世界を救うために、明日僕は死ぬ。
落ちてくる巨大な隕石を壊すために、幸せな未来を燃料にする必要があるらしい。幸福の位置エネルギーだとか落差がどうだとか聞かされたけど、難しいことは関係ない。
家族に20億の謝礼が入ると聞いて、決めた。今日のご飯のためにも、家族みんなでバイトをしていたから。
選ばれたのは、お金持ちは志願しなかったかららしい。
志願してから、僕は家でずっと過ごしていた。変なことが決して起きないようにって。
ベッドには、僕一人。窓は閉められていて、何も見えない。手を伸ばして、開こうとする。足に力を込めても、体重をかけても、少しも動かない。ため息だけついて、手を離した。
どうも、警察に守られているらしい。外のことは、ずっと見ていないけれど。
今の空は、星が輝いているのかな。それとも曇っているのかな。雨音は聞こえないから、そこまで悪い天気じゃないんだろうけど。
僕はただ天井を眺めるだけ。明日は空を見られるはず。
曇りなら、嫌だな。人生最後の空が曇りだなんて、縁起が悪いとしか言いようがないし。
「ご飯よ。降りてらっしゃーい」
母さんの声を受けて、部屋から出て階段を降りていく。そういえば、明日は言われないんだ。気づいた瞬間、足が止まった。
もっとしっかり聞いておけば良かったかな。いや、いつ呼ばれるかなんて分からない。それだけ。
軽く首だけ振って、残りの階段を降りていく。なんとなく、一段一段が長く感じた。
リビングの扉に入ると、4人の姿が見えた。いつもより、ひとり多い。フライパンを洗っている母さんと、ご飯をよそっている姉さんと、席について待っている妹。それはいつもと同じ。
もうひとりは、僕の彼女。お皿を並べながら、僕に微笑みかけてくる。
笑顔で返そうとして、なんだか頬が引きつった。一度目を閉じて、深呼吸。そうしたら、今度は自然な笑顔にできたはず。
彼女は、唇を引き結んでいた。姉さんは、静かに茶碗を置いていた。妹は、膝の上で拳を握り込んでいた。
ただ無言で、僕は席につく。口を開こうとしても、喉がうまく動かなかった。誰とも目を合わせられない。目に焼き付けなくちゃいけないと、分かっているのに。
大量の唐揚げに、とろとろのビーフシチューと、7種類の野菜が入ったシーザーサラダ。僕の大好物ばかり。とびっきりのごちそう。普段はもやしの炒め物とか、小麦粉を固めたものばかりで。
なのに、お腹が鳴ることもない。それどころか、口の中が乾いてきた。絶対に美味しい。そんなの、食べなくても分かる。分かるんだ。
「準備できたよ。お腹いっぱい食べな」
席につく母さんの声は、少しだけ震えていた。うん、食べないと。残したら、絶対に後悔する。
「今日は私も手伝ったんだ。半分は私の味だね。私を、味わって? なんて……」
彼女は顔を赤くしながら、冗談めかしたことを。そのまま、僕の手を握る。そっと、でもしっかりと握りしめるように。
「なら、しっかり味わわないとね。いただきます」
ゆっくりと、彼女の手が離れていく。彼女は手を握ったり閉じたりしていた。
僕は手を合わせて、まずは唐揚げを口に運ぶ。サクリという音がして、良い揚げ具合。噛めば肉汁があふれてきて、まさにジューシー。
ご飯も一緒に口に入れる。一口ずつ、ゆっくりと。前に食べた時は、箸が止まらなかったな。
あの時と味は同じはずなのに、どこか重い。油ものが胃に来る年じゃないはずなんだけど。
とりあえず、口直しにシーザーサラダを口に運ぶ。さっぱりしていて、比較的食べやすい。もう一度唐揚げを食べると、さっきよりは進みやすい気がした。
だけど、飲み込むときに喉に引っかかる感じ。仕方ないから、ビーフシチューで流し込む。野菜が完全に溶かし込まれていて、スムーズに飲み込めた。それだけ。
「美味しいよ、お母さん。また、みんなに作ってあげて」
「……そう、だね。食材は、きっと用意できるだろうからね」
みんな、箸を止めてしまった。余計なことを言っちゃったかな。ほんと、ダメだな。最後の最後まで、家族を笑顔にできない。
いや、違う。今こそ、明るいことを話さないと。どうせ最後の会話なら、楽しいことを。
