何度目かのあなたへ。―― All for You, 作:あいしてる
‥‥‥‥‥なにを、なにを‥‥まちがえた?
一体‥‥‥なにを、どこで‥‥‥‥
目を開けた瞬間、脳を叩き割るような激痛が走った。
「_____っ、ガ、ハッ……!」
胃の奥から込み上げる不快な酸味。
吐き気と冷や汗、そして鼓膜の奥で反響する、異次元の虚空から落ちてくるような無数の未知なる言語の囁き。
見慣れた自室の天井。窓を叩く、鬱陶しい雨の音。
覚めない悪夢の、これが「5度目」の朝だった。
私は震える指先で自分の顔を覆い、荒い息を吐き出しながら笑った。
声にならない、血の味がする歪んだ乾いた笑い。
1度目は、何も知らず、無力なまま彼___死柄木弔を失った。
2度目も、3度目も、4度目も___
やり直しの機会を得た私は、頭の中に残る「未来の記憶」という圧倒的な知識を武器に、彼の信頼を得ようとした。
影の助言者として彼の隣に立ち、盤面を支配しようとしたのだ。
USJ襲撃時のアドバイスや保須市でのヒーローの配置、果てはオールフォーワンの密かな企みまで。
すべてを事前に彼に教え、優位に立ったはずだった。歴史を知っている私が導けば、彼は悲惨な運命から逃れられるはずだったのだ。
だが___結果は、全て同じだった。
「……フフ、アハハハッ……! ダメだダメだダメだ。
あんな人型のゴミに、人間の言葉で話しかけちゃ……」
歯が折れそうなほど強く噛み締め、爪が皮膚に食い込んで掌から赤い血が滲む。
痛みすら、今の私には遠い世界の出来事のように思えた。
どれほど時間を捏ね繰り回そうと、あの
死柄木弔の孤独を癒やすためでも、彼の怒りを叶えるためでもない。
あいつにとって死柄木弔という人間は、
私が良かれと思って与えた未来の知識は、すべてオールフォーワンに吸い上げられ、奴の
死柄木の手を取り、共に歩もうとすればするほど、彼は「魔王の器」として心を壊され、最終的にはその精神ごと体を乗っ取られた。
そして最期は__器ごと奪われた彼を、
救いたかったはずの死柄木弔という人格は、あいつの欲望の犠牲になり、跡形もなく消滅したのだ。
そんなクソッタレな結末を、私はもう4回も見せつけられてきた。
「殺す……殺す‥‥‥殺す‥‥‥殺さなきゃ……根絶やしに……絶対に‥‥‥」
ベッドの上に丸まり、私は瞳孔の開ききった目で壁の一点を見つめた。
「どこを壊せばいい? あの管だらけの醜い顔面をすり潰せば死ぬ? それとも生命維持装置を全部抜いて、呼吸不全で悶え苦しませて殺す? 神野の地下に隠れているうちに、あの芋虫みたいな身体の神経系を一つずつハサミで切り刻んで、叫び声すら出せないようにして殺す……?」
爪で自分の腕をガリガリと引っ掻きながら、ブツブツと呪文のように殺害方法を呟くが、どれもこれも今の私では再現が難しい
「いや……ダメだ。ただ物理的に肉体を潰すだけじゃダメだ……あいつは死にかけても他の個体に『個性』と意識を寄生させる……。概念ごと、存在の根底から叩き潰さないと……あいつは何度でもあの子の身体を奪いに来る……」
思考の歯車がギチギチと音を立てて狂っていく。
ヒーローの「正義」も、ヴィランの「悪」も、今の私にはどうでもいいノイズでしかなかった。
「クソッ‥‥‥クソッ‥‥‥クソッ‥‥‥クソォッ!!!」
突然、私は頭を抱えて激しく叫んだ。
殺し方が足りない。時間が足りない。人間の
未来を知っているだけじゃ駄目だ。
生半可な介入は、あいつの悪意に利用されるだけだ。
なら、どうする?
どうすれば、あの怪物の張り巡らせた因果を、運命を、粉々にして殺せる?
「‥‥‥」
叩き割られるような頭痛と激高が引いていくにつれ、外界の雨音が、遠くから少しずつ耳の奥へとしみ込んでくる。
視界を覆っていた血のような赤が引き、氷のように冷徹な思考の隙間、狂気の静寂の中で、一つの仮説が脳裏に浮かび上がった。
……あくまで可能性の話だ。
だが、私をこの果てしない地獄に突き落とした「あいつ」の異常性を考えれば、十分すぎるほど筋の通る仮説。
「……あの警察官。なにか、他にも力を隠し持っているんじゃないか……?」
そうだ。
時間を巻き戻すなんていう、世界の
なら……何かあるはずだ。
あの不気味で底知れない男の懐には、あの
人間の知恵で殺せないのなら。
私は‥‥‥どんな冒涜的な化け物にでも手を伸ばしてやる。
思考が固まった途端、私の身体は勝手に動き出していた。
♢
濡れた制服のまま傘を差し、雨の降る街へと飛び出す。
向かう先は、あの男と最初に出会った喫茶店付近にある警察署だ。
だが、警察署の重厚な自動ドアの前まで来て、私はピタリと足を止めた。
泥のように重い痛みが、冷や汗と共に脳を滑り落ちていく。
(……名前……名前はなんだった……?)
