「ええ。起きたてであんなにはしゃいだら、すぐに疲れちゃうものね。このままベッドに移動させましょうか」
ゼニスはリーリャから愛娘を受け取ると、その額に優しくキスを落とした。
「ルディもお休みのキスをしてあげて」
「えっ、あ、はい!」
ルディこと、本名ルーデウス・グレイラットは緊張で顔をこわばらせる。
なんせ、前世も含め、自分から誰かにキスをするなんて経験があるはずもなく。
ぎこちなくも、赤ん坊の柔らかい頬にそっと唇を触れさせた。
(口で触れたらこんな感触なのか。……なんかすごい。いや、別に発情してるわけじゃないよ? ただ未知の体験でビックリしただけで、他意はないよ?ホントだよ?)
雑念を振り払ったルーデウスはベッドに横たわる小さな妹を見つめる。彼女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
早く喋れるようになって「お兄ちゃん!」なんて言ってくれないだろうか。と、ルーデウスは顔を綻ばせながら、妹の頬の感触を堪能する。
触れるたびに赤ん坊は嬉しそうに微笑み、その小さな手でルーデウスの指をぎゅっと握り返してきた。
(か、可愛い⋯)
その時、ルーデウスは心に強く誓った。
お兄ちゃんとしてカッコよくあろう、と。
そして――絶対に「お兄ちゃん大好きっ子」に育ててみせる、と。
そんな微笑ましい?やり取りから、2ヶ月が経っていた。
ルーデウスは午前中に師匠のロキシーから魔術を教わり、午後は父パウロから剣術と体の鍛え方を習う。
そして夕方頃になると、父と共に妹の可愛さを堪能するといった日々を送っていた。
そんな緩やかな日々の傍らで、次女ノエル・グレイラットは異様な速度で成長していた。
生後1週間で家の中を歩き回り、言葉を理解し、拙いながらも喋るようになったのだ。
家族も、この子は天才だとノエルを褒め称えた。だが一つ問題点があった。それは、彼女の活発な「行動」にある。
彼女は、とにかく階段や二階の窓といった高所から飛び降りようとしては捕まり、大泣きを繰り返す。
何度かのリーリャやゼニスとの攻防で、「高いところはダメ」と注意されると、すんっと泣き止んで首を縦に振る。
(言葉を理解して言うことを聞くなんて……なんて賢い子なの!)とルーデウスが戦慄と感動を覚えるほどの聡明さだった。
だが、彼女はそれだけで止まることがなかった。
高所を諦めた彼女が次に執着したのは――父が使っていた剣だった。
ある日、パウロの部屋から物音がして駆けつけると、散らばった剣の山に押しつぶされているノエルの姿があった。ゼニスは治癒魔法をかけながら、大きな怪我がないことに安堵する一方、パウロは「やはり、ノエルは剣が好きみたいだな!」と嬉々として笑い、ゼニスはそんな気楽な男の尻にタイキックを見舞わせた。
2度あることは、3度あるとはよく言ったもので、
彼女が次に選んだのが包丁だった。
ゼニスが指を切って包丁を床に落とした瞬間、椅子に座るノエルは脱兎のごとく飛び出し、包丁を握りしめて、あの伝説的な某ヤンデレ妹のポーズを決めていた。(刃先の方向は逆だったが)
(ま、まさか……ヤンデレ属性なのか……!?)
と、ルーデウスは戦慄しつつも「いや、あれはあくまでフィクションだから⋯」と自身に言い聞かせて、包丁を取り上げられて泣きじゃくる妹を温かい目で見守るのだった。
この世界で誕生し、1年が経過した。
1年が経過して分かったことがある。
この世界は、現代日本とあまりにも懸離れていること。
見たことのない言語に、知らない大陸、剣と魔法など。
その非日常の連続は、ここが夢ではなく、来世なのだと突きつけていた。
それでも「ここは来世である」と頷かなかったのは、認めてしまえばお母さんには二度と会えないと私自身が理解してしまうから。だから私は、頑なにここを夢だと思い込もうとしていた。
だけど、生後5ヶ月の頃に企てた自殺未遂で、その逃避は終わりを迎えた。
深夜、暖炉で死にかけだった私を見つけ、母様は直ぐ様、治癒魔法をかけて、優しく抱き抱えた。
自分の喉と肌を焼く感覚よりも痛烈に突き刺さったのは、私を抱き抱えて泣く母様の表情だった。
夢だからと割り切り、目の前で生きている人を苦しめていた自分の愚かさに、ようやく気づかされた。
――ここが現実で、私は来世にいる。
つまり、お母さんには二度と会えない。
涙を流す母様の前で自殺を諦めた私は、それ以降、家族のお手伝いや読書、お兄ちゃん特性の粘土の積み木で遊ぶ日々を過ごしている。
今ちょうど、庭の隅の花壇で水やりをしていると、庭の中心では師匠のロキシーさんと、お兄ちゃんが地面から土の壁を生み出していた。
何度見ても驚かされる。人の手を介さず、地面から植物のように壁が生えたり、何もないところから炎や水を生み出すのだ。
便利だなーと他人事のように思いながら、恐怖もあった。
考え事をしながらぼんやり眺めていると、二人に手招きされる。
「ノエル、魔法使えるようになりたくないか?」
「その瞳のおかげか、言語の理解も早かったですし、魔術も簡単に身につけられると思いますよ」
なぜかやる気満々のお兄ちゃんと、温かい眼差しで微笑むロキシーさん。
断る理由もない私は静かに頷いた。そうして二人の手ほどきを受け、詠唱とイメージのコツを教えてもらう。
そして、次は実践。
2人の前に立って、息を整える。
「ふぅ⋯」
教えられたアドバイスを脳内に浮かべ、詠唱を唱える。
『汝の求める所に大いなる水の加護あらん、
清涼なるせせらぎの流れを今ここに』
詠唱も、イメージも完璧だった。後は魔法名を口に出すだけ。
『――ッ!?』
突如、激痛が走り、思わず目を閉じる。
まぶたの裏。暗闇の中で、いつか見た記憶の断片が写り込む。
そこには、暗闇を呑み込むほどに輝く灼熱の光が映っていた。
痛みで閉じていた目を開く。
視線の先には、先ほど見せてもらった水弾
ーーではなく、赤く燃え盛る炎だった。
火の玉は無数の火花を散らしながら、恐ろしい速度で膨れ上がり、ーー次の瞬間、昼間さえも凌駕する強烈な光と熱風、そして轟音に襲われる。
確かな熱さと、身体が宙に舞い上がるほどの衝撃とともに、私の意識は暗転した。