「おしゃれとか、いっぱいしてね。きっと、みんな綺麗だから」
「お兄ちゃんのくれたお金、絶対に無駄遣いなんてしないから……!」
胸の前で、両手をギュッと握っている。取り分けられた唐揚げも、半分は残ったまま。この子も、好物だったはずなのに。
僕は、ゆっくりと首を振った。
「良いんだよ。使い切っちゃいさえしなければ。楽しいことって、大事でしょ?」
「私の目の黒いうちは、半分は別の口座に移して使わせないわ」
姉さんは、僕の目をじっと見ていた。少しも揺れることなく、まっすぐに。持たれた箸だけは、揺れ続けていたけれど。
「まあ、半分もあれば一生分には足りるか。変に我慢だけは、しないで」
「あはは、おやつのチョコくらいなら、毎日食べられる、かな……」
「ちゃんと使って、ちゃんと残すわ。贅沢で身を滅ぼすなんて、そんなバカなことはしないし、させない」
「そもそも、あたしは働き続けるよ」
「母さん……?」
立ち上がった母さんは、僕の肩に手を置く。そして、ゆっくりと話し始める。
「あんたは立派さ。世界を救うために……」
「そんなことのためじゃ……」
「お兄ちゃん……。やっぱり、中止には……」
「無理よ……。明日だけじゃ、代わりを見つけるなんて……」
妹は僕の裾をつかんで、姉さんは僕を後ろから抱きしめた。どこからも、震えが伝わる。
他の貧乏な志願者は、家族に売られていたらしい。当然、未来の幸福なんてない。つまり、みんなは……。
どこかに手を伸ばしそうになると、温かいものに包まれる。彼女が、僕の手を胸に抱きしめていた。
「それでも、私たちのために……。本当は、私も……」
「おにい、ちゃん……」
妹の言葉を最後に、みんな黙り込んでしまう。僕は手を鳴らして、少し大きな声を出した。
「残りも、全部食べちゃおうか。残したら、もったいないよ」
言葉もないまま、みんな食事を進めていく。カチャカチャという音だけが響き続けた。
「お風呂、沸かしてくるわ。あんたが先に入るのよ。良いわね」
食器を雑に置いて、姉さんは風呂場に向かう。足音は、いつもより静かだった。
僕は背中を眺めるだけ。いつもは、一番風呂は絶対に譲らないのに。肌の具合がどうとか、かなりうるさかったのに。先に入ろうとしたら、すごい目で睨まれたのに。
「お兄ちゃん、ゲームしよ? 今日も負けない、から……」
「あたしたちも行こうか。今は、ふたりにね」
「そうですね。今日だけは、私も……。後で、あなたとずっと……」
母さんは彼女の肩に手を置いて、彼女は何度も振り向いて去っていった。姉さんも戻ってこない。僕たちは、ふたりですごろくの対戦ゲームをしていた。
サイコロの運は悪かったけれど、駆け引きでは勝てた。最終的に、勝ったのは僕。
「あー、負けちゃった……。お兄ちゃん、強いね……」
妹は、もう一回とは言わない。いつも、負けた時には勝つまで続けていたのに。それこそお母さんに怒られるくらいまで、ずっと。
手を抜いたら、それはそれで怒っていた。理不尽だって思ったのなんて、何回やら。
妹の方を見ようとすると、タイマーが鳴った。
「お兄ちゃん、入ってきて……」
それだけ言い残して、妹は部屋に帰っていく。スカートの裾を、ずっと握りしめていた。
僕はお風呂に向かって、まずはシャワーを浴びる。頭を濡らすと、なんだか地面に引っ張られるような感覚が。
すぐにシャワーを切って、湯船に入る。天井を見ると、ものすごく狭く感じた。壁を見ても、まるで閉じ込められているみたい。
湯船から飛び出て、すぐに頭と体を洗う。もう一度浸かろうともせず、風呂場から出る。
とりあえず最低限だけ体を拭いて、すぐにパジャマに着替える。ドタドタと走って、寝室に向かった。
布団に潜り込んで、目をつぶる。暗さが嫌になって、すぐに目を開いた。天井をながめていると、汚れが嫌に目につく。模様は睨んでいる顔みたいで、目をそらした。
また布団をかぶって、また剥がす。今度は、座りながら壁を見ていた。心臓がうるさくて、叫びだしたくなる。壁に手を叩きつけてしまいたい。