心臓が不快なリズムで脈打つ。
最初のループで、確かに男は胸ポケットから警察手帳を取り出し、私に見せて自己紹介をしたはずだ。
だが、思い出せない。
度重なる回帰によって削り取られた精神と、摩耗した記憶。それに何より、当時の私にとって、怪しげな取引を持ちかけてきた警察官の個人名など、どうでもいい情報の極みだった。
名前も知らずに、どうやって呼び出す?
「時間を戻してくれた警察官を出してください」とでも受付で叫ぶのか? そんなの、狂人扱いされて追い出されるのが関の山だ。
急激に冷えていく思考と焦燥感に苛まれながら、私は自動ドアを潜り、受付のカウンター前で立ち尽くした。
「失礼します。本日のご用件はどのようなものでしょうか?」
受付の警察官が、事務的な微笑みを浮かべて私に問いかけてくる。
「あ……えっと、その……私、警察の方に……」
口の裏側が乾ききって、言葉がうまく噛み合わない。
ドモり、指先を強く握りしめて冷や汗を流す私を、受付の警官は訝しげに見つめた。
完全な詰みだ‥‥名前すら覚えていない人間に会えるわけがない。
己の失策に歯噛みし、出直そうと背を向けかけた、その時だった。
「____あら、もしかして、
不意に、受付の警官が驚いたように目を丸くして言った。
「え……?」
「やはり久遠澪さんですね。よかった、お待ちしておりましたよ。あの方から『今日、久遠という女子高生がここに来るから通すように』と、事前にアポの確認をいただいております。どうぞ、奥の応接室へご案内しますね」
「……っ」
背筋の凍り付くような感覚が、全身の毛穴を駆け抜けた。
相手は‥‥ここに来るのを知っていた。
‥‥どこまで知っている?
私が5度目のやり直しを行い、未来の知識すら奪われて絶望し、名前すら思い出せないままここへ足掻きに来ることもか?
最初から「すべて」織り込み済みだったのか?
‥‥だとするならばあいつは、私という人間が辿る軌跡を、過去も未来も等しく
息を飲む私の耳奥で、雨音に混ざって、あの未知の囁きが再び嘲笑うように小さく響いた。
案内された応接室の扉が開く。
パイプ椅子に深々と腰掛け、薄いお茶を啜っていたのは___あの男だった。
どこにでもいそうな、冴えない中年警察官の皮を被った「何か」
「やあ、久しぶりだね久遠さん。
いや‥‥
「それはそうと、ずいぶんと顔色が悪いですね」
男は警察手帳を胸ポケットから覗かせたまま、心底親切そうな、けれど一切の感情が籠もっていないガラス玉のような瞳で私を見上げて微笑んだ。
「……フッ、アハハッ」
私は漏れ出た嘲笑を隠そうともせず、男の目の前のパイプ椅子を力任せに引いて腰掛けた。
机に両肘をつき、爪が食い込むほど指を組み、開いた瞳孔で男を睨みつける。
「まずは感謝を言おうかしら‥‥こんなイカれた力をくれてどうもありがとう。」
「いえいえ、無事希望を抱けてるようでこちらとしても嬉しい限りですよ。」
心底楽しそうに、けれど完璧に調教された人形のように平坦な声で男は言った。
目の前に座るこの生き物は、人間の姿形をして、人間の言葉を喋っている。
だが、その内側に詰まっているものは人間の価値観や倫理観などとは程遠い、何かもっと歪で、冷酷で、膨大な「何か」だ。
人間の尺度で怒りや憎悪をぶつけたところで、この男には何も響かない。暖簾に腕押し、あるいは石ころが吠えている程度にしか思っていないのだろう。
だからこそ、胸の奥で煮えくり返る苛立ちをそのまま言葉の毒にして吐き出す。
「…… 改めて答え合わせをさせてほしいんだけど」
私は身を乗り出し、開いた瞳孔で男のガラス玉のような目を覗き込んだ。
「どうして私にこんな力をくれたの? 時間を巻き戻し、絶望を何度も味わわせるための趣味……ってワケじゃないでしょう?」
「言ったでしょう。興味本位ですよ、と」
男は薄いお茶を一口啜り、トントン、と机の上を指先で叩いた。
「君という固有の観測者が、この歪んだ因果の中でどう足掻くか。私はただ、その結末に興味があるだけです。……だが、君は少々『因果』というものを軽視しているようだね」
「……因果?」
「そう。この世界には、どれほど時間を巻き戻そうと決して動かない『絶対的意思』が存在する」
男は虚空を指差し、まるで黒板に図を描くように淡々と語り始めた。