でも、できるはずがない。うるさいし、迷惑だし、何より家を壊してしまう。僕はもう一度、布団に潜り込んだ。
目を閉じて、ただ数字を数える。いつまでも眠くならない自分に、舌打ちが出た。
ノックの音が聞こえて、返事だけする。すぐに扉が開いた。
布団を剥がすと、薄い下着だけの彼女が。モジモジしながら近寄ってくる。
「えっ……。どうしたの……?」
「そ、その……。君のしたいこと、全部……」
顔は真っ赤で、声も震えている。そうだよね。ちょっと色っぽいシーンが流れただけで、声が上ずるような人なんだ。
「気を使っているのなら、気にしないで。僕は、大丈夫だから」
「違うの! 私が、してほしいだけ……! 君の、最後だけは……!」
ギュッと、激しく抱きつかれる。勢いよく唇が触れた。そのまま、すべてを吸い尽くすよう。
息ができなくて、背中を何度か叩く。ゆっくりと、彼女は離れていった。
「ご、ごめんね……。でも、これだけは譲れなくて……」
謝りながら、息を荒くしている。これ以上、何も言わせられない。彼女の望みに、答えていく。
赤らんだ顔でふわりと笑う姿が、目に焼き付く。僕はただ、溺れるだけ。彼女の足が、強く絡みつく。ふたりが思いつく全部を貰った。文字通りに、底も裏側も。知らないことは、何もなくなった。
どこもかしこも汚れたまま、一緒にベッドに寝転ぶ。彼女は、穏やかな顔でお腹をさすっていた。
「子供、できるといいな……」
「……ごめん。僕は……」
「ううん、何も言わないで。私の、わがままだから……」
「分かったよ……。みんなと、仲良くしてね……」
「もちろんだよ。みんな、同じ気持ちだから……」
しがみつくように僕に抱きついて、彼女は目を閉じる。すぐに、穏やかな息が聞こえてきた。
同じように目を閉じても、僕は眠くならない。違う。眠いはずなのに、意識が落ちない。
寝息を立てる彼女の顔を、じっと見る。とても、落ち着いた顔。反対を向こうとして、彼女の手が邪魔になった。引き剥がせるわけがなかった。
結局、僕は一睡もできなかった。
鳥の声が聞こえて、起き上がる。彼女の寝顔を見て、服を着替える。もう一度顔を見て、部屋から出ていく。
朝ごはんは、確か食べちゃダメ。病院の検査みたいだ。気分じゃないから、別にいいけど。
家族は、みんな起きているみたいだった。玄関前で、3人とも並んでいた。
「おにい、ちゃん……」
「ほら、泣かないの。笑顔で見送るって、決めたでしょ?」
「行ってきな。できれば、振り返らないでおくれ」
みんなに見送られながら、扉を開けようとする。階段を駆け下りる音が、後ろから聞こえた。
「ずっと、大好きだから!」
その言葉を背中に、扉を開く。手を離すと、ゆっくりと閉じていく。
すすり泣く声が、いくつも聞こえた。足が止まって、腰が回りそうになる。頬を噛んで、上を見る。
祝福するみたいに澄み切った青空。太陽の隣にある隕石だけが、邪魔なくらい。
警察官がリムジンに乗せてくれる。みんな、深々と一礼をしていた。
エンジン音が鳴って、外を見る。家が目に入って、そらす。ただ無言のまま、5分くらい経つ。貧乏ゆすりばかり、してしまった。
窓の外を流れる景色は、明るい。僕は、運転手の頭ばかりを見ていた。
リムジンから出て、建物に案内される。進んでいくと、カプセルが見えた。ただ無機質な、真っ白いもの。
あそこに入ると、世界は救われる。
カプセルが開いて、席が見える。一歩進もうとして、かかとしか持ち上がらなかった。太ももをつかんで、もう一度前を見る。
足を引きずって、半歩だけ進む。すぐに、一歩下がった。でも、僕が帰れば……。
目を閉じて、深呼吸をする。みんなの顔を、思い描いた。母さんが僕を叱る時の怖い顔。姉さんのアイスを食べちゃった時の鋭い目。妹がいたずらをする時の、半分だけ笑った顔。
そして、彼女がお腹をさすっていた時の穏やかな顔。
うん。もう、大丈夫。席に向けて、歩き出す。一歩一歩、確実に。
座り込むと、カプセルが閉じる。痛いのは、嫌だな。そう思って、目をぎゅっと閉じる。
少しだけ、息が軽い。今なら、唐揚げを美味しく食べられるかも――。