「例えばの話をしよう。
今日、ある一人の人間が死ぬ運命にあったとする。君が巻き戻した過去でその人間を救ったとしよう。
……だが、世界の法則はその欠損を許さない。その日に、その人間の代わりに『別の誰か』が死ぬ運命に置き換わるだけだ。『誰かが死ぬ』という決定された結果そのものは、決して消え去ることはない」
「……何が言いたいの」
「歴史を形作っているのは、強固な個の意志……すなわち『
男の言葉が、私の脳の奥深くに冷たく染み込んでいく。
「あの『オールフォーワン』という男の【世界を支配し、絶対的な魔王として君臨する】という絶対的な意思。
そして、死柄木弔という少年が抱く【あの家に連なるすべてを崩壊させる】という絶対的な意思。……これらは、この世界の歴史の骨組みそのものだ」
「……!」
「かつての『平和の象徴』も同様だ。
彼が背負っていた象徴としての役割、そしてその引退という結末。
そういった『決定づけられた象徴の終焉』もまた、どれほど過去を捏ね繰り回そうと変えることはできない。
君がどれだけ未来の記憶という小手先の知識で干渉しようと、彼らの放つ強大な意思の奔流に呑み込まれ、結局は『辻褄が合う形』に修正されてきた……ただそれだけのことですよ」
男は親切そうに目を細め、絶望的な事実を宣告した。
「君がどれだけやり直そうと、あの男が死柄木弔を乗っ取り、魔王として完成する未来は変わらない。……君の未来知識は、その絶対的な因果を埋めるための『都合の良い道具』として回収されたに過ぎないんだよ、久遠さん」
「じゃあ……どうすれば良かったって言うのよ」
私は絞り出すような声で言った。
指先が震え、爪が机の表面をカリカリと不快な音を立てて引っ掻く。
「あのクソジジイの『絶対的意思』とやらが世界を縛ってるなら……私にどうしろって言うの!?未来の知識を使ってもダメ、介入してもダメ! 詰んでるじゃない!!」
「いいえ、方法はいくらでもありますよ」
男は事もなげに言ってみせた。
まるで「明日の献立を変える」くらいの軽いトーンで。
「簡単なことです。君がオールフォーワンの『代わり』になってしまえばいい」
「……は?」
「あるいは、彼が執着する『
「…………正気?」
思わず、乾いた呆れ声が出た。言っていることのスケールが狂っている。
無個性で、大した力もないただの女子高生に「オールフォーワンの代わりになれ」「オールマイトを殺せ」だと?
できれば苦労はしない。それができないから、私は4回も弔君が乗っ取られる地獄を指を咥えて見ていたのだ。
自分がどれほど無力なのかを、冷や水を浴びせられたように突きつけられる。
苛立ちと、虚無感と、目の前の存在に対する底知れない恐怖が混ぜこぜになって胸の奥を掻き乱した。こいつは……本当に人間の形をした『何か』でしかない。
「……アンタには、それができると?」
私は半ば投げやりに、睨みつけるように問うた。
お前なら、その狂った無理難題をやってのけられるのか、と。
男は少しだけ首を傾げ、薄い唇の端を歪めた。
「そうですね……難しいかもしれませんが……不可能ではないでしょう」
「……一体どうやって」
「例えば___この世界の
「________」
全身の血が凍りついた。
名前すら口にされなかったが、それなのに、魔導書へ触れた時と同じ悪寒が全身を駆け抜け、脳の裏側が激しく痛めつけた。
皮膚の下を無数の虫が這い回るような嫌悪感。
呼吸をすることさえ、本能が拒み始める。
理由なんて分からないが、ただ一つだけ確かなことがあった。
それだけは、この世界へ来てはいけない。
その確信だけが、理屈を置き去りにして私の心を支配していた。
彼の考え方はつまり「目的を果たすために、世界そのものを終わらせる」という発想だろう。
‥‥正直言って常軌を逸しているし、狂気の桁が全く違う。
だが‥‥‥
ゾクッ、と背筋に恐ろしいほどの熱量が駆け抜けた。
呆れと戦慄の渦中で、私の脳細胞が、ひとつの鋭利な事実に辿り着く。
(……待てよ)
こいつは今、「自分なら可能だ」と言った。
そして、世界を壊すほどの力を扱えると言った。
私は息を呑み、男のガラス玉のような目をじっと見つめ返した。
「……その口ぶりだと……
静寂が、応接室を重く満たした。
窓を叩く雨音すら、急に遠くの出来事のように遠のいていく。
空気の密度が異様なほどに増し、息を吸い込むことすら苦しくなるような、引き返せない死の匂い。
男は啜っていたカップをそっと机に置いた。
カチャン、とプラスチックが触れ合う安っぽい音が、まるで処刑台の引き金が引かれた音のように室内に響き渡る。
「……ご興味が?」
男が、にやりと笑った。
それは今まで見せていた「冴えない中年警官」の仮面を脱ぎ捨てた、底なしの虚無が顔の皮の裏から覗いたような、歪で冒涜的な笑みだった。
ガラス玉のような両瞳が、暗い歓喜に揺れている。
私という人間が、自ら進んで狂気の深淵へ足を踏み入れようとしているのを、心底楽しんでいる目だ。
「ええ、もちろんありますとも。世界の
男はゆっくりと身を乗り出し、私に語りかける。
その声は耳からではなく、脳の神経に直接、蠢く蟲のように侵入してきた。
「ただし……久遠さん。これを手にするということは、君という存在の『正気』を二度と元には戻せない形で差し出すということだ。
一度でもその知識に触れれば、君は二度と『普通の人間』として思考することはできなくなる」
脅しでも何でもない、ただの淡々とした事実の提示。
だが、その言葉の裏には「もう後戻りはできない」という不可逆の罠が仕掛けられているのが分かった。
ここで首を縦に振れば、私は確実に人間ではなくなる。
脳裏に浮かぶのは、4回のやり直しで見た光景。
オールフォーワンに心を壊され、精神ごと体を乗っ取られ、最後はヒーローたちに惨めになぎ払われた死柄木弔の、絶望に満ちた姿。
(……ハッ、今更居るか。そんなの)
そんなもの、1度目の朝に彼を失った瞬間から、とうに捨て去っている。
私は震える拳を強く握りしめ、歪んだ笑みを返した。
「……上等よ。元から正気なんて、ドブに捨ててきてるの」
私がそう告げた瞬間、男の唇が耳元まで裂けそうなほど大きく歪んだ。
「ウックク‥‥‥‥‥素晴らしい。実に素晴らしい覚悟だ」
男は満足げに深く頷くと、パイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、応接室の蛍光灯がジリジリと不快な音を立てて明滅し、空間の輪郭がひどく曖昧に歪み始める。
男は自らの警察手帳をしまっていた胸ポケットへ手を突っ込んだ。
そして、どう考えてもあの小さなポケットに入るはずのない質量と分厚さを持った『何か』
____ひどく古びた、異様な手触りの装丁が施された一冊の書物を引きずり出し、ゴトリ‥と冷たい机の上に置いた。
一目見ただけで、強烈な吐き気がした。
表紙に刻まれた未知の幾何学模様が、まるで呼吸をする生き物のように蠢いて見えたからだ。
「因果を壊すための、言わば『理外の設計図』ですよ。人間の脳には少々……いや、致死量を超える劇毒ですがね」
男は、まるで特上のフルコースを振る舞うギャルソンのように恭しく一礼し、黒い書物を私の方へと滑らせた。
「与えられるのを待つのではなく、自ら覗き込み、その身に知識を叩き込みなさい。
この文字の羅列を理解し、その狂気を脳髄に定着させた時……君は真の意味で、あの男の盤面をひっくり返すための力を得るでしょう」
息が詰まる。生物としての本能が、激しい警鐘を鳴らしている。
この本を開けば、二度と「人間としての久遠澪」には戻れないだろう。
これまでの人生で作られてきた倫理も、当たり前の思考回路も、すべてがこの冒涜的な知識に食い破られる。
だが___私を突き動かしているのは、もはや正気などではない。
都合よく弔君を利用し使い潰した、あの根腐れした魔王。
そして、彼の背負わされた絶望や理由すら見ようともせず、
あいつら全員が、私の愛した男の魂を足蹴にしたんだ。
脳裏に、いつかの彼が呟いていた、あの渇いた掠れ声が蘇る。
_____『じゃあもう壊そう。一旦全部』
(……そうだね、弔君)
あいつらの作った舞台も、正義も、悪も、因果も、歴史も。
邪魔をするならヒーローもろとも、あいつらの世界ごと、全部根絶やしにして壊してあげる。
私は迷うことなく震える指を伸ばし、その悍ましい表紙の上に手を置いた。
私の瞳から光が消え、底なしの暗い壊意が宿ったのを確認すると、男は心底楽しそうに、ガラス玉のような目を細めて囁いた。
「では、ご案内しましょう。狂気の世界へ___」